「左翼・リベラルが力を持ち得ない」の理由は単純明快、そんなものは存在しないから――内田樹教授の「死者を背負う」の論に対する反論
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 神戸女学院大学の内田樹名誉教授が1月15日のBLOGOSの記事として『「民の原像」と「死者の国」』と題している、何故に日本においては左翼やリベラル、またはそれらの中間指導層としての知識人がかくも国民の政治的或いは文化的『動力/the energy/l'énergie』を喚起する決定的『力/any power/de pouvoirs』を持ち得ないのかにつき考察する論である。

 内田教授に拠るとその肝は「死者の側に軸足を置き、自らを死者の国の住人と思い定めるようなことのないこと、故に左翼・リベラルは民の原像に出会い得ない」とである。彼はその例として戊辰戦争などを戦った西郷隆盛を語る。また、靖国神社を政治家として参拝する極右の方々は西郷のような量質とは比べるべくもないが「死者を呼び出すことの効果を直感的に知っており、その意味においては死者を背負う者たり得ている。」といい、安倍晋三総理をもその例の一人とする。片や左翼・リベラルは:「死者はきちんと葬式を出せばそれで片がつくと思っている。」という。

 ①西郷的なる人々、②安倍的なる人々と③左側的人々――それらには凡そそのような特徴があることは指摘としては適確である。
 しかし内田教授は①に③が見直すべき範を見て取り、②を良し悪しはともかく「その他」とする。詰り、①とそれを見直す③が「これからの望ましい左翼・リベラル」であり②はその他の諸々或いは右側の方々であるというのである。
 尤も、①西郷的なる人々が左翼の一種であることは間違いない。中には彼を範とする左翼もいよう。
 人の命を何等かの目的や価値のために捨てることを奨め或いは認めることは専ら左翼の一部に見られる特質であり、左翼の全てでもないし右翼や保守、リベラルでもない。その分かり易い例は連合赤軍などの極左テロリズムであるし、それとの歴史的関わりのあるイスラム過激派のテロリズムもまた左翼の一部である。その点は、内田教授の位置づけは正しいが今時の左翼・リベラル③がこれからは目指すべき在り方ではないしその他の②が幾らかは持つ特質でもない。
 詰り、「命どぅ宝」と云い米軍基地に反対する沖縄県民には少なくとも①のような意味における左翼はいないしそこには右も左もない。
 或る意味では、日本の政治思想の分類の基準は沖縄を巡る見方が形作っているものであるといえる。右も左もない米軍基地の反対派を「左翼・リベラル」と呼び、西郷を崇拝するような極左が紛れているかもしれない賛成派や容認派を「保守」と呼ぶのが日本の政治思想の分類であり続けている。

 「靖国神社を参拝する日本の政治家たちは死者に対し西郷が同志朋友に抱いたような誠心を抱いてはいない。そうではなく、死者を呼び出すと賛意であれ反感であれ、人々が熱狂することを知っているからそうするのである。」――その通りであるが、それが西郷の「「此の度は徳之島より二度出申さずとあきらめ候処、何の苦もこれなく安心なものに御座候。骨肉同様の人々をさえ、只事の真意も問わずして罪に落とし、また朋友も悉く殺され、何を頼みに致すべきや。馬鹿らしき忠義立ては取り止め申し候。お見限り下さるべく候。」――西郷は同志朋友を殺され、同志朋友と信じた人々によって罪に落とされた。もう生者たちに忠義立てなどしない、自分が忠義立てをするのは死者たちに対してだけだと西郷は言外に宣言したのである。」とどう違うというのか?違うのは量、即ち出来事等の大きさ、インパクトの強さだけであり質は同じである、尤も、安倍が『電撃参拝』をしたらかなり大きなインパクトになりはしたが。彼等が靖国を詣でるのはそれを戒める自民党や民主党の組織への忠義がないからではないか。
 因みに組織への忠義は翼の左右を問わず同じ価値であるが、左翼のそれは自分の属する組織の上にそれを統括する別の上層の組織があって組織が組織を組織するものであり、右翼のそれは自分の属する組織で完結するものであってそれを組織する外部組織はないものであることが違いである。前者の端的例はイギリスの労働組合とそれを統括する労働党である。一概に労働組合の支持といえど、日本の民主党と労働組合等の関係は政党が労働組合等を統括するものではないことが大きな違いであり、故に民主党は左右でいえば右派政党であり左派政党ではないことになる。尤も、そこでは政党は労働組合に圧力団体として応え或いは応えない、いわば政策の受付窓口に過ぎず、それが単なる利益政治とどう違うのかという批判は常にあるが、少なくとも日本においては代替となり得る在り方は考えられない事実上の最良の在り方である。
 また、別の上層の組織による自組織の統括の点においては複数の法人等の連合体として存在する財閥、所謂企業グループは幾らかの左翼的構造のあるものであるともいえる。日本総合研究所の寺島実郎会長がやや左寄りなのもそのような組織性の反映であろう。

 話を戻す。西郷隆盛は靖国問題で内外の批判を受けている政治家達と何の違いもない極左である。

 日本の所謂左翼・リベラルが力を持ち得ないのは彼のように『死者の側に立つ』人々ではないからではなく、単にそのようなものは存在しないからに過ぎない。
 極左であれ穏健中道であれ、『死者の側に立つ』左翼は昔も今もいる。しかし彼等は1955年以降に、漸次に『進歩的保守政党』という触れ込みで立った自民党の支持層として取り込まれている。詰り、1993年までと2012年以降は左も右も全て自民党の支持層――自民党に投票した無党派層を含む――となっている。処が自民党はそれでも「保守政党」や「中道右派」とやや誤認されて呼ばれているので自民党以外の支持層、即ち自民党とその政権の下における日常に取り込まれなかった人々が「左翼・リベラル」であって彼等は余程のことがない限りは自民党以外を支持する筈であるとされている訳である。
 日本の「左翼・リベラル」とは故に『非自民』を指すものに過ぎず、その政治思想や風土的文化的価値観が吟味されて分類されているのではない。
 尤も、尚も一党支配――政治学の厳密な定義では覇権政党制/the system in a hegemonic political party/le système en partie politique hégémonique――が続くことは不健全であり望ましくはなく、かのような意味合いを帯びない限りにおける非自民及びそれが二大政党の一翼や何等かの小政党を形成することは必要であるしもっと増してゆく必要がある。

 その際に、既存の自民と非自民のどこを分け目として二大政党をなすかが問題となる。
 弊ブログは保守・革新や保守・リベラル、中道右派・中道左派の二大政党制は望ましいものではないと考えている。そうではなく、二大政党の何れもがそれらを擁して様々の政治勢力が混在する二大政党制が望ましい。
 よってその分け目は左派・右派などの政治思想ではなく「何となくそんな雰囲気」によるものとなることが望まれる、いわば、キャラである。キャラの共通性や異質性はしばしば闘争や合意の形成、取り組みの貫徹における決め手となる。
 『安倍晋三 対 蓮舫』はキャラの対立に関する一つの可能性を示すものとなってはいる。何れもいわば左右混在その他も色々の総合性、the generalityを示すキャラである。しかしそれがその侭続いて新しい対立軸となってゆく訳ではなかろう。

 『死者をどうするか』、そんなことはどちらにも色々とある。それが政治の対立軸をなすものとなるべきではない。色々といるから政権も成り立って思わぬ処で事なきを得ることになったりもする。

 そもそも内田教授の云う「安倍晋三は今の日本の現役政治家の中で「死者を背負っている」という点では抜きん出る存在である。」は本当であろうか?
 安倍は死者と向き合う態度や死者を重くみることに関しては日本人と世界人類の極々並の在り方であり、抜きん出る程のものではない。近くへ行った節には取り敢えず墓参り、その位は誰でも普通にする。
 「ちょっとこれ頼む、俺行けないんで。」みたいな会社の同僚などはしばしばいるものである。
 安倍総理が死者を宣伝塔としたことは恐らく一度もない。故に靖国派の政治家等とは一線を画す者でもある。
 安倍総理とその政権の最も大きな特色はそのような『極々並の在り方や水準』を代表し或いは奨めることにある。尤も、その位では志が低過ぎてつき合いたくはないと思う人もいる。私もどちらかといえばそうである。よって逆に言えば、「志の低過ぎる政権」となろう。しかしその位の在り方や水準の人々は恐らく最多ではなくてもそれに近い程に多いし、それをさえも自責か他責かはともかく、実現することのできない人々も世界最劣等民族の野蛮国日本には多い。
 もう少し志を高く持つならば、石破政権である。それ以上は他には考えられない。蓮舫政権で丁度安倍並みで、岸田政権ならば恐らく安倍以下となるであろう。

 内田教授が安倍をそのように誉め殺すのはそのような「死者を背負う存在」という虚像としてのイメージを安倍に与えている報道メディア等の責任を逃れさせるためであると見られる。
 左右を問わず、支持するか否かを問わず、知識人の代表たる報道メディア等は岸信介や靖国の英霊などを動員してそのような衣装を安倍にその登場と共に覆い被せている。彼は極々並の信心のある壮年男性に過ぎないのに、死者を一身に背負う超歴史的存在であるかのようなイメージを流布している。そして「やはりそれは安倍総理のお爺ちゃん、岸信介総理を意識しているんでしょうね。」などとの、解散総選挙の予想にも劣る根拠のない解釈を語る。
 比較をどうしても迫られるような巡り合わせや政治の舞台作りがあったことは確かではあるが、そこに祖父の何等かの影響や遺志の継承を見て取ることはできないというのが凡その常識的見方である。

 クリントンの敗けとトランプの勝ちに、必死になって既成勢力の責任の隠蔽を図っている、それが内田教授の語る『左翼・リベラルの反省と応援』である。

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# by keitan020211 | 2017-01-17 14:50 | 政治、社会 | Trackback | Comments(0)
【ちょっと知りたいキリスト教】マリアの処女懐胎と生命の始まり
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 昨日のテレビ東京の『たけしの新世界七不思議大百科』を何となく観ていると、古代エジプトのツタンカーメン王などを巡る話をしていた。紀元前14世紀のことである。
 そこに、紀元前14世紀の王アメンホテプ4世が世界初となる一神教を編み出したことが語られた。

 すると、驚く人がいるかもしれない。
 それは旧約聖書の出エジプト記の伝えるイスラエル人、即ちユダヤ人がエジプトを脱して祖国に帰ったことが紀元前16世紀なので若しそのアメンホテプの一神教の説が本当であるとするならばユダヤ教は一神教ではないことになるというものである。
 先ずその驚きと疑問には一つの大きな前提の誤りがある。
 それは「ユダヤ教は一神教である」ということである。
 ユダヤ教は一神教ではない、少なくともその始まりは一神教ではなかった。
 では多神教かというとそうではない。ユダヤ教は一神教か多神教かなどという近代の社会学者や宗教学者などの底の浅い議論とは無縁な処に出来た宗教である。
 因みにユダヤ教とは異なるが、日本の神道もまた一神教でも多神教でもないことにおいては似る面がある。

 ユダヤ教はそもそもは神の数を特定しない信仰がある。一つかもしれないし有象無象かもしれないが、何にせよイスラエル人にとって確かな拠り処となる不思議な働きが存在するということを信仰する宗教である。特定が不可能ならば当然に、それを形に表すこともまた不可能な訳であり、然るに神を象ってはならない、その名を口にしてもならないという偶像崇拝を禁ずる教えも出て来る。
 一神教はそのようなものとは異なり、特定が可能で形も名も把握と表現が可能な存在としての唯一つの神を信仰するものである。ユダヤ教はそうではないしその一派として成立したキリスト教もそうではない。よって「一神教の西洋キリスト教圏と多神教の日本とはそもそも異なる」という説は全くの誤りである。

 キリスト教の基本的教義を示す『ニケア・コンスタンチノープル信経』にはしかし、その初端から「我は信ず唯一の神…」とある。ではユダヤ教がそうではないとしても、キリスト教は一神教なのではないかと思うかもしれないが、宗教の公に示す教義にはしばしば政治的深謀遠慮が反映されるものである。その政治的深謀遠慮の対象となるのが一つは一神教を世界で初めて創ったアメンホテプ王のエジプト――に対するユダヤ教のイスラエル人――であり、今一つはキリスト教を弾圧していた西ローマ帝国である。逆に、日本においてはその「我は信ず唯一の神…」が真に受けられて警戒されて弾圧につながったので世界のつながりの拡がりはややこしい。
 キリスト教はニケア・コンスタンチノープル信経にそのような文言を入れておかないと「前項の目的を達するため、」ではないが、成り立ち得なかったのでそうなっている、しかし、その本質は一神教でも多神教でもないいわば不特定神教である。
 キリスト教の祈りの結びの言葉である「アーメン」はアメンホテプ王に始まるエジプト一神教の宥和を意味する政治的符牒、即ち護身符でしかないなのかもしれない。

 『何等かの働き』、それがユダヤ・キリスト教の肝である。
 しかしそれは人間の思惟によって説明づけられるものではなく、故に西洋文学の訳語としてしばしば用いられる「神の配剤」というものではない。ユダヤ・キリスト教は神の存在についてのそのような説明づけや神の正体の特定を排するものであり、「配剤」を信ずることはそれらとは相容れないものである。また、「神の御加護」もまた「神の配剤」の派生概念としてユダヤ・キリスト教とは相容れないものであり、'God bless you.'の訳としては全くの誤り、正しくは「神は(あなたに)恵みを給ふ。」である。
 そこで一つ生じる疑問は「何れにせよ'God blesses you.'が正しい英語ではないのか?」である。それには決定的解答はできず、或いは本当に誤用の定着なのかもしれないが、三人称にしばしばあるよそよそしさを嫌って'you'と同じ二人称としたのではないかと考えられる。即ち、神をそこで呼びながら皆に呼び掛けるということである。するとまたは、それを言う者が個人的に神を信ずるのであり、それを皆に圧しつけがましく説いて宣伝するものではないという解釈もそこには可能である。

 特定の可能なものを信ずるならば、自らの想定の範囲内でしか願いが叶わないことになる。しかしユダヤ・キリスト教はあらゆる願いは叶い得るとするものであり、そのためには神が特定の不可能な存在でなくてはならない訳である。故にユダヤ・キリスト教は一神教ではない。
 但し、キリスト教はそのような『何等かの働き』を完全に体現する者としてナザレのイエスをキリスト教信仰の唯一つの拠り処とし、それを神と呼ぶ。神と一体となっている故に神である。――故にキリスト教が一神教であるかのような誤解の余地はしばしばあることになる。

 さて、この記事の題名は『マリアの処女懐胎と生命の始まり』である。

 イエスの母はマリアという女であり、マリアに祈るとあらゆる願いが叶うとされる。
 何故か?、それはここまでを読めば何となく分かる。神とは『何等かの働き』のことであり、それを完全に体現する者は神と呼ばれる資格が生ずる。その資格を有する者は唯一人イエスであるというのがキリスト教の信仰であるが、それに準ずる者としてもう一人いるのがその母マリアである。その『神に準ずる立場』を「生神女(しょうしんじょ)」、即ち「生ける神の女」という。「生ける神なる女」では誤りで「神の」である。

 そのマリアはイエスを処女として懐胎して生んだといわれる。

 処女が懐胎するとはどういうことか?
 ――その答が出エジプト記の直前にある創世記の或る行にある。

 因みに、その行はオナニーについて記されたものであるとの誤解がしばしばある。そこにオナンという男が出て来るが、彼がオナニーをしたので神が怒った、それがオナニーの語の起源であるなどと実しやかにいわれている。
 しかしその行を読むと、オナンが問題の箇所でしたのはオナニーではなく膣外射精であることが分かる。確実ではないが最も簡単な避妊の方法であるとされる。
 また、もう一つの誤解は「知った」という言葉が性行為のことであるというものである。「彼は彼女を知った。/彼女は彼を知った。」と言うとそれが性行為或いはそれに準ずることをしたということであるとしばしばいわれる。しかしそこに言う「知った」は単に親しくなったということであり、ユダがタマルと性行為をしたことがあるかどうかは分からない、多分していない、少なくともその一連の話の意味を構成するものとはならないことになる。
 また、もう一つの誤解は「彼女の所に入った」という言葉が「彼はその陰茎を彼女の膣に入れた/彼女は彼の陰茎を自らの膣に入れた」ということであるというものである。そのようなことが絶対に一度もなかったとはいい切れないが、それも多分していない、少なくともその一連の話の意味を構成するものとはならない。「彼女の所に入った」とは単に彼女の居る所に入ったということである。

 それらの誤解を誘う箇所は「彼はこれらを与えて彼女の所にはいった。彼女はユダによってみごもった。 」である。詰り、入れたから出来たというのである。
 しかし「身籠る」とはそもそもは妊娠するということではない。
 妊娠は出産及び生命の必要条件ではあるが十分条件ではない。それがその行が云わむとする肝である。
 出産及び生命の十分条件をなすものはそこに語られるユダの心に象徴される、神の『何等かの働き』であり、具体的には例えばイスラエルの社会における出生の認知と祝福である。または親となる男や女の自らの自覚もある。それらの『何等かの働き』が条件として揃う処に、生命は新たに存在を得ることができるというのである。また、それらの条件の不足は出生の時だけではなく生涯のいつでも揃え直すことができる、それがユダヤ・キリスト教の云う『贖い』――元々は「再び買い戻す」ということ――である。

 ではユダヤ・キリスト教とは偏に社会教説であり国家の教えなのか?――一面としてはそうであるともいえる。少なくとも全くの無政府主義や反体制、個人の信仰とそれに基づく行いの奨励だけを志向するものではない。キリスト教の信者を含む、キリスト教に関してユダヤ教を捨象したがる人々、所謂「イエス キリストはユダヤ教とは全く異なる新しい信仰を打ち立てた。」とする人々はしばしばそのような誤解を持つ。
 弊ブログの原点は無政府主義であるが、政府の存在を許さないという意味における全くの無政府主義ではない。政府の膨張や頽廃を戒めて政府の支配になるべく依存しないという意味における無政府主義である。

 また、ユダがとても悩みの多い人であったことから、ユダヤ・キリスト教における神は悩みの多い父のような存在であるという人格神と父性神の信仰も出て来る。そのユダの許に身籠て生まれたのがペレズとゼラと名づけられる双子であり、その母がイエスの母マリアは生神女、即ち処女懐胎の無原罪の聖母であるとの信仰のモチーフとなったタマルである。贖い主イエス キリストのモチーフが双子であるのは面白いことである。

 そもそもは日本語の「処女」の語も性行為をしたことがなくて処女膜のある女ということではなく、慎み深い賢い女という程の意味である。そのような意味においてならば、処女には価値があるといえるが「男を知らない」という意味における「処女」には見るべき価値はないのである。「処女」であってもなくてもよいが、慎み深くあろうとすること、そこに日本的にもユダヤ・キリスト教的にも価値がある。慎み深くあろうとすることにであり慎み深い状態にではない。
 故に、CNNの記者は大統領となるトランプ氏に「慎め!」と云われる訳である。

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# by keitan020211 | 2017-01-14 18:27 | 生活 | Trackback | Comments(0)
【トランプ大統領の就任】安倍晋三とD. トランプとは異質である
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フジテレビ/関西テレビ 関東:8ch 東海:1ch 近畿:8ch
Mr.サンデー  日曜22.00~

 弊ブログの一目おく或る左翼系ブログの主田中宏和氏が昨日1月13日の最新の記事を『トランプの会見――精神構造と行動様式が瓜二つなトランプと安倍晋三』と題して安倍総理とトランプ新大統領を比べ、それらを同質と見做す。

 その記事には聊かの事実認識の粗雑さがあり、弊ブログは先ずは安倍とトランプは異質であることについて語る。

 尤も、田中氏がその記事を誰に呼び掛けるものとして記すかといえば、主に反トランプの人々にである。彼等の関心と思惟を誘うためには先ずは何であれ、正しいか誤りかを問わず彼等の立っている見方を前提として論を展開することとなる。そこから先が彼等の既に思う処であるか、即ち彼が彼等の立つ見方を発展させるのかその一部或いは全部を壊して再構築を提起するのかはまだ分からない。いわば長いキャッチコピーをそこに作る訳である。
 よって弊ブログはその論旨を全面的に否認するのではないが、事実認識及びそれをめぐる現実認識の観点から見ると誤認や摩り替えの跡が目立つ。

 安倍とトランプがそれらの良し悪しはさておき、同質ではないことは彼等各々の就任の時の空気と足取りを見るだけでも一目瞭然である。

 安倍は2012年12月に内閣総理大臣に再任して安倍政権が発足した時に、報道メディア等は挙って「まずは安全運転」と語っていた。それは閣僚の人事を一とし、その主な課題を経済、所謂アベノミクスに集中させたことを以てである。また、就任の前にはしばしば口にしては報じられていた安倍総理及びその周辺の国家主義的或いは極右的言辞は鳴りが潜まされて安倍政権が穏健な本格政権であることを粗全てのメディアが宣伝していた。
 田中氏の記事を見ると「しかしマスコミは最初のうちこそ批判していたが、やがてそれをやめ、いつの間にか「安倍さん、安倍さん」と尻尾を振って礼賛一色となった。」とあるが、単純に認識が引繰り返っている。事実は「報道メディア等、マスコミは初めの内は安倍政権の批判を控えていたが、近頃は批判や疑問が増して当時の程の異様な庇護はない。」である。その転機をなしたものの一つは'I am not ABE.'などに見られる、安倍政権の報道に対する圧力に対する批判の盛り上がりである。
 安全運転な穏健本格政権の肝とされるアベノミクスについても、今は積極評価の声は殆ど聞かれない。大小の経済人等にもアベノミクスの不振を認める意見や否定的評価は少なくとも週に5日は出ている。
 安倍政権の当初の勢いを象徴するネット右翼のネットパフォーマンスも、その隆盛は2015年までの政権の初めの3年程の間であり、昨年2016年にはかなり劇的に衰退している。その一因は正に、その年に世界の話題を攫ったトランプ大統領候補の極右的パフォーマンスの数々が安倍政権が日本と世界にもたらしているものとは何となく異なることが薄々と感じ取られ、「アメリカにも安倍政治!」と色めき立ったネット右翼の期待が漸次に裏切られていったことによる説明づけの不可能性、即ち辻褄の合わなさに陥ったことである。
 それと呼応するように、安倍政権の関係者による靖国神社の参拝の頻度とパフォーマンスの強さは在任が長くなって来る程に増し、もはや安全運転とはいい難いものとなっている。

 尤も、安倍政権を積極に支持しながらトランプ政権にも尚も大いに期待する型のネット右翼も一部にはあるが、それらは元々比較的に穏健な型のネット右翼であり、紛う方のない極右は寧ろトランプ人気とトランプ政権を冷やかに見ている。その理由の一つは「アメリカが第一」ならばそもそも「日本が第一」の日本とは関わりがないと思わしいことである。彼等にとって望ましい何等かの物事を日本に及ぼしてくれるアメリカ大統領はトランプではなくクリントンであったりサンダースであったりする。或いは落選した共和党の予備選候補にも魅力の感じられる者はいよう。故に、極右の拠り処の一つである産経新聞は六大新聞の内最も反トランプの論調を強く打ち出していた。尤も、負け犬の遠吠えと見られることを懼れてか、トランプの当選の後は『トランプ政権と対峙して行く現実』を語る論調が徐に強まってはいる。初めから今も一貫して親反中立の両論併記を保っているのは唯一つ朝日新聞だけであり、読売新聞は産経と同じく慎重迎撃の構え、毎日新聞と中日新聞は一貫して反トランプのみ、日本経済新聞は初めは反トランプであったが今は協調の可能性を探るものとなっている。
 トランプの当選の前の産経は言わば、自らと安倍政権がトランプと同じような差別的極右であると見られることを極度に懼れて反トランプの論調を強めていた。また、反トランプの主力たる所謂リベラル左派もその本質は国家社会主義またはファシズムであり極右と同じなので産経が反トランプを標榜していたことには何の不思議もない。

 安倍政権の当初の安全運転、片や、トランプ政権はどうか?

 トランプ政権が発足すれば選挙戦でしていたような過激な発言は収まって穏健な現実的路線に変わるであろうとの予想が当選の後にしばしばあった。その見方は大筋では誤りではないが、いつそうなるのかの点については予想されてはいない。
 そして実際には、トランプ新大統領は依然として過激志向の攻撃的発言を続けている。『様変わり』の気配はまだない。
 弊ブログはそれを漸次転換路線となるものと予想する。トランプ政権にとって最もその『様変わり』が強い印象と意味、そして効果を持ち得る時に、それが起こる。それがトランプ大統領の戦略である。意味もなく突然に穏健に変わり身をしては選挙戦との釣り合いが取れず、寧ろ信用を損なうことになる。
 アメリカは現に人種差別などの人権の侵害を是認するような法制度を有してはいない――隅々までではないが、――。その動かない事実が過激な『トランプ流』への支持とその問題のなさを保証している。寧ろ、トランプ政権によってこそアメリカの人権と寛容を支える法治国家たることは強まるであろう。
 また、少なからぬ閣僚がトランプ大統領とは違う考え方を持っており一枚岩ではないことも、トランプ大統領が前言を翻すことにおける安全性を保証する。寧ろ、部下を立てる良い指導者であると思われ、「言ってることとやってることが違う!」などという野蛮日本的非難は起こらないであろう。そして最後には「私をよりも、彼等を誉めてやって下さい。」と語って退任すれば允に素晴らしい政権であったというべきことになる。その姿は『丸くなってゆく老人』でもある。その美風が損なわれてゆきはしないかと、折しも懸念されているのが今の世の中である。

 つまり、安倍政権とトランプ政権はその『矢』の向きが丸で逆であり、安倍とトランプの人間性も良し悪しはともかく、かなり異なる。

 安倍の人間性とは物事がいつも準備万端でないとどうにもならないことである。
 トランプの人間性とは準備が足りなくても何とかすることのできることである。

 寧ろ、トランプ政権は自らを先ず準備に取り掛かる処から国民に見てもらおうとする。『オバマプロジェクト』で準備万端前途洋々に始まったオバマ政権はその点は安倍政権的であるといえる。
 初めは忌々しい空気を感じてやまなかったが最後はなかなかよくやった、ありがとうと言いたいこともオバマ政権と安倍政権に相通じて見出すものである。逆に、反トランプの人々はトランプ政権を最後にはそう思うかもしれない。

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# by keitan020211 | 2017-01-14 16:07 | 政治、社会 | Trackback | Comments(0)
【天皇譲位】元号制の廃止論は時代錯誤である
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 天皇陛下が2018年の大晦日12月31日を以て解散退位して明くる新しい帝が元日1月1日に即位することが有力な案となったことが先日に報じられた。その際には当日を以て改元となり、新しい元号による暦に代わって平成の治世は30年で終わることとなる。
 弊ブログはその案を支持する。

 しかし、それを受け、元号制を廃するべしとの声があるという。
 
 昨日1月13日のキャリコネニュースは「改元をめぐっては、昭和から平成に移行する際も大きな混乱があった。今回は改元の半年前に新しい元号を公表する予定だというが、ネット界隈ではそもそも問題の多い元号表記を続けるのかという意見が相次いでいる。」と語り、元号制の廃止論を紹介している、だけかと思ったら、元号制の廃止にかなり肩入れをしていてその記事の結びは「元号の完全廃止は日本人の心情的には受け入れづらいが、公文書や統計は利便性のために西暦で統一し、元号は文化的なシーンで使用するという具合にすみ分けがされてもいい頃合いではないだろうか?」と事実上の廃止の容認の立場に立つ。
 とんでもないことである。
 野蛮日本人のいう「文化」とは芸事や趣味などの風俗のことである。または道楽ともいう。及びそれらを通して醸成される思潮のことである。元号が風俗の分野においてしか用いられなくなったらそれは一過性の流行と同じで自ずと風化して忘れ去られてゆくこととなる。
 公文書や統計は年度別の方針や数値及びその解説を記すためのものである。それらは一年度を以てアップデートされて年毎に完結するものなので経過年数を計算することを要しない、故に元号を主に用いることや元号のみを用いることが何の不便をも生じない。歴史や報道など、連続性が問われてその関心の対象となる時間の範囲が長い事柄には経過年数の計算や大雑把の把握を要することがあるので改元が1度しかない西暦が宜しいということになる。公文書が元号制を用いて報道メディアの多くが西暦を用いることにはそのような確かな理由がある。
 元号制の廃止論は確かな理由と必要性を毀すものであり、合理主義には与しない保守の見地からだけではなく合理主義を是とする左翼の見地からも受け容れられないものである。
 逆に、西暦のような改元のない永久年号制のイスラム圏には元号制の廃止論者がしばしば云うような、合理主義があるかといえば見ての通り、イスラム圏の多くは凡そ合理主義の片鱗さえ窺えるような国柄ではない。それはイスラム圏の差別を戒める人々から見ても現実の認識としては同じであろう。

 また、日本における元号と西暦の併用は何かと多様性の貶められ或いは損なわれがちな日本社会においては異なる基準が共存共栄し或いは少なくとも不干渉を守って併存するべきことを自ずと悟らせる力のあるものである。自分は元号を用いなくても、元号を用いる人々がいることを折に触れてそれとなく示す、逆も同じ。元号制を廃して西暦に統一するべしなどという論は日本社会や国家の不寛容を深刻とするしかなくなるものである。
 寛容の心だけではなく、昭和30年は1955年であるというように、異なるベースのデータを換算して互換することは国民の基礎学力や知性の確保増進を望む上で允に有益なものである。そのための需要と業務機会(ビジネスチャンス)もあることは前回や今般の改元に関してもしばしば聞かれる話である。

 元号制の廃止を唱える向きは、そのような寛容の精神や個人単位での知的進歩主義、即ち向上心のない人々が多い。
 それは戦後の自由な国家社会が到来してもその恩恵に与ることが人様よりできず――その「人様」の水準や内容は様々である。裕福ならばそうではないとは一概にはいえない。――、それを私怨とする人々が元号制と西暦の併用、即ち立憲君主制の国家社会の体制を陰に陽に壊すことにより自らの影響力の拡大及び維持を図ろうとしているからである。全共闘世代は正にそのようなものであるし、その影響は彼等が既に引退しつつある今も陰に陽に続いて今日の若者の思潮の一部を侵食している。

 元号制の廃止論を「そうかも。」と容認する若者は恐らく、身の回りでは元号を殆ど見掛けない状況に満足しているのでそれでも差し支えなさそうと思うだけのことであろう。安倍政権の下の生活に満足していることと似ている。
 未成年なら公文書を手に取ることもない。元号を初めて目にするのは運転免許証の取得となるという人も珍しくなかろう。しかし、元号のある理由を悟ればその多くは「やっぱ必要。」と思いが変わるであろう。

 但し元号のアルファベット表記は廃するべきである。
 それを見ても何のことなのかが分からないという若者も多い。元号そのものではなくその表記の在り方である。
 漢字を書くのが面倒くさいと思うならば平仮名で書けばよく、「しょーわ」や「へーせー」でも構わない。大体、「昭」や「平」の一文字をも覚えて書くことを厭うようでは学力の問題の前に物事に関わりまたは取り組む姿勢の問題となる。「S35」や「H27」などは老若男女のそのような無気力や無責任を助長している。なので新しい元号はアルファベット表記の頭文字の既存の元号との重複を避ける必要はない。

 弊ブログが奨める新しい元号は「継地(けいち)」である。
 「地を受け継ぐ天皇と人々」ということである。
 そのための妨げとなる格差、the gapに悩む人々が地を受け継ぐことのできるようになることを願うことでもある。
 但し「継」の字が皇位の継承の困難な事情をありありと想わせて濃ゆ過ぎるとの批判もあるかもしれないが、現実を直視することが大切なので無視する。その点では、平成の元号が新しく決まった時には現実味に欠けてやや違和感を覚えた。昭和の「昭」は太陽ということで、物理的現実を直射 直視感じさせるには充分といえる。
 しかし「平成」はそもそもは「内平らかに外成る 地平らかに天成る」のことであり、「平和が成る」や「平和を成す」ということではない。しかも「平和を成す」は漢熟語の訓読の仕方が誤りである。平和を成すためならば積極的平和主義でも好いということになりかねない。
 正しくは「成ることを平らかにす」であるというべきであり、なせば成るけれども、成るだけではならない、平らかに、即ち清く、正しくそして可及的に美しくするべきであるということである。その点は、何かと平和に反することの多い平成の世にもそれが実現していた処は少なからずあるといえる。
 「継地」の元号とならば、その「地平らかに」を流用する受け継ぐことにもなって一石三鳥であるし、「継」の字は「糸を紡ぎ、米を制す」で縁起が良い。

 陛下と新しい帝の譲位及びその治世もまた平らかに成ることを願う。

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# by keitan020211 | 2017-01-14 14:07 | 政治、社会 | Trackback | Comments(0)
新成人が欲しい車と私の生涯初運転の車は同じ トヨタ プリウス
 今年に満20歳となる新成人の『欲しい車』をZUU Onlineというサイトが聴き取って発表している。

 その順位は:1)トヨタ プリウス 2)トヨタ アクア 3)BMW 4)フォルクスワーゲン 5)アウディ と出ている。

 トヨタ プリウスは私が運転免許を交付されて即日に初めて運転した車である。
 当時のプリウスは2代前となる、リフトバックのフォルムが初めて採られた2代目の型である。
 30歳となる年であり、成人の10年後である。
 と言うと物凄く遅いと思われようが、今年の新成人の運転免許の取得率は56.3%、即ち100人に56人であり、然もその欲しい車の一位はプリウスであり、今時の若者は私に近づいてきているともいえる。私を目指せ!若者よ。

 私の運転免許の取得地は愛知県江南市である。
 トヨタマンとして当地で生活するために必要と見たので取ることにした。
 とはいえ、私の家は名鉄の駅に程近く、車がなくても困るという程ではない立地にあった。
 当地はそのような好立地を反映してか、車を持たなくても免許を取るだけで大いに記念になるような贅沢な教習所である。高速教習にはジャガーを用い、教習官にも懇切に教えてくれる佳人が多い。
 AT教習では地元の名家の令嬢に乗せられそして乗せ、大変なプレッシャーを感じての運転であった。多分東京受けはしないが、率直に全国標準で見ればかなりの美人であり、私のその後にもかなり影響している高級な存在感のある若い子である。
 ジャガーの高速教習でジャガーの運転席に座り原動機を起動した時に、同時に何故か原動機が唸り捲る音がした。
 見ると、私はブレーキペダルとアクセルペダルを一緒に踏んでいた。

 後は推して知るべし、晴天なのにワイパーが動く。

 しかしそこで感じたジャガーの抜群の安定感と静謐は車に関する私の無用な恐怖感を取り除いてくれるものであった。
 占めてクラウン――というか、トヨタ コンフォート――とジャガー、徳大寺有恒先生の遺志を受け継ぐ者たるに相応しい教習をそこで修了した。
 試験に合格して免許を取得し、その帰りに行ったのは名古屋の杁中(いりなか)のトヨタレンタカーである。そこでプリウスを借りて初運転となる。丁度、「プリウス借りてみようカー」というキャンペーンがあったのでそれに乗った。
 私と同年代の人々が18歳や20歳で免許を取って初めて運転する車はマークⅡかセルシオかであり、1997年に初めて出たプリウスはまだないので残り物に福ありという感じである。
 先ずは、鍵を挿さない。運転デビューがお守りのような小さな箱を携帯しながら釦を押すだけなのは明らかに時代の違いである。私にとっては車とはそのようなものというイメージがそこに出来た。そして釦を押して起動しても音がしない。計器が点灯して車の全体が微かに違う感じに変わるだけである。そして走りながら、内燃機関の原動機が回り始める。初めから、未来――

 尤も、その後に私が所有した3台の車は何れも鍵を挿す内燃機関原動機のみの車である。その内の2台はトヨタであり、1台はその頃にトヨタと提携し始めたメーカーである。
 全体を見れば、HVやEVがかなり普及している今も内燃機関原動機の車が大半である。自動車といえば内燃機関というイメージはそう易々とはなくならない。

 その観点から見ると、新成人の欲しい車の番付はやや疑問を以て見ざるを得ない感じもある。
 それは内燃機関の祖であるダイムラーのメルセデス ベンツの名がそこにはなく、ダイムラーの影を感じるべくもないからである。
 HVの、トヨタの、プリウスとアクアが最高位なのは同感の至りであるが、それらに続く車はメルセデス ベンツであってほしいと思う。BMWやVWでは今一つ軽い。アウディなら分かる。
 メルセデスはそれを手に入れることのできる人々にもできない人々にも等しく共感される車であり、それ故に真のプレミアムカーと呼ばれるに相応しい。乗って満足、乗れなくて満足、そのような車は稀有であり、他にはジャガーやレクサスしかない。
 昨年末に、「メルセデス ベンツは見せびらかし消費のための車である。」という記事がBLOGOSに出ていたが、とんでもない誹謗である。見せびらかし消費とは自分の成功や地位を誇示するために持つ物ということであるが、メルセデスはそのようなものであったことは史上一度もない。そのような願望のない人々が敢えて車を買うならば何を買うかと考える時に納得して選ばれることの多いのがメルセデスである。
 処が、今の若者は基本としては私の同世代よりも賢くありながら、そのような誹謗を含む如何わしい世論の影響をこの新世紀に絶えず受けている世代でもある。私の同世代は彼等より阿呆でも、「メルセデス ベンツは見せびらかし消費のための車である。」とか「『電通鬼十則』を廃せよ」などというような愚かな世論に動かされない芯の強さがある。

 説明は難しいが、メルセデスという確かな基準があるからこそ日本において選ばれて支持されているのがトヨタのプリウスでありアクアであり、ヴィッツでありカローラであり…なのである。それらはメルセデスをパクっているのではないが、メルセデスに引けを取らない安定感と安心感を備える。そのような日本車はトヨタだけである。
 何より重要なのは運転席の前には高温で燃えている原動機が動作しているという現実味を感ずることである。目の前で火が燃えている、或いは、電気が流れている、そして足許は金属とゴム、油だけが我が身を支えている、とても見せびらかす暇なんてありはしない――それが自動車であるということを感ずることが大切である。

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# by keitan020211 | 2017-01-11 19:38 | 文明論 | Trackback | Comments(0)
「虫の音」か「虫の声」かという論考 その2――「英語脳」は存在しない
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 直前の記事『「虫の音」か「虫の声」かという論考』の続き

 日本人やポリネシア人――以下:総称して「日本人」または「ジャポリネシア」――の音声及び言語の認識能力は左脳優位の言語重視型が多く、西洋人などの、ジャポリネシア以外は右脳優位の音重視型が多いということについて少し語った。
 例えば電話の受話器及び受信音を、ジャポリネシアは右手右耳-左脳で聴き、他は左手左耳-右脳で聴くことに明らかであるとされる。私は左手左耳なので右脳優位の音重視型の認識であるとそれから推し測ることができる。

 すると、このような話が序に上がるかもしれない。それは「そうだね、文字がαβだけな欧米語は音声重視の言語で漢字や絵文字を含む多種多様な文字のある日本語は視覚重視の言語、つまりそういうことだ。」というものである。
 しかし左脳優位型か右脳優位型かについてのことはその視覚重視か音声重視かについてのこととは関係がない。前者の話は音声に表される言語とその他の諸々の音、即ち耳と口のことだけを問うものであり、そこに目と指が加わる後者の話とは前提が異なる。
 αβは漢字などと比べると著しく単純な形な故に、日本人はどうしてもそれを視覚を重視しない文字と思ってしまうが、αβにも視覚の重視はあるし、西洋人が西洋語を耳と口だけで覚えて目と指では覚えないのではない。また、日本人の漢字の読み書きの能力の低下の傾向は日本の西洋化を意味するものではなく、単に漢字の能力が低くなって来ているだけのことである。然るに、英語などの欧米語を覚えるためには先ずは文字をよく見て文字の形とその存在感を覚えることが有利であると考えられ、聴き取りや会話などの所謂『耳から入る英語』や『口を動かす英語』はやや或いは全く逆効果であるとするのがこの記事の主眼である。
 それは若し日本語が漢字や絵文字などに見られる視覚優位の特色のある言語であり日本人がそれに永らく親しんでいるならばその能力を英語などの外国語にも使うのがよい筈であるからである。自国語と外国語の認識と習得の在り方を違えることはない。言葉は等しく言葉である。音声重視か視覚重視かは言語により異なるのではなく個人の感覚により異なる。私は何語に関しても視覚重視である。

 『耳から入る英語』や『口を動かす英語』は「英語脳を鍛える」といわれる。
 そもそも、「英語脳」などというものは存在しない。
 「英語の心」というべきものはあるかもしれないが、脳が英語人とその他が違いはしない。
 英語の音が分かってもその言葉の意味を知らなければ何も分からない。但し意味を知らなくても取り敢えず喋ってみることが必要な場合はある。しかしその意味不明語の意味を訊くための言葉を知らなくてはならない。例えば'What does it mean a word I've spoken here?'などとである。「今」は'now'だけではなく'here'や'present'などもあることも覚えるとよい。

 言葉を覚えて聞き分けまたは遣い分けられるようになるためには、『耳と口』よりも『念ずること』が必要である。言葉を耳で捉えて口で発しようとする前に、心に刻み込み或いは味わうことである。そうすれば自ずと耳や口、そして目と指もついてくる。
 私が小学生の時に初めて受けた英語教育も、英語の構文や単語を何度も繰り返し聴いて喋るような『耳から入る英語』や『口を動かす英語』ではなく、先ずは単語とその表すものの絵の記されたカードをよく見、それを表す構文を読み上げる形で、それを1回か2回聴いて喋るものである。そこで発音を直されたりすることはなく、次々とカードが入れ替わる。発音はそれを続ける内に直されなくても自ずと良くなる。
 黒板やポスターではなくカードであることも良いのかもしれない。各々の『手許に取って見る』ことにより、その英語が自分に関わって来ることを実感し得るからである。また、教科書のように児童の私物ではないので「後で幾らでも見れる」とばかりにやり流してしまうこともない。因みにアメリカの学校の多くは教科書は貸与制であり、書き込みをしてはならない。日本の学校のように私物であっても、書き込みや線引き、マーキングなどにより自分の好きなようにすることができることは余り良いことではない。ものを覚えることに必要な制約を感じながら、即ちそこで念じながら習うことができないからである。

 「何度も繰り返し聴いて喋ってみる」――それは逆効果である。
 少ない回数×多い文例 が効果的である。1つの問題に余り突掛からないことである。入学試験なんかも、受験勉強の時に突掛かって泥沼に嵌まって腐心した問題が出る訳ではない、多分。
 現代日本の世論の在り方も天皇の退位を巡る事柄など、1つの問題に突掛かることを勧めがちであり、民意の形成のためには逆効果となっている。懸案といっている間にだらけ、そこに声だけが大きい者が出て来て済し崩しに決まったり先送りとなったりすることになることが多い。財政の再建を巡る論議なんかもそうである。

 そのようにして私は中学の卒業までの9年は英語の力と成績を順調に伸ばしていた。
 しかし、高校に入ると伸び悩む――
 そこには、他の多くの人は3年なのに私は9年となることによる疲れや人より長く英語を習っていることからの反則をしているかのような感じ、または9年習っている私より3年で上をゆく人がいたりすることの割の合わなさげな感じがあった。なので私は高校生の頃には英語の習得におけるこれという確かなものを感じてはいない。英語だけではなく他の殆どの教科も成績が悪い。一つ残っているものを挙げれば、各々の教科に関して『何故、それを学ぶのか』の意義を一癖も二癖もある並みいる教師等に語り伝えられたことだけである。例えば数学と民主主義が深い関わりのあるものであることなどはそれまでは全く思いもよらないものであった。学ぶ意義、それと『香り』である。例えば古語の成績は極めて悪いが、そこには古語の香りというものが存分に感じられた。そこで私は少なくとも古語にある、通底する『癖』を感じ取ってそれを盗むことにより、卒業の後の幾らかの開眼につながることになった。そしてその古語の『癖』が英語や大学の専攻であるフランス語とフランス文学にも通じるものであることを近年に悟る。私の学業の多くのものは卒業の後の十年も二十年も掛かって開眼につながったものである。

 もう一つの「反則」がある。
 それは大学の卒業論文がないことである。
 私の属していた演習講座、ゼミナールは卒業論文のない制度なので反則でも何でもないが、多くはそのような大学生活は考えられないことである。
 そこには、演習の題目の内容が深過ぎる故に一介の大学生には論文を物する程の水準の理解が出来る筈はないという担当教授の割り切りもあるのかもしれない。また、当面は就職が最優先であり、題目に関する本当の学びは何十年後にしてくれればよいという或る種の鷹揚もあるのかもしれない。そのような割り切りと鷹揚、「君達には早いからね…」を感じさせる程にいつも自信たっぷりな教授である。その教授を一として私の学んだフランス文学科は世界、即ち世界の中心たるフランスにおいても活躍して日本においても元経産官僚の古賀茂明氏よりも有名な錚々たる面々が教授や講師を務める所である。上から目線なんかは当たり前で、私はしばしば朝日新聞の社説も時に批判に言うような「上から目線」というものに目くじらを立てることのない或る種の達観を大学生活を通して得た。そんなことを言っていたら、諸外国ではそれだらけで厭になるに違いない。
 更にもう一つの「反則」は昨日の記事にもあるように、成人式に出ていないことである。

 就職の採用面接なんかも、ヘレン ケラーではないが、『耳と口』よりも大切なのは『念ずること』である。
 私は強く念じた採用面接では殆ど採用されている。それについて「殆ど」と言うのは、転職が多いということでもある。アメリカ人を含み、トランプ景気若しくはトランプ不況の時代を乗り切るための参考とされたい。
 念ずるとは、それによりあらゆる語りと態度に一貫性或いは相手の関心が引かれるものが表れる態勢になるということであり、それが英語の習得にも就職などにもなくてはならないものである。オバマの演説なんかも、念じながら聴けば、その前に言葉を念じながら覚えておけば、聞こえて来る。

 弊ブログがお気に入りブログや外部リンクとして指定しているブログ等の数々も、その選考基準と指定継続基準は『念の強さ』にある。
 その殆どは思想信条や政策観の内容ではなく、『念の強さ』、またはそれを表現することにおける体裁の丁寧さ、即ち『表現の自由を行使することに懸ける念の強さ』を評価する。それがぼろぼろと崩れて来たりそんなことは二の次という姿勢が感じられたりすると指定の打ち切りとなることがある。
 尤も、内容を問うことを否定するのではない。但し弊ブログはなるべく内容の評価や所感に動かされて指定を打ち切ることのないように努めている。

 ブログは多くの場合は音を出さない。
 弊ブログは右欄外の'The Time on Anywhere'の項にユニクロの提供する暦と時計を表示するが、それに付くBGMは'OFF'にしてある。初めはそうはせずに'ON'でBGMが流れていたが、自ら聴いてみるとかなりうるさいのでやめた。弊ブログは鉄道の駅における告知BGMの使用にも否定的であり、阪急電鉄の旧型告知音のような機械的で単純な音によるものまたは東京急行電鉄のような無音を支持する。自らのブログにもBGMは付けないようにしている。阪急と東急の他も、昔はどの鉄道事業者も機械的ブザー音であり、今のようにJ-POPなどの旋律を用いるBGM告知音は少なくとも当時に育った人としてはとても違和感がある。BGMにしても、阪急の新型告知音――それも今はかわっているかもしれないが、――や横浜市地下鉄、多摩モノレールのような自社専用の音楽に留めるべきであろう。

 私についての話が長くなって元の話に戻る。音と声の認識についての話である。

 一般の音楽を鉄道の告知音に用いることの元祖は国鉄である。
 曲名は知らないが、新幹線やL特急に乗って発車すると程なく「♪あなたと私がその駅を 出てから何分 経つのでしょう…」という音楽が流れて来る。その歌詞は私が今作詞したものであり、国鉄-JRがそのように言わむとしているかどうかは分からない。その曲は国鉄専用曲ではなく一般の歌を流用してのものである。してその答は「1分も経っていない、like a rolling stone...」

 私がそこに用いている作詞の能力はいわば直前の記事にあるような、音を言葉に変換する能力である。音を左脳で言葉として捉える力であり、ジャポリネシア的なるものである。
 私は主に所謂西洋的右脳優位の音重視型であるとみられるが、日本的左脳優位の言語重視型の脳力をも無駄に眠らせずに生かしている訳である。
 言語とは状況を表すものであり、「列車が始発駅をたった今出て皆様の旅が始まっている」という状況に鑑みればそこに流れる音楽に乗せることに相応しい歌詞は「♪あなたと私がその駅を 出てから何分 経つのでしょう…」などとなることが妥当であるという認識がそこには反映される訳である。そのためには、音そのものに感じ取ることのできる情緒をそれに相応しい言葉と結びつける発想が必要となる。

 では、日本人やポリネシア人は皆作詞家の才能があるのか、そうではないのが複雑な話となる。

 人の世には権威というものがある。
 作詞や作曲も権威である。一つの作品を作ると、その作者は一つの権威を手にしたことになる。分かり易い例はKANやピコ太郎である。
 人の世には送り手と受け手がある。
 KANやピコ太郎は送り手であり、その他の殆ど全ての人は受け手である。
 受けては彼等の作品における権威を受け容れることしかできず、その権威が定めたものを変更することはできない。要は幾らかの拡大解釈の許容の余地を除いては、彼等が歌う通りに聴かなければならない。
 そこで、細かい説明は難しいが、受け手は彼等の作品を専ら左脳、即ち言語のみにより受け容れることが条件づけられることになる。
 受け手にとっては極端にいえば、KANやピコ太郎の拍子や旋律ではなく、「心配ないからね…」や「I have a pen...」などの言語によってしか彼等の作品を認知することはできないように仕向けられる宿命にある。深刻な例は――私もそれについてはそうであるが、――「赤いスイートピー」という歌詞の言語に引き摺られて「スイートピーは赤い花」というイメージをしか持たなくなることである。本当はスイートピーは薄紫やピンクの花が主であり赤いスイートピーは希少種である。それを私は先日のフジテレビの『めざましテレビ』を見て初めて知った。三十余年もセイコ マツダに騙され続けていた訳である。藤井君、ありがとう。
 音楽の消費においては、言語が主であり音はその添え物としか認識されない。それは受け手がジャポリネシアであっても西洋人やその他であっても全ての人類が同じ宿命にある。いわば世界人類の全てが日本人であるともその意味においてはいえる。例外は歌詞のない、拍子と旋律のみの音楽作品である。拍子と旋律は送り手の発想や意図とは離れ、何かを言葉を用いて云うための手段でしかないものとして認識される。故に、ボブ ディランがノーベル文学賞を授かる余地もある訳である。
 それらの言語と音そのものを切り離して認識することのできる人だけがその例外であり、作詞家や作曲家の能力の可能性を得るのである。

 虫や獣の鳴き声も音楽と同じことである。

 「みんみん」とか「わんわん」などという擬声語は蝉や犬を人々に提供する或る権威者の解釈と発想のいいなりとなってそれを受け売ることを助長するものである。
 尤も、CHAGE&ASKAにならとかレディー ガガにならとか、彼にならばいいなりになってもいいという或る種の服従の心理は否定できるものではない。しかしそのような権威への服従の心理は仮令今は芸術の豊かな文明を享受していてもいつかはその代替わりが不可能となり、新しい人材が生まれては来なくなることにつながる。人々が悉く受け手でしかなくなるからである。日本は殊に「みんみん」や「わんわん」が日本人の文化であるかのようにいわれているので代替わりの不可能性による人材の不足に見舞われる可能性が高いし、所謂2020年を表す『おもてなし』という標語はその虞を端的に示すものである。自らがもてなすことをではなくもてなされることをしか志向しない、またはおもてなしというものの辛うじて存在するこの国の権威にぶら下がることをしか志向しない処から出て来たものであるからである。
 欧米語にも'bow bow'などの擬声語はあるが、日本の程には認知されてはおらず、常日頃に用いられるものではない。それらを知っていはしても、それらをなるべく遣わずに鳴き声などの音を表す心構えが欧米にはある。

 私の出身家が二匹の犬を飼っており、私は訪れる度に彼等と会っては力を与えられているが、彼等の鳴き声は決して「わんわん」でも'bow bow'でもない。彼等に固有の主体的鳴き声である。
 その一匹である妻は昨年の夏の長崎の原爆の日に逝去した。その日は『徹子の部屋』の司会者の誕生日でもある。その前日は明仁天皇のビデオメッセージの公表の日でありまたフジテレビの日である。
 去年の暮れ、クリスマスイブの日に私は彼女の二度目の墓参りをしてビオラの花を捧げた。三鉢組のビオラの花を、一つは彼女に、二つは私の家に、三つは出身家に供えた。そのクリスマスイブは彼女が子を産んでから10年となる記念の日でもある。犬は出産の瞬間を決して見せないものであると見え、そこに立ち会った私が少し目を離している間にこっそりと子が産まれ落ちていた。
 夫は年始に危篤かとさえ見える不調を呈したがけろりと回復して今ここにいる。但し鳴くことは稀となっている。

 犬の鳴き声を勝手に解釈しない。
 蝉の鳴き声を勝手に解釈しない。

 日本はどうも、勝手な解釈がいつの間にか権威となり果せることの多い土地柄といえそうである。
 その一つの端的な例は「天皇陛下のお気持ち」である。
 あのビデオメッセージから、陛下は天皇の退位の恒久的法制度の制定を望まれていることは明らかに読み取れるなどという勝手な解釈がこの処に横行している。
 その可能性を無下に否むのではない、いつかはその必要が生じることも考えられなくはないが、どう見てもあのビデオメッセージからはそのような御意思を明白なものとして見て取ることはできない。只、如何なる形であれ退位を望むことだけが明白なメッセージである。挙句の果てには「大御心」などという軽々しくは遣えない言葉を臆面もなく垂れる論者がいたりして閉口である。
 正に彼等は音を音として聴かず、発言を彼の語る通りには受け止めず、自らに都合の好い言語に換算して世に吹くジャポリネシアの権化のような野蛮人である。

 昭和天皇が終生に愛されたのは昆虫であった。

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a0313715_13053612.jpg木佐彩子(きさ あやこ:BS朝日『いま世界は』のキャスター;元フジテレビアナウンサー)を
皆様の! 皆様の! 皆様の! お力で!!
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a0313715_15074081.png●weathernews 地震情報


a0313715_17314580.jpg●関東地方の緊急地震速報は ダイヤル1134 文化放送


――地震が発生したら先ずは火の点いている所を確認して直ぐに消せる火を消し、物の落下を避ける。


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# by keitan020211 | 2017-01-11 17:36 | 文明論 | Trackback | Comments(0)



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