カテゴリ:文明論( 533 )
憲法記念日と大型連休に寄せて
 今年も憲法記念日が来た。今年は1947年5月3日の施行から70年になる。

 護憲派と改憲派を戦争に擬えるなら、5月3日憲法記念日は今の憲法を護りたいとする人々にとっての象徴であるから、憲法をかえたいとする人々が実際にかえたら同じ日が憲法記念日となるようにすればその象徴が攻撃破壊されて決め手を打ったことになる。別の日が新しい憲法記念日となれば今の憲法記念日は昭和天皇の誕生日が後にみどりの日に名をかえたように、何等かの形で記念日の席を確保して残ることになる。
 天皇というこの国のかわらない象徴も、今の憲法が新しく定められた時に残された。当時の日本はそれぞれの下々の国民各位はともかく、国の形の攻撃破壊の決め手を免れて今に至る。
 日本は海洋国家といわれ、敷島を碧い海に囲まれる。憲法がより強めた自由の象徴色は青、よって若し憲法が改正されたなら、5月3日はみどりの日と並び「青の日」となるかもしれない。この国においては緑も青でゴーのサインを表すので二日で一つになる。

 話は逸れるが、日本は敷島というけれども、島国ではないと思われる。
 日本列島というが、その最大の「島」である本州は島と呼ぶには物理的にも人的にも大きい。億の人々の住む島は他にはジャワ島やスマトラ島などからなるインドネシア位しかない。参考として順位を示すと:
1) インドネシア ジャワ島 1億3千3百万人
2) 日本 本州 1億4百万人
3) イギリス グレートブリテン島 5千九百万人
4) インドネシア スマトラ島 4千7百万人
5) フィリピン ルソン島 4千6百万人
 こう見ると、億の半分程のグレートブリテン島のイギリスを島国と呼ぶことは自然であるが、それより格段に広い面積と多い人口を擁するインドネシアと日本を島国と呼ぶのは聊か不自然である。
 ジャワ島や本州は世界最大の島ではなく世界最小の大陸である。

 法学の分野においては、大陸法と英米法という対立概念がある。
 大雑把にいえば、成文法の正しい解釈を以て法治をなすのが大陸法の特色であり、裁判の凡例や慣習を加味しつつ出来る『見えない法』の解釈の蓄積を法とするのが英米法の特色である。尚、弊ブログは国号の漢字略称を廃することを提唱するので「英米法」とは呼ばずに「慣習法」、「アングロ法」または「BR-US法」と呼ぶ。
 日本の法治は事実としては前者の大陸法を基調とする法の体系と運用を常としている。しかしその事実が事実の全てではない処にこの国の法治と社会秩序の難がある。日本は大陸法を基本としながら、そこに慣習法を随時に併用している。「併用」と言えば聞こえは良いが、本当は何と言うべきかは諸賢の見方に任す。
 如何にせよ、日本の在り方は元来は大陸的である。故にも日本列島と呼ばれる日本の国土は世界最小の大陸というべきものである。

 成文法の正しい解釈は主権在民の国家においては国民の総意が定めるものである。誰か国家を、少なくともその法律の分野を専有して担う者が定めるものではない。故に法律家などの科学者を信用し切るべきではないとは主権在民の要諦でもある。
 国民の総意を実現することを望まれるものとして選ばれるのが議院及び内閣或いは議院及び内閣並びに大統領府により組織される政府であり、主権の存する国民により選ばれて立つ政府には成文法の正しい解釈を定めまたは持する権利の一端がある。
 憲法を最高とする法治、即ち立憲主義においては憲法及び法律の解釈の変更は随時に必要となる。その変更は民選の政府が主導となる場合もあるし、市民運動などの直接の民意を受けた法律家が主導となる場合もある。
 慣習法においては尚更に、法律そのものよりもそれに先立って在る「解釈」がものをいう。そこにあっては法を解釈するのではなく解釈が法を作るのである。
 故に、解釈改憲の否定は主権在民の否定であり、違憲世論である。
 2014年7月1日の安倍内閣による解釈改憲の閣議決定を非難した向きはそもそも憲法と法治を分かっておらず、無法者といわれても仕方がない。改められた憲法の解釈の内容を非難することは自由であるが、そうならば交代した先の政権がそれを覆す解釈改憲をすればよい。そのための手続きは必ずしも閣議決定のみが適当であるとはいえないがそれも正しいと認め得る手続きの一つである。寧ろ、国会の決議による解釈改憲は多数の賛成によることから、多数による圧政との誹りを免れない場合があり得る。
 彼等は云っていることが悉く『天に唾』なのである。立憲主義の否定、数を恃む政治、アメリカに対する屈従…それらは全て安倍政権を攻める側に当て嵌まることである。

 今の憲法は度重なる解釈改憲に耐え得るものであり、また、この国日本国民は度重なる解釈改憲を通してもそれぞれの自由と主権の維持に耐え得る人々である。

 憲法記念日に際し、護憲を基調とする朝日新聞を買って読んだが、護憲を建前としながら「改憲已むなし」、即ち滅び去ればそれでも仕方がないという弱音が聴こえて来るように感じられた。そのような論調は近年の朝日新聞の傾向でもある。憲法の改正そのものを否定するかのように誤解されると如何にも柔軟性のない人であると思われかねないのでそうは思われないように予防線を張って「改憲もなしとはしませんが…」と言っておく、そこに年来の読者や支持者の裏切りの疑いが嗅ぎ取れる。そのように言うことが『空気に従うこと』であるとは自らは思ってもいないであろうが、そうである。
 そのような卑怯さを近年の傾向とする契機の一つとなったのが先の『7.1閣議決定に対する抗議』である。そこで解釈改憲そのものを否定してしまった故に、そのこととの辻褄を合わせるために「改憲已むなし」の媚態を打ち出すことになっている。その根底には「あらゆる文章、言葉は一義的であり違う解釈の余地はない。」とする、言葉に関する態度の根本的誤りがある。「「てふてふがひらひら」と言えば、それは紛うことなく「てふてふがひらひら」という感じである、それが分からないのはあなたがおかしい。」という態度が様々の局面に立ち現われる。そのような人達が、自らをリベラルと呼び、幾らかの人達が彼等をそう呼んでいる。そうは思わなくてもいわば政治的文化的立場の便宜的分類の記号としてそう呼ぶ人は尚多い。
 「そんな風に受け取られてしまった。」と彼等が言う時、それは「そんな風に受け取る人もいるという現実を直視せねばならない。」ということではなく「そんな風に受け取る人がいるなんてあってはならないことだ。しかし…」というぼやきである。
 そのような根本的態度に『7.1閣議決定に対する抗議』が相俟ってそのような状況になっている。

 読売新聞が憲法改正試案を1994年に初めて出した時に、私は1946年から当時を経て今に続く憲法を改正するべしと思う人達がいることを初めて認識した驚きと幾らかの意義を感じはしたが、実際の憲法の改正とその読売試案の内容が適切であるとは思わず、その感慨は今も粗変わらない。
 それを機に色々と研究を重ねると、改憲派はその頃に初めて出たのではなく今の憲法が定められた初めから少なからずいたと知る。私は当時は今の憲法の良し悪しと改正するべきか否かはともかく、そんな人達がいることを知らなかったので驚いた訳である。
 私がそこで幾らかの意義を感じたのは今の憲法そのものについてではなく憲法に関する態度、憲法秩序を実現しようとする意思についてである。それが充分にあるとは、当時までのこの国を見聞きしていて思えなかった。そしてその感慨は今も粗かわらない。
 その意思がないのは今の憲法が悪いからではなく、憲法というものそのものに関する認識と態度がなっていない向きが少なくないからであるとの現実に関する「解釈」を今も積み重ねて継承している。
 その解釈に当て嵌まる事実の一つが「日本は集団的自衛権を有するがそれを行使することはできない。」という或る時代になされた解釈改憲である。
 彼等はそれを解釈改憲とはいわないというが、それとて歴然たる解釈改憲である。自分の解釈改憲だけは良くて他のそれは認めないのである。
 私はその解釈の意義を必ずしも否まない。或る時代の状況においては大いに意義があり、正しいといえるものであったと思われるが、それが必ずしも常に意義があって正しいとはいえない。

 もう一つ加えて云うと、この国の少なくはない人々にとっては憲法とは自己正当化と空気の醸成の装置であったとしか考えられない。
 彼等にとっては憲法を護ることとは自分達を守って他を顧みないことである。
 読売改正試案は23年前に、その空気に水を差した。
 しかし、唯水を差すだけのものであり続けて今に至る。
 水は時間が経つと空気になる。水を差すことだけが目的の空気が新たに今を覆っている。

 昨日5月5日子供の日のフジテレビの『めざましテレビ』の戯動画『紙兎ロぺ』が出色である。
 「連休に遠出するのってさー、渋滞の自慢をしたいだけだろー?どっかに行きたくて行ってるんじゃねえ訳よ。」
 憲法の改正を支持することも、その論議に加わったけれど結局は何もかわらなかったことを自慢したいことが動機なのではないか。ぼやくことが国民の共同体を作るということであり、それを「あきらめることを美徳とする日本の国柄だから、それを憲法に定めよう。」と思う人達もいる。

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by keitan020211 | 2017-05-06 15:48 | 文明論 | Comments(0)
【自動車 特別編】日本の名車列伝 その2:三菱自動車
 今年の2月に『【自動車 特別編】日本の名車列伝 その1:トヨタ自動車 前/後編』の記事を出しました。


 2か月振りの『日本の名車列伝』、その2は三菱自動車です。
 三菱自動車は日本の最も古い自動車メーカーであり、独立の前は三菱重工業の自動車部門として始まり、大型車を主として数々の名車を生み出していますが、二十年前の品質不良による死亡事故や近年の燃料消費量の表示の不正などによる信用の喪失から存続が難しくなり、今は日産自動車とルノーの傘下に入り再生が図られています。
 私としては三菱自動車はトヨタ自動車に次ぎ好きな日本の自動車メーカーであり、トヨタの豊田市の隣の岡崎市にも三菱の大きな製造拠点があります。

◯コルト ギャラン COLT GALANT
1969年
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 三菱は高度経済成長期の入口の1960年に総排気量600ccの二扉セダン コルトを、その真只中の1963年に同じ名でより大きく1100~1500ccの四扉セダンを出している。
 コルトギャランは安定成長期に移っている1969年に出た四扉、二扉と五扉ステーションワゴンの車である。
 従来のコルトは他メーカーにも広く見られるように、アメリカ車を模範とするデザインが強く現われているが、ギャランの名が加わったそれからは日本の車としての独自のデザインを身に着けるようになった。但し原案はイタリアの名高いデザイナーであるジョルジェット ジウジアーロによるもの。角張て流線型が弱まる代わりに重心が低くなり、止まっている姿にも走る姿にも落ち着きが増している。
 当時昭和40年代の三菱車は柑橘色、オレンジ色をテーマカラーとするものが多く、コルトギャランも『オレンジ色のニクイ奴』という感じが鮮やかであった。
 1973年の2代目型はややアメリカ風への回帰が見られ、丸みの強い流線型となっている。

1976年
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 3代目となってその名をコルト ギャラン Σ(シグマ)に改め、更にデザインの独自化が勧む。
 写真の丸型前照灯は1978年からのもの、当初は角型であった。好みの分かれる処ではあるが、角型の前照灯は当時は斬新であったが他メーカーにも広くはやり、逆にありふれて埋もれるような感じがする。その故か、後期型で丸型に戻った。私はその丸型が好きである。
 この3代目コルトギャランΣは私の感性の原点をなすような存在感がある。いわばそのあらゆる点が完璧に私の心に染み渡るのである。
 総排気量は1600~2000ccと、昭和50~60年代の車の標準的規格。
 四扉セダンだけではなく五扉エステートバンも素晴らしく洗練されている。

1983年
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 概ね1980年の4代目型のフォルムを踏襲しながら、より直線的で繊細な趣を強めている。
 かつての曲線的流線型とは違い当時の車はトヨタのマークⅡなどのような直線的流線型がはやったがギャランΣは他にはなく、典型的箱型でありながら優美な繊細さを醸し出す。
 その故に、乗り心地は安定感と滑らかさに優れる。
 従来型は全て後輪駆動、FRであったが、この型からは前輪駆動、FFになっている。21世紀になるとどのメーカーの車も更にFRが少なくなりFFが殆どとなっているが、ギャランΣは二十年も前にその先駆者となったことになる。

1996年
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 昭和が平成となり、6代目と7代目のギャランはその時代の趣を現すものとなったが他に埋もれて目立たないものとなっていた。8代目となるこの型はそれらの形を受け継ぎながらも大きく広くなることにより存在感と独自色を取戻している。
 当時は少ない燃料直接噴射原動機、GDIを搭載し、『大きいのに低燃費』――実際には持っていた人に聞いてみないと分からないが、――のイメージをなし、環境の時代といわれ始めた'90年代らしい車である。
 21世紀には直接噴射方式は多くの車が採用するようになっている。

2007年
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 ギャランと三菱自動車の衰退が止まらない21世紀に、2002年に出たコンパクトカーのコルトと並び起死回生の役を果たした。名はギャラン フォルティスとなる。
 2005年にトヨタ-レクサスが出した2代目ISを小さくてより普通にしたようなフォルムであり、スポーツセダンの静かなブームを形作った。
 2008年に五扉ハッチバックのギャランフォルティススポーツバックが加わったがセンスがなくて販売も鳴かず飛ばず、ギャランフォルティスのブランド価値が失われることとなってしまった。
 2015年にギャランの名を持つ車は全廃となった。

◯ギャランΛ/エテルナΛ GALANT Λ; ETERNA Λ
1978年
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 1978年にエテルナΣがギャランΣの姉妹車として出たが、その年によりプレミアムな二扉クーペのギャラン/エテルナΛ(ラムダ)が出た。
 ギャランのテーマカラーであるオレンジ色のΛのミニカーが当時の私のお気に入りで、実車も一際私の心を捉えた。
 セダンのギャラン/エテルナと同じく、鉄道車輌や日用品、服などにも、私の直線好きを象徴する車である。
a0313715_15595588.jpg 丁度その頃は、シャツの着方なんかも第二釦まで外して胸元を直線的に見せるのが普通にはやっていた。そこに簡素な趣のネックレスがあれば尚良い。しかし、今は第二釦まで外す人は少なく、殊に男は第一釦まで閉める人も多くなっている。第一釦を外しても釦の間隔が詰めて出来ているシャツが多いのでどうしても窮屈な感じになる。それで腹の辺りがΛ型に見えている人もいたりする。
 Λの直線的に優美なフォルムと繊細なディティールは第二釦まで外して涼しげな趣に好く合う。
 総排気量は時代に先駆ける2000ccであり、内装の高級さを含めプレミアムカーのはしりとなった。
 そういえば今は余り見掛けないが、三菱自動車販売の店構えも白の全タイル張りが多く、直線好きには嬉しい街並みを作っていた。

◯コルト COLT
2002年
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 コルトの名は1960年に出たコンパクトカー――当時はそれが普通の大きさ――コルト600及びセダンのコルトギャランから取られたものである。
 1990年代の末から1300cc前後のコンパクトカーが自動車の新たな主流となっていたことを受け、三菱もトヨタのヴィッツやホンダのフィットなどに続き新世紀2年目の2002年に1300~1500ccのコンパクトカー コルトを出す。
 ヴィッツやフィットがユーティリティーを主眼とするスタイルを重視するのと比べ、コルトは走りをより重視し、そしてユーティリティーとスタイルをも高めている。走りの力と滑らかさ、そして内外装の質感は2000cc前後のスポーツセダンにも引けを取らず、全方位の見通しも抜群で極めて完成された車である。
 後へ車体長を伸ばして荷室を広くしたコルトプラスが加わる。ホンダのアコードやトヨタのプリウスなどにも見られるその手のバリエーションは多くの場合はデザイン的に破綻しているが、コルトプラスは無理なく洗練を保ち、良く出来ている。
 また、ハイパフォーマンス版のコルト ラリーアートも名高い。

◯RVR
1991年; 1997年
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 1990年代末からはやり始めたミニバンを想わせる大きさではあるが、RVRは大きなハッチバック車でありミニバンではない。乗れる人数も普通の乗用車と同じである。
 しかし、RVRは後のミニバンブームへの布石として少なからぬ影響を与えた車であると思われる。ミニバンブームが2000年代に熟して来るとトヨタのウィッシュやアイシス、日産のラフェスタなど、8人乗りを保ちながら基本的には5人乗りの、より小さな新しい趣のミニバンが出て来、従来のワンボックス型のイメージを変えてRVRに近い趣となっている。
 RVRが出たのはバブル景気の時であり、それによりよく売れたが、直ぐにバブル経済が崩壊してRVRは思う程の売れ行きを維持することができなかった。故に’90年代には根強い支持を一部に得ながら時代を作る程の大きな存在とはなれなかった訳であり、再び好況となった'05年頃に小さなミニバンがRVRの遺志を継ぐこととなった。
 「並の車でも、乗り心地の三菱」をそこでも感じさせる。

2010年
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 ワンボックス+ボンネット型のミニバンの全盛期の中、より小さいRVRは廃れてしまい2002年に廃止となったが、ミニバンブームの過ぎつつある2010年に再び出た。新旧通算3代目となる、イチローの日米通算も着々と積み重なっている時代に。
 コンパクトカー、ステーションワゴン、SUVと小さなミニバン、更にはスポーツセダンのそれぞれの潮流を融合したような理想的デザインで、テーマカラーの川蝉ブルーが相俟て精彩を放つ。

◯エアトレック AIRTREK
2001年
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 「エアトレック」、何か涙が流れてきそうな響きではありませんか?
 'air'に'trek'、'trek'とは旅のこと。意味もさることながら、音の響きが抒情と叙景を誘う。
 出た当時のテレビCMも平凡ながら美しい演出で、心をふと掴むようなものがあった。
 その車のスタイリングも凡庸でありながら、凡庸の極みを究めたように美しい。
 売り上げは伸びずその名を聞いたこともない人も多かろうが、エアトレックは出なければならなかった車なのである。
 何しろ、今は広く普及しているインパネシフトを採用して室内の真中が通り抜けられるようになっているのはエアトレックが先鞭。様々な車の型の『クロスオーバー』のはしりでもある。
 2006年にその後継車となるアウトランダーが出たが、より『通俗的洗練』のデザインとなって魅力が半減している。

◯ミラージュ ディンゴ MIRAGE Dingo
1999年
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 1978年に出て一度は廃止となったが再び出て今もあるコンパクトカー ミラージュのワゴン型として出た。
 あらゆる点において前世紀、旧時代の結晶且つ最後の車であり、歴史的意義の深い車であると思う。
 ミラージュディンゴと入れ替わるように、トヨタのヴィッツやホンダのフィットに代表される新しい時代のスタイリッシュコンパクトカーが出て取って代わられた。大きさとしてはヴィッツの派生車トヨタ ファンカーゴや三菱コルトの派生車コルトプラスと同じであるがミラージュディンゴは色々な面で旧さが感じられる。しかしその頃まではそれが最先端であった。

◯キャンター CANTER
2002年
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 日本を代表するキャブオーバー車であるキャンターは1963年に初めて出てからのどれも素晴らしいが、取り分け私の推すのは2002年に出た7代目である。理由は運転したことがあるからである。
 何が良いか?――トランスミッションの切り替えが滑らかなことである。また、原動機の音も滑らかである。
 滑らかさではトヨタのトヨエース/ダイナもなかなかではあるが、そこに適当な重みが感じられない。そこは好みにも依るが、確かな重みの感じられ且つ滑らかな三菱車のトランスミッションが私には好い。クラッチのないいすゞ車は殊に高速ではイケイケな感じになり、やや違和感がある。

◯MP
1980年
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 '80年代の幕開け、第二次高度経済成長――そんな時代の気運を乗せる迫力の走り。
 というか、旧い型のバスの最後となる車であり、その次の型からはそんな物凄い原動機の音は聴こえない。原動機の音そのものは次の型1984年に出たエアロスターも凄いが、MPはまだ車体の防音が進歩しておらず、筒抜けである。しかしそれが少しも苦にならない程に素晴らしく良い音を放っていた。
 畳み掛けるように、富士の高嶺のように、その音は加速を増すにつれて私達をそれぞれの行先へ誘ってくれる。

◯エアロスター AEROSTAR
1984年
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 車体の防音が進歩したからか、原動機の轟音の筒抜けな感じが格段に抑えられた。しかし床越しに聴こえる迫力の音は健在である。そして乗り心地の滑らかさが増して先にも後にも史上最高の出来になった。
 1996年以降の型は原動機の低出力化や意味のなさげな新技術、それに低床化も相俟って走りが弱々しくなって乗り心地も安ぽくなっている。
 自家用車における低出力化や排気ガスの低減は望ましいがそれを公共交通機関の車に求めるのは筋違いである。三菱は筋を通してほしい。

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by keitan020211 | 2017-04-30 18:46 | 文明論 | Comments(0)
【追悼】渡部昇一 上智大学名誉教授
 英語学者で保守言論界の第一人者でもある、上智大学の渡辺昇一名誉教授が昨日4月17日に心不全により享年86歳で逝去した。

a0313715_17321723.jpg 渡部氏は1930年に山形県鶴岡市に生まれ、上智大学の大学院の英文学修士課程を了り、ドイツのミュンスター大学と英国のオックスフォード大学に留学して知見を深めた。
 帰国して上智大の教授となってから、1973年に分野を問わない評論活動を始め、以後はサンケイ新聞―現:産経新聞―の寄稿評論記事『正論』の執筆員となるなどして保守の言論を担っている。
 主な著書は『知的生活の方法』<:講談社現代新書>やフランシス フクヤマの著した『歴史の終り』の翻訳など。
 最近は明仁天皇陛下の退位についての意見交換会での意見役の一人となるなど、最期まで現役として活動を続けていた。
<依拠情報:産経新聞 2017年4月18日>


 今朝にコンビニエンスストアの新聞売場でそれを伝える新聞を見、凡庸な言葉ではあるが、時代の変わり目を感じずにはおれなくなった。
 私の今日のツイッターにも渡部教授の逝去を受けての幾つかの言葉がある。ここにそれらを全て紹介する。




 渡部氏の評論家としての過去の発言に、障碍者は社会に莫大な負担をかけるからその出現を未然に防ぐことは神聖な義務であるとのものがある。1980年のことである。
 それなんかも、保守派だけの集う言論サロンという場での内輪での話である。そのように語る随筆を公に刊行していながら内輪話も何もあるのかという向きもあろうが、本を書いて出すことは多くの人の経験則からも分かるように、多くは己の話の通じる内輪に向けてのものである。作家にも評論家にも常連のファンがいたりそれ程ではなくても書いてあることを少なくとも理解することのできる人々が読んでみたりする。
 かつて彼の浅めのファンであった私なりの解釈では、彼はそこに障碍者だけを語るのではなく子を宿して命を育む者としての心得を語っていると思う。
 莫大な負担を社会に掛けることがあるのは障碍者ではない健常者も同じ、様々な人がいて或る人々が社会に負担を掛けたり惑わせたりする。否、「或る人々」といわず全ての人にはその虞があるといえよう。
 そのような現実を前に、一体誰が、子を宿して育てることを直ちに神聖な務めということができようか?神聖でもなければ当たり前でもない、そうとしかいいようがないのが人の世である。
 それが神聖な務めとなるためには「ちょっと待て。」といわざるを得ない。
 障碍の遺伝の話は極端なものではあるが、それが犯罪の遺伝の話なら、どうか?:犯罪は遺伝すると科学的仮説としていわれる。勿論科学と言って若干の誤りを含むことはあり得ても、似非科学の話ではない。
 遺伝により犯罪者が生まれることが「分かった」ら、生むべきではないと思うのは当然のことと分かる筈である。少なくともそのような遺伝子が自らの内に漸減若しくは消滅するまでは生むのを先送りしようと思うべきである。尤も、そのようなことを奨励し或いは義務づける法律や社会制度を作ることが許されはしない。

 しかしそうはせず、己には子を宿して育てる権利が当然にあると思う人がなかなか多い。果てには政府が子供を産み育てることを国民に勧めて支援しようという動きさえある。渡部語にいう障碍児しか生まれなくなるかもしれない。そうなれば国が亡ぶだけではなくそれまでに多大の迷惑を世界に掛けることになる。

 渡部氏の言葉から来たものとは知らない人が大半ではあるが、その渡部氏の言葉は当時から後の世に結構な影響を及ぼしたようであり、障碍児を宿したら生むべきか生まないべきかという命題、いわばその十年程後に人気を博した『究極の選択』の先駆けのような問いが初めて語られるようになった。そして1980年代当時には「生まない」と答える人が普通に多くいた。それが「生む」に逆転されたのは1990年代である。'90年代は今2010年代に「感動ポルノ」という不名誉な呼び方がされるようになった、民衆の生活をルポルタージュするドキュメンタリー番組が活況を呈していた時代であり、それらに障碍児を困難を乗り越えて立派に育て上げる家族の話があったりする。
a0313715_17384164.jpg 無論、言うは易く行うは難し/案ずるより産むが易し。「生まない」と答えるのは容易くても若し実際に障碍児を宿したらその内の多くはやはり生むことにする訳である。考えと行いはしばしば違って来る。
 生まないと言っても実際には生むのが当然であった'80年代と生むと言っても実際には堕したりする'90年代、どちらが良識的且つ良心的かは明らかである。渡部氏の評論もそのように文面や音声に表れては来ない'80年代的良識と良心に支えられていたのである。
 そして「意に反して」生まれて来た障碍児等のお蔭で障碍者との共存共栄のための政策は格段の進歩を遂げている。それが「意に沿って」生まれて来た障碍児等であったなら、点字ブロックさえ碌すっぽ侭ならないような障碍者にとって生きにくい世の侭であったかもしれない。障碍者の社会進出も実現していなかったかもしれない。難しいという問題意識があるから、政策の進歩や心得の改善がある。所謂感動ポルノはそのような問題意識をなくしてあらゆることを容易いと或いは他人事と認識させる弊がある。

 渡部氏のような評論家や或る場合には政治家や経済人の発言がかのように問題となる背景には何があるのか?

 その大きな一つには、『共感』に関する人々の意識の違いがあると思われる。
 厳密には個人の違いであるが、大雑把に分けるとその違いは男女にあるとされる。確かに目立つ限りでは男と女の違いと見受けられる場合が多い。

 その男女の違いとは:
 男:共感とは意見を同じくすることである。
 女:共感とは感情や場の空気を共にすることである。

 意見を同じくすること、即ち言われたことや書かれたことに即して解したものを通して互いの結びつきを強めるべきであるとの考えに随うならば、渡部昇一の評論は共感できないものということになる。そして実際に渡部昇一を非難する者は男に多い。女はその内容を認めないと思っていても非難しない。男の世界にいないと本当の趣旨は分からないものである、或いは、男さんの意見にはたてつくべきではないと思う『前時代的』感覚の人が女には多いからでもある。
a0313715_17340094.jpg 尤も、あくまでも一人の人として彼を認容することができないというのは分かるが、中には女性や弱者に代わって不義を討つみたいな感じの者もおり、そのような者が渡部昇一を非難しても女や弱者は少しも彼に守られているとは思わなかったりする。彼が渡部を討つのは大学教授、取り分け面倒くさい計算問題を解くことを要しない文系の教授は男にとっては本音では最高の憧れの職であるからであったりもする。そんな憧れの立場にある者が女性や弱者を守ってあげない論調をしていると見れば彼がどんな挙に出るかは粗方想像がつく。

 感情や空気を共にすること、即ち言われたことや書かれたことだけではなくその前に物事に臨む心構えや態度、具体的振舞いを通して互いの結びつきを強めるべきであるとの考えに随うならば、渡辺昇一の評論は共感し得るものということになる。先述のように認めないけれど非難しない女と全く興味がない女を不支持率から引くと、彼の支持率/不支持率の男女差は歴然となる。渡部昇一は女高男低の人気である。尤も、一般に女子学生や女子教官が多い英文学科の教授であることも一因であろう。

 そして津久井やまゆり園事件のような犯行は、内輪の話をしている筈の渡部昇一などの発言を用もなく拾っては言いふらして非難の対象にする新聞記事を何処かで見た犯人が書かれたことだけに共感するからであろう。障碍者との共存共栄の意識のあるなしの問題よりはそのようなマスコミュニケーションの構造の一端として起こった事件なのである。

 彼が『知的発言の方法』ではなく『知的生活の方法』を記したのも、そのようなことと解することができる。

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by keitan020211 | 2017-04-18 17:34 | 文明論 | Comments(0)
【考察日本語】『吉澤準特【3万時間でたどり着いた文章術】 読みやすい資料を作るための6つのルール』を検証する
 外資系IT企業の有力者で著述家の吉澤準特氏が今日3月29日のBLOGOSに『【3万時間でたどり着いた文章術】 読みやすい資料を作るための6つのルール』と題するhow to物の評論を出している。

 「準特」とは派手な名でどう読むのかは分からないが、字面を見るに想い浮かぶのは京王電車の準特急、略式表示では「準特」である。今世紀に新しく特急に準ずる列車として出来たものであり、東京新宿~府中が特急停車駅で府中~八王子が急行停車駅となる。日本にも世界にも唯一つの列車名である。

 その評論には主に実践の望まれるものとして6つの、加えて更に6つの、合わせて12の文章術が紹介される。
 ざーと目を通して大体良いと思わしいことが記されるが、それら12の則(ルール)が適当であるかないかをここに検証してみる。
 「3万時間で」とは凡そ1200日で、3年半程、三行半程ではないが、長いか早いかは人によろう。

a0313715_19333375.png1.一般的な表現を使う
2.明確な表現を使う
3.文体を統一する
4.トートロジーを削る
5.「~を行う」を多用しない
6.受け身を多用しない
7.長くない一文で表す
8.接続詞と指示語を多用しない
9.前提を明示する
10.主語を明示する
11.主語と述語を近づける
12.校正機能を利用する

◎:正にその通り ◯:凡そ正しい △:正しいが必ずしもそうとは限らない ×:誤り

1.一般的な表現を使う :△

 言葉でも何でも、「一般的」という認識は人によりかなり違いがある。或る程度の客観的認識は可能であるとはいえ、或るものが一般的であるかないかを立証することは難しい。故に言葉、言語にはフランスやドイツにはあるような正しい国語を定義して維持するための権威となる団体がしばしば設けられ、日本にはそのようなものがない故に言葉の揺れや乱れが著しい。何れにせよ、何等かの権威が認めるものが一般的と見做され易いものである。尤も、ここに弊ブログが云いたいのは権威に遵うべしということでも権威に遵うべからずということでもない。
 故に、「一般的な表現」を特定することは難しく、それだけで無駄に思惟と作文の時間が掛かることになる。学問ならともかく、業務などにおける資料の作成は急ぐことが求められるものなのでそんな時間を掛けてはいられない。 故に、表現はそれをする人が知っている通りにする、自らの知見や能力を偽らずに思うように/求められるように表現する、それが最も大切である。
 資料なら資料だけで完結するのではなく、それを用いての口頭での説明がある訳であり、資料に分かりにくい言葉があると指摘されたらその意味の説明や言い換えをその場ですることができること、後で説明するとの約束をしたらそれを反故にすることなく約束の通りに説明すること、そのようなフレキシビリティーとアカウンタビリティーこそが望ましいものである。
 「資料だけで完結」、それが資料作りの下手な人や表現そのものが下手な人の最も陥り易いことであり、資料を作れと云われるとそれだけに奔走して意を注ぎ込もうとする。すると理解しにくい自己満足的な仕上がりになり易い。そこには正に「これ、一般的な表現なんですけど…」が駆使されていることが多い。

 口頭での付加の説明をすれば、メモを取る人がいる。
 メモを取ればお引き取り願う、それでは明らかに駄目であるが、実際にそうすることがなくてもプレゼンターとしての心性においてそのような構えを暗に取る人は少なくないのではないか。「苦心して作った資料を理解できない聞き手が悪い、人の話を聞け。」というのである。
 聞き手が資料だけに目を落としておれば語り手は自らの姿を見られずに済む。

2.明確な表現を使う :◎

 その典型はこれ:「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
 ――日本国憲法第9条第2項の条文である。
 「前項の目的を達するため、」の部分は芦田修正と呼ばれ、原案にはなかった文言が後に芦田均総理の提案を受けて追加されたものである。
 それを見、その部分があってもなくても意味は同じではないか、何れにせよ戦力の完全な放棄を定める条文ではないかと誤解する向きが少なくないと思われる――一体、何が「修正」なのかと。
 実はそれは助詞と読点の用い方の不備から来る誤解であり、本当は「前項の目的を達するための」でなければならない。それの指す「前項の目的」とは「国権の発動たる戦争と武力に依る威嚇または武力の行使」であり、彼等が解しているような「…は、永久にこれを放棄する。」を指すのではない。「放棄する目的のため」ではなく、それらの行為を目的とする戦力の保持と交戦権の行使を認めないのである。
 本題とは逸れるが、故に憲法9条の改正は必要ではなく、語法の不適切を校正するだけでよい、尤も、校正するだけでも改正の手続きを要するが。
 因みに英文では同じように'for...'や'in order to...'と記してどちらにも取れる。

 憲法がそうであるからか、日本の言語シーンにおいては曖昧な表現が多くなっているようである。その点は、大日本帝国憲法がより優れると見るのは強ち誤りではない。帝国憲法の時代には良かれ悪しかれ曖昧な表現が招く悲劇はなかったからである。あったのは或る種の明確な表現による悲劇である。しかし、そうであるからといって戦後的曖昧な表現が良いというものでもない。当時とは違う悲劇は跡を絶たない。問われるのは明確に表現される意思と内容である。

3.文体を統一する :△

 弊ブログのように粗全て「である調」で「だ調」を99.9%用いない者もいるが、例えばそれらの使い分けに関しても、必ずしも何れかに統一するべきとはいえない。
 現在の日本の殆ど全ての新聞は「だ調」に統一されており「ムッシュムラムラ!」並みの言説を弄しているが、昔の新聞には「である調」を取るものが多く、朝日新聞もまたそうであった。今の朝日新聞は、『天声人語』などの随筆記事において稀に格好をつけるため一際気合いを入れて訴えるために「-である」が用いられることがあるだけである。
 しかし、学術論文においては逆に今も「である調」が主流であり、「だ調」は稀である。一般に、「である調」は公式な表現に相応しくまた「だ調」はジャーナリスティックで時に一寸だけアウトローな感じの表現に相応しいと見られている。
 しかしそのような使い分けは元々はなく、単に文語と口語の違いでしかない。戦後の新聞界における文語の排斥と口語至上主義の流れが「である調」を放逐した。無論それは根拠のない似非科学の類であり、本来は新聞も「である調」がもっと増えることが望ましい。
 人の言葉遣いには文語的言辞と口語的言辞が折々に使い分けられるものであり、「である調」と「だ調」が同じ文の中に混在しても何らおかしくはない。寧ろ、表現に奥ゆきが感じられる場合がある。それは資料作りに関しても同じであり、人は奥ゆきの感じられるものをより強く買いたいと思うものである。例えば「気合だ!気合である!気合いです!」でも良い。

 また、所謂敬体と常体も、統一すると変である。
 「常体だけ」は然程に変ではないが、「敬体だけ」は文面ががちゃがちゃとして目障り、口にすれば耳障りになる場合が少なくない。その故に、日本共産党の機関紙しんぶん赤旗は説得力が半減しているともいえます。「敬体だけ」に統一することにより緊張感と本音感が感じられないからです。

 そもそも、「統一/universal; unify」という観念はフレキシビリティーのなさを招く。自分の則(ルール)に全て従ってもらうというおしつけがましさが生じ、聞き手はそれを理解したいとか取り入れたいとは思わなくなってしまう。文体一つでもそのような空気は生じるので、文体の統一ということはマニアックな作家にでもさせておけばよい。

4.トートロジーを削る :△

 トートロジーとは同義反復のことであり、修辞学の基礎概念の一つであるが、重複表現をもトートロジーというのであろうか?、私は聞いたことがない。
 同義反復とはその最も単純な例は「猿の尻が赤いのは猿の尻が赤いからである。」みたいなものである。説明になっておらず、その事象を抗弁を許さない自明の理に仕立て上げる修辞の技法―?―である。
 そこに例示される「白い白馬」は「白馬でも取り分け著しく白い」ということに解せるし――然程に白いとは思えなくても、少しでも白ければ種の名としては白馬と呼べる。――、「頭痛が痛い」は頭痛という一般的現象とそれに関する自らの感想を分けて捉えて表現するということに解せ――それは「白い白馬」も同じ場合がある。――、何も誤りではない。言葉には客観的事実の要素と主観的感慨の要素があり、それらを分けて表現することはより公正中立な表現をしているものともいえる。故に日本の新聞はそのような意味のあるものである筈の重複表現を誤りであり直すべきものといっているから、公正中立とは程遠いフェークニュースといわれるのである。
 但しそのような必要のない場合はあり、そこで重複表現をしておればそれは無駄であるといえる。故に重複表現を直すことが必ずしも悪いというのではないが、多くの場合は直すべきではないといえる。

5.「~を行う」を多用しない :◎

 「行う」を英語で言うと、'to hold'或いは'to perform'となる。
 そのような英語の意味と照らし合える場合だけが「行う」の適切な用法であるが、「行う」を「する」のフォーマルな表現であるかのように誤解している向きが多い。
 「会議を行う」は'to hold a meeting'であるし、「政策を行う」は'to perform the policy'となる。'to do a meeting'や'to do the policy'なら、「会議をする」や「政策をする」となる。因みに「やる」は'to give'或いは'to take', 'to play'である。
 「行う」を「する」のフォーマルな表現であるかのように誤解している向きが多いのは近現代の日本語が古来の標準的日本語を知らない長州などの田舎侍が東京で政権を取ることにより定められたからであり、故に長州に由来する政治家である安倍晋三が「当該措置を適切に行うことが必要となる訳でありまして」などとしばしば言うことになる。尤も、「措置」は'to hold a measure'と言えるので必ずしも誤りではないが、安倍の他にも「行う」を濫用する者は多い。その他にも、安倍晋三の演説や答弁などの言葉には標準的日本語とは掛け離れる変な言葉が多い。

 それなどは正にですね、『1. 一般的な言葉を使う』の重要さを物語ることである。一般的な言葉を遣わずに自らの知見や能力を偽ろうとするから、「行う」や「…の上から判断して」などのようなより難しげな言葉を遣ってみてそれが誤りになるのである――「…の上から判断して」は正しくは「…の点から判断して」や「…から判断して」―。

 また、「「可能だ」と並んでビジネス文書頻出の表現が「必要だ」です。これも「すべきだ」と書き換えることで文を読みやすくできます。たとえば、「修正が必要だ」→「修正すべきだ」と改めることができます。」は誤りであり、「すべき」や「すべし」は誰がどう見ても明白にそのようになる筈なことを指す。然程に明白ではなくあくまでも当事者の意思や判断としてする/なることが望ましいということなら「するべき」や「するべし」となる。そのような場合に「すべき」や「すべし」では決めつけがましくまたおしつけがましくなる。
 「必要だ」にも適切ではない場合はあり、「必」の字が示すように、正に明白かどうかは分からない、延いては当事者の意思さえも確かではない場合に用いるならば不適切であるといえ、そうではない場合には「-ことを要す と思われる」が適切となる。

6.受け身を多用しない :△

 これは、日本語の受動態の表現が英語などの外国語にかなり訳しにくい場合があることからして或る面では適当な指摘であるといえる。それは要は主語を何におくかの問題である。
 但し「-される」が必ずしも受動態であるとは限らない。所謂霞が関語に多いとされる「-される」は受動態ではなく「-し得る」のことである場合も多い――未然形と已然形の組み合わせ――。例えば「かような事例が散見される」は「かような事例を散見し得る」と同じであり、英語では'Anyone can see anywhere such examples'となる。英語では余りなさげな表現ではあるが、フランス語ではそのような表現は頻出であり、強ち日本的曖昧さであって良くないとはいえない。

 逆に、今の日本においては受動態で言うべきものを誤って能動態で言う例が多い。
 そのような語法は粗完全に標準的日本語を用いている私、弊ブログには絶対にあり得ないのでそのような例を想い浮かべてここに示すことはできないが、聞いていて/読んでいて変だと思うような、本来は受動態にすべきものが能動態になっている表現が散見される。逆に英語では、本来は能動態にすべきものが受動態になっていて頭がこねくり返されるような表現がある。
 そのような例では多く、主語が明らかとならない。
 ――一つ思い出した。例えば「天然酵母で作ったパン」みたいなのである。テレビや新聞にもしばしば見受けられるが、正しくは「天然酵母で作られたパン」であり、前者なら主語が必須となる筈であるがそれが暈かされており、パン屋の腕を暗に認めずに神様であるお客様が作ってあげたとでも云わむとしているかのようである。後者ならパンが主語である。

①「わかりました、改善させます」
②「わかりました、改善します」
両者を比べると、①よりも②の方が積極性を感じられます。

×××ーーーーー!、正解は①。
 「改善します」では主語が取り組む物事となるので単なる説明としては誤りではないが、積極性の感じられるものとはならない、「その事業が改善します。」であるから。
 「改善させます」は'making it improved'或いは'let it improved'であり、使役動詞が積極性を感じさせる。日本語の文法用語では使役動詞とはいわないが、意味合いとしてはそうである。
 ②は取り組む物事だけではなくそれをする自らの心をも改善の対象とすると言っているかのように見えるけれども、よくいわれる、無駄な精神主義の類、即ちいい子振りであり、何をも生み出さない。自らの心の改善が必要なのは当たり前であり、表現に反映させる必要のあるものではない。そんなことを一々アピールする人は信用し難い。

7.長くない一文で表す :◯

 但し、どの位が長いと思うかの認識の違いがある。極端に短く切るのは良くない。
 一つの構文が長いとそれだけ読点の数が増し、それが今時の日本における読点の誤った遣い方、その数の過剰につながっていると考えられる。構文が短ければ読点は殆ど要らないともいえる程である。
 重ね重ね云うが、読点は区切り記号ではない、同格を示す記号である。楽譜のブレス記号とは違うので、息を継ぎたい所やリズムをつけたい所に付けるみたいなのは誤りである。文章においては息継ぎや拍子取りは読み手の任意であり、書き手が示して求めるようなものではない。先述の「資料で完結する」ような人にはそのようなおしつけがましい文体が多い。

8.接続詞と指示語を多用しない :△

 これは一概にどちらが良いとも悪いともいえない。
 指示語の少ない言葉は、必然に同じ単語の繰り返しが多くなる。書き手も面倒臭いし読み手も面倒臭い。現代日本語にはその傾向が強い。
 しかし、指示語の多い欧米語が必ずしも面倒臭くはないかといえばそうではない。文を遡って指示語の対象を特定する読み方や一文に深く没頭して読み漏らさない読み方が必要となるが、そのような読み方を当たり前にすることができるのはおしなべて高学歴な人々であり、歴然たる社会格差が当たり前となる訳である。
 故に、反格差を唱えるリベラル左派の人々には指示語の少ない現代日本語を良い言葉と思う向きが多いと思われる。現実に、ガラパゴス的に変な日本語の多いのはリベラル左派である。
 同じ単語の繰り返しが文章ではなく会話においてとなると更に耳障りである。日本のリベラル左派が多くの場合に嫌われるのはそれが理由である。尤も、会話においては互いの知見や関心の範囲が考慮或いは忖度されることが多いので「あれがさ…」などと指示語を多用しても分かりにくくはならない場合が多い。

9.前提を明示する :◎

 言うまでもなし。

10.主語を明示する :◯

 「主語を省略しても許される唯一の例外:「私」が主語」とあるが、寧ろ「あなた」は略すべきであり「私」は略し過ぎてはいけないというのが日本語の伝統的常識である。
 寧ろ、ビジネスは責任である故に、殊に文章においては「私」を略せない場合が多い筈である。

11.主語と述語を近づける :◯

 短い構文にこだわり過ぎると情報の質が断片的で量が乏しいという印象になりかねない。故に時には主語と述語の間の遠い長い構文を効果的に用いることも必要となる。

12.校正機能を利用する :◯

 単語の綴りなんかは殆ど間違いがなくて使えるが、文の読み易さに関してはソフトメーカーの見解のおしつけであることもあり、必ずしも信用せず、正に先述の口頭での付加説明を重視して資料の出来にこだわり過ぎないことが大切である。

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by keitan020211 | 2017-03-29 19:34 | 文明論 | Comments(0)
【英語訳】社説 朝日新聞 2017.3.25
Authorising in the moral studies――Got constrained by an adoption to the subjects
the Editorial of The Rising Sun (Asahi Shimbun, Osaka, Japan)
on Sat. 25th March 2017

The Ministry of civilisation and sciences told to aim at 'conceiving and disputing moral studies'. As the efforts, could be the opinions on the authorisation there, here the textbook.
MCS officially announced the outcomes of the authorisation on elementary schools, under that the moral studies is getting in the subjects since spring of the coming year.
a0313715_17190263.jpgSuch as doing conversing, presenting or playing a role of a hero and considering it: the ways on learning certainly got diverse.
However, the contents vital are in a trussed-up with the guideline on learning.
Try to see some concrete examples on the authorisation.
The guideline puts 22 of points of moral, for the contents of the moral studies, such as 'the honesty and the sincerity', 'the moderation and the temperance', 'the courtesy' and 'the gratitude'.
Different to the other studies, those meant not have any ground neither objective nor scientific. But so those written on the guideline, that the textbooks never getting on as it not covering the all.
Additionally the opinions out of the authorisation have seen that it'd be the improper as that not attaching the concrete items written on explanations of each ones of the points of moral.
For example, the guideline shows for an object of 'the gratitude' the seniors. Therefore that about the gratitude to 'a senior' in a region which some former textbook had was rewritten to 'an old'. 'An athletics' found at explorations in a town, in a reason of 'a respect of the tradition and the bunka', was altered into 'a shop of harps and triple liner strings'.
a0313715_17212267.jpegAmazed on them too much the ladling-ruler. That the textbook first on 'conceiving and disputing moral studies' made by such a constrained posture on the authorisation should be nothing but the irony.
The State rules the contents of points of moral by the guideline and adopts the textbooks made based on it further, the double bound's made the livery textbook. As the Editorial of the Rising Sun has raised a skeptical mind to the adoption of the moral studies to the subjects, the mind just got deeper.
The aim on the moral studies is to let the children's eyes see the challenge of 'how to live'. That should never stay on the frame of points of moral MCS settled originally.
As teachers have a duty to use the textbook, MCS too has never forbidden use of any original teacher tools.
The one we like to request to the leading teachers is a posture that every their idea must be with their pupils and students they are responsible for. We want them to try their guidance to touch the heart, seen any situation surrounds each ones of children or the classes, seen any events around them as the material.
We like the education committees and the heads of schools to respect any intention on the spots as much as they can and to secure rooms on their contriving. For them like to bring it up truly by their mind the conceiving and disputing ability, they should see some classes reading the textbooks critically adapted to the stages of growth, doubting the contents itself.


道徳の検定 教科化で窮屈になった
2017年3月25日(土)

 文部科学省は「考え、議論する道徳」をめざすという。その取り組みが、あの検定意見であり、この教科書なのだろうか。
 道徳が来年春から教科になるのに伴い、文科省が小学校の教科書の検定結果を公表した。
 話し合ったり発表したり主人公の役を演じて考えたりするなど、学習方法はたしかに多様になった。
 しかし、肝心の中身は学習指導要領にがんじがらめだ。
 検定の具体例を見てみよう。
 指導要領は道徳科の内容として、「正直と誠実」、「節度と節制」、「礼儀」や「感謝」など22の徳目を定める。
 他の教科と違い、それらに客観的または科学的根拠があるわけではない。だが指導要領に書かれている以上、教科書はすべてを網羅しなければならない。
 加えて検定意見は一つひとつの徳目の説明に書かれている具体的事項にふれていなければ不適切とした。
 例えば、指導要領は「感謝」の対象として高齢者を挙げる。そのため元の教科書にあった地域の「おじさん」への感謝は「おじいさん」に書き換えられた。町探検で出合った「アスレチック」は「伝統と文化の尊重」を理由に、「こととしゃみせんの店」に変更された。
 あまりの杓子定規ぶりに驚く。「考えて議論する道徳」の最初の教科書がこんなに窮屈な検定姿勢から生まれるとは皮肉以外の何物でもない。
 国が徳目の内容を指導要領で定めてそれに基づいてつくられた教科書を改めて検定する、その二重の縛りがお仕着せの教科書を生んだ。朝日新聞の社説は道徳の教科化への疑念を投げかけてきたが、その思いは深まるばかりだ。
 道徳の狙いは子どもたちを「いかに生きるか」という課題に向きあわせることにある。文科省が決めた徳目の枠内にそもそも収まるはずがない。
 教員には教科書を使う義務があるが、文科省も独自の教材の使用を禁じてはいない。
 一線の先生に求めたいのはあくまでもあらゆる着想は目の前の児童生徒になくてはならないとする姿勢である。一人ひとりの子供や学級をとりまく状況を踏まえ、身のまわりの出来事をも素材にし、胸に届く指導を試みてほしい。
 教育委員会や学校長には現場の意向を最大限尊重して工夫の余地を確保してもらいたい。考え議論する力を本気で育てたいのなら、成長段階に応じて教科書の内容そのものを疑い、批判的に読む授業をも認めるべきだろう。

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by keitan020211 | 2017-03-25 17:16 | 文明論 | Comments(0)
新聞の言葉は「脳に良い」のか?――『林修の今でしょ!講座』より
 昨日3月21日の19時台のテレビはテレビ朝日の『林修の今でしょ!講座』とTBSテレビの『この差って何ですか?』が競っていた。
 前者は3時間スペシャルで後者は2時間、それぞれを数秒の間見比べて私が観ることにしたのは後者『この差って何ですか?』であった。その理由は何となく前者『林修の今でしょ!講座』は衰えが感じられるからである。林修のファンの私にとっては元々は好きな番組である。
 しかし、その『この差って何ですか?』も昨日に買って来た橘玲の『言ってはいけない 残酷すぎる真実』を読むために20時頃から音消にした。その本の書評は近々このブログの記事にしたい。

 1時間程その本を読み、21時頃に21時54分からの報道ステーションを観る準備をするためにチャンネルをテレビ朝日の5にして暫く『林修の今でしょ!講座』を観ることにした。
 奇しくもか申し合わせてか、テレビ朝日のそれにもTBSテレビのそれにも『物忘れ』が主題となる企画がある。痴呆症や認知症に結びつくこともあるあの物忘れである。
 そういえば、反安倍の言説も認知症の患者が思いつく限りにガーガーと叫ぶようなものがある。時宜に適う企画であるともいえる。

 その終りの頃に、或る医者が脳を養う三つの奨めを語る場面があり、その一つに「正しい言葉を読む/遣うことに努める」みたいなことが云われる。そしてその一環として新聞を読むことが奨められると云う。

 私はステルスマーケティングを認めるが、それはいただけない。

 正しい言葉を読む/遣うことは大切なことであり私も奨めるものではあるが、その例として新聞が挙がることは明確に間違いであるといわざるを得ない。

 新聞の言葉は間違いだらけである。
 間違いであるだけではなく聊か気色悪い言葉でさえある。

 私のフォローする/していただいているツイッターの井上静氏が今日3月22日のツイートに語ってもいる。

 朝日新聞の言葉は永らく総じて最もましといわれているが、その朝日新聞も近年は酷いものである。
 例えば助詞「で」の誤用、あらゆるメディアにおいて見受けられるが、近年は朝日新聞にも多く、寧ろ朝日新聞が最もそれが多いと見える程である。「英国では、公共放送であるBBCの受信料を納めなければ刑事罰に問われる。」とか「オーストラリアでは、選挙の棄権は罰金刑に問われる。」みたいなのである。正しくは「イギリスの公共放送であるBBCは契約世帯が受信料を納めなければ刑事罰に問う。」と「オーストラリアの選挙においては棄権は罰金刑に問われる。」みたいな感じである。その「英国では…」や「オーストラリアでは…」はかつてはやった―?―「アメリカでは女の人はみんなノーブラなの。」とか「世界ではそんなこと通用しない。」みたいな物言いをそのまんまニュースの言葉に取り入れたものである。
 助詞「で」は英語の'at'や'by'に相当し、場所をいう場合には『主語となる人や物が現にそこにはいない』ことが前提となる。BBCは常にイギリスにいるのでそれを'BBC has the service of broadcasting at Britain.'とは言う筈もなく'... in Britain.'と言う筈で、故にその日本語は「イギリスでは」ではなく「イギリスにおいては」や「イギリスには」、「イギリスの」となる。
 「で」が正しい場合は「私は明日からオーストラリアで取材をする。」などであり、その英語は'I am to do a covering since tomorrow at Australia.'となる。現にそこにいれば'I am in Australia now on a covering.'、「私は今オーストラリアおり取材をしています。」となる。

 もっと酷い「で」の誤用例は「事件を受け、警察で取締りの強化を検討している。」みたいなのである。取締りの強化が必ずしも悪いのではなく、それだと、警察ではない者が警察に出向いて警察に対する取締りの強化をすることになる。勿論正しくは「事件を受け、警察が取締りの強化を検討している。」である。他にも「経済産業省では省内全室の施錠をすることを決め…」などがある。話の内容はともかく、気色悪い言葉である。

 そのような言葉が脳に良い訳がない。
 今時の新聞やテレビはそのような言葉に埋め尽くされている。
 どちらかといえばましなのはテレビである。意外と思う人がいるかもしれないが、新聞はテレビより良い言葉を遣う筈である、現にそうであると事実の誤認をしている人が多いのではないか。それにしても幾らかましに過ぎないが、テレビはプロの記者ではない芸能人や一般の市民が多く出る。すると、間違えて恥を掻きたくはないという思いがプロよりも強いのでなるべく間違いのない言葉を遣おうとする。悪くいえば無難志向であるが、故にテレビには新聞の程には誤った言葉が氾濫しないのである。しかし、プロは自分の生半可な知識が、素人よりは正しいと思い込んでいる故に平気で間違えるのである。
 それでもテレビは並み居る素人の目にスタジオで常に晒されるのでそのような生半可なプロが本当のプロに近づいてゆく余地が大きい。

 しかし、新聞にはスタジオもなく、自分の誤りが素人の目に晒されることがない。一度間違うと気の利く学友に指摘されでもしない限りは永久に間違い続ける。新聞を読む人々は素人ではなくプロの記者達の支持者に過ぎない。いつも読者に忖度されている故に新聞は誤りを正す能力が宿命的に欠ける。宿命なので幾らかは仕方のないものでもあるが、そうであるならば新聞を読むことが正しい言葉を知って脳を養うことになるなどとはいえない筈である。新聞とはそれを読むことにより頭が悪くなることを幾らかは覚悟して素人には取れない情報を得られることに意義のあるものであるというべきである。
 「新聞を読む子は読解力が高い」としたり顔で説くニュース解説者などがいるが、あくまでも国語の試験の難問奇問を解く能力が一時的に強まるだけであり、普通に用いる言葉が正しくなったり読解力や理解力が高まる訳ではない。新聞的な言葉や日本近代文学的な言葉をしか受け付けなくなる故に、普通の言葉を受け付けなくなることによる痴呆症や認知症のリスクも高まる。

 また、新聞には、幾らかはテレビにも、「こんな難しい言葉は庶民には分からないから、遣わないことにしよう。」と読者を見下す姿勢がある。無論朝日新聞だけではなく殆ど全ての新聞がそうであるが、朝日新聞にはそれが取り分け目立つ。
 言葉そのものをなくしてしまう場合もあるが、勝手に弄って語や漢字をかえる例も多い。例えば「遵守」を「順守」にしたり「被曝」を「被爆」に、更には「被ばく」にしたりなどである。小さ目の新聞に多い「暴露」も本当は「曝露」である。脳が養われる処か、読む放射線である。

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by keitan020211 | 2017-03-22 17:13 | 文明論 | Comments(0)
北朝鮮大使 persona non grata に考える 法治の基本原理 その2――移民の受入に関する欧日米の態度の違い
 直前の記事『北朝鮮大使 persona non grata に考える 法治の基本原理』を踏まえ、移民の受入を巡るヨーロッパ、日本とアメリカの態度の違いについて考えてみたい。

 移民はこれは正にですね、「好ましい人物」と「好ましくない人物」が生々しく選り分けされている事柄である。自国民の「好ましい人物」と「好ましくない人物」のように個人の人間性や資質のみを単位とする選り分けではなくそこに出身国の国柄や国體の在り方が勘案される選り分けである。逆に国柄や国體のような大きな事柄が大きな論点となる故に個人の人間性や資質は余り問われずに済み、故に個人の名誉が損なわれる余地は自国民の選り分けの程にはない、俗に言う「傷つかない」ものであるともいえる。

 直前の記事を踏まえると、ヨーロッパの伝統的リベラルの価値観からすれば、移民については彼等の窮状や要望だけではなく彼等を追い出した国の意思をも尊重するべしということになる。
 国は自国の人を追い出す権利があるので、その権利を行使した出身国の意思については具体的批判の余地はあるかもしれないが一般的原則としては無下に否定するべきではないということになる。
 不幸な境遇の侭で出身国に留まるよりは難民を経て移民として自国に受け入れられることが余程に幸福な訳であり、そうなることができるのであれば、彼等を追い出し或いは逃れることを已むなしとさせるような出身国の責めを敢えて問うべきではないという発想になる。寧ろ、そのような決断を彼等移民にさせるような出身国の悪い状況を歓迎する。移民の途を選ぶこととなった人々がその決断に至らない程の生温い状況をこそ、その生温さの故に彼等が幸福を取り戻す可能性を失うことをこそ、ヨーロッパは忌み嫌う。
a0313715_20223740.jpg 故に、ヨーロッパ諸国はあのシリアを決して見捨てない。ヨーロッパ人はアサドの人権をも考慮する。そのやや極端な例がヨーロッパの最東端のロシアであり、ロシアのシリアに関する態度は極めてヨーロッパ的なるものである。それはロシアのシリアとの特別な関係を俟つまでもなく、仮にそうではなかったとしてもロシアがシリアに関して当然に取る態度である。
 勿論、その『自国民を追い出す権利』とは'persona non grata'というように自国にとって『好ましくない』だけの者をではなく事実として手に負うことのできない、自国にとって極めて危機的な者をである。そこまでには至らない者をも追い出す余地を許すのが'persona non grata'であり、その概念の意を適切に汲めば有意義ではあるが、場合によっては単に気に入らないだけの者をも追い出したり吊し上げたりすることが是認されかねないものでもある。その適切な場合とは追い出される側の名誉と人権が追い出された先において保たれ得ることが凡そ確かと見做される場合である。
 中世のヨーロッパやアメリカの一部においてあった所謂魔女狩りといわれるものも、そのようなヨーロッパ・アジア的『追い出す権利』に基づくものであり、本来のリベラルからすれば否定されるべきものではない。魔女狩りにおいてはをの『追い出す権利』の行使としての処刑は彼等を追い出してもそれを受け入れる他国があり得ないことによるものである。故に、魔女狩りを否定する人はリベラルではないし伝統を守る保守でもない、単なる近代主義カルトの信者である。

 ヨーロッパ諸国の多くが移民を受け入れるのは彼等を追い出す国の事情についての少なくとも建前としての理解があるからである。その建前とはあらゆる国に存する主権である。
 詰り、難民が生じることは仕方がない、しかし、如何なる事情があるにせよ現に難民がいることは否み得ない事実であり、故に彼等難民を移民として受け入れるしかない、それが人道的政策であるとする訳である。

 しかし、アメリカはそうではない。
 アメリカにとっては自国民を追い出し或いは出てゆくことを余儀なくさせることは考えられないことである。
 アメリカは自国民を飢えさせてでも彼等が自国に留まるべきであるとする。
 敵にもてなされ若しくは迎え入れられるよりは死を選ぶ、それがアメリカ精神である。少しも普遍的ではない。
 そのことからいえるのは、アメリカは自国の価値観を世界に広め若しくはおしつけようとするのではなく、他国の価値観を決して受け入れない排他精神なことである。弊ブログは「アメリカのおしつけ」という諸説を故に悉く斥ける。アメリカは自国の価値観を他におしつけようとしたことはないからである。偏に「我々の価値観を拒めば死んで抗議する」と云うだけである。イスラム過激派ととてもよく似ている。
 故に、ドナルド キーン氏はアメリカ精神からすれば極めて邪道である。アメリカ人はアメリカ人が他国に帰化することはあり得ないと思うのである。
 その排他精神が従来のアメリカの相対的国力により或る種の神通力を持っているだけなのが俗に言う『アメリカの覇権』または『アメリカ帝国』の正体である。排他的なアメリカに受け容れられなければ自国の意思を通すことの難しい状況が戦後世界には生起していた、只それだけのことである。

 トランプ大統領の云う'America great'とはそのような排他精神がなかった頃のアメリカを念頭におくものである。新興国のアメリカが世界、殊にヨーロッパの列強や日本に学ぶことにより自国を豊かで幸せな国にしようとしていた時代、それがトランプ政権の原点である。それは無論欧日が追い求めていた植民地主義などではなく、『産業経済で勝つ』ことである。それは沖縄と伊豆・小笠原諸島を除く全ての植民地を失った戦後の日本に倣うことである。

 そのように排他的なアメリカにとっては、移民を受け入れることとは彼等移民を追い出した国に対する非難の意と不可分のものである。
 国は自国民を決して追い出してはならない、それがアメリカの価値観である。
 自国民を追い出すような国はアメリカにとっては、あってはならない国である。
 先ずはイギリス、イギリスはアメリカにとっては本来はあってはならない国である。
 アイルランド、アメリカにとってはお話にならない程の、即ち自らのライフスタイルを脅かして已まないような、文化はあるが金のない国である。
 ドイツ、アメリカにとっては面白いことを教えてくれるが決して信用のできない『頭は良いが性格の気に入らない同級生』のような国である。
 黒人、アメリカにとっては『自国民の繁殖』の観念を脅かすような体の特徴のある国である。
 彼等を追い出すに至った国々は『正しいアメリカ人』にとっては悪である。アイルランド人はアイルランドにおれ、ドイツ人はドイツにおれ、黒人はアフリカを想いながら死ね、それがアメリカ人、殊に奴隷の解放を宣言したリンカーンを支持した北部人の歴史的本音である。
 そのような本音は誰かが公に聞こえる言葉にしなければならない、そうしなければ本音が鬱積して行動に結びつきかねない、故にトランプ大統領はその汚い役回りを引き受けた。彼自らがアイルランド人の親戚でありまたはドイツ人の子孫であるにもかかわらずである。

 『自国民を決して追い出してはならない』と言うと、当たり前ではないかと思う日本人が多いかもしれない。
 しかしその「決して」は如何程に本当なのか?
 偏にアメリカ的発想とアメリカ的価値観の表明に過ぎない手合いが多い。
 アメリカは少なくとも物理的には自国民を追い出す必要のない国土の広さを有する。
 日本は自国民を追い出さないと『充分に豊かな生活水準』を実現することは物理的にできない。
 日本が『自国民を決して追い出してはならない』という時、それは「今より豊かになることを金輪際断念しろ。」というメッセージが暗に含まれる。上野千鶴子がそれである。
 真先に追い出されるべきなのは当の上野千鶴子である。

 日本の移民に関する態度は元来はヨーロッパのように、避けられない現実に対する冷厳な対応、即ち愛によるものであった筈である。しかし、いつしかそれは移民を作り出す国々に対する非難と抱き合わせの政治的営みに変わっている。そこで移民を積極的に受け入れるべしということは人間の政治恣意的選別や国際不和を更に作り出すことに資するものとなりかねない。

 故に少なくとも、日本人はマドンナやレディー ガガ、メリル ストリープなどに賛同していてはならない。

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by keitan020211 | 2017-03-07 20:09 | 文明論 | Comments(0)
北朝鮮大使 persona non grata に考える 法治の基本原理
 'persona non grata'という語が今の報道に出て来ている。
 その報道とはマレーシア政府が北朝鮮の金正男と思しい者の当地での殺害の事件に関して北朝鮮政府が彼の遺体の無条件の引き渡しを求めていることなどに対する報復の措置として北朝鮮の外交官を国外追放の処分にしたことである。
 その際の処分の根拠は外交関係に関するウィーン条約の定める'persona non grata'であり、「好ましくない人物」のことである。国は外交関係にある国の外交官が自らにとって好ましくないと思われる場合にはその追放を命ずることができるというものである。

 その「好ましくない人物」というベタな表現に、少し違和感を覚えた人もいるのではなかろうか?
 その「好ましくない人物」とは日本人の大好きな外国語の意訳ではなく、粗そのまんまのラテン語の正しい訳である。
a0313715_17410935.jpg その違和感とはマレーシアは自由で民主的な国であって北朝鮮は異分子を抹殺するような独裁国なのに逆に自由なマレーシアが相手方を好ましくないからといって追い出すことは如何なものかという感じである。また、何でそのような自由や民主主義とは似つかわしくない独裁的決まりが国際条約として在るのかとも思うかもしれない。
 多分、その条約を知り適切なものとする人にも、「好ましくないからといって追い出してはならないことはあくまでも自国民または合法的外国人労働者などの自国に好意的な外国人に関する道理であって外交関係における外国の人物には当て嵌まらないから」という程の理解をしかしていない向きが多いのではないか。確かに、国交を結ぶかどうかは国の主権、即ち国家意思であり、'persona non grata'を認めないならば全ての国との国交を持つべきことになる。
 因みに、北朝鮮政府もそのマレーシア政府の処分に応酬する形でマレーシアの外交官の国外追放を決めた。但しその外交官はその処分が下る前に既に任意に辞任している。その北朝鮮の処分はいわば実際とは一致しない形式を以て相手方への抗議を示すものである。

 国際条約には何故にそのような自由や民主主義に似つかわしくない概念があるのか?

 「国際関係は自由で民主的な国々の間だけのものではないから」:それも半ば正解といえる。世界には様々の国があるのでその現実に適う価値中立的規範が必要となる。一つはそれである。

 しかし、もう少し踏み込むと、そのウィーン条約がそのような価値中立的意義を初めから持っていたのではないことに気づく。
 外交関係に関するウィーン条約の締結は1964年(昭和39年)、国際連合、国連が発足してまだ日が浅いが、今から見ても53年と、出来て日の浅い条約である。
 ウィーン条約が出来た時には既にケネディ大統領が暗殺により他界している。ケネディ政権の時代はアメリカが台頭してきた時代であり、アメリカ的価値観が世界にブレークし始めた時代である。
 ウィーン条約は「ウィーン」というがハプスブルク家で有名なオーストリアなんかがあったりするヨーロッパ的価値観が基となってのものではなく当時に人気が高まって来ていたアメリカ的価値観が基となって出来たものである。
 その叩き台となった古い決まりが国際慣習法を基に成文された、19世紀の初めに定められたウィーン規則とエクス ラ シャペル規則である。「ウィーン条約」の名は百五十年前の「ウィーン規則」の名を国連が受け継ぐ形のものであるからであるが、そこに新たにアメリカ的価値観が加わって原理を少し異にするものとなった。
 そのアメリカ的価値観とは「追放とは追放する側の意思のためというよりは追放される側の人権のため」というものである。それがアメリカ的原理であるとはヨーロッパ的原理には元はなかったものであるということである。
a0313715_17393177.jpg それを今般のマレーシアと北朝鮮の事例に当て嵌めて見ると、マレーシアによる北朝鮮の外交官の国外追放はマレーシアがその国家意思を表明して執行するものでもあるが、より重要なのはその北朝鮮の外交官が自らを「好ましくない」とする国に居続ければ彼の人権若しくは彼の国の主権や国益が危うくなることもあり得る故に追放を寧ろ歓迎すべきということになる。そう見れば、その彼が北朝鮮へ帰る途の航空機にいて何故か安心して笑っている様も理解可能になる。
 偶に、「出て行け。」と云われると苦笑しながら諾々と出て行く人がいるが、その北朝鮮大使の反応は正にそれと同じである。それを理解できない人から見ると「追い出されて笑うとは何だ?」と訝しみまた呆れるものであるが、その笑いは相手を莫迦にしているのではなく追放の決定が既存の緊張状態の解放をもたらして一安心を感じさせることによるものである。
 それを理解できる人は多分、戦後世界におけるアメリカの台頭などの潮流に良きにつけ悪しきにつけ敏感な人であり、それを理解できない人はアメリカであろうと何であろうと権威の決めたことを良きにつけ悪しきにつけ無条件に受け入れる人である。それらの別には、親アメリカか反アメリカか或いは親ヨーロッパか反ヨーロッパかは関わりがない。偏に時代に臨む感覚の違いである。

 追い出す側と追い出される側の何れにも無難で好ましくなるようにする決まりを、戦後世界にブレークしたアメリカ的価値観が作り出した。
 若しそれがヨーロッパの発想と主導によるものであったならば逆にラテン語ではなく不承不承にも英語になっていた筈――ヨーロッパ人は既にラテン語に然したる価値を感じてはいない。――であり、それがラテン語になったのは知識や教養をひけらかしがちな新興国アメリカの発想と主導によるからである。
 ヨーロッパの発想とは追い出す側の意思を重視するものである。艇好く追い出すためにはそのための論理的理由を要し、故に「好ましくない人物であるから」では理由としては弱いと見る。また、追い出される側の人権は追い出された先が保障するべきものであり追い出す側がそれを考える義務はないとする。若しマレーシアが彼の追い出される先である北朝鮮を人権のない国と思うならばマレーシアは去りゆく彼を見殺しにしても構わないと思っているということであり、現代世界の主流の価値観からすればマレーシアの側に不義があるとすべきことになる。しかしそうではなく、マレーシアは追い出す側と追い出される側の双方の名誉と人権を考慮して彼の国外追放を決めたのであり、それは北朝鮮の主権と人権への信頼の証でもある故に、それが両国の国交の断絶に至る可能性は極めて低いと見るべきものである。

 主にヨーロッパの、延いてはそれとの歴史的関係を持つアジア諸国の慣習に基づいて形成された国際法は戦後にアメリカ的価値観が加わることによりより完全なものとなっている、そのように見做すことができる。本部所在地という立地の功ともいえようか。
 ウィーン条約の締結の頃のヨーロッパがそれを理解して取り入れることにしたのは所謂西側自由世界を東側共産世界に対して守るための動機もあり、それを必ずしも純粋に人智の進歩と見做すことはできないことも念頭におくべきではある。西側自由世界がその立場を堅く保つためにはヨーロッパの既成の価値観だけでは及ばず、新興国アメリカの価値観の導入を必要としたのである。
a0313715_17445676.jpg 然も好いことに、'persona non grata'は自由や民主主義を旨とする国々だけではなく北朝鮮やソビエト連邦などの独裁国もまた理解可能として取り入れたものである。それらの独裁国はいわば旧いヨーロッパと類似の価値観を持ち、追い出す側と追い出される側の双方の益を考えるようなことは元々はない。しかし、追い出す側である自国の益と国際法の決まりが一致すれば自ずと追い出される側の益にもなるのであれば――尤も、そこには自由で民主的な他国の対応を当てにするようなものがあり、必ずしも誉められるものではないが、――国際法秩序に多かれ少なかれ加わることは望ましくないことではないと考える訳である。
 故に、国際法や国際秩序の解釈を巡る少なくとも彼等にとっては論理的な議論が必須のものとして主張されるのであり、そのような行動様式はヨーロッパやアジアの多くの国々にとっては元々理解可能或いは同種なものであり、故にマレーシアやインドネシアなども北朝鮮との国交を持つ。

 しかし、国際法や国際秩序、または、国法や国家秩序を巡る解釈を巡る議論という発想は困ったことに、一方のアメリカには元々はない。
a0313715_17464495.jpg アメリカ人の多くにとっては法や秩序の解釈は自明の理であり、議論の余地はないものである。
 その理由の一つは正しい解釈とは違う解釈の生じる余地のない条文を作ることが当然と考えることである。それは異民族による度重なる征服の危機若しくは被征服の歴史のあるヨーロッパやアジアにおいては余り考えられないことであり、条文には何等かの不備や無理解があることが当然と見る発想であり、不備は随時に改められることを要し、無理解は随時に議論による説得を要すると考える。アメリカはそうではなく、法や秩序は征服などの危機のない平和な状況において議論されて決められるべきものと考える。故に、戦争になるとそのような知的営みが放棄されて箍がなくなるのである。アメリカは戦争と平和のコントラストが大きい国である。
 日本はそれらヨーロッパ・アジア型とアメリカ型が鋭く混在する国であり、それらの間に曖昧に引き裂かれる傾向がある。
 そのことは憲法の改正の是非を巡る論議や報道の公正中立や不偏不党を巡る問題にも大いに影を落としている。
a0313715_17483721.jpg 解釈を巡る議論の積み重ねが必須であるならば憲法に関しても解釈の変更は認められるべきものであり、故に解釈改憲はそれが現下にアジェンダとなっている日本だけではなくヨーロッパやアジアの多くの国々にしても理解可能なものである。実際の改憲の履歴が多いのはそれを要するだけの大きな価値観の変化――例えば「第◯共和制への移行」などの――があったからであり、然程に大きな変化がなければ解釈の変更のみとすることもあり得るのである。日本にしかないことなのではない。
 処が、フランス思想に明るいという内田樹神戸女学院大学教授などは解釈改憲などというものはあり得ない、認められないと云って安倍政権による憲法9条の解釈の変更を非難している。新しい解釈の内容についての批判はあるべきであるが、解釈改憲そのものの否定は少なくともフランスなどのヨーロッパや日本などのアジアの伝統的発想とは異なり、彼の発想は選れてアメリカ的である。尤も、彼のような東京系関西人はいわばアメリカ系フランス人のようなものであり、『世界あり得ないもの百選』に入る程の特殊なものである――関西やフランスがアメリカとは異なる意味におけるチャンスの地となるということにおいてはそれを「あり得ないもの」とすることは決して良いことではないが、――。
a0313715_17504688.jpg 報道の公正中立や不偏不党についてはもっと根が深い。
 それらの何れも放送法の定める規範であり、一般に新聞や雑誌などの印刷出版物に関してはその規範の拘束を必ずしも受けないといわれる。
 ニュースの解説者が幾度か「放送法の趣旨は」と言うのを耳にする。
 実はその「法の趣旨」というものは選れてアメリカ的発想と価値観であることに気をつけるべきである。
 そのように云う私、弊ブログも時に「その法律の趣旨は」ということを語ることがあるが、全ての法についてではなくそのようなものの存在の見出せる法について語る場合だけである。
 ヨーロッパやアジアの多くの国々の伝統的法治においては、「法の趣旨」というものはない。法とは ①現実に対する問答無用の処分②それを公正中立に執行するための普遍的原則 を定めるものであり、そこには人間の趣旨があってはならないとされる。法とはそもそもは神の定めるものである、それが原理である。尤も、問答無用の処分が非人道的なものであってはならないので人権という公正中立の原則が必要となる訳である。
 先ず、日本の所謂リベラルと呼ばれる人々はその問答無用の処分というものを認めない。それは彼等が少なくとも、ヨーロッパやアジアの伝統的リベラルの価値観に基づくものではなくアメリカ的価値観に基づきたいことの現われである、良く言えば。彼等は問答無用と公正中立が相容れる筈がないではないかと云う。公正中立の故に問答無用は可能である、それが本当のリベラルの原点である。
 アメリカの法治は人間の趣旨を重視する、というか、それがなくてはならないとされる。
 故に、人の名を冠する名称の法律が多い。中には被害者として命を失った人の名を関する法律もある。
a0313715_17530619.jpg 日本の放送法もまた、そのようなアメリカ的発想と価値観に基づく法律である。
 今のアメリカには日本の放送法にあるような不偏不党の原則はないが、昔のアメリカの放送法にはあった。
 不偏不党の原則の前に、そもそも法律がその制定の趣旨をだらだらと講釈することがアメリカ的である。いわば、アメリカにおいては法律とは多数が賛成する哲学や道徳律に過ぎない。それで、アメリカ人には何の疑問もない。立法の趣旨が自ずとその解釈を定めるので、条文の解釈を巡る議論なんてあり得ない。皆がそれをおかしいと思えば平和な時に議論をして改正するだけである。
 不偏不党を守り、それに反すれば権力者が咎め立てをする日本の報道と不偏不党がなくて偏向報道をしても咎められることのないアメリカの報道、その違いはそれぞれの時代の趣向の違いに過ぎず、実はそれらは同質である。
 ヨーロッパは不偏不党というものはあり得ないと初めから見定めているのでそのような概念そのものが存在しない。しかし自己の党派性や趣旨に余りにも固執するならば自ずと損をするものなので各々がよく考えて報道するべしということになる。日本にもそのような発想に馴染む向きは多かろう。

a0313715_17554717.png トランプ政権の成立はアメリカにおけるかのようなアメリカ的発想と価値観の衰退の反映といえる。
 'We are gonna make America great again.'と云うが、その真意は『アメリカ的発想と価値観には依らずにアメリカを強く幸福な国にする』ということである。尤も、アメリカ的発想と価値観の全てを捨てよと求めているのではなく、それが通用し難くなっている世界の現実を認識するべしということであり、そのためには既存の発想と価値観をかえることも必要ということである。
 片や反トランプは尚も、『多数が賛成する哲学や道徳律としての法秩序』の維持と発展を求めている。普遍的ではない。

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    ●朝日新聞(日本 大阪)
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    ●ボストングローブ(アメリカ マサチューセッツ州ボストン)
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    ●タンパベイ タイムズ(アメリカ フロリダ州タンパ)
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    ●ザ テレグラフ(イギリス 英国 ロンドン ウェストミンスター)
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    ●ジ インディペンデント(イギリス 英国 ロンドン)
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by keitan020211 | 2017-03-07 17:22 | 文明論 | Comments(0)
【考察日本語】「ブーメランを続投すれば結婚は確実」
 私のお気に入りブログである井上静氏の『楽なログ』が『「ブーメラン」というバカなネットスラング』と題する記事を最近に出してネット右翼と安倍政権の言葉遣いを批判している。
a0313715_16102228.jpg ネット右翼は数年前までと比べるとかなり弱体化しており、安倍政権を熱烈に支持するような彼等の論調も韓国、北朝鮮と中国を指す所謂特定アジアの在日外国人に対する憎悪口上、ヘイトスピーチの類もあまり見受けられなくなっている――その理由は一つにはアメリカのトランプ旋風が日本の排外主義をも吸収してそれを鎮めるものとなったことがあろう。やはり何にでも、政治的言揚げは必要である。――。彼等の流行語「ブーメラン」もまた一頃と比べれば聞かれないものとなっている。
 それでも、「ブーメラン」などというような比喩をなさない比喩もどきが次々と再生産されてゆく傾向はなくなっている訳ではない。
 「ブーメラン」が何を指すものであるかはその『楽なログ』の記事に概説されているので参照されたい。


a0313715_16130362.jpg その記事の数日後にネットニュースに出た記事に、テレビ朝日の小川彩佳アナウンサーと嵐の櫻井翔の交際の報を受けてのテレビ朝日の対応についての推測を語るものがある。その記事は若し小川と櫻井が結婚するならば小川の担当するANN報道ステーションの副キャスターをこの3月を以て「降板」するであろうし或いは結婚を当面は見送るならば小川は「続投」するであろうと云う。
 「降板」とは退任のことでありまた「続投」とは留任のことであるらしい。
 本題とはずれるが、局がその交際を尊重すると会見で述べた折に人事異動をしたら、そこで述べたことが嘘で何等かの制裁の意図があるかのように思われてしまう故に、二人の交際が今後にどうなるにせよ小川の「降板」、即ち退任は賢明なことではない。何しろ、交際を続けるために最も好都合なのは小川と櫻井の勤務時間が重なることな筈であり、それがずれるようになれば逆に局が交際を妨げることになりかねない。その推測は正に比喩をなさない比喩もどきを生み出し易い粗雑な状況認識に基づくものである。粗雑な状況認識とは物事を深く考えずに口を出そうとすることである。
a0313715_16153243.jpg 「降板」に「続投」――その比喩的表現は云うまでもなくスポーツ報道の用語から出たものであり、野球の投手が交代することを「降板」といい、交代が検討されるもしないことを「続投」と言う。注意するべきなのはそれらは野球用語ではないことである。野球の用語としては交代は「交代」であり、交代しないことは「交代しない」と言う。専ら実況を含むスポーツ報道におけるショーアップの一つとしてよりドラマティックな感覚を誘う表現が用いられるのである。
 しかしそれが野球だけにではなく後にしばしば政治報道や経済報道にも用いられるようになり、それがドラマティックな演出としてだけではなく比喩としての性質も加わるようになっている。内閣総理大臣などの政府の閣僚や政党の要職についてや企業の役員などにつき「降板」や「続投」の語が用いられる。閣僚の交代――それも「内閣の改造」という比喩的表現が用いられる。――の多い安倍内閣については殊に多い。最も「続投」の多いのは菅義偉官房長官と麻生太郎財務大臣である。
a0313715_16170605.jpg 政治や企業は野球ではない。なので野球報道の言葉をそこに用いることは場合によっては『楽なログ』も云う「間違った喩え」になる虞がある。その不適切さの理由の最も大きなものは野球は負けても儲かることができることである。政治や企業は勝たなければ儲からない。個々の選手においてはともかく、球団や球界の全体としては儲けることには生活が懸かりはしないのが野球であり、他の多くのスポーツもそうである。故に、日本のスポーツが強くなる程に日本の経済が弱くなる。

 「降板」や「続投」などという不適切な疑いのある比喩的表現を日常語や標準語であるかのように遣う報道メディアやそれについて語る人々――それが正にですね、「ブーメラン」なんですよ。

 比喩とは比喩される現実とそれを比喩する表現が同じ性質や構造の認められるものであって初めて適切な表現になる。政治、企業と野球にはそれぞれ然程の同じ性質や構造がないので比喩として不適切な訳である。
a0313715_16195548.jpg 比喩的表現だけではなく、国民はそのように不適切な語法を報道メディアや娯楽メディアを通して色々と聞かされる。そして日頃の話題がメディアに始まりメディアに終わるようになると国民の日常の語法も不適切となって来る。尤も、多くの人々は「安倍総理は辞めるか辞めないか」と言い、「安倍総理の降板はあるかないか」などと言ってはいない。しかしメディアへの依存の高い人々がそのような言葉を遣いながら世を評して結構な影響力を持っている。多くの国民の言葉遣いをかえてしまうには至らないが、世の中を見て考える目はそのような悪い言葉に媒介されて粗雑とならざるを得ない。

 適切な表現のためには現実を確りと見て捉え、他者の理解を求める心が必要である。または、分からない現実については富川悠太キャスターのように安易に口を挟むことを避けることである。

 国語教育にその一つの原因を求めるならば、従来の国語教育は高名な文学作品などの『前例』を読み親しませることに偏っていることが日本のメディアや少なくはない国民における比喩的表現の濫用などの不適切な言葉遣いを生むものとなっている。
a0313715_16213235.jpg 文学作品は作者の固有で独自な思想や表現の産物であり、標準的国語を学ぶ材料としては全く不適切とはいえないが、あくまでも参考としての価値をしか持ち得ない。それを国語教育の根幹に据えていることが国語の構造理論を学ぶことを妨げている。
 文学作品や大新聞のコラムなども批判的題材とするならば国語の構造理論を学ぶことにつながり得るが、多くは我が国の歴史的文化遺産である故に批判せずに受け容れるべしという構えが取られる。何を題材にしようとしなかろうと――例えば教育勅語も。――そのような構えを以て題材にされるならばことごとく偏向教育である。
 「降板」や「続投」、「内閣改造」もまた、そのような歴史的文化遺産のレッテルが事実上の第一権力であるマスメディアにより嬉々として貼られている。
 マスメディアがそんな間違った喩えを遣うから、ネットにも頭の悪そうな「例え」が氾濫する。マスメディアがネットに負けているのではなく、ネットにも結構なマスメディアによる支配が出来ている。

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by keitan020211 | 2017-03-01 16:21 | 文明論 | Comments(0)
教育勅語を読む
敎育に關する勅語

朕惟ふに我が皇祖皇宗國を肇むること宏遠に徳を樹つること深厚なり 我が臣民克く忠に克く孝に億兆心を一にして世々厥の美を濟せるは此れ我が國體の精華にして敎育の淵源亦實に此に存す 爾臣民父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し朋友相信じ恭儉己れを持し博愛衆に及ぼし學を修め業を習ひ以て智能を啓發し徳器を成就し進て公益を廣め世務を開き常に國憲を重じ國法に遵ひ一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし 是の如きは獨り朕が忠良の臣民たるのみならず又以て爾祖先の遺風を顯彰するに足らむ
斯の道は實に我が皇祖皇宗の遺訓にして子孫臣民の倶ニ遵守すべき所之を古今に通じて謬らず 之を中外に施して悖らず 朕爾臣民と倶に拳々服膺して咸其徳を一にせむことを庶幾ふ

明治二十三年十月三十日
御名御璽

 何が悪いというのか、さっぱり分かりません。
 暗唱の価値はあると思います、私はすらすらと読むことができるだけですが。但し「厥」、「咸其」と「庶」は読めません。「よよけつのびをさゐせるは…」;「いそのとくをゐつにせむことをつれづれねがふ」?
 正解は:「よよそのびをさゐせるは」;「みなそのとくをゐつにせむことをこひねがふ」
 弥栄です。

 それを悪いと思う人は何ゆえにそのように惟うのでしょうか?

 それは教育論と政治論や社会論を結びつけて考える習慣がついてしまっているからです。
 専門の領域に留まらないということでは様々の分野を跨ぐ考え方は寧ろ求められるものでもありますが、教育勅語を悪いと思う人々は様々の分野を「科学的に」繋ぎ合わせれば一つの統合的、universalな『真実』に達することができると前提します。
 その前提に随うと、明治天皇が教育に関して勅令をしたその言は帝が君主である以上は教育のみに留まらず多くの分野領域の基本的思想を前提づけるものであろうと見定めることになります。教育勅語が政治の原理にもなりまたは社会問題の解決の原理にもなるというのです。
 尤も、その精神が政治や社会、経済に及ぶことが全くない訳ではありません。教育は生涯の早い日々における人格の陶冶になるものであり、その後の生涯に多少の影響を与えるものです。しかし前提としては教育勅語は教育における基本的価値、それを与える者と受ける者の思惟や実践の目安として在るものであり、それを基準として政治や社会、経済を動かそうとするものではないのです。
 政治や社会、経済は特定の代表者と不特定の多数の市民により組織的に営まれるものですが、教育はその前に、組織に加わる可能性のある個人に与えられるものです。教育勅語は諸々の個人が一つの目安とすべきものとしての人間性の根本を説くものであり、故に賛否にかかわらず尊重すべきものです。
 政治をどうする?、社会をどうする?、経済をどうする?――その前に、一人の個人として含みおくべきことを説くのが教育勅語です。それを一人の個人として実践するかどうかはともかく、そこに説かれることに関する視座がなければ政治、社会や経済の不調や破綻は寸分たりとも改善されません。実は現野党の政治家等も、それを分かってはいるのです。にもかかわらず彼等が教育勅語への理解を寸分たりとも示さないのは選挙の票をあてにするためのポジショントークです。そしてその票となる有権者国民は先の『科学的統合的思惟』から、現野党の政治家等のポジショントークに躍らされていることに気づきません。彼等政治家が教育勅語とは異次元の世界にいてその異次元の価値をあらゆる分野に亘り統合的に実現することを志す人達である筈と思い込むのです。
 凡そ職権を有する政治家の殆どは教育勅語の精神を弁えずに務まるようにはできていません。今は意ならずもそうではないのではなく、そのような政治の制度は永久に出来得ません。そのようなものが極めて例外的にあり得るとしても、ルイ16世のような趨勢を辿るでしょう。
 蓮舫も山尾も玉木も、志位も小沢も皆、教育勅語を尊重する人達です。

 重ねて云いますが、教育は教育です。
 教育における価値は他の領域における価値を直ちに決定づけるものではありません。
 而して教育の領域のみを見る際には、教育勅語がその標準の価値となることは明白に妥当であるといえます。
 天皇は政治的中立の立場なのでそれを令することのできる者は天皇の他にはあり得ません。
 一々云うのも面倒臭いですが、教育勅語は政治的意図の全くないものです。
 そのまんま再採択してもよい程です。

 故に、今はやりの森友学園が教育勅語をその児童に暗唱させることを非難している人々は政治的中立性を否定し且つ教育そのものを、延いては人が人として生きることを否定するならず者の外の何者でもありません。

045.gif『科学的に統合的に考える』のを今直ぐにやめよう。/Let you stop 'conceiving scientifically and universally' right now.

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