カテゴリ:文明論( 545 )
牛乳石鹸のCM炎上 問題の根は 宣伝とは良いイメージを持ってもらうこと という鉄則を守らないことにある
賊軍を官軍の勝ち組クラブに入れる
賊軍戦没者の靖国神社の合祀に 絶対反対

都合の悪い歴史を覆い隠す
A級戦犯の分祀に 絶対反対

皆様の力で阻止しましょう!

 昨日から、牛乳石鹸のウェブCMが炎上したことについての話題がネットニュースやツイッターに散見されている。
 昨日からというか、一日が明けた今日は既に話題が引いているようである。

 私はそのCMを観ていないのでそれがどんなものかについては今日のBLOGOSに出た赤木智弘氏の批評の説明に基づくしかない。

 そもそも私はネット動画を殆ど観ないのでウェブCMがといわれても分からないのである。
 同じようなことは弊ブログが前に集中的に批判をした東急電鉄のウェブ限定のマナー広告などがある。何れもテレビCMではないために、CMといえばテレビと思う私などにはぴんと来ない。東急のそれは炎上が起こってから私もネット動画で観た。そしてその件につき東急を擁護するデヴィ夫人のブログに反論を寄せもした。

 赤木氏によるその牛乳石鹸のCMについての説明は:
 ・「家族や子供思いの優しい父親」であることにふと疑問を覚えた父親が子供の誕生日であることを分かっていながら家に帰らず、怒られていた部下を飲みに誘ってしまい、怒られる。
 ・それについて「子供の心を傷つけた」や「胸くそ悪い」などの批判が起きている。

 一体なにが傷ついて胸くそ悪いというのか全く分からないが、弊ブログがここに問うのはその内容とそれを支える思想についてではない。但し一応、炎上した側の言い分は理解不可能と言っておく。
 資生堂の化粧品ブランド インテグレートの件のように牛乳石鹸を全面支持ではないが、炎上側には理がないことは確かである。
 全面支持ではないとは、多少は悪いといわざるを得ない点はあるということ。というか、どちらかといえば不支持で、両者を非難するべし、blame both sidesといえる。
 この場合は、「家族や子供思いの優しい父親」はどちらかといえば極右的価値観なので炎上側が人種差別主義勢力に当たり、炎上された牛乳石鹸は反トランプの所謂リベラル勢力に当たる。オバマやクリントンを支持するリベラルなビジネスマンは子供の誕生日などを平気で忘れて知的に呑みに行く。そう、日本人はそれを取り違えては致命的誤りを犯す。日本の牛乳石鹸の父とアメリカのリベラルビジネスマンの違いは、単に卒業校の偏差値や知識の量質の厚さが相対的に違うに過ぎない。尤も、彼等も「家族や子供思いの優しい父親」を願わしい理想とすることはあり、それがぽきりと折れてふらりと往ってみることがあるか否かが所謂保守派や極右との違いである。
 私も「家族や子供思いの優しい父親」が価値観や理想として誤りとは思わない。しかしそれに何があってもどこまでもこだわるべきかといえばそうではないとしか考えられないので私、弊ブログはどちらかといえばリベラル派に近い価値観を持つ。況してや他人のこととなれば「家族や子供思いの優しい父親」たるべしと前提することはとんでもないことであるとも思う。

 牛乳石鹸のそのCMはそのような保守的或いは極右的価値観を広告を通して敢えて打ち壊そうとしたのであるが、これが問題の根であるが、広告とはそのようなことをするための媒体ではない。

 例えば牛乳石鹸の社長や会長がJR東海や高須クリニックのそれのように、新聞や雑誌などの言論メディアに出て価値観の変革を説くならば良い。それはあくまでも言論であり、受け入れるも受け入れないも自由である。
 しかし広告とは商品や仕事(サービス)を紹介してその良いイメージを視聴者消費者に持ってもらうためにある。
 そのためには否定的(ネガティブな)印象やイメージ、即ち表象を用いてはならないことは言うまでもない。

 そのCMは如何なる価値観や思想を持つまでもなく、否定的表象を用いている故に端から宣伝として認めるに値しない。
 その場合の否定的表象とは ①怒られること;②その故の辛さが商品のある風景に滲むこと である。
 そのような場面に使われている商品を、誰が買いたい使いたいと思うであろうか?
 「牛乳石鹸は皆様の苦しみと共にある石鹸です。」、そのような否定的メッセージを与えてしまう訳である。それは恰も「人の不幸は大好きさ。」と言っているかのようにも映る。
 苦しかろうと楽しかろうと、商品は買えば変わらずに彼の許に在る。その商品と共に苦しみが増してゆくかのようなイメージを与えてはいけない。

 しかし、そのように端から宣伝として認めるに値しないCMは殊に近年は多く、牛乳石鹸だけではない。

 取り分け悪質なのは弊ブログが重ね重ね非難して不買を呼び掛けている花王である。
 花王は否定的表象をも多く用いるが、逆に独善的肯定的表象をも多く用いる。肯定的表象とは楽しいとか嬉しいとかお得とかであり宣伝には望ましい要素であるが、それが独善的で本当に楽しいとか嬉しいとかお得という感じがしないものを独善的肯定的表象という。独善的は読み下すと独り善がり。
 何がそれぞれそうであるかはおぞまし過ぎるし知らなければ何よりなのでここには挙げないが、花王の殆どのCMがそれらの何れかに当て嵌まる。稀な例外は菅田将暉と澤部佑の出演によるメンズビオレのCMだけ。

 花王などのような否定的表象や独善的肯定的表象がテレビCMやウェブCMなどの宣伝に増えているのは何故か?

 直結はしないが、その可能性を開いたのは1990年前後のバブル時代からの『モノを言うCM』みたいな流れである。広告宣伝に広告主や国民社会の主張を込めるというものである。ここでは所謂こだわりという程度のものも「主張」に含める。
 その流れは必ずしも悪いものではなかったが、2000年代以降になると、『良い印象で主張する』という当たり前の心得のない向きが増えて来る。例えば竟先頃に解任されたバノン顧問も、少なくともその筋では良い印象やイメージが持たれるような極右政治啓発を行っている。日本の広告宣伝はそのバノンの水準もない訳である。さては、人種差別主義の最大手KKKにも劣るかもしれない。
 広告主や広告業者は電波と画面を使って視聴者市民に嫌がらせをしているのである。不快な言葉や汚いものを見せつけて悦に入るのが彼等である。そのようにすることに、世相がどうであるからとか人々のマインドがどうであるからとかという言い訳は全く通じない。

 故に、牛乳石鹸のその件は子育てや性役割(ジェンダーロール)などというものも何の関わりもないものである。

 赤木氏の批評はそれらの事柄についても取り敢えず言及しているが、批判する側のそれらについての考えが浅過ぎるとも述べており、総じて弊ブログの所感と近いと思われる。

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by keitan020211 | 2017-08-20 01:26 | 文明論 | Comments(0)
打消し表示が廃止へ 消費者庁 体験談広告に規制
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皆様の力で阻止しましょう!

 久々の良いニュース。

 弊ブログが特に注目するのは「※個人の感想です。」など、健康食品のテレビCMなどにしばしば見られる打消し表示の廃止である。
 実はそれは「しばしば」ではなく、必ず付けなくてはならないと景品表示法に定められるものなそう。
 私はテレビを観ていてその表示がとても目障りで感じが悪いといつも思っている。
a0313715_18155481.jpg それが健康食品や健康器具などの商品の宣伝だけではなくバラエティー番組の内容にも付いている。私の知る限りで目につくのはテレビ朝日の『中居正広のミになる図書館』やフジテレビの『ホンマでっか!?TV』など。いつも観ているから目につくのかもしれないが、テレビ朝日とフジテレビには取り分け多いような気がする。永年来の好きな局なのに品がなくて残念な傾向である。『中居正広のミになる図書館』は番組の終りに「あくまで出演者個人の見解です。」と、『ホンマでっか!?TV』は「この番組に登場する情報・見解はあくまでも一説であり、その真意を確定するものではありません。‘ホンマでっか‘という姿勢でお楽しみ頂けると幸いです」みたいな一文が示される。
 番組で散々言いたいことや言わせたいことを喋っておいて最後にちょん、視聴者は莫迦にされているような感じになる。昔に子供の間にはやった「責任切った!」を公器であるメディアがやっているのである。
 それらの番組の基本的考え方や出演者の話の内容は今時にしてはなかなか優れており、そのような様式とそれを支える思想に難がある。どんなに良い企画を上げてもそこには随所を弄り回す無能なスタッフや鑑識者が洩れなく付いて来るのであろうか?
 所詮はバラエティー番組であり語られることが正しいとは限らないことは当たり前であるなどと云う積りはないが、番組及びその出演者が誤りを語ることはあり得る。報道番組などもそうである。報道番組は誤りがあれば訂正をすることができるがバラエティー番組はなかなかそうはゆかない。ならば予め責任を切っておこうというのがそれらの発想である。
 しかしそれが「予め」ではなく、一通り喋った後に物々しく「あくまで出演者個人の見解です。」と来たもんだ。掌を返す様にも似る。
 そのようなものが罷り通っている一因には、司会者の才能が乏しくなっていることにあるかと思われる。
 例えばそれらの番組なら、中居正広は元SMAPで国民的人気者ではあるが、司会者としていけているかといえばやや疑問である。存在感は良いが、はっきり言って司会は下手である。それを埋めるような有能なアナウンサーも付かない。『ホンマでっか!?TV』の司会は明石家さんま、彼も芸人として永らく不動の地位を築いている大物ではあるが、司会者としては役過剰であり、彼の司会による番組は各局に数多いがその司会振りはどれも余り感心しない。それらが面白いのは他の出演者が面白いからであり、さんまの魅力は他の出演者を引き立てる機微の良さにある。また、その番組における彼の相方は加藤綾子アナウンサーであり、彼女もまた女さんまさんである。
a0313715_18174445.jpg しかし引き立てるだけで、司会者が出演者の話の内容の信憑性をそれとなく示すことがない。あれだけ引き立てられれば全てがほんまに見える。さんまが「うそやん…。」と言っても、それは彼自らが信じられないと云っているに過ぎないと見られてしまう。更にはそこに汚らしい字幕が付く。
 尤も、客である出演者の話を本当かどうかは分からないと云うことができるためには司会者の能力だけではなく企画筋による番組の筋書きが確りとしている必要がある。そうではなければ客を貶めることになる。そのような難しいことをできる、考えることのできる、考えようとするテレビ人がいなくなっている。
 司会者はとにかく客に頭を下げるだけ、時にぼやいて見せるだけ、それが今時のバラエティー番組である。故に出演する専門家などがつけ上がることにもなる。プロがありがたい話を聞かせてやっているのに小池は聞かないなどと云う。
 いつも云っているが、今時のバラエティー番組は始まりと終りの挨拶すらない。そんなので良いと思っている人々が人の話を聞けというのはテレビマンや視聴者として役過剰である。

 どうも、「あくまで個人の見解です。」が挨拶代りなようである。

a0313715_18201445.jpg 失笑してしまったのは今日のフジテレビの『バイキング』でそのまんま東がトランプ大統領の例の'both sides'の弁明を、トランプさんがそう思うのは構わないかもしれないが大統領としてそう言ってはいけないみたいな感想を語ったこと。即ち、「あくまでトランプ大統領の個人の見解です。」と云う訳である。実態は逆であり、トランプ大統領個人としては人種差別などはないけれどもそのような方々も国民には民意の一つとして無視することができない程にいるから言っているのである。尤も、思っていても言うべきではないことがあることは確かではある。東の感想からは正に、「トランプさんがそう思うのは構わないかもしれないが大統領としてそう言ってはいけない。」という結論にしか至らないようにして来たのは外でもなくアメリカや世界の自由主義――延いては東の属していた維新の会の政治も――であることが改めて浮かび上がる。なので'blame both sides'は正しいといわざるを得ない。

 健康食品やその他の科学的にグレーな商品やサービスの広告宣伝に関し、消費者庁などが如何なる筋道を示すのかは成り行きが注目されるがこれからよく見てゆかなければならないが、弊ブログとして一つ考えられるのは広告宣伝の料金を商品やサービスの分野毎に差をつけることである。科学的に不確定性――「深く訂正」ともいう。――の高い分野については高い広告料を課す。また、内容の適法性を確保するために1本の放送時間を長く、何分何秒以上とすると定める――現に健康食品などのテレビCMは長いものが多い。但しその理由は適法性の確保のためではなく露出を多くして宣伝効果を高めるためである。――。或いはそれをメディアの自主努力には委ねずに法制度が強制的に規定するのも良い。但しその場合は金額を定めることはできないので科学的に白が確証されている一般的商品やサービスの標準の広告料との金額の比で定めることになる。

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by keitan020211 | 2017-08-18 18:20 | 文明論 | Comments(0)
【広島・長崎 原爆の日】核のない世界――文明の在り方を考える、変える記念日に ・ブログ The Logry Freesia 4周年
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皆様の力で阻止しましょう!

 弊ブログは2013年8月6日に開いてから4周年となります。
 いつも御覧いただいている方も、一度だけ御覧いただいた方も、この4年に目を止めていただき允にありがとうございます。

 今年も原爆の日が来た。
a0313715_19373663.jpg 今年は新聞やテレビのその報道がいつになく控え目と感ずる。
 安倍政権が日本が核不拡散防止条約、NPTには加わらない方針を取るために、報道が所謂忖度というものでその報を少なくしていると見るのは穿ち過ぎであろうか?
 しかし広島原爆の日を告げるその翌日の朝日新聞もまたその控え目さの例に洩れないが、いつになく、原爆を巡る昔と今の現実を直視している感じがしてなかなか好感である。出色なのは被爆者でありながら原爆を語り継ぐことを思う処があって拒んで来た八十代の人についての記事。今はそれが自分の務めと感じて語り継ぐことに重い腰を上げたというが、その思う処とは何であったのか、歴史と生涯の深遠に思いを致す。そのような重みのある報道は過去にはなかった。例年の原爆の記念の報道はいかにも情緒的で軽薄と感じている。「ヒロシマ」や「ナガサキ」、「ヒバクシャ」という片仮名語がその端的現われであり、兵器ではないが核を使う原発の事故があった福島についても同じ手で「フクシマ」と記す。その日の朝日新聞の投書欄は高校生を使ってその「フクシマ」を正当化しようとする。核の保有国が祈念式典に参列するのはおかしいと云う意味不明なもう一つの投書と並び、それだけがその日の朝日新聞の瑕疵である。

a0313715_19392765.jpg 『核のない世界』――私、4周年を迎える弊ブログも支持する、アメリカのオバマ大統領が打ち出した目標。
 しかしそれを『戦争と平和』の文脈で語ることはもはや時代の役割を終えていると思うのである。
 核は核兵器だけではなくチェルノブイリや福島に事故が起こった原子力発電もある。
 その他のあらゆる使い方を含め、人類が核のない文明と生活を考えて作り出し、確立する――それが今や切に求められる『核のない世界』の切り口ではないか。
 核を軍事に使うか使わないか及び実験をするかしないかよりも、核物質そのものを使わない。人間の扱うことのできない物質を使うべきではないのは当然であり、今までに幾つもの事例がそれを証している。生産者にも消費者にも安全な物を使う、それが求められる文明の在り方である。
 そのような視点は作家の大江健三郎氏にもある。大江氏も『戦争と平和』の文脈に少し乗ってもいるが、その文学と言論の核心はやはり『核のない文明』にある。
a0313715_19404934.jpg 広島や長崎の祈念とそれを報ずるメディアにはそのような視点が残念ながらないといわざるを得ない。被曝と平和が直結し、専ら平和を願う祭とされるが、原爆に注目すれば通常兵器がそこには含まれないことは必然であり、通常兵器による戦争に関しては何も言わず、なくする努力をしないと宣言しているように映る。核兵器をさえなくせば広島・長崎のお仕事は終了!火の始末はちゃんとしてねと言わむばかりの軽さが毎年の暑さと共に通り過ぎてゆく。
 ヒロシマ・ナガサキの方々はビキニ環礁の核実験を知っているのであろうか?先日のテレビ朝日の『ザ スクープ』がその特集を放送し、なかなか手堅い見識と感心したが、「日本は唯一の被爆国」といつも繰り返される言辞にはビキニ環礁も北朝鮮の近海も眼中にない。いつ国粋主義と結びついてこの国が再び被曝することになるか分からないとても自己中心なものである。

 安倍政権が核不拡散条約に加わることを見送ったのも、一つの見識である。
 「核兵器のない世界」ではなく『核のない世界』――それを実現するためには少し遠回りをしてみることも必要である。被曝と平和が直結している今までの観念からは、核のない世界を実現することは殆ど不可能と思われる。核兵器による力の均衡という架空の理論を支持する人々と核兵器の廃絶を訴える人々の話が少しも通じ合うことのない侭に時が空費されている。核を『戦争と平和』の文脈で考えることのそもそもの無理の故である。人を殺す前に先ず手を付ける自分が死にかねない、そんなものに恃むことはそもそも戦争でさえない。
 安倍総理の決断を支持する人々にはそれを核の抑止力の観点からする人が少なくないが弊ブログは核の抑止力を否定する立場からその決断を支持する。その意義は勇気ある遠回りである。それを広島県の選出でNPTに積極的という岸田前外務大臣を引き合いに出して非難する報道筋は蛮勇であり、文明と似つかわしくない。

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by keitan020211 | 2017-08-08 19:46 | 文明論 | Comments(0)
【安倍改造内閣 変な言葉 合併SP】「仕事人内閣」
a0313715_22282995.jpg この程に発足した安倍改造内閣につき、憲法の定めるその長安倍晋三総理がその内閣の性格を「仕事人内閣」と語った。

 ――さっぱり意味が分かりません。

 英語に訳すと'the Cabinet of servicemen'。

 蛇足となるが、「いや、'servicemen'ではなく'service persons'でしょう。」などという下らないことを言ってはならない。所謂the politically correctnessの見地からの揚げ足取りであるが、'-man'や'-men'で何も間違ってはいないので揚げ足取りにすらならない。揚げ足取りとは少しは間違っていることについてのもの。'-person'や'-persons'は全くの誤りである。
 「そんなに相手を否定せずに建設的議論をしましょう。」というなら、彼は安倍政治と同じである。
 この程の改造内閣については、弊ブログは直前の記事にそれなりの好い評価をした。それなりにpoliticallyにcorrectな内閣であると思う。

 'the Cabinet of servicemen'……、何やら自動車販売店のサービスマンを想わせる。
a0313715_22295590.jpg 日本の高度経済成長は自動車や家庭用電気製品の普及とそのサービスマンの所得の向上と共に在った。経済を優先すると云う「仕事人内閣」で高い経済成長を実現するのであろうか?
 ――どうも安倍総理の言うのはそのようなことではないらしい。経済を優先するが、サービスマンの意味合いはないようである。安倍総理だけではなく、それを好く評する人々にも悪く評する人々にも、そのような理解はないようである。河野太郎外務大臣なんかを見ると、自動車販売店のサービスマンのような雰囲気が私にはするけれど。彼の地元の湘南地方はトヨタ自動車と日産自動車の販売店等の競争が歴史的に激しく繰り広げられて来た。その歴史を綴る本もあり、正に仁義なしとはそのことである。また、先日に3選となった横浜市の林文子市長は日産自動車の販売店の元社長である。

a0313715_22320087.jpg 自動車や電器の店の人をサービスマンと呼ぶ経緯は定かではないが、それらは無償回収修理の窓口となるなど、無償の業務が一部にあるからではないかと思う。serviceとは無償奉仕がその原義にはある。平たく言えばただ働き。銭を取る場合にもserviceと言う場合はサービス業こと第三次産業など、あるが、何れにしても普通は余り遣うものではない言葉が'service'とその日本語「仕事」である。無償奉仕は民法や労働基準法に依り原則としては禁ぜられる。
 故に、閣僚が報酬を取らないと言えば、それは紛れもなく「仕事人内閣」である。或いはこの国の経済を第三次産業を専らとして農林水産業や製造業をなくすと言えば、その陣頭を担う彼等は紛れもなく「仕事人内閣」である。

a0313715_22335834.jpg 第三次産業を'the industry of services'と呼ぶにせよ、service、仕事とはbusiness、業務及びその生み出す利益の総称をいい、個々の業務や労働者のjob、職務をいうものではない。個々の人に関わるものではないなら、「私の仕事は」やなどという言葉は粗絶対に成り立たない。逆に「お仕事は何をなさっていますか?」、'What service do you take in?'や「仕事は何時に始まるか?」、'What time will the service be off?'は成り立ち得るが、非常に鼻持ちならないお上品な言葉であり、少なくとも'your service'などのような所有格はつかない。
 'seivice'という観念は多分、マルティン ルターの職業召命観に由来する。ざっくり言うと、職業には神に仕える意思を持ってせねばならないということであり、彼のそのような発想は心掛けとしては誤りではないが、彼を元にして随分なきれいごとが西洋世界に広まり、それが職務における'service'や「仕事」という言葉につながり、近代産業による労働者の搾取の歴史になった。
 故に、「この店サービス悪いな。」や「もう少しサービスしてもらえませんか?」、「サービスさせていただきます。」などという遣い方は以ての外の下劣な口上である。「私の仕事は」などというのも意味不明である。

 もう一つ意味不明なのは物理学における「仕事率」の語。
 その概念は分かるが、それを呼ぶ言葉が意味不明、'rate of services'?????。
 英語の辞書を引くと、「しごとりつ」の項には'power'とある。数式の記号もPであるが、先ずそこで物理の先生が「'P'とは'power'の略です。英語ではそう言います。」と教えた時におかしいと気づくべきである。そも、「-率」さえ英語にはない。
 'power'なら「力」でなければならない。その外には「力」という概念は物理学にはなく、物理学では「梃に掛ける力」とは言わずに「梃に掛かる重力」と言うし、混同もない筈である。
 その線でいうと、「仕事人内閣」は「権力主義内閣」ということになる笑。

 にもかかわらず、この国には「仕事どう?」などとの言葉が年中あちらこちらで聞かれる。その点は日本は西洋よりも西洋的といえる。勿論、19世紀までの街は煙に塗れて労働者が身を毀しているのに中産階級は左団扇の西洋である。
 「仕事」の話をする人は何もしていない人と見て良い。そもそも自分が何をしているかを分かっていない、分かりそうもないからである。前の安倍内閣はそんな人の宝庫であった。

 正しい日本語は「勤め」である。
 「どちらにお勤めですか?」とは勤務先を訊く場合もあるが、本当は職業を訊く言葉である。「どちら」とは「何」の雅称である。英語にはぴたりと来る語がないが、フランス語には'Quel est votre travail?'または'À quelle société vous travaillez? 'となり、日本の就職情報誌『とらばーゆ』の語源になっている。因みにフランス語は「会社」も日本語とぴたりと同じくune sociétéと言う。英語の'company'はどちらかといえば中国語の「公司」の意味合いに近い。
 また、'job'は「職」または「職業」。今はやくざしか遣わない「しのぎ」も元は「職」の訓読みである。「お前さん、ようけしのいどるか?」と言えば'Are you taking good job?'となる。故に「明日は仕事があるから」と今まで言っていた人はこれからは「明日はしのぎがあるから」と言えばよい。「職」と言うのも「しのぎ」と言うのもどうしても違和感があるならば'job'に当たるa0313715_22392516.jpg言葉を用いずに'travail'に当たる「お勤め」と言えばよい。昭和の時代には普通に「お勤め」の語が公にも私にも遣われていて「お仕事」、「仕事」の語が遣われる様は記憶にない。正に平成になる頃から片仮名書きの「シゴト」――おぞましい。――と共に見受けられ出した。多分、当時からこの国において力を持ち始めた、フリードリッヒ ハイエクを祖とする各界の新自由主義者が言い広めた言葉と思われる。「仕事の出来る人」や「仕事の出来ない人」という新奇な言葉が平成の時代の始まりの頃に生まれた。新自由主義は先に述べた『神への奉仕』の概念を教会としてではなく個人に還元するので業務における'service'もまたその全体としてではなく個人単位でいう。今は高須クリニックの院長が会員であることでも有名なフリーメイソンもそこに一枚噛んでいたかもしれない。ルパード マードック氏がテレビ朝日を買収したいとか、そんな時代のことである。
 そういえば、『必殺仕事人』というそれもまた意味不明な題名の時代劇を放送していたのもテレビ朝日である。
 昭和の時代には当時から今に言う「仕事探し」というのも「勤め口探し」と言っていた。何かと昭和を蔑む弊ブログではあるがその点は昭和が正しくて平成は誤りであり、私もその意味では昭和的でありたいと思う。

a0313715_22411705.jpg 松本幸四郎が三代同時に襲名することを発表する会見で次の松本幸四郎になる市川染五郎が抱負を語り「つとめてゆきたい」と言った。その字幕が「務めてゆきたい」と出ていたが、正しくはそれも「勤めてゆきたい」である。「務める/having my duty」も誤りではないが大上段な言い回しであり――歌舞伎界の務め、the dutyは人々が決めて求めているものではなく、あくまでも歌舞伎界のそれぞれの家の流儀に過ぎないのでそれを会見で語ることは余り考えられない。――、ともすれば独り善がりになりかねない。「勤めてゆく/having my travail」は平たく言えば「頑張ります。」である。
 逆に、政治は国民の舞台裏までもの監視の下に行うものなので「務める/having the duty」が適う。

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ANN 報道ステーション 9.54~/月~金
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by keitan020211 | 2017-08-04 22:42 | 文明論 | Comments(0)
乳首と監視社会
 近頃都にはやるもの――

 男子が乳首を見せること。

 街を往くと、この国の高齢者率に追いつかむとする勢いで、男子の乳首見せを目にする。
a0313715_18565388.jpg 昨日のテレビ朝日の『橋下×羽鳥の番組』はコメンテーター選手権の第2弾、選手となったコメンテーターは番組の主橋下徹元大阪府知事または元大阪市長と作家の室井佑月氏、ジャーナリストの堀潤氏、国際政治学者の三浦瑠麗氏、社会学者の古市憲寿氏と、乳首の美しそうな人が揃ってのもの。そこでの1分間解説のお題にもこの国の高齢化の問題を含む『平均寿命の増加は良いか悪いか?』があった。そこで「悪い」として解説をしたのは橋下氏唯一人である。
 時間の超過やそもそも結論を言わないなど、散々な評価であった室井氏は『乳首選手権』ならば優勝していたに違いない。
 男子の乳首についていえば、橋下は平均的に引き締まっている乳首、堀はかなり美しい黒めの乳首で古市はきれいなピンク色の乳首か?

a0313715_19023562.jpg しかし幾ら橋下や堀、古市のように美しくても、男が乳首を見せるのは不快でしかない。
 もう少し厳密にいうと、自らの体を粗末なギャグにしているようにしか見えない。
 それはちんぽに盆で最近に売れている芸人アキラ100%にも通じる。ユーモアではなく粗末なギャグである。
 そもそもヘレニズムの昔から、男性の体を晒して称揚することは文明の頽廃である。真白な男性の裸体像を芸術という人々がいるが、とんでもないことである。ヘレニズム思想は人間の精神を肉体とは別のものとして尊び、肉体を卑しいものとすることがその根源にある。裸体像による男性の肉体の称揚は『肉体を捨て去った末に、卑しめた末に宿る美しさ』という逆説紛いの屁理屈がそのモチーフであり、本質的には肉体を否定するものである。その辺りは日本に根深い婚外交際、所謂不倫の禁止にも歴史的につながる邪悪な思想である。
 近頃の日本の都を往く乳首見せ男もまた、乳首を通して人の肉体を卑しめるための歩くプロパガンダである。

 その直接の起因はシャツの下には何を着るか着ないかの考察であるらしい。
a0313715_19060859.jpg 昔はシャツの下にはタンクトップ型で生地が綿の白い下着、所謂ランニングシャツを着るものとされていた。
 しかし趣向が多様化してランニングシャツが聊か旧いものとされるようになり、1980年代からはTシャツをシャツの下に着る人が多くなった。
 しかしTシャツは半袖である故にその袖が長袖のシャツの袖に映るとぼてっとした感じになる。また、白いTシャツなら問題はないが、色物や柄物はシャツの銅に丸映りするのでビジネスやフォーマルには相応しくないとの批判が多い。
 すると2000年代から、シャツの下には何も着ないのが良いとする男子が増え出した。それが2010年代の今は多数派を窺う勢いで増えている。
 そもそも、ランニングシャツを旧いと言い出したのが問題の始まりである。同じく1980年代から多数派となったトランクスとの色柄の兼ね合いが悪いなど、その需要の地盤沈下は著しい。見た目も使い心地もタンクトップと同じで何も悪いものではなかろうと思うが、男子の同調志向、そうしないともてないんじゃないか症候群、立身出世が叶わないのではないか妄想は凄まじいようである。
 そのような志向、症候群と妄想の末に、自らの肉体を粗末なギャグに仕立て上げるべく乳首見せに至る。

a0313715_19091067.jpg そのような積りはない人も、肥満傾向――然程に著しいデブではなくても――の故に、シャツの下にはTシャツを着てもTシャツやポロシャツだけになるとどうしても乳首が浮き出る人が多い。殊に昨今は小さ目の服がはやっているのでそれらも体の線が出てしまう訳である。2065年には平均寿命が男子も85歳に達するであろうといわれるが、今の現役世代のそのような姿を見るや平均寿命は今が「頂点」笑、或いは、女子との寿命の格差が拡がるばかりなのではないかと思えて来る。夫なんか早く死んでほしいと思う妻は少なくないというので彼女等はそうなって全然OKと思うかもしれないが、少なくとも自分の夫や子は別と思うべきである。

 前にテレビ番組にマッチョ男がキャミソールを着たらどうかというのがあり、なかなか似合うと思う。
a0313715_19131314.jpg 今「男 キャミソール」でネットの検索をしたら、変なフリル付のいかにも婦人向けというかロリコン趣味という感じのしか画像がない。そのようなのではなく、GUのキャミソールのようなプレーンな趣のものならば特に紳士用の製品を作る必要もなく、ランニングシャツの代用ともなるのではないか。
 夏はどんなに脱いでも暑さは違わず、下着を着ることは寧ろ自他共に涼やかな心持になるために必須の嗜みである。やはりタックなしののスリムパンツやシャツの第一釦を嵌めて着ることなんかもそうであるが、今時の男子のはやりは全く間違っている。

 偶に耳にする話は男にも乳首があるのは何故かということ――

a0313715_19151509.jpg 科学においても謎とされ、諸説がある。その最も支持されている説は「形だけが残った」というもの。元は無性生物であった人が雄と雌に分化した際に、男の乳首は授乳などの用をなさないが女と同じ人としてそこに何もないと変なので形だけがあるのではないかという。いわばダミーである。
 弊ブログはその説を採らない。人の体には意味なく具わるものはないからである。
 もう少し説得力がある説は人の体はまず外見から形作られるために乳首も雄雌の違いなくできるというもの。そこに機能が付加されることにより一部の形にも違いが出て来る訳である。
 その説は何事もまずは体裁が大切であるという弊ブログの思想とも合うが、それもまた男の乳首は機能のないダミーであるという点は前の説と違わない。但し物事の順序の違いは大きい。

 そこで弊ブログによる新説。これはかなり信憑性が高い。

 乳首及び乳房の機能はそもそも雄雌を問わず、「心の眼」であること。
 眼なので眼と同じように左右一対が備わる。他には耳や鼻の孔、頬、手足や腎臓、睾丸がある。或る意味では耳も眼、鼻も眼、頬も眼、手足、腎臓や睾丸も眼である。腎臓が二つあるのは恐らく液体は流れて移動し易く、その際に少しでも重心を逸れると体の平衡を失う虞があり、尿の移動をなるべく防ぎ平衡を保ち易いように左右一対になっていると思う。それが一つであると先ずは腎臓の位置そのものが重心をずれると平衡しない。平衡を保つことは天秤が妥当性の象徴であることなんかにも分かるように、心の眼の働きである。

a0313715_19165941.jpg 乳首は目線を下ろすとそこに直ぐに見える位置にある。眼を眼で見ることはできず、耳や鼻の孔は陰になって見えない。
 前の記事に女の乳房が大きくなるのは思春期に入ると自らの先行きに不安を覚えるようになり、その不安感を目に見える形で埋めるために丸くて重みのある乳房が体の前方にできると語った。男は若し先行きの不安を覚えてもおしなべて不安を吹き飛ばせと教えられるので不安を埋めるべくするようなことは体の変化にも余り生じないのである。また女でも、美食などの贅沢は不安をかりそめにも吹き飛ばすので美食家や浪費家の女子は胸が大きくなりにくい。胸が大きくなるためには粗食が肝要である――一々説明するのも面倒くさいが、粗食とは必ずしも少食のことではなく、況してや貧食のことではない。――。
 不安とは「見えないこと」であり、不安を解くためにはよりよく見えるようになる必要がある。そのための心の眼が乳房であり乳首であるので、大きさの違いはあれども男にも同じく具わる必要がある訳である。

 もう一つの乳首の重要な働きは触媒作用である。
a0313715_19194116.jpg 触媒とはそれそのものが直接の作用を生ずるのではなく他の要素の作用を媒介して助けるもの。
 乳首が触媒するのはそれとシームレスにつながる皮膚である。
 皮膚は主に皮脂腺と汗腺による分泌をする。それが女は乳腺による分泌をする乳首とつながる。
 乳腺による分泌のあるなしを問わず、乳首は皮膚の分泌や温度の維持を助ける。
 乳首は人自らの気づかない程に微細繊細に外気の変化をアンテナとして計測している。その点は髭と似る。殊に私などのような猫の髭はとても外気や周囲の状況を鋭く計測または察知する。アンテナなので出張っている。
 そこで乳首が得た情報が皮膚に伝わり、皮膚の分泌を促したり抑えたりする。
 アンテナとしてだけではなく、そもそも物は単体では作用せず、他の物との反応や複合によってしか作用しない。革だけがあっても手触りと匂いしかなく、そこに金具を着けたりする必要があるのと同じく皮膚もまた皮膚だけではその働きをなさず、それが作用するためには乳首や臍、爪などの他の物の触媒が必要となる。

 男などの他者が乳首を触るとアンテナのチューニングが変わったり触った人の手及び体を自分の体の一部と無意識に誤認する危険があるので他者が乳首を不当に触ることは悪いことであり、アダルトビデオなどにしばしば見受けられる乳首を引っ張ったりの所謂乳首攻めや洗濯挟で挟むなどは論外の暴挙である。

 アンテナといって連想するのは監視社会――

a0313715_19222782.jpg 先の共謀罪法の立法においては権力が市民のSNSを監視したりする虞があるなどの批判が相次いでいる。ネットは光ファイバーケーブルを使うものでありアンテナを使うものではないが、ラジオやテレビの次に来るメディアとして同じく情報のアンテナという喩が似つかわしい。インターネットの前にも盗聴器などによる通信の傍受がアンテナとしてある。やる側もやられる側もアンテナである。更には商業においては今時はアンテナショップという業態もある。
 橋下徹氏も監視社会には絶対になる。そうなると云わない与党はおかしいと語るが、そんな監視社会にあってより重要になるのは肉体のアンテナ――肉体のアンテナが情報と精神のアンテナをもハイパフォーマンスにする。
 皮膚のアンテナである乳首は排気ガスの低減を実現しつつある自動車の排気触媒の次に来る触媒として俄然に重要なものとなろう。
 男の乳首が双眼のように次々と見えるにつけ、この国の人々は監視社会を欲しがっているかのように思えてならない。

 男子の乳首見せが問題となり始めたのは今の東京都知事である小池百合子氏が小泉政権においてクールビズを提唱して普及したことからであるという。先述のシャツの下には何も着ない人が増え出したのもその頃である。
 それから十余年、猶も問題であり続け、それでも世の懸念を嘲うかのように激増している乳首を見せる男子――
 その激増の一因はスマートフォンの普及によりパソコンによるインターネットの利用者が減少していることと考えられる。ネットの諸々のニュースサイトがそれを重ね重ね問題にして戒めても、自分で情報を制限して使うスマホをしか見ないおっさんやゆとり青年はそれらを目にすることがない。自主制限を設けずに自由に使う人は代金が気になって見れない。いつでもどこでも見られるスマートフォンには『男性の透け乳首についてどう思う?』というようなばつの悪い情報は馴染まないのである。故に与党ではないが、自分のしていることについての批判なんてあり得ないと思っている。日本は自由と民主主義という普遍的価値を重んずる国だ!――

 重ね重ね云うが、男が体を晒して見せるのは体の美しさを愉しむためではなく体を卑しいものとして捨て去るという意味合いを帯びることが現実には殆どである。幾ら男の体の美しさを語ってみても、その真意は「捨て去ることは美しい」ということである。同じく今はやりの『断捨離』なんかも同じことであり、女子にも同じような思想を持つ人は少なくない。そんなヘレニズム思想やその他の霊肉二元論の思想の世界への影響はとてつもなく大きくて根強い。乳首透けや半裸で街を往く――街ではなくてもそのような意味合いを以てする男は少なくない。――などは一言で言えば自殺の奨めである。歩きスマホより余程にたちの悪いことである。捨てたければさっさと捨ててほしい。
 例えば「一肌脱ぐ」はそのような思想からのものであり、極めて卑しい卑語であるといえる。
 故に共謀罪だけではなく国民の安心安全のために一肌脱がせましょうという安保法案も通る訳である。

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by keitan020211 | 2017-08-01 19:23 | 文明論 | Comments(0)
【ちょっと知りたいキリスト教 ユダヤ教・イスラム教合併SP】日本はイスラム国である。 その2 日本は本来は自由と民主主義を尊ぶ国である。
 直前の記事『【ちょっと知りたいキリスト教 ユダヤ教・イスラム教合併SP】日本はイスラム国である。』の続きです。

 ユダヤ-キリスト教は:抵抗しない者は殺してもよいという信仰
 イスラム教は:抵抗しない者を殺してはならないという信仰

 というと、イスラム的思想の強い日本にはかようなイスラム教が好ましいと思う向きが多いかと思われる。
 しかし裏返して言うと――

 ユダヤ-キリスト教は:少しでも抵抗があれば殺さない信仰
 イスラム教は:抵抗する者は殺すべしという信仰

 ――良し悪しはさておき、少なくとも自由と民主主義の観点から見ればユダヤ-キリスト教がより「良心的」ということになる。自由と民主主義を何よりも重んずるアメリカがイスラム教徒の排除を訴えるのはアメリカのイスラム教徒が民権を持つことによりそのようなイスラム的原理に基づく法や政策を勧めかねないという懸念から必然ともいえる。
 殊にアメリカのイスラム教はインドネシアなどの東南アジア諸国やイランのそれのようにそれぞれの国の自由や民主主義のために再構成されたイスラム教ではなく少数派のものとして剥き出しのアラブ直輸入のイスラム教なので懸念は深まる。
 尤も、それらのような再構成されたイスラム教を正しく保持するためには権力が幾らかは独裁的たらざるを得ず、日本人やアメリカ人が思うような自由と民主主義とはやや異なろう。そして東南アジアのイスラム圏のような一部独裁の自由と民主主義、即ち権威主義体制に基づく自由と民主主義はこれからの世界の標準となると思う。

 抵抗しない者を殺してはならない、抵抗する者は殺すべし――それが東南アジア諸国とは異質な日本の通奏低音である。東南アジア諸国は自国が自由と民主主義を導入している以上は抵抗しない者はいないとするので全ての国民は抵抗する可能性があり、つまり国は全ての国民を殺す可能性があると見定める。しかし中でも法に照らして悪質な者を殺すべしとする。日本はそのような発想をしない。抵抗を知る筈もない国民を殺すなんて考えられない以ての外と見定めながら、時に抵抗する者がいれば適宜に殺すという発想である。故にリベラルを名乗る人達が戦争や権力による弾圧を語る時に、「無抵抗の市民を殺した、許せない。」などというイスラム的言辞が出て来る。というか、日本赤軍はイスラム過激派との提携の集団なので必然にイスラム的になる。キリスト教圏の自由と民主主義の国においても市民を殺すことは望ましくないことは同じではあるが、そこに「無抵抗の」とか「無辜の」とかというような言葉は冠されることはあり得ない。キリスト教においては無抵抗の者こそを殺してもよいものとするからである。抵抗は神が命あるものに与えた賜物であり、抵抗しないとは自らを命ではないと見做すことであり、故に殺しても構わない訳である。そのような信仰からは当然に、「嫌よ嫌よも好きの内」などという思想は生まれ得ない。「嫌よ嫌よも好きの内」は本来は殺すべき抵抗者に猶予を与えるというイスラム教の発想から来るものである。抵抗していても回心してされる侭になれば赦すということである。
 抵抗しないとは女性的たるべしということであり、女性を守るべき清らかなものと見做す。鉄道の女性専用車が日本とアラブにしかないのはそれが理由であり、毎朝夕の通勤通学の風景にも日本のイスラム性が見える。場所を分け隔てることに由り女性による抵抗の余地を予めなくしておけばよいという訳である。「君の怒る顔なんて絶対に見たくない、そうだろう?」。

 イスラム教とは本質的にはそれ程に日本のおっさん的にキモヲタな宗教である。故におちおち寛容の精神をとか異文化の尊重をとかいう訳にはゆかない。
 故に、「日本は仏教国、日本らしさを大切にしよう。」などという人達は仏教の名を借りるのをやめて潔くイスラム教徒になるべきである。そうなれば日本はインドネシア並に魅力ある国になるかもしれない。
 イスラム教の成り立ち、殊にその正統派とされるスンニ派の成り立ちそのものがそもそも、ユダヤ教とキリスト教の駄目出しのような否定的動機からのもの。批判のための批判から生まれたものである。

 無抵抗といえばマハトマ ガンジー。
 日本にも支持者が少なくないチベット仏教の導師である。
 しかし、ガンジーは何となれば殺されても構わない、文句を云わない、それが彼の無抵抗の信仰である。
 ならばとばかりに殺しに掛かることを奨めるのではないが、日本の支持者達が無抵抗とはいいながら殺されることは罷りならない、殺されれば文句を云うのを見るにつけ、ガンジーを信ずることにはなってはいないのが閉口である。ガンジーとリベラルな価値観は相容れる筈がない訳であり、なのに彼等はガンジーを尊敬するリベラルを称する。ガンジーはそれそのものは超保守主義ではないが、超保守主義を容認するものである。また、同じく無抵抗を信仰するイスラム教の影響が強くある。
 キリスト教にも殉教の信仰はあるが、それは然るべき抵抗の末に殺されてもその血が抵抗の最も大きな証となるということであり、無抵抗ならば殉教ではない。
 殉教といえば今時に連想されるのはイスラム過激派の自爆テロであるが、彼等はそれを抵抗と位置づけてはいない。彼等のしようとしていることは西洋のキリスト教文明に対する抵抗ではなく「権力の側からの処刑」である。あれだけ情けない風采をしていても自分達は権力者なのであり、その銃や爆弾は戦争のそれではなく処刑のためのものである。その本質が次々と示されたのがイスラム国によるビデオ付の「処刑」である。自らを権力や体制の側に位置づけることを嫌う左翼ならばイスラム過激派のそのような権力主義や体制主義は絶対に受け入れられるものではなく、イスラム過激派の歴史や現状を少しでも擁護することはできないと思う筈であるが、何故か日本の左翼からは彼等に忖度するような言説が相次ぐ。日本の左翼はイスラム過激派と親しい日本赤軍の流れを汲むからである。彼等の殉教はどこまでも権力者の任務における殉死である。それがまた日本においてはしばしば受ける。

 但し人には抵抗することを知らないこともある。
 抵抗したい思いはあれども、如何に抵抗すればよいのかが分からない。
 そのような場合をも無抵抗でありイスラム的であるとする訳にはゆかない。

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by keitan020211 | 2017-07-30 21:14 | 文明論 | Comments(0)
【ちょっと知りたいキリスト教 ユダヤ教・イスラム教合併SP】日本はイスラム国である。
 昨日の宵にテレビ朝日が『池上彰のニュースそうだったのか』で中東イスラム圏の特集をした。
 イスラム国の潰滅の見通しが立って来たことやイスラエルの混乱が強まっていることを受けてのものである。
 池上彰はこれまでにも中東についての知識を紹介する特集を幾度か行っている。

 そこで中東とアラブは別物であること――中東とは地理的区別であり、アラブとはアラビア語圏のこと――やイスラム圏にも色々とあることなど意味のある知識も幾つかあったが、総じて酷い内容である。

 中東のイスラム圏には親日国が多いことを殊更に語り、その御礼としてか、イスラム文化を絶賛する。
 イスラム圏の多くは男女交際が信仰上禁じられるが、女子と接吻をもしたことがない男子を、取り分け日本に留学をして東京の文京区茗荷谷に住んでいたという男子を「偉いですねえ!」みたいに紹介する。
 池上彰の番組の他にも、日本に留学の経験のある親日なイスラム男子やイスラム女子を紹介した番組がこれまでに幾つかある。
 その親日姿勢が嘘とはいわない。但し日本の力だけではなく中東の産油国等に関わっているアメリカが「奴等とは仲良くしてやってくれ。」と彼等に云ったから好意を持っている面は否めまい。池上番組はそのような点は全く無視して日本が中東諸国との良い関係を自力で築き上げて来たかのように語る。

 折しも、アメリカのトランプ政権が当国のイスラム教徒の排除を訴えている中、反トランプを叫ぶ日本のマスメディアはそんなトランプ政権には耳を貸さずにイスラム圏を大切にしようというプロパガンダを行っているようである。

 しかし日本と日本人ががイスラム圏とイスラム人を大切にすることは、そう容易いものではない。
 日本とイスラム圏及びそれらの文化は歴史的に非常に根深い関わりがある。
 一言で言うと、「日本はイスラム国である。」。
 ――尤も、歴史を通して常にそうなのではなく、殊に明治以降の近代日本国家はイスラム国にとても近い性質がある。

 その謎を解く鍵は日本の仏教である。
 仏教は元々は同じ一つの宗教ではない。インドに興ったインド仏教の影響を受けたシナの諸々の地域宗教が更に変化して日本に伝わったのが日本の仏教の諸宗派である。つまり、日本仏教はインド仏教の原形を殆ど留めてはおらず、シナの地域宗教の数々がその原型である。そこまでは日本人にも夙に知られるものである。インド仏教の直輸入は名古屋の覚王山日泰寺など、極めて少ない。因みに日泰寺はトヨタの豊田家の菩提寺である。それからしてトヨタの日本における地位及び日本の自動車愛好家のトヨタについての評の独特さの理由が浮かび上がる。
 日本の仏教の一つ一つの宗派は真面な信仰を持って大切なものではあるけれど、それらを一つに捉えて「仏教」というと、とても胡散臭いものになる。
 仏教とは国家の保護の下にある宗教ということであり――即ち、今の日本においては神道もキリスト教も仏教である。――、一つの「日本の仏教」というとそれは日本国家の教えということになる。それぞれの宗派の信仰とは関係ない。
 故に自分は日本人です仏教徒です、日本は仏教国ですという人は宗派の信仰に帰依しているのではなく自分にとって都合の好い日本国家を作ろうと志しているということになる。
 そのような姿勢はイスラム国とくりそつ、否、そのものである。
 所謂日本仏教というものとイスラム国の共通点は 世俗主義的原理主義 にある。
 原理主義というと普通は非常に峻烈な反俗主義を旨とするものであるが、イスラム国と日本仏教における原理主義は世俗主義を含むことにおいて他の多くの原理主義とは異なる。世俗の繁栄に見放されているイスラム原理主義者が世俗の経済力や権力を一から得ようとすることにより成り立ったイスラム国――絶対的欲望による世俗主義的原理主義――とそれらがそれなりにあって尚より高い経済力や権力を得ようとする日本仏教――相対的欲望による世俗主義的原理主義――は機会の差があるにせよ、その本質は同じである。それらの世俗主義の契機となったものは中国を除く現在の国連の常任理事国をなす西洋の近代国家等による政治経済的介入であることも共通する。
 比叡山延暦寺の僧兵による反乱は彼等にとってのモデルとなるレジェンドである。延暦寺の僧兵は歴史的国教としての地位を確立していた比叡山天台宗の失地を回復するための過激派であり、オスマントルコを取り戻すことを目的とするイスラム過激派と似てはいるが延暦寺の僧兵は程なく――とはいえども三十年以上が経つが、――解散された。彼等は時の新しい権力に敗けたのではなく更に新しい江戸幕府の体制が出来るにつれ自ら妥協して矛を収めた。しかし矛を収めた処をまでは見ずに反乱を興した処をだけが切り取られて彼等のモデル及びレジェンドとされたのである。しばしば、レジェンドは自らの人気に当惑する。
 日本国家の原理もまた、世俗主義的原理主義を常とする。尤も、日本国家を永らく治めていた自由民主党は世俗主義ではあっても原理主義ではなかったが、近年は原理主義の傾向をも呈し出しているし、自らが原理主義ではなくても原理主義的勢力への忖度や譲歩を常としていたのは確かである。安倍政権及び安倍政治とは永らくは忖度と譲歩の対象となる周辺勢力でしかなかったものが一挙に主流派となって来て出来たものであるといえる。人間は、強い者には忖度も譲歩もしないものであり、それらをせざるを得ないような感じがするのは相手が弱い者であるからである。安倍政権は本質的には弱者政権である。弱者として、見放されていた繁栄と権力をあらゆる手立てを尽くして奪う。

 日本の仏教及び日本国家に及ぶイスラム的性質、しかし、イスラム圏と日本には歴史を通して直接のつながりはない。
 唯一つ考えられるのはペルシア、今のイランイスラム共和国をなす地域である。
 ペルシア-イランはイスラム教のシーア派圏である。シーア派は政治的にはもう一つの大教派のスンニ派よりも保守的で強硬路線を常とするがイスラムの信仰においてはよりリベラルである。それは昨日の池上番組にも紹介されている。池上番組が明らかに贔屓にしているのは政治的には穏健で信仰においては原理主義、戒律主義なスンニ派である。
 ペルシア-イランは言語が異なるので中東ではあってもアラブではない。ペルシアはイスラム教の出来る前から繁栄し、西のヨーロッパにも東のアジアにも影響を及ぼしていた。殊に日本にはアジアでは随一の強い影響を及ぼしていたと考えられ、私は出雲大社はペルシアの古代信仰の影響を受けて成り立ったものであるかと思う。出雲大社の他にも、西日本にはペルシアの影響が強く、博多の明太子なんかもペルシア流なのではないかと思う。対してイラクはいくらである。
 かようの古代にはまだイスラム教はない。しかし後にシーア派圏となるペルシアとその他のアラブ圏の中東を分ける或る種の空気のようなものがペルシアの日本への影響と共に「遺伝」し、ペルシアの影響を好ましく思わない他の日本人をスンニ派圏に多いイスラム原理主義者のような気質にしたのではないかと考えられる。ペルシア流はより知的な繁栄の象徴であり、それとは縁のない「私達庶民」は下剋上的気質、即ち世俗主義的原理主義を身に着けることになった。私が明太子を好きではありながら余り食べないのはそんな日本人に目を着けられないためかと考えられる。それと、値段が高いからでもある。
 シーア派は元々アラブ-イスラム教ではなかったペルシア-イランの現地現物に見合うように組み直されたイスラム教であるといえる。それがイスラム共和国と称するのは根深くも面白い。

 古谷経衡氏の『リア充と意識高い系』に擬えると、イスラム教は本家のスンニ派が意識高い系で彼等から見れば贋物のシーア派がリア充なのである。それは日本においてしばしば見受けられる「本家」や「本物」、「プロ精神」などとよく似ている。日本はしばしば意識高い系を本物、主流派と見做す。スタバの味は本物の味で、そこで本物のPCであるマックを使うのがプロ精神の象徴となる訳である――マックが本物というのは私もその通りと思いはするが、――。
 尤も、リア充だけではオスマントルコのような大帝国は出来得ず、意識高い系などの本物の贋物や或る種のならず者を包含するから大帝国が出来るのではある。それだけの統治の巧さがあるからである。イランは統治の巧さがないからそれを補うべく宗教国家にせざるを得ない。

 ――この記事は【ちょっと知りたいキリスト教 ユダヤ教・イスラム教合併SP】、なのにイスラム教と日本仏教の話ばかりになってしまっている。それ程に池上彰はジハーディー池上と呼ぶべき問題の存在であるということでもある。

 その池上番組にも紹介されている、イスラム圏における豚肉の厳禁の風習、というか信仰――
 それが確立している風習であり信仰である以上はそれを尊重しなくてはならないことは論を俟たない。
 日本の食品メーカー味の素はイスラム圏のインドネシアにおいて豚肉の成分の含まれる製品を売って当地における販売の禁止と非難を受けたことがある。味の素のそのような傍若無人夜郎自大の性質はその問題が解決された今も変わってはいない。味の素は人の嫌がることをしたがる企業であり、その顧客もまたそのような味の素の性質に共感する人々から成る。「ほーら、毛虫毛虫!」みたいな――否、もっと酷いか。――。

 ここでは豚肉にまつわるユダヤ教、キリスト教とイスラム教――:古い順――の違いを見てゆく。

 大雑把にいうと:
 ユダヤ教: 豚肉は原則禁止 しかし血を搾り取れば食べてもよい
 キリスト教: 何を食べるか食べないかは自己責任によること 豚肉も禁止ではない
 イスラム教: 豚肉は例外なく禁止

 それを見ると、イスラム教は厳しくてキリスト教は緩いというかもしれないがそうではない。
 何故そうなのか、それぞれ何に厳しいのかを考える必要がある。

 そこに浮かび上がるのはユダヤ教の回りくどさ。
 優柔不断の末に妥協策を編み出したかのようにも見えるが、実はその通り。
 ユダヤ教は根から優柔不断な性質のある宗教である。
 そもそもが妥協策なのに、それを厳に守るべき本質なものと見做すエホバの証人、ものみの塔聖書冊子協会はその意味ではユダヤ教的ではない。
 イスラエルを中心とするユダヤ教圏は元々は菜食主義であり獣の肉を食べることには明確な禁忌ではないが戸惑いがあった故に、獣の肉をどうすれば食べてもよいかを考える必要があった。羊は祭で焼き尽くして食べる。豚肉は血を搾り取って食べる――それらは命を犠牲にすることを目に見える形で明らかにし、その罪の贖いへの感謝の内に食べることを旨とするものである。野菜も命であり同じではあるけれど、野菜は獣よりも嵩が軽く捧げ易いのでそのような問題にはならなかった訳である。
 キリスト教はそのようなユダヤ教圏だけではなく全世界を志向するために、あらゆる慣習に対応し延いては馴染み得るような原理をなす必要があった。獣の肉を食べる人をも食べない人をも包含するためには何を食べるか食べないかはそれぞれの自己責任に委ねるべしとなる。ここに言う自己責任とは今時に聞かれるような自己責任、即ち個人の責任だけのことではなく個人の責任をも集団の責任をも、延いては国の責任をも含む歴史的に重要な概念である。自己責任というのはさようにキリスト教圏においては伝統的に重要な概念である。
 イスラム教が豚肉を全面禁止とするのは何故か?それも、何故豚だけであり他の肉はよいのか?
 先ずは先のユダヤ教における豚の指名が根底にある。ユダヤ教もまた、豚だけを他とは違う特別なものと見做す。イスラム教はユダヤ教が例外付の禁止としたものをより厳しく例外のない禁止とした。
 一つは優柔不断ではいけないと思うから。信仰が優柔不断ならばそれを信ずる人々とその社会が皆優柔不断になりかねない。安倍晋三の口上の如く「ハッキリものを言う」ことを殊更に尊ぶ日本とも相通じる。
 もう一つは中東においては豚は特別なものと見做されていること。
 中東情勢に詳しい落合信彦もその著書にしばしば、メンタリティーの低い人を「ブタ」と呼ぶ。
 豚は抵抗しない、少なくとも人間がそのように認識することができるようには。メンタリティーの高さとは抵抗することができることである。
 イスラム人は抵抗しない者を殺してはならないと思う。コーランには理由なく殺してはならないとの教えがあるが、その「理由なく」とは「抵抗しないのに」ということであり、抵抗すれば殺してもよいということ。つまり、イスラムの発想は落合信彦とは真逆様である。要は、イスラム人にとっては豚は「女性のように清らか」な存在なる故にそれを殺して食べてはならないのである。同じ特別でも、ユダヤ教が豚を指名して特例を設けるのは豚を抵抗することもない程に不浄な存在と見るからであり、血を取り除くのはそれを浄める意味がある。しかしどんなに不浄で馬鹿でも命は命とし、それを捧げなくてはならない。
 その点もまた、ユダヤ教圏とイスラム教圏の決定的対立の要因である。ユダヤは「豚はブタ。ブタは死ななければ治らない。」といい、イスラムは「ブタで何が悪い!豚を馬鹿にするな。」という。
 無抵抗を清らかで美しいと見る発想は日本にも顕著なもの。その点でも仏教国こと日本はイスラム国であるといえる。
 ユダヤ-イスラエルは「抵抗しなければ殺せ。」という発想である。抵抗は神が命あるものに与えた尊いものであり、それがないことは自らを命ある者とは認めないということなのでモーセの十戒にある「殺してはならない。」の対象にはそもそもならない。植物野菜を食べるのも植物の多くは抵抗しないからである。ユダヤ教を前身とするキリスト教も本流においてはユダヤ教のそのような「抵抗は命;無抵抗は命にあらず」という生命観を受け継ぐが、その本流思想を支持するもしないも自己責任であるとし、異論も多く、異論が即ち排除される訳ではない。
 「ブタで何が悪い!豚を馬鹿にするな。」というイスラム人も、それを抵抗と見ることもできなくはないからキリスト教圏にはイスラム圏贔屓な反トランプの人々もいるが、何れにせよ無抵抗を命とは認めないことにおいては同じキリスト教の発想である。

 とはいえ、命だけに焦点を絞ると血腥い話になるが、命のないものを破壊するのは全然OKという教えはどの宗教にもない。

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by keitan020211 | 2017-07-30 18:36 | 文明論 | Comments(0)
青山学院女子短期大学が閉学へ 短大の存在意義を見直すべし
 青山学院女子短期大学――:東京都渋谷区――が2018年度の新入学生の募集を最後に閉学となる。


 18歳人口が減っており、また女性の4年制大学志向が強まり、志願者が減少傾向にあるためとされる。

 青山学院は東京築地に1878年にアメリカのメソジスト教会のジュリアス ソーパー宣教師により創立された耕教学舎、東京麻布に1874年にアメリカのメソジスト教会のドーラ E. スクーンメーカー宣教師により創立された女子小学校と横浜山手に1879年にアメリカのメソジスト教会のロバート サミュエル マクレーにより創立された美會神学校を前身として1894年に設立された。当学はその創立をそれらの最も古いスクーンメーカーの女子小学校の創立と見做すので今年は143周年となるが、青山学院の名で数えると1994年が100周年で今年は将棋の加藤一二三九段の名を想わせる123周年となる。
 特にそれらの三つのどれが正統で他が傍流というような位置づけはないが、最も古い女子小学校が何となく青山学院のアイデンティティーの祖と見做されており、直接の関係は分からないが、1950年に設立された女子短期大学も何となくその流れを汲むものと認識されているらしい。

 東京及びその近郊の学校には学生生徒児童の住む地域による柄の違いと言うものがあるというが、青山学院もまた東京西部の人はスクーンメーカー系を、東京東部の人はソーパー系を、横浜方面の人はマクレー系を何となく尊敬(リスペクト)するようである。東京東部と横浜方面には元女子校という見方は余りなく、大学の進学なんかも若干の例外はあるが、4年制の青山学院大学を志願する傾向が強い。
 よって青山学院女子短期大学の閉学の理由は少なくとも青山学院生やそれを志願する人々にとっては、港区を中心として青山学院のある渋谷区や世田谷区に及ぶ、東京西部の価値観が衰退していることにあるともいえそうである。因みに女子小学校の祖スクーンメーカーの名を記念する女子寮は東京都世田谷区祖師谷にある。祖師谷といえばNHKの技術研究所やフジテレビ、関西テレビやTBSなどのスタジオの集まる東京メディアシティのある所でもあり、東京西部の価値観の衰退とはこの国の言論や風俗を作り出しているマスコミの信用の喪失を反映するものでもありそうである。
 寄合所帯といえば聞こえは悪いが、同じ学校にも様々の流派があり、どの学校はどんな気風とは一概にはいえない。

 青山学院の女子短大がなくなることは既に決まったことなので構わない。
 女子大生マニアなどの所謂男目線からいうと、他の数多の女子短大がなくなっても構わないけれど「青短」だけはなくなってほしくない、惜しまれるというのが相場なのではないか。
 先のリンク記事の筆者ヒロ氏は青山女子短大の学生食堂に「時々忍び込んでいました。」と語る。
 私もそこには幾度か訪れて昼飯をしたことがあるが、彼の言う「女子学生が好きそうなピラフやドリアなどが器も女子好みのかわいい系で取り揃えていた」というような憶えはない。かの4年制の大学の学生食堂と比べるとこじんまりとしていて献立の数も少なく、器も普通に地味な感じであるが、味は4年制のよりも確かであったのを憶えている。

 この記事に問うのは女子短期大学一般についてである。

 この処に政治において与野党が課題として掲げている高等教育の無償化――
 それとのリンクにおいて女子短期大学の存在意義と可能性について考える。

 単純に見積もっては、大学などの高等教育が無償になればただで享受する余地が増す訳であり、そうなると2年間の女子短期大学より4年間の大学に入りたいと思う人は今までよりも増すことが予想される。「ただで2年」と「ただで4年」を比べれば後者となろう。
 そこで得をする余地が小さくても女子短大に入りたいと思うには余程にその存在意義と可能性が確かである、即ちコスパが高くなければならない。
 今までの女子短大を支えていたのもコスパの高さである。より少ない費用と時間の負担で相応に高い社会的利益を享受する可能性が開けていると、昔は広く認識されていた。社会的利益とは職業の安定とその賃金若しくは地位である。また、それらを具える女子とつき合いたい或いは娶りたいと思う男子は女子がその経済力や地位を相対的にでも高めることを否定的に見ない、否、肯定する人であり、いわばリベラルな価値観が女子短大を支えていたといえる。
 しばしば勘違いする向きが多いが、男女平等を軸とするリベラルな価値観は4年制大学も何程かには担っていたけれども、主に担っていたのは女子短大であり、女子短大は女向けの学問や素養をしか扱わない保守的教育であるというのは女子短大の歴史と現実からみれば誤りである。寧ろ、4年制大学の内にこそ同じ土地と教育制度の枠組みの中で男女の異なる世界が形成されて男女平等とは程遠くなることが少なくないのである。

 市場規模と国内需要の縮小、それによる経済力の減少が不可避とされる今後の時代に、時間はともかく、費用の負担のより少ない女子短大はより重要性を増す筈である。
 時間に関しては、大学がただで行けるようになれば年数が多い程によいという先述の発想も手伝い、4年制大学への、延いては大学院への志向は既に生じているようにより強まるであろう。

 そもそも、若い人における時間の経ち方は遅い。
 齢を重ねると経つ時間が信じ難い程に早くなるとはしばしばいわれる。私がブログやツイッターをPCに向かって書いていても如実にそう思う。20歳辺りにとっての2年はかなり長い。2020年のオリンピックの選考会からは4年となる。恐らく若い人はそれを一時代前という程のかなり昔のことと思っていよう。
 女子短大の2年は決して腰掛だけの短縮コースではない。

 そしてくれぐれも云っておきたいのは、『人づくり』は自己責任におけるものであること。
 女子短大などの学校の教育は各々の自己責任を支えるものに過ぎない。
 国が『人づくり』をするべきではない、促すべきではない、それが女子短大を立てた学校の多くの伝統的認識である。
 あくまでも、国とは金を出す機械である。教育者とはその機械を操作する労働者である。

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by keitan020211 | 2017-07-25 18:37 | 文明論 | Comments(0)
花王ハミングファインの「オトコ臭」のCMとベートーベン交響曲第5番に見る日本の「伝統」
 日本の奇習の一つに、年末にはベートーベンの交響曲第9番を聴くというのがある。
 それは日本の公共放送を自称するNHK、日本放送協会とその系列の音楽団であるNHK交響楽団が年来に強く推して出来た慣行であるが、近年は下火となっているようである――NHKを全く観ないので本当の処は分からないが、――。それについては1990年頃に主に出版界の一部が年末の第9を奇妙な慣行と批判する見方を示し、それがいつしか「確かにそういわれてみればそうだ。」と衆目の得心を得て下火になったのではないかと考えられる。
 第9と並びベートーベンの交響曲として日本においては名高いのが交響曲第5番である。
 番号で呼ばれても分からないというのはもぐりであり、本当は9とか5とかと言うだけで分からなくては音楽を愛するとはいえないと思うが敢えてそれらの通りの良い別名を示すと第9は『喜びの歌』であり第5は『運命』である。それらの別名もまた’90年代の頃からしばしば日本の奇習と諸々のメディアに指摘されている。ベートーベンの本場ドイツにもその他の日本以外の世界にもそんな呼び名はない。
a0313715_23441337.jpg 第9が『喜びの歌』というのは聴いた感じ、頌歌がほとぼり出るような感じが何となく分からなくもないが第5が『運命』というのは皆目も分からない。一体、第5のどこをどう聴けば『運命』という主題が浮かび上がるのか?
 私は小学生の頃に父の持っていた第5のレコードを聴いてみたことがあるがその率直な感想は「勇ましい」、「新天地を望み、力の湧き出るような」、そして語彙と感性に乏しい小学生の常套句で言えば「格好いい」という感じであり、どこも『運命』ではない。強いて理屈を付けるなら、運命を感じている人に聴かせれば運命を解放されるということになろう。何れにしても第5の趣は「反運命」であるといえる。
 日本人がそれを何故『運命』と誤解するのかを分析してみると、曲に多く見られる速度と音量の変化が或る種の日本人には情緒不安定を想わせ、運命とは不安定な情緒に支配されることであるからその曲を『運命』と呼ぶことになったということ。しかしベートーベンだけではなく、そのような速度や音量の変化は多少なりとも聴く人々の大切な時間を借りるものである音楽には当然に用いられる演出の手法であり、情緒不安定とか何の関係もない、豊かさと気合の発露である。
a0313715_23460532.jpg それは日本のテレビ番組等においてBGMとして使われることの多い楽曲を見れば何となく明らかであり、例えば同じANN報道ステーションの主題歌でも、2016年3月までの古舘伊知郎キャスターの頃のピアノの楽曲は速度や音量が凡そ一定で馬鹿みたいな感じで他局の番組等にもしばしば使われるのと比べ、2016年4月から現在のジャズフォーンの楽曲は速度や音量が目まぐるしい程に変化し、粗全く報道ステーションの他には使われない。前者は日本受けし易い音楽であり後者は日本受けしにくい普遍的音楽といえそうである。それでいて放送の内容は前者は日本受けしにくいものであり後者は日本受けするのが色々な都合である。
 もう一つの原因は日本に広く知られるドイツの巨匠はベートーベンの他にニーチェがおり、彼はベートーベンとは逆に『運命愛』を説き、そのニーチェのイメージがベートーベンにも勝手に敷衍されたことである。一概にドイツといえども色々といる。尤も、昨今は「癌で死ぬことは運命ではない。」という見方が強まって来ており、医療を取り掛かりとして明治時代から広まった日本人のドイツ観も日本人自らの基本思想も何となく変わって来てはいる。

 その『運命』こと交響曲第5番が使われている最近のテレビCMに家庭用化学製品のメーカー花王の消臭効果洗剤ハミングファインのものがある。
 花王といえば誤った学芸文化観を日本人に植えつけているNHKと並び、誤った科学観や消費文化観を植えつけている大手企業である。
 花王の基本的考え方(ベーシックコンセプト)は「汚くて不快なものはとにかく洗い落とすべし」というもの。
 洗い落とすためならば手段を選ばず、人の健康や精神を害しても構わない。
 それでいて花王製品を使えば何でも落とせてきれいになるという訳でもない。
 丁度、日本の特徴とされる所謂「禊」の発想に近い。禊とは身を削ぐということであり、花王製品を使うと本当に肌身が削がれて殺がれる。
a0313715_23482074.jpg 科学が人間社会の諸々の問題を悉く解決するべし、消費者は科学を信頼するべしという誤った科学観の産物が花王である。
 本当に効いて体への副作用も最小限な製品は得てして匂いが余り香しくなかったりするが、花王の製品は多くの場合はその効果を香料で錯覚させており、誤った科学なだけではなく似非科学でさえある。単に好い匂いにするだけではなく如何にも効きそうで且つ香しい匂いがミソであり、その典型はふけと痒みに効くと謳う洗髪剤のメリットである。ライオンのフルーツシャワーシャンプーなどのように単に良い匂いなだけでは素人ぽく見られるので巧妙に程よく婆臭くて分かりにくい匂いを作り出す訳である。その点は若々しくて分かり易い楽曲を嫌う、即ちプロ気取りと職人気取りを尊ぶ日本の音楽とも相通じるものがある。
 尤も、汚肌は一日にして成らず。花王製品も一度や二度使うだけで肌が汚くなる訳ではないので美肌美人として名高い石原さとみを化粧品部門のテレビCMに出すことも可能な訳であるが、さすがに嘘はつき通せないので久本雅美を出すことになる。久本による花王のCMはいわば等身大の花王であり、花王による汚さを洗い落とせるものは花王を選ばない適切な選択だけである。

 ハミングファインのCMは開口一番、けたたましい第5の旋律に乗せて「オトコ臭!オトコ臭!」と歌うもの。
 先ずは視聴者消費者が馬鹿にされているのであり、誰がそれを観てそんな宣伝元の企業の商品を買いたいと思うものか?
 案の定といいたい処ではあるが、この狂っている世の中にしては意外にもそれについての視聴者の非難が相次いだという。花王の横暴さに、誰も批判しない、批判すれば抹殺されるのが世の常と思っていた。故に非難が巻き起こったことに率直に感動する。
・オトコ臭ねぇすげぇ男性差別なCMだな
・「オトコ臭」だの「男脂臭」だのと男性差別が酷いw
・オトコ臭のCM、これ立場が女性なら炎上するよね??
・オトコ臭や男脂臭やらのCMってなんかさ、、、。
・オトコ臭ってなんか失礼では?
・オトコ臭やば
・ハミングのオトコ臭のCMなんか好き(笑)
・これは男性への差別に当たるんでないか?
・オトコ臭とかいうCMメッチャ不快なんだけど。
・花王の「オトコ臭」のCMは男女差別ではないのか?自称人権団体様は仕事しろ
・女性の皆さんはこういうのはOKなんですかね...
・オトコ臭とか言ってるけど、もし逆にオンナ臭って言ったら大問題になるんだろうな。オトコだと臭いことにしてもいいという風潮。
・洗剤のCM、男子臭だとかオトコ臭だとか早朝からあんまりではないか
 ネットに挙がったいう批判の一例。
 多くは男性差別を主題とする。
 結論から言うと、所謂オトコ臭を含む体の悪臭の原因は花王製品のような物の継続的使用にある。
 花王は自ら原因を作り出しておきながらそれを救うと謳い、自作自演というか、そんなものを使っておれば悪臭の悪循環になる。尤も、使った時に直ぐに悪臭が出るのではなく暫くは消臭や芳香の効果があるがそれが程なく失せて悪臭が増し、地が臭い人の出来上がりとなる。悪循環とはいたちごっこであり、消しても消しても匂う己の身の臭いを度々消すべく花王製品の継続使用が促がされる訳である。その典型的人物は舛添要一前東京都知事であり、如何にもオトコ臭対策を怠らずにしていそうであるがテレビの画面には彼の悪臭が漂う。そんなことを怠らずにする程ならば自分の所の金の管理を怠らずにしてほしい。

 但し、男は女よりも体の悪臭が着き易いことは確かではある。
 しかし「着き易い」であり「出易い」ではない。
 体の悪臭の原因は空気に漂う埃や排気ガスなどが人の肌に着くことにあり、即ち主に外的要因である。
a0313715_23505984.jpg しかし人の体には慣れというものがあり、埃や排気ガスが着いても匂わなくなるような抵抗作用がある。花王製品を使うとその抵抗作用が働かなくなって悪臭の着き易い体質に変わってしまう。
 男性、殊に男社会を脱却していないとされる日本の男性は女性と比べ外に出て働く人が多く、それだけより多く悪臭の素に晒されている。都会は臭い人の率が田舎より高い。専業主婦はどんなに頑張っても、家の中には少々の埃は溜まっても排気ガスもなければ訳の分からない人の吐く息もないのでそれだけ悪臭が着きにくい。体質として匂いの生ずることにはこれという男女の違いはなく、悪臭は自生しないものである。取り分け悪臭の目立つ人、殊に男性におけるそれは抵抗作用を自ら失わせている故に臭う体に変わっているが、重ね重ね、その原因を作っているのは花王とその支持者である。よって女性も花王を支持するならば男性の程ではないにせよ臭い女になる。臭くないのは洗ったばかりの一時だけであるが、普通の人は体が臭うことはない。
a0313715_23524007.png 何れにせよ、男社会なら男性の体が女性の体よりも臭い易くなることは必然であり、個人の体質ではなく社会構造の問題であるといえる。そのような社会構造を事実上はその侭にしておきながら「オトコ臭!」などと揶揄して宣伝するのは話にならない不見識といわざるを得ない。自分達の作り上げている社会を自分達が馬鹿にしている訳である――それもまた日本には時に顕著なことの一つである。――。また、男社会ではなくなれば女性も臭い易さにより晒される訳であり、女性の活躍を煽っておれば臭いのない人間社会になるというような甘いものでもないが、男女平等がより実現されてさえ、体の悪臭を防ぐ一番の策は財政状態の改善と同じように、「臭うことなんて滅多にない、大丈夫。」と思うことである。詰り、支持者が与野党に少なくない財政再建は国民の体を臭くする愚策ともいえる。

 そして悪臭の素は外気だけではなく、今の時代は屋内にもあることに注意が要る。
 その主なものは冷暖房機、エアコンのフィルターの埃やかびなどの汚れが送風と共に室内に出ること。
 詰り、屋外の労働だけではなく冷暖房の効いている屋内の労働においても悪臭の素には晒されかねない。
 私も家で冷房を点けずにいて汗をどっぷりとかいている時には何の臭いもないのに冷房を数時間も点けていると所謂汗臭さがにじむように出て来ることがある。私はけちなのでエアフィルターを偶に水洗いするだけで定期的に付け替えないことが原因であると思われる。送風を受けることにより体が乾くと体の磁力の変化、即ち静電気が生じて悪臭の素を吸い寄せ易くなる。

 要は人工的現象が悪臭の原因であり、それを必要とする近代社会においては多少の体の悪臭は運命といわざるを得ないといえばその通りかもしれない。しかし子供をも動員して歌い捲って揶揄する花王のCMはニーチェが愛すべしと語った運命なるものを愛することとは明らかに違う。私は運命を信じないが、ベートーベンの交響曲第5番を『運命』と呼び、況してやそれを花王のCMなどのように悪用することは運命を信ずる人々にも失礼なことであると思う。

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by keitan020211 | 2017-07-22 23:59 | 文明論 | Comments(0)
或るプリミティブな大衆迎合――古谷経衡のツイートと北条かやのブログ それとトランプ政権半年
 弘法にも筆の誤り。
 私の尊敬する'80年代生まれの文筆家である古谷経衡氏のツイッターにこんなツイートがある。


 猿はお坊さんにはなれない。
 私の軽蔑する'80年代生まれの文筆家である北条かや氏のブログにこんな記事がある。


 さて、トランプ政権が発足から半年になる。
 発足の初めから支持率が50%ない政権はなかなか例がなく、それが更に30%台へ下がっている。しかしその三割が岩盤の如く堅い支持層であり、その水準を下ることは多分ないであろうと日本の報道は予想している。それだけ下がっている理由は見るべき政治成果がまだないのが主なことである。
 そのトランプ氏が大統領選挙で勝った時、そして就任した時、日本の大新聞等は社説などに「大衆迎合」或いは「ポピュリズム」と批判した。
 「大衆迎合」は或る面では正しい指摘ではあるが、「ポピュリズム」は言葉の意味が誤りである。ポピュリズム、民衆主義とは民衆の盛り上がりに基づく政治の新しい波をいう概念であり、大衆迎合や人気取りの政治というようなことではない。民衆が自ら盛り上げるので為政者はそもそも人気を取る必要もなく、その波を受ければよいだけの話である。
 トランプ氏の登場はアメリカの民衆が自ら盛り上げた政治のうねりではない。彼の政権の政策顧問であるヘリテージ財団など、トランプ側により企画されたものであり、それが偶々有権者民衆に受け入れられての選挙戦の盛り上がりである。民衆はそこでは明らかに受け身であり、受け身でしか望みを懸けることができない状況の最大の理解者としてトランプ氏は大統領選挙に出て勝った訳である。そのためには相応の人気取りや大衆への迎合は必然に必要となるが、ポピュリズムではない。
 彼のようにそれが必要且つ可能であると認識しての大衆迎合ならば悪くはない。安倍政権で話題の忖度にも似、良い迎合と悪い迎合があることは彼を批判する報道メディアが最も能く分かっている筈である。

 しかし、自らの言葉や振舞いが、大衆迎合であるとの認識のないそれであったら、どうか?
 自分は普通に常識を語っている、自分は人のためを思って語っている――そのような自意識からの大衆迎合というものがしばしば見受けられる。厳密にいえば、人はそのような錯誤を全く免れることはできないのかもしれない。政治の世界におけるその分かり易い例はトランプ氏と戦ったヒラリー クリントン氏とその陣営及び支持層である。
 そのような錯誤を犯す一因には人間の独自性、オリジナリティーの限界というものがある。人は独立の存在として個性を持つべしとされるが、一億人には一億通りの個性があるかといえばそうでもなさそうなのが常である。故に、人は時に受け売りの考えを受け売りとは思わずに独自のものであるかのように語り若しくは行おうとする。受け売りの考えの基となる「考えの素」はメディアや口コミを通して数限りなく用意されている。
 'America First'もまた受け売りを構成し得ないとはいえない「考えの素」ではあるが、「移民の国アメリカ」よりは明白に独自性が強いと認識されているから、トランプ氏が勝った訳である。

 そして古谷と北条である。

 古谷は独自性の限界に嵌まっているのではないかと思われる。
 彼のようなリベラルナショナリズムの論士は少なくとも今までの日本にはなかった新しい型である。然もそのような型が確立されていると広く認識されてはいないので自らの型に嵌まって退屈になってゆくことにもまだなってはいない。
 「今まで」とは概ね1960年代の高度経済成長期以後である。それまではリベラルナショナリズムと呼ばれてはいないが、それに当て嵌まりそうな政治思想やその支持層が在った。その担い手たる政治家は鳩山一郎総理や三木武吉などであるが、高度成長以降の軽武装経済主義の路線の確立と共に下火となり、彼等自らもそれに合わせてその思想を適当に曲げてゆくこととなった。因みに私、弊ブログはそれらリベラルナショナリズムと軽武装経済主義を秤に掛けるような思想なので、その何れにとっても私は自分達の考えを曲げさせようとしてくる者と見えよう。政界ではそんな私に最も近い思想を持つのはやはり小沢一郎であろう。そのためには時には迎合し時には固辞する。

 大衆迎合の内の最もポピュラーなものは『庶民の気持ち』というテーゼである。
 今風に言い換えれば、『格差社会における相対的貧困層の増加』である。相対的貧困層とは大雑把に言うと所得水準や資産水準の平均を下回る人々のことである。飽くまでも相対であり、絶対的貧困層と比べれば富裕な層である。所得や資産の水準が平均未満なら、必然に社会的パフォーマンスも相対的に乏しくなる。
 社会的パフォーマンスとは良い服を着るとか、良い物を食べるとか、良い家に住むとか、更には愉しくて洗練された催しに加わったり若しくは自ら開くなどのこと、即ち消費と社交の在り方である。古谷氏はそれらを『リア充と意識高い系』という切り口で最近にその著書に論じて話題となりまた支持を受けている。私もその支持者の一人である。
 但し彼の唯一つの誤りは今はやりのハロウィン、イースター、プレ金やナイトプールなどを「意識高い系」に仕分けしていることである。
 ハロウィンとはケルト民族の新嘗祭が起源で今はアメリカに一般の秋祭り。
 イースターとはナザレのイエスの復活を記念するキリスト教の祭。
 プレ金とは日本の経済産業省の企画による、消費の喚起のために金曜日の時短労働を奨める啓発。
 ナイトプールとは夜行のプール。
 ――それらの何処にも意識高い系的要素は見当たらない。偶さか意識高い系がその一人として加わることはあるかもしれないが、彼等が音頭を取って盛り上げるようなものではない。
 彼はそれらを「気がつけば世の中、社交的でコミュ力豊富な、異性とうまく立ち回ることのできる連中だけに都合の良い体制が確立されている。上等じゃねえか。」と評するが、今の世の中の実態は全く逆に、義務的人間関係をしか結ぶことができず、コミュ力はその限りでのもので、異性を根本的に嫌う連中だけに都合の好い体制になっている。言いにくいことではあるが、その象徴は安倍政権を構成する安倍総理とその「お友達」である。安倍政権という義務の中でしか通じない言葉を操り、男女の世界をどこまでも分け隔てようとする。故にどんなに安倍総理のお友達とはいえど稲田朋美は共に歩める者がおらずに空回りすることになり、更には彼の妻安倍昭恵さえ片輪でトランプに蔑まれる。
 反安倍の側もまた、反安倍という内輪の義務のようなものにおいてしか人間関係やコミュニケーション、異性とのつながりを築くことができないので五十歩五十一歩である。
 慧眼の士古谷経衡も、自らの知らないことには「意識高い系」のレッテルを勝手に貼りつけてしまう。
 彼の他にも見られるそれらの華やかな暮らし振りについての批判は義務的人間関係をしか結ぶことができず、コミュ力はその限りでのもので、異性を根本的に嫌う連中だけに都合の好い体制を補強し護持しようとする体制人の口車に乗せられているか或いは自らがそのような体制人である。口車に乗せられて喋っている、允に残念なその一例は彼もまた私の尊敬して已まないマツコ デラックスである。
 「日本は世界で最も成功した社会主義国」とは正にその通りで、その原理は華やかな暮らしやそれ程とはいえないにしても暮らしと生涯の愉しみを自ら作り出してゆく才、即ち自由を蔑むルサンチマンの心性である。安倍政権もまたそのような社会主義政権である。そのような華やかさに対する逆上の見せびらかしとしてしか自国の伝統慣習を語ることができないのが彼等である。故に、オバマがお辞儀をしたり鮨屋の暖簾をくぐったりすると身障者の如く歓ぶ。

 そこでつくづく実感した。「地方には東京よりも、高級車が少ない」のである。走っているのは軽自動車や小型車ばかりで、都心で見かけるような高級車はめったにない。少し奇妙に聞こえるかもしれないが、私はその光景に、とても癒されたのだ。


 「そこで」ではなく、元々知っている筈なのに何やら「つくづく実感」と語るのはその言辞そのものが何等かの見えない見せびらかしの念から来るからである。その一つは「自分には何とならばいつでも帰れる故郷があるぞ。」ということであろう。しかし本当は「帰れる」ではなく帰らざるを得ない不祥事なのではないか。
 その見えない見せびらかしを補強するように、東京を往く車と田舎を往く車を比べる。そこでは東京の車は否定的表象であり、田舎の車は肯定的表象となる。
 そもそも見せびらかしに加わりたいから東京へ来た筈なのに、この期に及び、「東京の車=見せびらかし=人を傷つけるもの」という印象操作をする。「「傷つける」なんて言ってないではありませんか。」と言うかもしれないが、題名が「東京の「クルマ見せびらかし地獄」はしんどいぞ」で本文の冒頭に「都心で見かけるような高級車はめったにない。少し奇妙に聞こえるかもしれないが、私はその光景に、とても癒されたのだ。」と言い、要は「傷ついた。」ということである。「少しかもしれない」ではなく、まんま奇妙でしかない。
 そのような口上の在り方は「どいつもこいつも…」などと同じく、被害妄想を人に植えつけることを目的とするものである。そのように言う自らが被害妄想を持つ場合もあるし全く持たずに只人を陥れることだけを考えてのものな場合もある。北条氏はどちらかといえば、仮病の常習者なので後者そのものであるか後者に近いかであろう。
 被害妄想を人に植えつけることは政治性が伴う場合も多い。その政治性とは先述の、日本を世界一の社会主義国家にする永年来の営みである。被害妄想が社会主義的政策への志向を強め、そしてその成就の暁には不当な恩義をおしつける訳である。だから、「日本人に生まれてよかった。」となる。
 どうも北条かやは初めからそのような「日本は世界で最も成功した社会主義国」と「日本人に生まれてよかった。」の宣伝(プロパガンダ)の士としてデビューした者なようである。弊ブログの予てより批判する『安倍政治と反安倍の融合』、俗に言う『保守とリベラル』の一体化を地でゆく存在である。「『保守とリベラル』の一体化」とは勿論、弊ブログや中島岳志教授などの標榜するリベラル保守のことではないし、保守とリベラルが結婚することでもない。

 「都心をゆくクルマは「レベルの高い」車種ばかりだ。」は意図してか否か、前出の古谷経衡氏の『意識高い系』と符合する。「都心をゆく車は意識高い系の車種ばかりだ。」と読み替えられる。
 しかし現実にはそれらフェラーリやアウディ、BMWなどの高級外車は意識高い系とは殆ど関係ない。にもかかわらず、北条はそれらをそこに「意識高い系で嫌な車」という風に印象操作をする。そのための小道具がコインパーキングと都内の百貨店の駐車場、「ツンとすました顔で停まっている。」である。コインパーキングは高級外車の持主なら本来は使いそうもなさそうな下世話なものという表象性があるし、百貨店は本来は電車で行く所でありそれもまた高級外車には似つかわしくない筈なものではあるが「都内の百貨店だけは違う」という既成の文脈、即ち先述の「考えの素」で語るもの、「ツンとすました顔で停まっている。」は正に被害妄想を植え付けるための形容表現そのものである。
 アウディやBMW、それに何故かそこには挙げられないメルセデス ベンツを見掛けて「ツンとすました顔」と思う人は殆どいない。それらは最も素直に認めて受け容れられる車、即ち嫌味のない車であるというのが通念である。例えば自分が貧乏になった際に或いは貧乏ではないけれども偶々銭の持ち合わせがない際に乗せて送ってもらう場合にはBMWとマツダとどちらが素直に喜べるか?どう考えてもBMWである。逆に、マツダ車に乗せて送ってもらうよりは和光市までも独りで歩いて帰りたいと思うであろう。そのような違いこそがトヨタ以外の日本車と外車の歴然たる違いであり、トヨタ以外の日本車は子供騙しの見せびらかしの心性で出来ている。
 「それが悪いわけではないが、」ではなく「所詮そういうものなんだよ、世間知らず!」というのが北条の本音ではないか。それが続く「滑稽なような羨ましいような」に明らかである。明確に「しんどい」や「嫌い」などとは言っていない。
 「悔しかったら見せびらかせるようになりなよ!私だって所詮この程度でも精一杯見せびらかしてる――失笑するばかりであるが、――んだから!」、北条かやそのようなメッセージのエバンジェリストである。戦後レジームの訣別ということなら、正にその手の人々をいなくしなくてはならない。
 そういえば私のお気に入りで北条も近頃に気に入っているというGUが無人支払所をこの程に設けて有人支払所を原則廃止にしている。何と商品を一つ一つバーコードで通さなくてもよくて丸毎読み取って計算してくれる優れもの。北条には支払機の読み取り庫に入れた商品を置いてゆかないように精々気をつけられたい。「忘れて来ちゃった、ま、いいか。」と言えば立派な見せびらかしになる。

 北条かやはこの処にしばしば郷土愛とか田舎に癒されるとかと語っているが、そのような現実逃避的言説が正に都会の見せびらかしや所謂一極集中を助長するものであり、それもまた併せて根絶する必要がある。北条もまたその一端を担っている、地方を散々疲弊させて潰しておいて郷土愛や癒しなどとは余りに見え透いている。

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