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【考察日本語】『吉澤準特【3万時間でたどり着いた文章術】 読みやすい資料を作るための6つのルール』を検証する
 外資系IT企業の有力者で著述家の吉澤準特氏が今日3月29日のBLOGOSに『【3万時間でたどり着いた文章術】 読みやすい資料を作るための6つのルール』と題するhow to物の評論を出している。

 「準特」とは派手な名でどう読むのかは分からないが、字面を見るに想い浮かぶのは京王電車の準特急、略式表示では「準特」である。今世紀に新しく特急に準ずる列車として出来たものであり、東京新宿~府中が特急停車駅で府中~八王子が急行停車駅となる。日本にも世界にも唯一つの列車名である。

 その評論には主に実践の望まれるものとして6つの、加えて更に6つの、合わせて12の文章術が紹介される。
 ざーと目を通して大体良いと思わしいことが記されるが、それら12の則(ルール)が適当であるかないかをここに検証してみる。
 「3万時間で」とは凡そ1200日で、3年半程、三行半程ではないが、長いか早いかは人によろう。

a0313715_19333375.png1.一般的な表現を使う
2.明確な表現を使う
3.文体を統一する
4.トートロジーを削る
5.「~を行う」を多用しない
6.受け身を多用しない
7.長くない一文で表す
8.接続詞と指示語を多用しない
9.前提を明示する
10.主語を明示する
11.主語と述語を近づける
12.校正機能を利用する

◎:正にその通り ◯:凡そ正しい △:正しいが必ずしもそうとは限らない ×:誤り

1.一般的な表現を使う :△

 言葉でも何でも、「一般的」という認識は人によりかなり違いがある。或る程度の客観的認識は可能であるとはいえ、或るものが一般的であるかないかを立証することは難しい。故に言葉、言語にはフランスやドイツにはあるような正しい国語を定義して維持するための権威となる団体がしばしば設けられ、日本にはそのようなものがない故に言葉の揺れや乱れが著しい。何れにせよ、何等かの権威が認めるものが一般的と見做され易いものである。尤も、ここに弊ブログが云いたいのは権威に遵うべしということでも権威に遵うべからずということでもない。
 故に、「一般的な表現」を特定することは難しく、それだけで無駄に思惟と作文の時間が掛かることになる。学問ならともかく、業務などにおける資料の作成は急ぐことが求められるものなのでそんな時間を掛けてはいられない。 故に、表現はそれをする人が知っている通りにする、自らの知見や能力を偽らずに思うように/求められるように表現する、それが最も大切である。
 資料なら資料だけで完結するのではなく、それを用いての口頭での説明がある訳であり、資料に分かりにくい言葉があると指摘されたらその意味の説明や言い換えをその場ですることができること、後で説明するとの約束をしたらそれを反故にすることなく約束の通りに説明すること、そのようなフレキシビリティーとアカウンタビリティーこそが望ましいものである。
 「資料だけで完結」、それが資料作りの下手な人や表現そのものが下手な人の最も陥り易いことであり、資料を作れと云われるとそれだけに奔走して意を注ぎ込もうとする。すると理解しにくい自己満足的な仕上がりになり易い。そこには正に「これ、一般的な表現なんですけど…」が駆使されていることが多い。

 口頭での付加の説明をすれば、メモを取る人がいる。
 メモを取ればお引き取り願う、それでは明らかに駄目であるが、実際にそうすることがなくてもプレゼンターとしての心性においてそのような構えを暗に取る人は少なくないのではないか。「苦心して作った資料を理解できない聞き手が悪い、人の話を聞け。」というのである。
 聞き手が資料だけに目を落としておれば語り手は自らの姿を見られずに済む。

2.明確な表現を使う :◎

 その典型はこれ:「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
 ――日本国憲法第9条第2項の条文である。
 「前項の目的を達するため、」の部分は芦田修正と呼ばれ、原案にはなかった文言が後に芦田均総理の提案を受けて追加されたものである。
 それを見、その部分があってもなくても意味は同じではないか、何れにせよ戦力の完全な放棄を定める条文ではないかと誤解する向きが少なくないと思われる――一体、何が「修正」なのかと。
 実はそれは助詞と読点の用い方の不備から来る誤解であり、本当は「前項の目的を達するための」でなければならない。それの指す「前項の目的」とは「国権の発動たる戦争と武力に依る威嚇または武力の行使」であり、彼等が解しているような「…は、永久にこれを放棄する。」を指すのではない。「放棄する目的のため」ではなく、それらの行為を目的とする戦力の保持と交戦権の行使を認めないのである。
 本題とは逸れるが、故に憲法9条の改正は必要ではなく、語法の不適切を校正するだけでよい、尤も、校正するだけでも改正の手続きを要するが。
 因みに英文では同じように'for...'や'in order to...'と記してどちらにも取れる。

 憲法がそうであるからか、日本の言語シーンにおいては曖昧な表現が多くなっているようである。その点は、大日本帝国憲法がより優れると見るのは強ち誤りではない。帝国憲法の時代には良かれ悪しかれ曖昧な表現が招く悲劇はなかったからである。あったのは或る種の明確な表現による悲劇である。しかし、そうであるからといって戦後的曖昧な表現が良いというものでもない。当時とは違う悲劇は跡を絶たない。問われるのは明確に表現される意思と内容である。

3.文体を統一する :△

 弊ブログのように粗全て「である調」で「だ調」を99.9%用いない者もいるが、例えばそれらの使い分けに関しても、必ずしも何れかに統一するべきとはいえない。
 現在の日本の殆ど全ての新聞は「だ調」に統一されており「ムッシュムラムラ!」並みの言説を弄しているが、昔の新聞には「である調」を取るものが多く、朝日新聞もまたそうであった。今の朝日新聞は、『天声人語』などの随筆記事において稀に格好をつけるため一際気合いを入れて訴えるために「-である」が用いられることがあるだけである。
 しかし、学術論文においては逆に今も「である調」が主流であり、「だ調」は稀である。一般に、「である調」は公式な表現に相応しくまた「だ調」はジャーナリスティックで時に一寸だけアウトローな感じの表現に相応しいと見られている。
 しかしそのような使い分けは元々はなく、単に文語と口語の違いでしかない。戦後の新聞界における文語の排斥と口語至上主義の流れが「である調」を放逐した。無論それは根拠のない似非科学の類であり、本来は新聞も「である調」がもっと増えることが望ましい。
 人の言葉遣いには文語的言辞と口語的言辞が折々に使い分けられるものであり、「である調」と「だ調」が同じ文の中に混在しても何らおかしくはない。寧ろ、表現に奥ゆきが感じられる場合がある。それは資料作りに関しても同じであり、人は奥ゆきの感じられるものをより強く買いたいと思うものである。例えば「気合だ!気合である!気合いです!」でも良い。

 また、所謂敬体と常体も、統一すると変である。
 「常体だけ」は然程に変ではないが、「敬体だけ」は文面ががちゃがちゃとして目障り、口にすれば耳障りになる場合が少なくない。その故に、日本共産党の機関紙しんぶん赤旗は説得力が半減しているともいえます。「敬体だけ」に統一することにより緊張感と本音感が感じられないからです。

 そもそも、「統一/universal; unify」という観念はフレキシビリティーのなさを招く。自分の則(ルール)に全て従ってもらうというおしつけがましさが生じ、聞き手はそれを理解したいとか取り入れたいとは思わなくなってしまう。文体一つでもそのような空気は生じるので、文体の統一ということはマニアックな作家にでもさせておけばよい。

4.トートロジーを削る :△

 トートロジーとは同義反復のことであり、修辞学の基礎概念の一つであるが、重複表現をもトートロジーというのであろうか?、私は聞いたことがない。
 同義反復とはその最も単純な例は「猿の尻が赤いのは猿の尻が赤いからである。」みたいなものである。説明になっておらず、その事象を抗弁を許さない自明の理に仕立て上げる修辞の技法―?―である。
 そこに例示される「白い白馬」は「白馬でも取り分け著しく白い」ということに解せるし――然程に白いとは思えなくても、少しでも白ければ種の名としては白馬と呼べる。――、「頭痛が痛い」は頭痛という一般的現象とそれに関する自らの感想を分けて捉えて表現するということに解せ――それは「白い白馬」も同じ場合がある。――、何も誤りではない。言葉には客観的事実の要素と主観的感慨の要素があり、それらを分けて表現することはより公正中立な表現をしているものともいえる。故に日本の新聞はそのような意味のあるものである筈の重複表現を誤りであり直すべきものといっているから、公正中立とは程遠いフェークニュースといわれるのである。
 但しそのような必要のない場合はあり、そこで重複表現をしておればそれは無駄であるといえる。故に重複表現を直すことが必ずしも悪いというのではないが、多くの場合は直すべきではないといえる。

5.「~を行う」を多用しない :◎

 「行う」を英語で言うと、'to hold'或いは'to perform'となる。
 そのような英語の意味と照らし合える場合だけが「行う」の適切な用法であるが、「行う」を「する」のフォーマルな表現であるかのように誤解している向きが多い。
 「会議を行う」は'to hold a meeting'であるし、「政策を行う」は'to perform the policy'となる。'to do a meeting'や'to do the policy'なら、「会議をする」や「政策をする」となる。因みに「やる」は'to give'或いは'to take', 'to play'である。
 「行う」を「する」のフォーマルな表現であるかのように誤解している向きが多いのは近現代の日本語が古来の標準的日本語を知らない長州などの田舎侍が東京で政権を取ることにより定められたからであり、故に長州に由来する政治家である安倍晋三が「当該措置を適切に行うことが必要となる訳でありまして」などとしばしば言うことになる。尤も、「措置」は'to hold a measure'と言えるので必ずしも誤りではないが、安倍の他にも「行う」を濫用する者は多い。その他にも、安倍晋三の演説や答弁などの言葉には標準的日本語とは掛け離れる変な言葉が多い。

 それなどは正にですね、『1. 一般的な言葉を使う』の重要さを物語ることである。一般的な言葉を遣わずに自らの知見や能力を偽ろうとするから、「行う」や「…の上から判断して」などのようなより難しげな言葉を遣ってみてそれが誤りになるのである――「…の上から判断して」は正しくは「…の点から判断して」や「…から判断して」―。

 また、「「可能だ」と並んでビジネス文書頻出の表現が「必要だ」です。これも「すべきだ」と書き換えることで文を読みやすくできます。たとえば、「修正が必要だ」→「修正すべきだ」と改めることができます。」は誤りであり、「すべき」や「すべし」は誰がどう見ても明白にそのようになる筈なことを指す。然程に明白ではなくあくまでも当事者の意思や判断としてする/なることが望ましいということなら「するべき」や「するべし」となる。そのような場合に「すべき」や「すべし」では決めつけがましくまたおしつけがましくなる。
 「必要だ」にも適切ではない場合はあり、「必」の字が示すように、正に明白かどうかは分からない、延いては当事者の意思さえも確かではない場合に用いるならば不適切であるといえ、そうではない場合には「-ことを要す と思われる」が適切となる。

6.受け身を多用しない :△

 これは、日本語の受動態の表現が英語などの外国語にかなり訳しにくい場合があることからして或る面では適当な指摘であるといえる。それは要は主語を何におくかの問題である。
 但し「-される」が必ずしも受動態であるとは限らない。所謂霞が関語に多いとされる「-される」は受動態ではなく「-し得る」のことである場合も多い――未然形と已然形の組み合わせ――。例えば「かような事例が散見される」は「かような事例を散見し得る」と同じであり、英語では'Anyone can see anywhere such examples'となる。英語では余りなさげな表現ではあるが、フランス語ではそのような表現は頻出であり、強ち日本的曖昧さであって良くないとはいえない。

 逆に、今の日本においては受動態で言うべきものを誤って能動態で言う例が多い。
 そのような語法は粗完全に標準的日本語を用いている私、弊ブログには絶対にあり得ないのでそのような例を想い浮かべてここに示すことはできないが、聞いていて/読んでいて変だと思うような、本来は受動態にすべきものが能動態になっている表現が散見される。逆に英語では、本来は能動態にすべきものが受動態になっていて頭がこねくり返されるような表現がある。
 そのような例では多く、主語が明らかとならない。
 ――一つ思い出した。例えば「天然酵母で作ったパン」みたいなのである。テレビや新聞にもしばしば見受けられるが、正しくは「天然酵母で作られたパン」であり、前者なら主語が必須となる筈であるがそれが暈かされており、パン屋の腕を暗に認めずに神様であるお客様が作ってあげたとでも云わむとしているかのようである。後者ならパンが主語である。

①「わかりました、改善させます」
②「わかりました、改善します」
両者を比べると、①よりも②の方が積極性を感じられます。

×××ーーーーー!、正解は①。
 「改善します」では主語が取り組む物事となるので単なる説明としては誤りではないが、積極性の感じられるものとはならない、「その事業が改善します。」であるから。
 「改善させます」は'making it improved'或いは'let it improved'であり、使役動詞が積極性を感じさせる。日本語の文法用語では使役動詞とはいわないが、意味合いとしてはそうである。
 ②は取り組む物事だけではなくそれをする自らの心をも改善の対象とすると言っているかのように見えるけれども、よくいわれる、無駄な精神主義の類、即ちいい子振りであり、何をも生み出さない。自らの心の改善が必要なのは当たり前であり、表現に反映させる必要のあるものではない。そんなことを一々アピールする人は信用し難い。

7.長くない一文で表す :◯

 但し、どの位が長いと思うかの認識の違いがある。極端に短く切るのは良くない。
 一つの構文が長いとそれだけ読点の数が増し、それが今時の日本における読点の誤った遣い方、その数の過剰につながっていると考えられる。構文が短ければ読点は殆ど要らないともいえる程である。
 重ね重ね云うが、読点は区切り記号ではない、同格を示す記号である。楽譜のブレス記号とは違うので、息を継ぎたい所やリズムをつけたい所に付けるみたいなのは誤りである。文章においては息継ぎや拍子取りは読み手の任意であり、書き手が示して求めるようなものではない。先述の「資料で完結する」ような人にはそのようなおしつけがましい文体が多い。

8.接続詞と指示語を多用しない :△

 これは一概にどちらが良いとも悪いともいえない。
 指示語の少ない言葉は、必然に同じ単語の繰り返しが多くなる。書き手も面倒臭いし読み手も面倒臭い。現代日本語にはその傾向が強い。
 しかし、指示語の多い欧米語が必ずしも面倒臭くはないかといえばそうではない。文を遡って指示語の対象を特定する読み方や一文に深く没頭して読み漏らさない読み方が必要となるが、そのような読み方を当たり前にすることができるのはおしなべて高学歴な人々であり、歴然たる社会格差が当たり前となる訳である。
 故に、反格差を唱えるリベラル左派の人々には指示語の少ない現代日本語を良い言葉と思う向きが多いと思われる。現実に、ガラパゴス的に変な日本語の多いのはリベラル左派である。
 同じ単語の繰り返しが文章ではなく会話においてとなると更に耳障りである。日本のリベラル左派が多くの場合に嫌われるのはそれが理由である。尤も、会話においては互いの知見や関心の範囲が考慮或いは忖度されることが多いので「あれがさ…」などと指示語を多用しても分かりにくくはならない場合が多い。

9.前提を明示する :◎

 言うまでもなし。

10.主語を明示する :◯

 「主語を省略しても許される唯一の例外:「私」が主語」とあるが、寧ろ「あなた」は略すべきであり「私」は略し過ぎてはいけないというのが日本語の伝統的常識である。
 寧ろ、ビジネスは責任である故に、殊に文章においては「私」を略せない場合が多い筈である。

11.主語と述語を近づける :◯

 短い構文にこだわり過ぎると情報の質が断片的で量が乏しいという印象になりかねない。故に時には主語と述語の間の遠い長い構文を効果的に用いることも必要となる。

12.校正機能を利用する :◯

 単語の綴りなんかは殆ど間違いがなくて使えるが、文の読み易さに関してはソフトメーカーの見解のおしつけであることもあり、必ずしも信用せず、正に先述の口頭での付加説明を重視して資料の出来にこだわり過ぎないことが大切である。

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by keitan020211 | 2017-03-29 19:34 | 文明論 | Comments(0)
【書を読む】橘玲 言ってはいけない 残酷すぎる真実
橘玲 言ってはいけない 残酷すぎる真実
新潮新書 780円、税別
ISDN978-4-10-610663-7 C0236

a0313715_18552881.jpg このような場合に、請求番号の表示は便利である。「橘玲」を読める人は余りおらず、「たちばなれいの…」と本屋に問い合わせてしまう。私は更に彼の名を度忘れしており、「林玲」とネット検索をした。読み方は「りんれい」、シナ人のようである。

 初版が出て丁度1年となるが、その間に私は本屋に並ぶその本を見て読んでみたいとずっと思っていたがなかなか買えず、この程にやっと買うことにした。頁を粗方下見してみると面白そうな主題が幾つかあるが、全体のコスパを勘案するとなかなか購入適当の判定が出なかったのである。
 買って読むと、購入適当であったと感じられる。

 但し、そのように「残酷すぎる真実」みたいな本を殊更に賞しても殊更に否めてもならないと思う。
 殊更に賞する人は自分が現実主義者であると思い込み、とにかく常人の頷かない物事を語るものを好む。一種の曝露趣味というべきものであり、他人の現実には敏くても自分の現実にはどうなのかと思わしいことがそのような人には多い。
 殊更に否む人は云うまでもなく、大向こうに受けるような言説をしか受け容れない。教育勅語の一部だけを取って「その部分は現代にも通じるものがあるが、」みたいなことを言う/信ずる。
 所謂リベラル左派にはそれらの何れをも併せ持つような型の人が多い。或る面では殊更に現実の直視を説き、或る面では現実を無視して通説の護持に是努める。森友問題におけるリベラル左派の多くの取っている態度は正にそのように、自らに都合の好い現実だけに冷徹になるものである。

 橘玲の本書に説く『遺伝子による支配』もまた、場合に由っては自らに都合の好い現実となりかねないものである。
 何しろ、何でも遺伝子のせいにすればいい。自分の不幸も不遇も不満も、皆遺伝子が決めてなっていることなので自分には責任がない、本書をそのように読むことも彼等の得意の『一部だけを取って読む』をすれば楽勝にできる。 逆に、場合に由っては自らの無駄な罪や恥の意識を本書により解放される人もいよう。それは人間の自由意思は万能ではないことを知ることである、自由意思は人間にとって最も大切なものではあるが。

 彼は本書の終りに、場合に由っては環境、取り分け家族などとの非共有環境も大切であり、人が願わしくかわり得る力となると語る。
 但し私がその説に賛同するのは形作られる環境が遺伝とも共有環境とも明確に異質であると認識される場合だけである。『環境を作る』ことはその外には何の意味もないからであり、既成の遺伝子や環境との違いの認識こそが人を願わしくかえ得る。
 そも、家族などとの共有環境とは親が自らの出身家とは異質な環境として作り上げる非共有環境でもある。それが子供にとっては既成の共有環境でしかない訳である。
 環境とはそのように、自他、即ち内と外を分けて差別化するための構造である。それが悪い構造となる場合とは自他不分明、即ち他人の真似とか意識高い系が『リア充成り』を試みるようなものであったりする場合である。所謂世間体主義というのもそれである。環境の異質性の認識はけじめをつける心を生む。それにより、人間は自らの遺伝子をも相当程度にかえることができる。或いは他人の遺伝子を不当にかえることも可能である。
 遺伝子そのものは意味をも意思をも持たず、人の行動が遺伝子の作用と発現の在り方を決める。『遺伝子には色がない』。
 環境作りということも、自分に都合の好い現実をしか見ない人々にとってはそのような異質性の認識の考え方がすっぽりと存在しない。只漠然と、『自由と民主による幸福な社会』を想い描くだけであり、その具体的実践は悉く他人の真似である。そうなると遺伝子にどこまでも支配される自動人間となる。自動人間は「女は子供を産む機械だ。」などという発言を聞くと真先に非難をする。夫も妻も図星な故である。そんなに非難するならば、西野カナの『トリセツ』をも非難して発売中止に追い込まなければ嘘である。

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by keitan020211 | 2017-03-25 19:39 | 芸術(音楽、文学など) | Comments(0)
【英語訳】社説 朝日新聞 2017.3.25
Authorising in the moral studies――Got constrained by an adoption to the subjects
the Editorial of The Rising Sun (Asahi Shimbun, Osaka, Japan)
on Sat. 25th March 2017

The Ministry of civilisation and sciences told to aim at 'conceiving and disputing moral studies'. As the efforts, could be the opinions on the authorisation there, here the textbook.
MCS officially announced the outcomes of the authorisation on elementary schools, under that the moral studies is getting in the subjects since spring of the coming year.
a0313715_17190263.jpgSuch as doing conversing, presenting or playing a role of a hero and considering it: the ways on learning certainly got diverse.
However, the contents vital are in a trussed-up with the guideline on learning.
Try to see some concrete examples on the authorisation.
The guideline puts 22 of points of moral, for the contents of the moral studies, such as 'the honesty and the sincerity', 'the moderation and the temperance', 'the courtesy' and 'the gratitude'.
Different to the other studies, those meant not have any ground neither objective nor scientific. But so those written on the guideline, that the textbooks never getting on as it not covering the all.
Additionally the opinions out of the authorisation have seen that it'd be the improper as that not attaching the concrete items written on explanations of each ones of the points of moral.
For example, the guideline shows for an object of 'the gratitude' the seniors. Therefore that about the gratitude to 'a senior' in a region which some former textbook had was rewritten to 'an old'. 'An athletics' found at explorations in a town, in a reason of 'a respect of the tradition and the bunka', was altered into 'a shop of harps and triple liner strings'.
a0313715_17212267.jpegAmazed on them too much the ladling-ruler. That the textbook first on 'conceiving and disputing moral studies' made by such a constrained posture on the authorisation should be nothing but the irony.
The State rules the contents of points of moral by the guideline and adopts the textbooks made based on it further, the double bound's made the livery textbook. As the Editorial of the Rising Sun has raised a skeptical mind to the adoption of the moral studies to the subjects, the mind just got deeper.
The aim on the moral studies is to let the children's eyes see the challenge of 'how to live'. That should never stay on the frame of points of moral MCS settled originally.
As teachers have a duty to use the textbook, MCS too has never forbidden use of any original teacher tools.
The one we like to request to the leading teachers is a posture that every their idea must be with their pupils and students they are responsible for. We want them to try their guidance to touch the heart, seen any situation surrounds each ones of children or the classes, seen any events around them as the material.
We like the education committees and the heads of schools to respect any intention on the spots as much as they can and to secure rooms on their contriving. For them like to bring it up truly by their mind the conceiving and disputing ability, they should see some classes reading the textbooks critically adapted to the stages of growth, doubting the contents itself.


道徳の検定 教科化で窮屈になった
2017年3月25日(土)

 文部科学省は「考え、議論する道徳」をめざすという。その取り組みが、あの検定意見であり、この教科書なのだろうか。
 道徳が来年春から教科になるのに伴い、文科省が小学校の教科書の検定結果を公表した。
 話し合ったり発表したり主人公の役を演じて考えたりするなど、学習方法はたしかに多様になった。
 しかし、肝心の中身は学習指導要領にがんじがらめだ。
 検定の具体例を見てみよう。
 指導要領は道徳科の内容として、「正直と誠実」、「節度と節制」、「礼儀」や「感謝」など22の徳目を定める。
 他の教科と違い、それらに客観的または科学的根拠があるわけではない。だが指導要領に書かれている以上、教科書はすべてを網羅しなければならない。
 加えて検定意見は一つひとつの徳目の説明に書かれている具体的事項にふれていなければ不適切とした。
 例えば、指導要領は「感謝」の対象として高齢者を挙げる。そのため元の教科書にあった地域の「おじさん」への感謝は「おじいさん」に書き換えられた。町探検で出合った「アスレチック」は「伝統と文化の尊重」を理由に、「こととしゃみせんの店」に変更された。
 あまりの杓子定規ぶりに驚く。「考えて議論する道徳」の最初の教科書がこんなに窮屈な検定姿勢から生まれるとは皮肉以外の何物でもない。
 国が徳目の内容を指導要領で定めてそれに基づいてつくられた教科書を改めて検定する、その二重の縛りがお仕着せの教科書を生んだ。朝日新聞の社説は道徳の教科化への疑念を投げかけてきたが、その思いは深まるばかりだ。
 道徳の狙いは子どもたちを「いかに生きるか」という課題に向きあわせることにある。文科省が決めた徳目の枠内にそもそも収まるはずがない。
 教員には教科書を使う義務があるが、文科省も独自の教材の使用を禁じてはいない。
 一線の先生に求めたいのはあくまでもあらゆる着想は目の前の児童生徒になくてはならないとする姿勢である。一人ひとりの子供や学級をとりまく状況を踏まえ、身のまわりの出来事をも素材にし、胸に届く指導を試みてほしい。
 教育委員会や学校長には現場の意向を最大限尊重して工夫の余地を確保してもらいたい。考え議論する力を本気で育てたいのなら、成長段階に応じて教科書の内容そのものを疑い、批判的に読む授業をも認めるべきだろう。

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■NEWS of the WORLD


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    ●AFP(フランス パリ)
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    ●ル フィガロ(フランス パリ)
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    ●共同通信(日本 東京)
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    ●朝日新聞(日本 大阪)
a0313715_20351165.gif
    ●日本経済新聞(日本 東京)
a0313715_20365208.png
    ●ボストングローブ(アメリカ マサチューセッツ州ボストン)
a0313715_20390867.png
    ●タンパベイ タイムズ(アメリカ フロリダ州タンパ)
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    ●グローブ アンド メール(カナダ オンタリオ州トロント)
a0313715_18190235.jpg
    ●ロイター(イギリス 英国 ロンドン)  
a0313715_14522563.png
    ●ザ テレグラフ(イギリス 英国 ロンドン ウェストミンスター)
a0313715_20590106.png
    ●ジ インディペンデント(イギリス 英国 ロンドン)
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by keitan020211 | 2017-03-25 17:16 | 文明論 | Comments(0)
【ちょっと知りたいキリスト教】「初めに言葉があった。」――ヨハネによる福音書の核心
 直前の記事においては「新聞の言葉は脳に悪い。」ことにつき語った。

 言葉にまつわり、この記事では聖書の言葉について語る。

 とは雖も、この【ちょっと知りたいキリスト教】はキリスト教の宣教を目的とするものではない。――というのは日本にも数多くあるキリスト教学校の常套句でもあるが、私なりに学んでいるキリスト教学の知見をキリスト教やその他の諸宗教についての年来の誤解や偏見を解くことに生かすことを目的とするものである。誤解や偏見は自らの属する宗教とは異なる宗教に関してだけではなく、しばしば自らの属する宗教に関しても持たれているものである。例えば日本は仏教国であるとか神道国であるとかとしばしばいわれるけれども、その仏教徒の日本人や神道を奉ずる日本人がそれらの適切な理解を持っているとは限らない。少数であるキリスト教徒の日本人にも少なくはなかろう。
 よって【ちょっと知りたいキリスト教】の内容は仏教徒や神道派だけではなく、キリスト教徒にも心して覚ゆべきものが大いにあるのではないかと思う。

 昨日に買った本は橘玲の『言ってはいけない 残酷すぎる真実』と山本七平の『空気の研究』である。
 前者はキリスト教かどうかとは余り関わりのない、人類世界の生の現実を語ろうとする本であるが、後者の『空気の研究』は山本氏のユダヤ・キリスト教に関する知見が公然と反映されている本である。
 先ず、そこが山本後、略してA.S.の時代の日本においてしばしば語られる『空気』の論の前提となる筈なのであるが、しばしば「日本人は空気を読んで行動したりものを言ったりする、良くない。」という論はしばしば山本氏の拠って立つユダヤ・キリスト教という要素を粗全く捨象して『空気の研究』を自己流に読み替えていると見える。それを煎じ詰めると、状況を勘案せずにア プリオリにものを言いまたは行動することが正しいというように見える。それが『空気を読む』ことを脱して日本が真の文明国となるに欠かせないことであるという。ア プリオリとは『自由と民主』であるという。臍が茶を濁すような話であり、『空気』は日本だけではなく世界に幾らでもあり、『空気を読む』ことは逆に、自由と民主を実現するためには欠かせないものである。山本氏は『空気-を読む』ことを否定しているのではなくあくまでも日本に特有の或る種の『空気』を批判的に考察している。

 ア プリオリを自由と民主の同義語とすることは日本の所謂リベラル左派、殊に脱構築主義的リベラル左派に顕著に見受けられるものであり、故に彼等の政治的社会的主張は何の意味をも力をも持たない。現実をかえるためには既成の現実を的確に捉えることが欠かせなく、そのためには空気を読むことが欠かせない。彼等はそれを否定するので何の意味をも力をも持たない訳である。
 何しろ『空気の研究』という。それは『空気を読む』と同じ意味である。研究とは読むことである。山本氏はそれを通して空気を読むことを奨めているのに、何故かそれが「空気を読むことは良くないということを山本七平は説いた。その通りだ。」と真逆様に解されている。

 ――そのようなことを、「何故『空気の研究』を読まずに買っただけで分かるのか?」と突込む人がいるかもしれない。
 奇しくも、その本の近くには『大物は皆心得ている 読まずに語る術』みたいな本が並べてあった。
 私もマルクスの『資本論』を一文字も読まずに資本論と共産主義を語ったりしているが、山本七平の『空気の研究』に関してはそうではない。前に一度読んだことがある。この度はそれを再び読み直して懐に入れるために買ったのである。
 前に読んだ時に、「これは「『空気を読む』ことを脱しなければこの国はかわらない」というのとは全く違う。」と直観した。今度は更なる精読となる。

 尤も、山本七平の著書は聖書のようなものとは違う。かなり正しい彼にも誤りはある。
 日本のリベラル左派や或る種の親七平の右派の人々は彼の著書を聖書のようなものに祀り上げている。
 「聖書のようなもの」と聖書は異質であり、彼等は聖書とは如何なるものであるのかを理解することができない。実は聖書もまたユダヤ・キリスト教圏においては一般の著書と同じように批判的考察が加えられることが当然であると認識されているものであり、祀り上げるようなものとは違う。

 学生の頃に、或る日本基督教団の信者が聖書をぽい!と投げ捨てるような仕草をするのを見たことがある。彼の云わむとするのは聖書そのものが神ではない、聖書により示される啓示、即ち自らの『神との出会いの体験』が神であるということであった。
 尤も、それは聊か極端ぽいパフォーマンスであり、キリスト教圏の敬虔なキリスト教徒が聖書をそのように扱うことは殆どあり得ない。しかし彼のパフォーマンスは或る本質を捉えてはいる。一冊一冊の聖書はマルティン ルターが至上のものと説く『聖書そのもの』を伝える写しに過ぎない。その彼のパフォーマンスはキリスト教の信仰に加えて日本的超合理主義に基づくものであろう。欧米などのキリスト教徒はそこまで合理的にはなれない。寧ろ日本の神道的風土が説くような、『物にも命が宿る』みたいな感性があり、物としての聖書を生き物のように大切に扱う。

 聖書は言葉で書かれている。
 その聖書の有名な行に、「初めに言葉があった。言葉は神であった。」というのがある。ヨハネによる福音書の初めの一句である。

 その彼のパフォーマンスが示すように、言葉そのものは神ではない。言葉は人間が作り出したものである。しかしヨハネというナザレのイエスの一番弟子は「言葉は神であった。」という。それは如何なることか?

 言葉を用いる人及び人間の態度、そこに神が宿るということである。

 前の【ちょっと知りたいキリスト教】の記事に語ったように、ユダヤ・キリスト教は神の『正体』を特定しない信仰である。『正体』を特定しないとはそれが一であるか多であるかというようなことを決めつけないということである。故にユダヤ・キリスト教は日本の宗教学者やそれを信じる人々が思っているような「一神教」ではない。「多神教」でもない。弊ブログの用語では「不特定神教」である。

 言葉は人を結びつけるための大切なものである。
 それを作りだしたのは人間であり、神が直接に作り出したものではない。
 しかし人は神を知りまたは人を結びつけるために言葉に依らなくてはならない。
 言葉を用いるに際しての態度、そこに神が宿るか宿らないかの違いがある、それがヨハネによる福音書が説く「初めに言葉があった。言葉は神であった。」の意味である。

 ユダヤ・キリスト教はさように、神が何でも作り出してくれる、それを元手にして人を導いてくれるというような発想ではない。「神は万物の造り主」とはキリスト教の信仰箇条にもあるが、「万物」とは「一つ残らず全て」ということではない。そのことは日本の神道の「八百万の神」が「一つ残らず全ての神聖なるもの」のことではないことからも分かろう。神が作り出すものとはいわば、人が最後まで歩み通すことができるだけの力である。その「最後」とはキリスト教信仰にいう「終りの日」であるが、その「終りの日」とは実は『必ず来るもの』ではない。
 聖書には「終りの日は必ず来る」と言う箇所があるが、その「必ず」とは「人間がこの世が終わってほしいと思うならば必ず」ということである。そのようには望まないならば「終りの日」は来ない。
 「この世が終わってほしいと思う」とは神の国を実現する意思を捨て去るということであり、そこには必然に神の罰がある。すると神による天地の創造の全ては無駄であったということになり、神自らがその罪を認めることになる。――「終りの日は必ず来る」とは不可避の真実――ジャーナリストとかいう人達が好む言葉――を語るものではなく、「貴方方がそう思うならばそうなりますよ。それでよいのですか?」という警告であると解することができる。

 故に、ユダヤ・キリスト教は「真実/truth」を嫌う信仰であるということもできる。「真実/truth」は神とは何の関わりもないからである。
 詰り、それを社是にし延いては最近のテレビCMの標語にしているニューヨーク タイムズは少なくともキリスト教圏の新聞とはいえない訳である。

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by keitan020211 | 2017-03-22 19:13 | 生活 | Comments(2)
新聞の言葉は「脳に良い」のか?――『林修の今でしょ!講座』より
 昨日3月21日の19時台のテレビはテレビ朝日の『林修の今でしょ!講座』とTBSテレビの『この差って何ですか?』が競っていた。
 前者は3時間スペシャルで後者は2時間、それぞれを数秒の間見比べて私が観ることにしたのは後者『この差って何ですか?』であった。その理由は何となく前者『林修の今でしょ!講座』は衰えが感じられるからである。林修のファンの私にとっては元々は好きな番組である。
 しかし、その『この差って何ですか?』も昨日に買って来た橘玲の『言ってはいけない 残酷すぎる真実』を読むために20時頃から音消にした。その本の書評は近々このブログの記事にしたい。

 1時間程その本を読み、21時頃に21時54分からの報道ステーションを観る準備をするためにチャンネルをテレビ朝日の5にして暫く『林修の今でしょ!講座』を観ることにした。
 奇しくもか申し合わせてか、テレビ朝日のそれにもTBSテレビのそれにも『物忘れ』が主題となる企画がある。痴呆症や認知症に結びつくこともあるあの物忘れである。
 そういえば、反安倍の言説も認知症の患者が思いつく限りにガーガーと叫ぶようなものがある。時宜に適う企画であるともいえる。

 その終りの頃に、或る医者が脳を養う三つの奨めを語る場面があり、その一つに「正しい言葉を読む/遣うことに努める」みたいなことが云われる。そしてその一環として新聞を読むことが奨められると云う。

 私はステルスマーケティングを認めるが、それはいただけない。

 正しい言葉を読む/遣うことは大切なことであり私も奨めるものではあるが、その例として新聞が挙がることは明確に間違いであるといわざるを得ない。

 新聞の言葉は間違いだらけである。
 間違いであるだけではなく聊か気色悪い言葉でさえある。

 私のフォローする/していただいているツイッターの井上静氏が今日3月22日のツイートに語ってもいる。

 朝日新聞の言葉は永らく総じて最もましといわれているが、その朝日新聞も近年は酷いものである。
 例えば助詞「で」の誤用、あらゆるメディアにおいて見受けられるが、近年は朝日新聞にも多く、寧ろ朝日新聞が最もそれが多いと見える程である。「英国では、公共放送であるBBCの受信料を納めなければ刑事罰に問われる。」とか「オーストラリアでは、選挙の棄権は罰金刑に問われる。」みたいなのである。正しくは「イギリスの公共放送であるBBCは契約世帯が受信料を納めなければ刑事罰に問う。」と「オーストラリアの選挙においては棄権は罰金刑に問われる。」みたいな感じである。その「英国では…」や「オーストラリアでは…」はかつてはやった―?―「アメリカでは女の人はみんなノーブラなの。」とか「世界ではそんなこと通用しない。」みたいな物言いをそのまんまニュースの言葉に取り入れたものである。
 助詞「で」は英語の'at'や'by'に相当し、場所をいう場合には『主語となる人や物が現にそこにはいない』ことが前提となる。BBCは常にイギリスにいるのでそれを'BBC has the service of broadcasting at Britain.'とは言う筈もなく'... in Britain.'と言う筈で、故にその日本語は「イギリスでは」ではなく「イギリスにおいては」や「イギリスには」、「イギリスの」となる。
 「で」が正しい場合は「私は明日からオーストラリアで取材をする。」などであり、その英語は'I am to do a covering since tomorrow at Australia.'となる。現にそこにいれば'I am in Australia now on a covering.'、「私は今オーストラリアおり取材をしています。」となる。

 もっと酷い「で」の誤用例は「事件を受け、警察で取締りの強化を検討している。」みたいなのである。取締りの強化が必ずしも悪いのではなく、それだと、警察ではない者が警察に出向いて警察に対する取締りの強化をすることになる。勿論正しくは「事件を受け、警察が取締りの強化を検討している。」である。他にも「経済産業省では省内全室の施錠をすることを決め…」などがある。話の内容はともかく、気色悪い言葉である。

 そのような言葉が脳に良い訳がない。
 今時の新聞やテレビはそのような言葉に埋め尽くされている。
 どちらかといえばましなのはテレビである。意外と思う人がいるかもしれないが、新聞はテレビより良い言葉を遣う筈である、現にそうであると事実の誤認をしている人が多いのではないか。それにしても幾らかましに過ぎないが、テレビはプロの記者ではない芸能人や一般の市民が多く出る。すると、間違えて恥を掻きたくはないという思いがプロよりも強いのでなるべく間違いのない言葉を遣おうとする。悪くいえば無難志向であるが、故にテレビには新聞の程には誤った言葉が氾濫しないのである。しかし、プロは自分の生半可な知識が、素人よりは正しいと思い込んでいる故に平気で間違えるのである。
 それでもテレビは並み居る素人の目にスタジオで常に晒されるのでそのような生半可なプロが本当のプロに近づいてゆく余地が大きい。

 しかし、新聞にはスタジオもなく、自分の誤りが素人の目に晒されることがない。一度間違うと気の利く学友に指摘されでもしない限りは永久に間違い続ける。新聞を読む人々は素人ではなくプロの記者達の支持者に過ぎない。いつも読者に忖度されている故に新聞は誤りを正す能力が宿命的に欠ける。宿命なので幾らかは仕方のないものでもあるが、そうであるならば新聞を読むことが正しい言葉を知って脳を養うことになるなどとはいえない筈である。新聞とはそれを読むことにより頭が悪くなることを幾らかは覚悟して素人には取れない情報を得られることに意義のあるものであるというべきである。
 「新聞を読む子は読解力が高い」としたり顔で説くニュース解説者などがいるが、あくまでも国語の試験の難問奇問を解く能力が一時的に強まるだけであり、普通に用いる言葉が正しくなったり読解力や理解力が高まる訳ではない。新聞的な言葉や日本近代文学的な言葉をしか受け付けなくなる故に、普通の言葉を受け付けなくなることによる痴呆症や認知症のリスクも高まる。

 また、新聞には、幾らかはテレビにも、「こんな難しい言葉は庶民には分からないから、遣わないことにしよう。」と読者を見下す姿勢がある。無論朝日新聞だけではなく殆ど全ての新聞がそうであるが、朝日新聞にはそれが取り分け目立つ。
 言葉そのものをなくしてしまう場合もあるが、勝手に弄って語や漢字をかえる例も多い。例えば「遵守」を「順守」にしたり「被曝」を「被爆」に、更には「被ばく」にしたりなどである。小さ目の新聞に多い「暴露」も本当は「曝露」である。脳が養われる処か、読む放射線である。

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by keitan020211 | 2017-03-22 17:13 | 文明論 | Comments(0)
【Freesia料理】ローストビーフとトマトリゾット
 英国の代表的料理ローストビーフ――
 イタリアの代表的料理トマトリゾット――

 それらを同じ膳に載せて味わう夕食です。

a0313715_17183916.jpg 主菜のローストビーフは夕食のために仕込みましたが、時間は余り掛かりません。難しそうで意外と簡単手軽です。
 トマトリゾットは急いで作った朝食の残りで、その宵の私は茶碗の半分程でしたがたっぷりと作って盛って食べても勿論良いと思います。
 但し主役はローストビーフなのでトマトリゾットの味は控え目とするのがミソです。そこを余りこだわりの深い味付けにすると見境なくどかどかと色々な皿を注文したかのように落ち着きのない食卓になってしまいます。
a0313715_17201765.jpg ローストビーフのソースは、合成市場(スーパーマーケット)などによく専用のソースが売っていますが、多くは醤油仕立ての日本向けのもの、それも良いですがそうはせず、本場英国にもない程に素晴らしく英国的なウースターソース仕立てのものとします。
 本場英国のローストビーフのソースには、多くはわさび大根、ホースラディッシュのすり下ろしとワインビネガーが用いられるそうです。

 ローストビーフはその日本向け醤油たれと共におつまみとしての嗜まれ方が専らとなっていますが、勿体ない。ローストビーフは食事の主菜として健康と美容にも素晴らしく良い料理です。その肝は『粗食の心』――
 フランス料理やイタリア料理も、その肝は英国的粗食です。それが発展して華やかなフランスやイタリアの料理になるのです。日本などの野蛮国に多い美食家(グルメな人)は逆立ちしてもそれらには達せません。

●揃えるもの

<ローストビーフ>
a0313715_17230460.jpgローストビーフ用牛ブロック肉  1本
胡椒  適量  推奨は:S&Bあらびきコショー :ブラックペッパー
塩  微量
ウースターソース  気持ちたっぷり目  推奨は:カゴメソース中濃
赤ワイン  適量  推奨は:スペイン産 王様の涙
りんご酢  少量  推奨は:マルカンサラダ酢
すりおろし生姜  適量
すりおろし葫  1粒分
玉葱  適量
☆アルミホイル
おくら  3本程
大根サラダ  適量
豆腐  冷奴2つ分
鰹削り節  適量  推奨は:ヤマキ本かつお
醤油  少量  推奨は:マルキンしょうゆ うすくち

<トマトリゾット>
a0313715_17250022.jpgホールトマト  適量
玉葱  適量
水菜、または京菜  適量
鶏笹身肉  適量
米  1.5合
胡椒  適量  推奨は:S&Bあらびきコショー :ブラックペッパー  

<その他>
スープ  一皿分  推奨は:SSK 冷たいじゃがいものスープ

●作り方

・炊飯器の窯に米、ホールトマト、鶏笹身肉、玉葱、水菜と胡椒を入れておかゆ炊きにする。

・ローストビーフと同じ皿に添える野菜等と冷奴の豆腐を用意しておく。何でも良いが、お奨めは丸毎のおくらと大根サラダ。大根サラダは私は朝食向けの袋入りの残りを空けるために使いました。なるべく原価を低くするために、野菜はその日のために買い揃えずにいつもの残りを使うことが奨められます。おくらは軽く茹でる。

・ローストビーフに載せる玉葱を切る。形は普通に細い弧。

・ローストビーフのソースを作る。
 ウースターソース、赤ワイン、りんご酢、すりおろし生姜、すりおろし葫と胡椒を小鉢に入れてよく混ぜる。または好みにより、軽く混ぜるだけでも良い。

・フライパンにアルミホイルを敷き、塩と胡椒を塗してあるローストビーフ用の牛ブロック肉をそこに載せ、微量の水をホイルの面に敷き、ホイルを閉じて火を通して蒸す。表面の一部に少し赤色が残る程が好い蒸し加減であり、肉の芯が気持ち硬く残り、その硬さと表層の柔らかさの妙が良い歯応えになる。

・肉が蒸せたら少し冷まして適当な厚さに切り分ける。店で出るローストビーフは一様に薄切りなのでそれが当たり前と思う人も多いが、機械を使わないときれいに薄く切ることは難しいので手切りならば厚切りが無難でお奨め。その厚さは概ね刺身の鮪並みかその二倍程まで。

・小さ目の皿にローストビーフを盛り、そこに玉葱とソースを載せる。ソースはたっぷり目に。
そして野菜等と鰹節及び醤油載せの冷奴を同じ皿に盛る。

・皿にもう一点、スープを付ける。
a0313715_17294056.jpg スープのお奨めは冷たいじゃが芋のスープ――温める手間が掛からず、然も熱いトマトリゾットと常温のローストビーフと野菜等、冷たい冷奴との調和が良い。

 出来上がり

a0313715_17305811.jpg 3つの皿の熱さと冷たさの競演が素晴らしい。『暑さ寒さも彼岸まで』のこの季節らしい御膳立です。
 洋食というと何でも熱くしがちですが、刺身のように熱くないものを織り交ぜることにより御膳の全体の深みが増します。
 また、トマトリゾットのだしなし調味料なしの淡白な味――厳密には玉葱と鶏肉のだしが出ている――がローストビーフとそのソースの濃密な味を引き立て、または、冷奴の薄い味とも好く馴染みます。

 ソースの赤ワインは渋めのものがお奨め――甘いと生姜と馴染みにくい。――、取り分けスペインの王様の涙は普段に呑むにも素晴らしくコスパの良い逸品です。

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静岡県:FM 78.4 K-MIX


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テレビ朝日 Jチャンネル 16.50~19.00/月~木 15.50~19.00/金
メ~テレ Jチャンネル―UP! 前記の時間の後 18.15~19.00/月~金

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フジテレビ みんなのニュース 15.50~18.57 <FNN>17.54~18.57/月~金

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by keitan020211 | 2017-03-18 17:31 | 生活 | Comments(0)
東急2020系 2018年春に導入
 東京の西南部と横浜・田園都市を結ぶ首都圏の私鉄東京急行電鉄に、来年2018年の春を予定して新しい車輌2020系が導入されると発表された。

 2020系は田園都市線向けとなるもの、従来は2002年に導入された、東横線との共通車5000系が主力となっており、16年振りの新型車となる。

a0313715_13352372.jpg その2020系の注目すべき点は車体の色に新しく白が取り入れられること。
 古くは渋茶を想わせるような緑色、そして永らくステンレス鋼の銀色が東急電車のイメージを成していた。銀色には赤色の帯が入るものがあり、現下最新型の5000系はその赤色帯に加え東横線は桃色・田園都市線は緑色の路線イメージカラーが併用されている。
 田園都市線向けの2020系には同じく緑色の帯が窓の上に通るが、永らく用いられている赤色の帯はなくなり、新しさを感じさせると共に昔の緑一色の東急電車のイメージにより強く回帰するものとなる。
 更にその緑色の帯の上、屋根に渡る部分は純白に近い白色で覆われ、従来のステンレス鋼製の東急の車輌にはない温かみと爽やかさが感じられる。

 極めて私好みな色取り――私のツイッターの画面もそのような趣――であり、
a0313715_13343113.jpg内外装のデザインも中々の出来であり、殊にフローリング調の床などを具える内装は理想的である。

 但しやや残念なのは側面の窓の形がJRや小田急、相鉄などの近年の――というか、21世紀に入ってずっと――車輌等との共通の、角の丸ぽい非対称左右二枚型を踏襲することである。その形の窓は5000系も同じであり、新しさがない。
 その全体のデザインに車体色なら、仕様は非対称左右二枚型でもその形は角の丸い部分の径の短い、縁取りがなくてもう少し角張りのある形が望ましい。

 また、もう一つの極めて残念な点は型番の「2020系」が東京でのオリンピックが予定される2020年に因むことである。
 鉄道は公共性の高い事業であり、一部の人々の趣味に過ぎないオリンピックのモチーフは公共性とは相容れ難い。また、東京におけるオリンピックそのものが開催の望まれるものではない。
 極めて悪質なマナー広告などをも含め、東急は自分達の夜郎自大な傲慢さ、公共意識のなさを反省して改めてほしい。

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■NEWS of the WORLD


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    ●AFP(フランス パリ)
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    ●ル フィガロ(フランス パリ)
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    ●共同通信(日本 東京)
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    ●朝日新聞(日本 大阪)
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    ●日本経済新聞(日本 東京)
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    ●ボストングローブ(アメリカ マサチューセッツ州ボストン)
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    ●タンパベイ タイムズ(アメリカ フロリダ州タンパ)
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    ●グローブ アンド メール(カナダ オンタリオ州トロント)
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    ●ロイター(イギリス 英国 ロンドン)  
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    ●ザ テレグラフ(イギリス 英国 ロンドン ウェストミンスター)
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    ●ジ インディペンデント(イギリス 英国 ロンドン)
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by keitan020211 | 2017-03-18 13:41 | 生活 | Comments(0)
北朝鮮大使 persona non grata に考える 法治の基本原理 その2――移民の受入に関する欧日米の態度の違い
 直前の記事『北朝鮮大使 persona non grata に考える 法治の基本原理』を踏まえ、移民の受入を巡るヨーロッパ、日本とアメリカの態度の違いについて考えてみたい。

 移民はこれは正にですね、「好ましい人物」と「好ましくない人物」が生々しく選り分けされている事柄である。自国民の「好ましい人物」と「好ましくない人物」のように個人の人間性や資質のみを単位とする選り分けではなくそこに出身国の国柄や国體の在り方が勘案される選り分けである。逆に国柄や国體のような大きな事柄が大きな論点となる故に個人の人間性や資質は余り問われずに済み、故に個人の名誉が損なわれる余地は自国民の選り分けの程にはない、俗に言う「傷つかない」ものであるともいえる。

 直前の記事を踏まえると、ヨーロッパの伝統的リベラルの価値観からすれば、移民については彼等の窮状や要望だけではなく彼等を追い出した国の意思をも尊重するべしということになる。
 国は自国の人を追い出す権利があるので、その権利を行使した出身国の意思については具体的批判の余地はあるかもしれないが一般的原則としては無下に否定するべきではないということになる。
 不幸な境遇の侭で出身国に留まるよりは難民を経て移民として自国に受け入れられることが余程に幸福な訳であり、そうなることができるのであれば、彼等を追い出し或いは逃れることを已むなしとさせるような出身国の責めを敢えて問うべきではないという発想になる。寧ろ、そのような決断を彼等移民にさせるような出身国の悪い状況を歓迎する。移民の途を選ぶこととなった人々がその決断に至らない程の生温い状況をこそ、その生温さの故に彼等が幸福を取り戻す可能性を失うことをこそ、ヨーロッパは忌み嫌う。
a0313715_20223740.jpg 故に、ヨーロッパ諸国はあのシリアを決して見捨てない。ヨーロッパ人はアサドの人権をも考慮する。そのやや極端な例がヨーロッパの最東端のロシアであり、ロシアのシリアに関する態度は極めてヨーロッパ的なるものである。それはロシアのシリアとの特別な関係を俟つまでもなく、仮にそうではなかったとしてもロシアがシリアに関して当然に取る態度である。
 勿論、その『自国民を追い出す権利』とは'persona non grata'というように自国にとって『好ましくない』だけの者をではなく事実として手に負うことのできない、自国にとって極めて危機的な者をである。そこまでには至らない者をも追い出す余地を許すのが'persona non grata'であり、その概念の意を適切に汲めば有意義ではあるが、場合によっては単に気に入らないだけの者をも追い出したり吊し上げたりすることが是認されかねないものでもある。その適切な場合とは追い出される側の名誉と人権が追い出された先において保たれ得ることが凡そ確かと見做される場合である。
 中世のヨーロッパやアメリカの一部においてあった所謂魔女狩りといわれるものも、そのようなヨーロッパ・アジア的『追い出す権利』に基づくものであり、本来のリベラルからすれば否定されるべきものではない。魔女狩りにおいてはをの『追い出す権利』の行使としての処刑は彼等を追い出してもそれを受け入れる他国があり得ないことによるものである。故に、魔女狩りを否定する人はリベラルではないし伝統を守る保守でもない、単なる近代主義カルトの信者である。

 ヨーロッパ諸国の多くが移民を受け入れるのは彼等を追い出す国の事情についての少なくとも建前としての理解があるからである。その建前とはあらゆる国に存する主権である。
 詰り、難民が生じることは仕方がない、しかし、如何なる事情があるにせよ現に難民がいることは否み得ない事実であり、故に彼等難民を移民として受け入れるしかない、それが人道的政策であるとする訳である。

 しかし、アメリカはそうではない。
 アメリカにとっては自国民を追い出し或いは出てゆくことを余儀なくさせることは考えられないことである。
 アメリカは自国民を飢えさせてでも彼等が自国に留まるべきであるとする。
 敵にもてなされ若しくは迎え入れられるよりは死を選ぶ、それがアメリカ精神である。少しも普遍的ではない。
 そのことからいえるのは、アメリカは自国の価値観を世界に広め若しくはおしつけようとするのではなく、他国の価値観を決して受け入れない排他精神なことである。弊ブログは「アメリカのおしつけ」という諸説を故に悉く斥ける。アメリカは自国の価値観を他におしつけようとしたことはないからである。偏に「我々の価値観を拒めば死んで抗議する」と云うだけである。イスラム過激派ととてもよく似ている。
 故に、ドナルド キーン氏はアメリカ精神からすれば極めて邪道である。アメリカ人はアメリカ人が他国に帰化することはあり得ないと思うのである。
 その排他精神が従来のアメリカの相対的国力により或る種の神通力を持っているだけなのが俗に言う『アメリカの覇権』または『アメリカ帝国』の正体である。排他的なアメリカに受け容れられなければ自国の意思を通すことの難しい状況が戦後世界には生起していた、只それだけのことである。

 トランプ大統領の云う'America great'とはそのような排他精神がなかった頃のアメリカを念頭におくものである。新興国のアメリカが世界、殊にヨーロッパの列強や日本に学ぶことにより自国を豊かで幸せな国にしようとしていた時代、それがトランプ政権の原点である。それは無論欧日が追い求めていた植民地主義などではなく、『産業経済で勝つ』ことである。それは沖縄と伊豆・小笠原諸島を除く全ての植民地を失った戦後の日本に倣うことである。

 そのように排他的なアメリカにとっては、移民を受け入れることとは彼等移民を追い出した国に対する非難の意と不可分のものである。
 国は自国民を決して追い出してはならない、それがアメリカの価値観である。
 自国民を追い出すような国はアメリカにとっては、あってはならない国である。
 先ずはイギリス、イギリスはアメリカにとっては本来はあってはならない国である。
 アイルランド、アメリカにとってはお話にならない程の、即ち自らのライフスタイルを脅かして已まないような、文化はあるが金のない国である。
 ドイツ、アメリカにとっては面白いことを教えてくれるが決して信用のできない『頭は良いが性格の気に入らない同級生』のような国である。
 黒人、アメリカにとっては『自国民の繁殖』の観念を脅かすような体の特徴のある国である。
 彼等を追い出すに至った国々は『正しいアメリカ人』にとっては悪である。アイルランド人はアイルランドにおれ、ドイツ人はドイツにおれ、黒人はアフリカを想いながら死ね、それがアメリカ人、殊に奴隷の解放を宣言したリンカーンを支持した北部人の歴史的本音である。
 そのような本音は誰かが公に聞こえる言葉にしなければならない、そうしなければ本音が鬱積して行動に結びつきかねない、故にトランプ大統領はその汚い役回りを引き受けた。彼自らがアイルランド人の親戚でありまたはドイツ人の子孫であるにもかかわらずである。

 『自国民を決して追い出してはならない』と言うと、当たり前ではないかと思う日本人が多いかもしれない。
 しかしその「決して」は如何程に本当なのか?
 偏にアメリカ的発想とアメリカ的価値観の表明に過ぎない手合いが多い。
 アメリカは少なくとも物理的には自国民を追い出す必要のない国土の広さを有する。
 日本は自国民を追い出さないと『充分に豊かな生活水準』を実現することは物理的にできない。
 日本が『自国民を決して追い出してはならない』という時、それは「今より豊かになることを金輪際断念しろ。」というメッセージが暗に含まれる。上野千鶴子がそれである。
 真先に追い出されるべきなのは当の上野千鶴子である。

 日本の移民に関する態度は元来はヨーロッパのように、避けられない現実に対する冷厳な対応、即ち愛によるものであった筈である。しかし、いつしかそれは移民を作り出す国々に対する非難と抱き合わせの政治的営みに変わっている。そこで移民を積極的に受け入れるべしということは人間の政治恣意的選別や国際不和を更に作り出すことに資するものとなりかねない。

 故に少なくとも、日本人はマドンナやレディー ガガ、メリル ストリープなどに賛同していてはならない。

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by keitan020211 | 2017-03-07 20:09 | 文明論 | Comments(0)
北朝鮮大使 persona non grata に考える 法治の基本原理
 'persona non grata'という語が今の報道に出て来ている。
 その報道とはマレーシア政府が北朝鮮の金正男と思しい者の当地での殺害の事件に関して北朝鮮政府が彼の遺体の無条件の引き渡しを求めていることなどに対する報復の措置として北朝鮮の外交官を国外追放の処分にしたことである。
 その際の処分の根拠は外交関係に関するウィーン条約の定める'persona non grata'であり、「好ましくない人物」のことである。国は外交関係にある国の外交官が自らにとって好ましくないと思われる場合にはその追放を命ずることができるというものである。

 その「好ましくない人物」というベタな表現に、少し違和感を覚えた人もいるのではなかろうか?
 その「好ましくない人物」とは日本人の大好きな外国語の意訳ではなく、粗そのまんまのラテン語の正しい訳である。
a0313715_17410935.jpg その違和感とはマレーシアは自由で民主的な国であって北朝鮮は異分子を抹殺するような独裁国なのに逆に自由なマレーシアが相手方を好ましくないからといって追い出すことは如何なものかという感じである。また、何でそのような自由や民主主義とは似つかわしくない独裁的決まりが国際条約として在るのかとも思うかもしれない。
 多分、その条約を知り適切なものとする人にも、「好ましくないからといって追い出してはならないことはあくまでも自国民または合法的外国人労働者などの自国に好意的な外国人に関する道理であって外交関係における外国の人物には当て嵌まらないから」という程の理解をしかしていない向きが多いのではないか。確かに、国交を結ぶかどうかは国の主権、即ち国家意思であり、'persona non grata'を認めないならば全ての国との国交を持つべきことになる。
 因みに、北朝鮮政府もそのマレーシア政府の処分に応酬する形でマレーシアの外交官の国外追放を決めた。但しその外交官はその処分が下る前に既に任意に辞任している。その北朝鮮の処分はいわば実際とは一致しない形式を以て相手方への抗議を示すものである。

 国際条約には何故にそのような自由や民主主義に似つかわしくない概念があるのか?

 「国際関係は自由で民主的な国々の間だけのものではないから」:それも半ば正解といえる。世界には様々の国があるのでその現実に適う価値中立的規範が必要となる。一つはそれである。

 しかし、もう少し踏み込むと、そのウィーン条約がそのような価値中立的意義を初めから持っていたのではないことに気づく。
 外交関係に関するウィーン条約の締結は1964年(昭和39年)、国際連合、国連が発足してまだ日が浅いが、今から見ても53年と、出来て日の浅い条約である。
 ウィーン条約が出来た時には既にケネディ大統領が暗殺により他界している。ケネディ政権の時代はアメリカが台頭してきた時代であり、アメリカ的価値観が世界にブレークし始めた時代である。
 ウィーン条約は「ウィーン」というがハプスブルク家で有名なオーストリアなんかがあったりするヨーロッパ的価値観が基となってのものではなく当時に人気が高まって来ていたアメリカ的価値観が基となって出来たものである。
 その叩き台となった古い決まりが国際慣習法を基に成文された、19世紀の初めに定められたウィーン規則とエクス ラ シャペル規則である。「ウィーン条約」の名は百五十年前の「ウィーン規則」の名を国連が受け継ぐ形のものであるからであるが、そこに新たにアメリカ的価値観が加わって原理を少し異にするものとなった。
 そのアメリカ的価値観とは「追放とは追放する側の意思のためというよりは追放される側の人権のため」というものである。それがアメリカ的原理であるとはヨーロッパ的原理には元はなかったものであるということである。
a0313715_17393177.jpg それを今般のマレーシアと北朝鮮の事例に当て嵌めて見ると、マレーシアによる北朝鮮の外交官の国外追放はマレーシアがその国家意思を表明して執行するものでもあるが、より重要なのはその北朝鮮の外交官が自らを「好ましくない」とする国に居続ければ彼の人権若しくは彼の国の主権や国益が危うくなることもあり得る故に追放を寧ろ歓迎すべきということになる。そう見れば、その彼が北朝鮮へ帰る途の航空機にいて何故か安心して笑っている様も理解可能になる。
 偶に、「出て行け。」と云われると苦笑しながら諾々と出て行く人がいるが、その北朝鮮大使の反応は正にそれと同じである。それを理解できない人から見ると「追い出されて笑うとは何だ?」と訝しみまた呆れるものであるが、その笑いは相手を莫迦にしているのではなく追放の決定が既存の緊張状態の解放をもたらして一安心を感じさせることによるものである。
 それを理解できる人は多分、戦後世界におけるアメリカの台頭などの潮流に良きにつけ悪しきにつけ敏感な人であり、それを理解できない人はアメリカであろうと何であろうと権威の決めたことを良きにつけ悪しきにつけ無条件に受け入れる人である。それらの別には、親アメリカか反アメリカか或いは親ヨーロッパか反ヨーロッパかは関わりがない。偏に時代に臨む感覚の違いである。

 追い出す側と追い出される側の何れにも無難で好ましくなるようにする決まりを、戦後世界にブレークしたアメリカ的価値観が作り出した。
 若しそれがヨーロッパの発想と主導によるものであったならば逆にラテン語ではなく不承不承にも英語になっていた筈――ヨーロッパ人は既にラテン語に然したる価値を感じてはいない。――であり、それがラテン語になったのは知識や教養をひけらかしがちな新興国アメリカの発想と主導によるからである。
 ヨーロッパの発想とは追い出す側の意思を重視するものである。艇好く追い出すためにはそのための論理的理由を要し、故に「好ましくない人物であるから」では理由としては弱いと見る。また、追い出される側の人権は追い出された先が保障するべきものであり追い出す側がそれを考える義務はないとする。若しマレーシアが彼の追い出される先である北朝鮮を人権のない国と思うならばマレーシアは去りゆく彼を見殺しにしても構わないと思っているということであり、現代世界の主流の価値観からすればマレーシアの側に不義があるとすべきことになる。しかしそうではなく、マレーシアは追い出す側と追い出される側の双方の名誉と人権を考慮して彼の国外追放を決めたのであり、それは北朝鮮の主権と人権への信頼の証でもある故に、それが両国の国交の断絶に至る可能性は極めて低いと見るべきものである。

 主にヨーロッパの、延いてはそれとの歴史的関係を持つアジア諸国の慣習に基づいて形成された国際法は戦後にアメリカ的価値観が加わることによりより完全なものとなっている、そのように見做すことができる。本部所在地という立地の功ともいえようか。
 ウィーン条約の締結の頃のヨーロッパがそれを理解して取り入れることにしたのは所謂西側自由世界を東側共産世界に対して守るための動機もあり、それを必ずしも純粋に人智の進歩と見做すことはできないことも念頭におくべきではある。西側自由世界がその立場を堅く保つためにはヨーロッパの既成の価値観だけでは及ばず、新興国アメリカの価値観の導入を必要としたのである。
a0313715_17445676.jpg 然も好いことに、'persona non grata'は自由や民主主義を旨とする国々だけではなく北朝鮮やソビエト連邦などの独裁国もまた理解可能として取り入れたものである。それらの独裁国はいわば旧いヨーロッパと類似の価値観を持ち、追い出す側と追い出される側の双方の益を考えるようなことは元々はない。しかし、追い出す側である自国の益と国際法の決まりが一致すれば自ずと追い出される側の益にもなるのであれば――尤も、そこには自由で民主的な他国の対応を当てにするようなものがあり、必ずしも誉められるものではないが、――国際法秩序に多かれ少なかれ加わることは望ましくないことではないと考える訳である。
 故に、国際法や国際秩序の解釈を巡る少なくとも彼等にとっては論理的な議論が必須のものとして主張されるのであり、そのような行動様式はヨーロッパやアジアの多くの国々にとっては元々理解可能或いは同種なものであり、故にマレーシアやインドネシアなども北朝鮮との国交を持つ。

 しかし、国際法や国際秩序、または、国法や国家秩序を巡る解釈を巡る議論という発想は困ったことに、一方のアメリカには元々はない。
a0313715_17464495.jpg アメリカ人の多くにとっては法や秩序の解釈は自明の理であり、議論の余地はないものである。
 その理由の一つは正しい解釈とは違う解釈の生じる余地のない条文を作ることが当然と考えることである。それは異民族による度重なる征服の危機若しくは被征服の歴史のあるヨーロッパやアジアにおいては余り考えられないことであり、条文には何等かの不備や無理解があることが当然と見る発想であり、不備は随時に改められることを要し、無理解は随時に議論による説得を要すると考える。アメリカはそうではなく、法や秩序は征服などの危機のない平和な状況において議論されて決められるべきものと考える。故に、戦争になるとそのような知的営みが放棄されて箍がなくなるのである。アメリカは戦争と平和のコントラストが大きい国である。
 日本はそれらヨーロッパ・アジア型とアメリカ型が鋭く混在する国であり、それらの間に曖昧に引き裂かれる傾向がある。
 そのことは憲法の改正の是非を巡る論議や報道の公正中立や不偏不党を巡る問題にも大いに影を落としている。
a0313715_17483721.jpg 解釈を巡る議論の積み重ねが必須であるならば憲法に関しても解釈の変更は認められるべきものであり、故に解釈改憲はそれが現下にアジェンダとなっている日本だけではなくヨーロッパやアジアの多くの国々にしても理解可能なものである。実際の改憲の履歴が多いのはそれを要するだけの大きな価値観の変化――例えば「第◯共和制への移行」などの――があったからであり、然程に大きな変化がなければ解釈の変更のみとすることもあり得るのである。日本にしかないことなのではない。
 処が、フランス思想に明るいという内田樹神戸女学院大学教授などは解釈改憲などというものはあり得ない、認められないと云って安倍政権による憲法9条の解釈の変更を非難している。新しい解釈の内容についての批判はあるべきであるが、解釈改憲そのものの否定は少なくともフランスなどのヨーロッパや日本などのアジアの伝統的発想とは異なり、彼の発想は選れてアメリカ的である。尤も、彼のような東京系関西人はいわばアメリカ系フランス人のようなものであり、『世界あり得ないもの百選』に入る程の特殊なものである――関西やフランスがアメリカとは異なる意味におけるチャンスの地となるということにおいてはそれを「あり得ないもの」とすることは決して良いことではないが、――。
a0313715_17504688.jpg 報道の公正中立や不偏不党についてはもっと根が深い。
 それらの何れも放送法の定める規範であり、一般に新聞や雑誌などの印刷出版物に関してはその規範の拘束を必ずしも受けないといわれる。
 ニュースの解説者が幾度か「放送法の趣旨は」と言うのを耳にする。
 実はその「法の趣旨」というものは選れてアメリカ的発想と価値観であることに気をつけるべきである。
 そのように云う私、弊ブログも時に「その法律の趣旨は」ということを語ることがあるが、全ての法についてではなくそのようなものの存在の見出せる法について語る場合だけである。
 ヨーロッパやアジアの多くの国々の伝統的法治においては、「法の趣旨」というものはない。法とは ①現実に対する問答無用の処分②それを公正中立に執行するための普遍的原則 を定めるものであり、そこには人間の趣旨があってはならないとされる。法とはそもそもは神の定めるものである、それが原理である。尤も、問答無用の処分が非人道的なものであってはならないので人権という公正中立の原則が必要となる訳である。
 先ず、日本の所謂リベラルと呼ばれる人々はその問答無用の処分というものを認めない。それは彼等が少なくとも、ヨーロッパやアジアの伝統的リベラルの価値観に基づくものではなくアメリカ的価値観に基づきたいことの現われである、良く言えば。彼等は問答無用と公正中立が相容れる筈がないではないかと云う。公正中立の故に問答無用は可能である、それが本当のリベラルの原点である。
 アメリカの法治は人間の趣旨を重視する、というか、それがなくてはならないとされる。
 故に、人の名を冠する名称の法律が多い。中には被害者として命を失った人の名を関する法律もある。
a0313715_17530619.jpg 日本の放送法もまた、そのようなアメリカ的発想と価値観に基づく法律である。
 今のアメリカには日本の放送法にあるような不偏不党の原則はないが、昔のアメリカの放送法にはあった。
 不偏不党の原則の前に、そもそも法律がその制定の趣旨をだらだらと講釈することがアメリカ的である。いわば、アメリカにおいては法律とは多数が賛成する哲学や道徳律に過ぎない。それで、アメリカ人には何の疑問もない。立法の趣旨が自ずとその解釈を定めるので、条文の解釈を巡る議論なんてあり得ない。皆がそれをおかしいと思えば平和な時に議論をして改正するだけである。
 不偏不党を守り、それに反すれば権力者が咎め立てをする日本の報道と不偏不党がなくて偏向報道をしても咎められることのないアメリカの報道、その違いはそれぞれの時代の趣向の違いに過ぎず、実はそれらは同質である。
 ヨーロッパは不偏不党というものはあり得ないと初めから見定めているのでそのような概念そのものが存在しない。しかし自己の党派性や趣旨に余りにも固執するならば自ずと損をするものなので各々がよく考えて報道するべしということになる。日本にもそのような発想に馴染む向きは多かろう。

a0313715_17554717.png トランプ政権の成立はアメリカにおけるかのようなアメリカ的発想と価値観の衰退の反映といえる。
 'We are gonna make America great again.'と云うが、その真意は『アメリカ的発想と価値観には依らずにアメリカを強く幸福な国にする』ということである。尤も、アメリカ的発想と価値観の全てを捨てよと求めているのではなく、それが通用し難くなっている世界の現実を認識するべしということであり、そのためには既存の発想と価値観をかえることも必要ということである。
 片や反トランプは尚も、『多数が賛成する哲学や道徳律としての法秩序』の維持と発展を求めている。普遍的ではない。

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by keitan020211 | 2017-03-07 17:22 | 文明論 | Comments(0)
【考察日本語】「ブーメランを続投すれば結婚は確実」
 私のお気に入りブログである井上静氏の『楽なログ』が『「ブーメラン」というバカなネットスラング』と題する記事を最近に出してネット右翼と安倍政権の言葉遣いを批判している。
a0313715_16102228.jpg ネット右翼は数年前までと比べるとかなり弱体化しており、安倍政権を熱烈に支持するような彼等の論調も韓国、北朝鮮と中国を指す所謂特定アジアの在日外国人に対する憎悪口上、ヘイトスピーチの類もあまり見受けられなくなっている――その理由は一つにはアメリカのトランプ旋風が日本の排外主義をも吸収してそれを鎮めるものとなったことがあろう。やはり何にでも、政治的言揚げは必要である。――。彼等の流行語「ブーメラン」もまた一頃と比べれば聞かれないものとなっている。
 それでも、「ブーメラン」などというような比喩をなさない比喩もどきが次々と再生産されてゆく傾向はなくなっている訳ではない。
 「ブーメラン」が何を指すものであるかはその『楽なログ』の記事に概説されているので参照されたい。


a0313715_16130362.jpg その記事の数日後にネットニュースに出た記事に、テレビ朝日の小川彩佳アナウンサーと嵐の櫻井翔の交際の報を受けてのテレビ朝日の対応についての推測を語るものがある。その記事は若し小川と櫻井が結婚するならば小川の担当するANN報道ステーションの副キャスターをこの3月を以て「降板」するであろうし或いは結婚を当面は見送るならば小川は「続投」するであろうと云う。
 「降板」とは退任のことでありまた「続投」とは留任のことであるらしい。
 本題とはずれるが、局がその交際を尊重すると会見で述べた折に人事異動をしたら、そこで述べたことが嘘で何等かの制裁の意図があるかのように思われてしまう故に、二人の交際が今後にどうなるにせよ小川の「降板」、即ち退任は賢明なことではない。何しろ、交際を続けるために最も好都合なのは小川と櫻井の勤務時間が重なることな筈であり、それがずれるようになれば逆に局が交際を妨げることになりかねない。その推測は正に比喩をなさない比喩もどきを生み出し易い粗雑な状況認識に基づくものである。粗雑な状況認識とは物事を深く考えずに口を出そうとすることである。
a0313715_16153243.jpg 「降板」に「続投」――その比喩的表現は云うまでもなくスポーツ報道の用語から出たものであり、野球の投手が交代することを「降板」といい、交代が検討されるもしないことを「続投」と言う。注意するべきなのはそれらは野球用語ではないことである。野球の用語としては交代は「交代」であり、交代しないことは「交代しない」と言う。専ら実況を含むスポーツ報道におけるショーアップの一つとしてよりドラマティックな感覚を誘う表現が用いられるのである。
 しかしそれが野球だけにではなく後にしばしば政治報道や経済報道にも用いられるようになり、それがドラマティックな演出としてだけではなく比喩としての性質も加わるようになっている。内閣総理大臣などの政府の閣僚や政党の要職についてや企業の役員などにつき「降板」や「続投」の語が用いられる。閣僚の交代――それも「内閣の改造」という比喩的表現が用いられる。――の多い安倍内閣については殊に多い。最も「続投」の多いのは菅義偉官房長官と麻生太郎財務大臣である。
a0313715_16170605.jpg 政治や企業は野球ではない。なので野球報道の言葉をそこに用いることは場合によっては『楽なログ』も云う「間違った喩え」になる虞がある。その不適切さの理由の最も大きなものは野球は負けても儲かることができることである。政治や企業は勝たなければ儲からない。個々の選手においてはともかく、球団や球界の全体としては儲けることには生活が懸かりはしないのが野球であり、他の多くのスポーツもそうである。故に、日本のスポーツが強くなる程に日本の経済が弱くなる。

 「降板」や「続投」などという不適切な疑いのある比喩的表現を日常語や標準語であるかのように遣う報道メディアやそれについて語る人々――それが正にですね、「ブーメラン」なんですよ。

 比喩とは比喩される現実とそれを比喩する表現が同じ性質や構造の認められるものであって初めて適切な表現になる。政治、企業と野球にはそれぞれ然程の同じ性質や構造がないので比喩として不適切な訳である。
a0313715_16195548.jpg 比喩的表現だけではなく、国民はそのように不適切な語法を報道メディアや娯楽メディアを通して色々と聞かされる。そして日頃の話題がメディアに始まりメディアに終わるようになると国民の日常の語法も不適切となって来る。尤も、多くの人々は「安倍総理は辞めるか辞めないか」と言い、「安倍総理の降板はあるかないか」などと言ってはいない。しかしメディアへの依存の高い人々がそのような言葉を遣いながら世を評して結構な影響力を持っている。多くの国民の言葉遣いをかえてしまうには至らないが、世の中を見て考える目はそのような悪い言葉に媒介されて粗雑とならざるを得ない。

 適切な表現のためには現実を確りと見て捉え、他者の理解を求める心が必要である。または、分からない現実については富川悠太キャスターのように安易に口を挟むことを避けることである。

 国語教育にその一つの原因を求めるならば、従来の国語教育は高名な文学作品などの『前例』を読み親しませることに偏っていることが日本のメディアや少なくはない国民における比喩的表現の濫用などの不適切な言葉遣いを生むものとなっている。
a0313715_16213235.jpg 文学作品は作者の固有で独自な思想や表現の産物であり、標準的国語を学ぶ材料としては全く不適切とはいえないが、あくまでも参考としての価値をしか持ち得ない。それを国語教育の根幹に据えていることが国語の構造理論を学ぶことを妨げている。
 文学作品や大新聞のコラムなども批判的題材とするならば国語の構造理論を学ぶことにつながり得るが、多くは我が国の歴史的文化遺産である故に批判せずに受け容れるべしという構えが取られる。何を題材にしようとしなかろうと――例えば教育勅語も。――そのような構えを以て題材にされるならばことごとく偏向教育である。
 「降板」や「続投」、「内閣改造」もまた、そのような歴史的文化遺産のレッテルが事実上の第一権力であるマスメディアにより嬉々として貼られている。
 マスメディアがそんな間違った喩えを遣うから、ネットにも頭の悪そうな「例え」が氾濫する。マスメディアがネットに負けているのではなく、ネットにも結構なマスメディアによる支配が出来ている。

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by keitan020211 | 2017-03-01 16:21 | 文明論 | Comments(0)



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