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【ちょっと知りたいキリスト教 ユダヤ教・イスラム教合併SP】日本はイスラム国である。 その2 日本は本来は自由と民主主義を尊ぶ国である。
 直前の記事『【ちょっと知りたいキリスト教 ユダヤ教・イスラム教合併SP】日本はイスラム国である。』の続きです。

 ユダヤ-キリスト教は:抵抗しない者は殺してもよいという信仰
 イスラム教は:抵抗しない者を殺してはならないという信仰

 というと、イスラム的思想の強い日本にはかようなイスラム教が好ましいと思う向きが多いかと思われる。
 しかし裏返して言うと――

 ユダヤ-キリスト教は:少しでも抵抗があれば殺さない信仰
 イスラム教は:抵抗する者は殺すべしという信仰

 ――良し悪しはさておき、少なくとも自由と民主主義の観点から見ればユダヤ-キリスト教がより「良心的」ということになる。自由と民主主義を何よりも重んずるアメリカがイスラム教徒の排除を訴えるのはアメリカのイスラム教徒が民権を持つことによりそのようなイスラム的原理に基づく法や政策を勧めかねないという懸念から必然ともいえる。
 殊にアメリカのイスラム教はインドネシアなどの東南アジア諸国やイランのそれのようにそれぞれの国の自由や民主主義のために再構成されたイスラム教ではなく少数派のものとして剥き出しのアラブ直輸入のイスラム教なので懸念は深まる。
 尤も、それらのような再構成されたイスラム教を正しく保持するためには権力が幾らかは独裁的たらざるを得ず、日本人やアメリカ人が思うような自由と民主主義とはやや異なろう。そして東南アジアのイスラム圏のような一部独裁の自由と民主主義、即ち権威主義体制に基づく自由と民主主義はこれからの世界の標準となると思う。

 抵抗しない者を殺してはならない、抵抗する者は殺すべし――それが東南アジア諸国とは異質な日本の通奏低音である。東南アジア諸国は自国が自由と民主主義を導入している以上は抵抗しない者はいないとするので全ての国民は抵抗する可能性があり、つまり国は全ての国民を殺す可能性があると見定める。しかし中でも法に照らして悪質な者を殺すべしとする。日本はそのような発想をしない。抵抗を知る筈もない国民を殺すなんて考えられない以ての外と見定めながら、時に抵抗する者がいれば適宜に殺すという発想である。故にリベラルを名乗る人達が戦争や権力による弾圧を語る時に、「無抵抗の市民を殺した、許せない。」などというイスラム的言辞が出て来る。というか、日本赤軍はイスラム過激派との提携の集団なので必然にイスラム的になる。キリスト教圏の自由と民主主義の国においても市民を殺すことは望ましくないことは同じではあるが、そこに「無抵抗の」とか「無辜の」とかというような言葉は冠されることはあり得ない。キリスト教においては無抵抗の者こそを殺してもよいものとするからである。抵抗は神が命あるものに与えた賜物であり、抵抗しないとは自らを命ではないと見做すことであり、故に殺しても構わない訳である。そのような信仰からは当然に、「嫌よ嫌よも好きの内」などという思想は生まれ得ない。「嫌よ嫌よも好きの内」は本来は殺すべき抵抗者に猶予を与えるというイスラム教の発想から来るものである。抵抗していても回心してされる侭になれば赦すということである。
 抵抗しないとは女性的たるべしということであり、女性を守るべき清らかなものと見做す。鉄道の女性専用車が日本とアラブにしかないのはそれが理由であり、毎朝夕の通勤通学の風景にも日本のイスラム性が見える。場所を分け隔てることに由り女性による抵抗の余地を予めなくしておけばよいという訳である。「君の怒る顔なんて絶対に見たくない、そうだろう?」。

 イスラム教とは本質的にはそれ程に日本のおっさん的にキモヲタな宗教である。故におちおち寛容の精神をとか異文化の尊重をとかいう訳にはゆかない。
 故に、「日本は仏教国、日本らしさを大切にしよう。」などという人達は仏教の名を借りるのをやめて潔くイスラム教徒になるべきである。そうなれば日本はインドネシア並に魅力ある国になるかもしれない。
 イスラム教の成り立ち、殊にその正統派とされるスンニ派の成り立ちそのものがそもそも、ユダヤ教とキリスト教の駄目出しのような否定的動機からのもの。批判のための批判から生まれたものである。

 無抵抗といえばマハトマ ガンジー。
 日本にも支持者が少なくないチベット仏教の導師である。
 しかし、ガンジーは何となれば殺されても構わない、文句を云わない、それが彼の無抵抗の信仰である。
 ならばとばかりに殺しに掛かることを奨めるのではないが、日本の支持者達が無抵抗とはいいながら殺されることは罷りならない、殺されれば文句を云うのを見るにつけ、ガンジーを信ずることにはなってはいないのが閉口である。ガンジーとリベラルな価値観は相容れる筈がない訳であり、なのに彼等はガンジーを尊敬するリベラルを称する。ガンジーはそれそのものは超保守主義ではないが、超保守主義を容認するものである。また、同じく無抵抗を信仰するイスラム教の影響が強くある。
 キリスト教にも殉教の信仰はあるが、それは然るべき抵抗の末に殺されてもその血が抵抗の最も大きな証となるということであり、無抵抗ならば殉教ではない。
 殉教といえば今時に連想されるのはイスラム過激派の自爆テロであるが、彼等はそれを抵抗と位置づけてはいない。彼等のしようとしていることは西洋のキリスト教文明に対する抵抗ではなく「権力の側からの処刑」である。あれだけ情けない風采をしていても自分達は権力者なのであり、その銃や爆弾は戦争のそれではなく処刑のためのものである。その本質が次々と示されたのがイスラム国によるビデオ付の「処刑」である。自らを権力や体制の側に位置づけることを嫌う左翼ならばイスラム過激派のそのような権力主義や体制主義は絶対に受け入れられるものではなく、イスラム過激派の歴史や現状を少しでも擁護することはできないと思う筈であるが、何故か日本の左翼からは彼等に忖度するような言説が相次ぐ。日本の左翼はイスラム過激派と親しい日本赤軍の流れを汲むからである。彼等の殉教はどこまでも権力者の任務における殉死である。それがまた日本においてはしばしば受ける。

 但し人には抵抗することを知らないこともある。
 抵抗したい思いはあれども、如何に抵抗すればよいのかが分からない。
 そのような場合をも無抵抗でありイスラム的であるとする訳にはゆかない。

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by keitan020211 | 2017-07-30 21:14 | 文明論 | Comments(0)
【ちょっと知りたいキリスト教 ユダヤ教・イスラム教合併SP】日本はイスラム国である。
 昨日の宵にテレビ朝日が『池上彰のニュースそうだったのか』で中東イスラム圏の特集をした。
 イスラム国の潰滅の見通しが立って来たことやイスラエルの混乱が強まっていることを受けてのものである。
 池上彰はこれまでにも中東についての知識を紹介する特集を幾度か行っている。

 そこで中東とアラブは別物であること――中東とは地理的区別であり、アラブとはアラビア語圏のこと――やイスラム圏にも色々とあることなど意味のある知識も幾つかあったが、総じて酷い内容である。

 中東のイスラム圏には親日国が多いことを殊更に語り、その御礼としてか、イスラム文化を絶賛する。
 イスラム圏の多くは男女交際が信仰上禁じられるが、女子と接吻をもしたことがない男子を、取り分け日本に留学をして東京の文京区茗荷谷に住んでいたという男子を「偉いですねえ!」みたいに紹介する。
 池上彰の番組の他にも、日本に留学の経験のある親日なイスラム男子やイスラム女子を紹介した番組がこれまでに幾つかある。
 その親日姿勢が嘘とはいわない。但し日本の力だけではなく中東の産油国等に関わっているアメリカが「奴等とは仲良くしてやってくれ。」と彼等に云ったから好意を持っている面は否めまい。池上番組はそのような点は全く無視して日本が中東諸国との良い関係を自力で築き上げて来たかのように語る。

 折しも、アメリカのトランプ政権が当国のイスラム教徒の排除を訴えている中、反トランプを叫ぶ日本のマスメディアはそんなトランプ政権には耳を貸さずにイスラム圏を大切にしようというプロパガンダを行っているようである。

 しかし日本と日本人ががイスラム圏とイスラム人を大切にすることは、そう容易いものではない。
 日本とイスラム圏及びそれらの文化は歴史的に非常に根深い関わりがある。
 一言で言うと、「日本はイスラム国である。」。
 ――尤も、歴史を通して常にそうなのではなく、殊に明治以降の近代日本国家はイスラム国にとても近い性質がある。

 その謎を解く鍵は日本の仏教である。
 仏教は元々は同じ一つの宗教ではない。インドに興ったインド仏教の影響を受けたシナの諸々の地域宗教が更に変化して日本に伝わったのが日本の仏教の諸宗派である。つまり、日本仏教はインド仏教の原形を殆ど留めてはおらず、シナの地域宗教の数々がその原型である。そこまでは日本人にも夙に知られるものである。インド仏教の直輸入は名古屋の覚王山日泰寺など、極めて少ない。因みに日泰寺はトヨタの豊田家の菩提寺である。それからしてトヨタの日本における地位及び日本の自動車愛好家のトヨタについての評の独特さの理由が浮かび上がる。
 日本の仏教の一つ一つの宗派は真面な信仰を持って大切なものではあるけれど、それらを一つに捉えて「仏教」というと、とても胡散臭いものになる。
 仏教とは国家の保護の下にある宗教ということであり――即ち、今の日本においては神道もキリスト教も仏教である。――、一つの「日本の仏教」というとそれは日本国家の教えということになる。それぞれの宗派の信仰とは関係ない。
 故に自分は日本人です仏教徒です、日本は仏教国ですという人は宗派の信仰に帰依しているのではなく自分にとって都合の好い日本国家を作ろうと志しているということになる。
 そのような姿勢はイスラム国とくりそつ、否、そのものである。
 所謂日本仏教というものとイスラム国の共通点は 世俗主義的原理主義 にある。
 原理主義というと普通は非常に峻烈な反俗主義を旨とするものであるが、イスラム国と日本仏教における原理主義は世俗主義を含むことにおいて他の多くの原理主義とは異なる。世俗の繁栄に見放されているイスラム原理主義者が世俗の経済力や権力を一から得ようとすることにより成り立ったイスラム国――絶対的欲望による世俗主義的原理主義――とそれらがそれなりにあって尚より高い経済力や権力を得ようとする日本仏教――相対的欲望による世俗主義的原理主義――は機会の差があるにせよ、その本質は同じである。それらの世俗主義の契機となったものは中国を除く現在の国連の常任理事国をなす西洋の近代国家等による政治経済的介入であることも共通する。
 比叡山延暦寺の僧兵による反乱は彼等にとってのモデルとなるレジェンドである。延暦寺の僧兵は歴史的国教としての地位を確立していた比叡山天台宗の失地を回復するための過激派であり、オスマントルコを取り戻すことを目的とするイスラム過激派と似てはいるが延暦寺の僧兵は程なく――とはいえども三十年以上が経つが、――解散された。彼等は時の新しい権力に敗けたのではなく更に新しい江戸幕府の体制が出来るにつれ自ら妥協して矛を収めた。しかし矛を収めた処をまでは見ずに反乱を興した処をだけが切り取られて彼等のモデル及びレジェンドとされたのである。しばしば、レジェンドは自らの人気に当惑する。
 日本国家の原理もまた、世俗主義的原理主義を常とする。尤も、日本国家を永らく治めていた自由民主党は世俗主義ではあっても原理主義ではなかったが、近年は原理主義の傾向をも呈し出しているし、自らが原理主義ではなくても原理主義的勢力への忖度や譲歩を常としていたのは確かである。安倍政権及び安倍政治とは永らくは忖度と譲歩の対象となる周辺勢力でしかなかったものが一挙に主流派となって来て出来たものであるといえる。人間は、強い者には忖度も譲歩もしないものであり、それらをせざるを得ないような感じがするのは相手が弱い者であるからである。安倍政権は本質的には弱者政権である。弱者として、見放されていた繁栄と権力をあらゆる手立てを尽くして奪う。

 日本の仏教及び日本国家に及ぶイスラム的性質、しかし、イスラム圏と日本には歴史を通して直接のつながりはない。
 唯一つ考えられるのはペルシア、今のイランイスラム共和国をなす地域である。
 ペルシア-イランはイスラム教のシーア派圏である。シーア派は政治的にはもう一つの大教派のスンニ派よりも保守的で強硬路線を常とするがイスラムの信仰においてはよりリベラルである。それは昨日の池上番組にも紹介されている。池上番組が明らかに贔屓にしているのは政治的には穏健で信仰においては原理主義、戒律主義なスンニ派である。
 ペルシア-イランは言語が異なるので中東ではあってもアラブではない。ペルシアはイスラム教の出来る前から繁栄し、西のヨーロッパにも東のアジアにも影響を及ぼしていた。殊に日本にはアジアでは随一の強い影響を及ぼしていたと考えられ、私は出雲大社はペルシアの古代信仰の影響を受けて成り立ったものであるかと思う。出雲大社の他にも、西日本にはペルシアの影響が強く、博多の明太子なんかもペルシア流なのではないかと思う。対してイラクはいくらである。
 かようの古代にはまだイスラム教はない。しかし後にシーア派圏となるペルシアとその他のアラブ圏の中東を分ける或る種の空気のようなものがペルシアの日本への影響と共に「遺伝」し、ペルシアの影響を好ましく思わない他の日本人をスンニ派圏に多いイスラム原理主義者のような気質にしたのではないかと考えられる。ペルシア流はより知的な繁栄の象徴であり、それとは縁のない「私達庶民」は下剋上的気質、即ち世俗主義的原理主義を身に着けることになった。私が明太子を好きではありながら余り食べないのはそんな日本人に目を着けられないためかと考えられる。それと、値段が高いからでもある。
 シーア派は元々アラブ-イスラム教ではなかったペルシア-イランの現地現物に見合うように組み直されたイスラム教であるといえる。それがイスラム共和国と称するのは根深くも面白い。

 古谷経衡氏の『リア充と意識高い系』に擬えると、イスラム教は本家のスンニ派が意識高い系で彼等から見れば贋物のシーア派がリア充なのである。それは日本においてしばしば見受けられる「本家」や「本物」、「プロ精神」などとよく似ている。日本はしばしば意識高い系を本物、主流派と見做す。スタバの味は本物の味で、そこで本物のPCであるマックを使うのがプロ精神の象徴となる訳である――マックが本物というのは私もその通りと思いはするが、――。
 尤も、リア充だけではオスマントルコのような大帝国は出来得ず、意識高い系などの本物の贋物や或る種のならず者を包含するから大帝国が出来るのではある。それだけの統治の巧さがあるからである。イランは統治の巧さがないからそれを補うべく宗教国家にせざるを得ない。

 ――この記事は【ちょっと知りたいキリスト教 ユダヤ教・イスラム教合併SP】、なのにイスラム教と日本仏教の話ばかりになってしまっている。それ程に池上彰はジハーディー池上と呼ぶべき問題の存在であるということでもある。

 その池上番組にも紹介されている、イスラム圏における豚肉の厳禁の風習、というか信仰――
 それが確立している風習であり信仰である以上はそれを尊重しなくてはならないことは論を俟たない。
 日本の食品メーカー味の素はイスラム圏のインドネシアにおいて豚肉の成分の含まれる製品を売って当地における販売の禁止と非難を受けたことがある。味の素のそのような傍若無人夜郎自大の性質はその問題が解決された今も変わってはいない。味の素は人の嫌がることをしたがる企業であり、その顧客もまたそのような味の素の性質に共感する人々から成る。「ほーら、毛虫毛虫!」みたいな――否、もっと酷いか。――。

 ここでは豚肉にまつわるユダヤ教、キリスト教とイスラム教――:古い順――の違いを見てゆく。

 大雑把にいうと:
 ユダヤ教: 豚肉は原則禁止 しかし血を搾り取れば食べてもよい
 キリスト教: 何を食べるか食べないかは自己責任によること 豚肉も禁止ではない
 イスラム教: 豚肉は例外なく禁止

 それを見ると、イスラム教は厳しくてキリスト教は緩いというかもしれないがそうではない。
 何故そうなのか、それぞれ何に厳しいのかを考える必要がある。

 そこに浮かび上がるのはユダヤ教の回りくどさ。
 優柔不断の末に妥協策を編み出したかのようにも見えるが、実はその通り。
 ユダヤ教は根から優柔不断な性質のある宗教である。
 そもそもが妥協策なのに、それを厳に守るべき本質なものと見做すエホバの証人、ものみの塔聖書冊子協会はその意味ではユダヤ教的ではない。
 イスラエルを中心とするユダヤ教圏は元々は菜食主義であり獣の肉を食べることには明確な禁忌ではないが戸惑いがあった故に、獣の肉をどうすれば食べてもよいかを考える必要があった。羊は祭で焼き尽くして食べる。豚肉は血を搾り取って食べる――それらは命を犠牲にすることを目に見える形で明らかにし、その罪の贖いへの感謝の内に食べることを旨とするものである。野菜も命であり同じではあるけれど、野菜は獣よりも嵩が軽く捧げ易いのでそのような問題にはならなかった訳である。
 キリスト教はそのようなユダヤ教圏だけではなく全世界を志向するために、あらゆる慣習に対応し延いては馴染み得るような原理をなす必要があった。獣の肉を食べる人をも食べない人をも包含するためには何を食べるか食べないかはそれぞれの自己責任に委ねるべしとなる。ここに言う自己責任とは今時に聞かれるような自己責任、即ち個人の責任だけのことではなく個人の責任をも集団の責任をも、延いては国の責任をも含む歴史的に重要な概念である。自己責任というのはさようにキリスト教圏においては伝統的に重要な概念である。
 イスラム教が豚肉を全面禁止とするのは何故か?それも、何故豚だけであり他の肉はよいのか?
 先ずは先のユダヤ教における豚の指名が根底にある。ユダヤ教もまた、豚だけを他とは違う特別なものと見做す。イスラム教はユダヤ教が例外付の禁止としたものをより厳しく例外のない禁止とした。
 一つは優柔不断ではいけないと思うから。信仰が優柔不断ならばそれを信ずる人々とその社会が皆優柔不断になりかねない。安倍晋三の口上の如く「ハッキリものを言う」ことを殊更に尊ぶ日本とも相通じる。
 もう一つは中東においては豚は特別なものと見做されていること。
 中東情勢に詳しい落合信彦もその著書にしばしば、メンタリティーの低い人を「ブタ」と呼ぶ。
 豚は抵抗しない、少なくとも人間がそのように認識することができるようには。メンタリティーの高さとは抵抗することができることである。
 イスラム人は抵抗しない者を殺してはならないと思う。コーランには理由なく殺してはならないとの教えがあるが、その「理由なく」とは「抵抗しないのに」ということであり、抵抗すれば殺してもよいということ。つまり、イスラムの発想は落合信彦とは真逆様である。要は、イスラム人にとっては豚は「女性のように清らか」な存在なる故にそれを殺して食べてはならないのである。同じ特別でも、ユダヤ教が豚を指名して特例を設けるのは豚を抵抗することもない程に不浄な存在と見るからであり、血を取り除くのはそれを浄める意味がある。しかしどんなに不浄で馬鹿でも命は命とし、それを捧げなくてはならない。
 その点もまた、ユダヤ教圏とイスラム教圏の決定的対立の要因である。ユダヤは「豚はブタ。ブタは死ななければ治らない。」といい、イスラムは「ブタで何が悪い!豚を馬鹿にするな。」という。
 無抵抗を清らかで美しいと見る発想は日本にも顕著なもの。その点でも仏教国こと日本はイスラム国であるといえる。
 ユダヤ-イスラエルは「抵抗しなければ殺せ。」という発想である。抵抗は神が命あるものに与えた尊いものであり、それがないことは自らを命ある者とは認めないということなのでモーセの十戒にある「殺してはならない。」の対象にはそもそもならない。植物野菜を食べるのも植物の多くは抵抗しないからである。ユダヤ教を前身とするキリスト教も本流においてはユダヤ教のそのような「抵抗は命;無抵抗は命にあらず」という生命観を受け継ぐが、その本流思想を支持するもしないも自己責任であるとし、異論も多く、異論が即ち排除される訳ではない。
 「ブタで何が悪い!豚を馬鹿にするな。」というイスラム人も、それを抵抗と見ることもできなくはないからキリスト教圏にはイスラム圏贔屓な反トランプの人々もいるが、何れにせよ無抵抗を命とは認めないことにおいては同じキリスト教の発想である。

 とはいえ、命だけに焦点を絞ると血腥い話になるが、命のないものを破壊するのは全然OKという教えはどの宗教にもない。

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by keitan020211 | 2017-07-30 18:36 | 文明論 | Comments(0)
青山学院女子短期大学が閉学へ 短大の存在意義を見直すべし
 青山学院女子短期大学――:東京都渋谷区――が2018年度の新入学生の募集を最後に閉学となる。


 18歳人口が減っており、また女性の4年制大学志向が強まり、志願者が減少傾向にあるためとされる。

 青山学院は東京築地に1878年にアメリカのメソジスト教会のジュリアス ソーパー宣教師により創立された耕教学舎、東京麻布に1874年にアメリカのメソジスト教会のドーラ E. スクーンメーカー宣教師により創立された女子小学校と横浜山手に1879年にアメリカのメソジスト教会のロバート サミュエル マクレーにより創立された美會神学校を前身として1894年に設立された。当学はその創立をそれらの最も古いスクーンメーカーの女子小学校の創立と見做すので今年は143周年となるが、青山学院の名で数えると1994年が100周年で今年は将棋の加藤一二三九段の名を想わせる123周年となる。
 特にそれらの三つのどれが正統で他が傍流というような位置づけはないが、最も古い女子小学校が何となく青山学院のアイデンティティーの祖と見做されており、直接の関係は分からないが、1950年に設立された女子短期大学も何となくその流れを汲むものと認識されているらしい。

 東京及びその近郊の学校には学生生徒児童の住む地域による柄の違いと言うものがあるというが、青山学院もまた東京西部の人はスクーンメーカー系を、東京東部の人はソーパー系を、横浜方面の人はマクレー系を何となく尊敬(リスペクト)するようである。東京東部と横浜方面には元女子校という見方は余りなく、大学の進学なんかも若干の例外はあるが、4年制の青山学院大学を志願する傾向が強い。
 よって青山学院女子短期大学の閉学の理由は少なくとも青山学院生やそれを志願する人々にとっては、港区を中心として青山学院のある渋谷区や世田谷区に及ぶ、東京西部の価値観が衰退していることにあるともいえそうである。因みに女子小学校の祖スクーンメーカーの名を記念する女子寮は東京都世田谷区祖師谷にある。祖師谷といえばNHKの技術研究所やフジテレビ、関西テレビやTBSなどのスタジオの集まる東京メディアシティのある所でもあり、東京西部の価値観の衰退とはこの国の言論や風俗を作り出しているマスコミの信用の喪失を反映するものでもありそうである。
 寄合所帯といえば聞こえは悪いが、同じ学校にも様々の流派があり、どの学校はどんな気風とは一概にはいえない。

 青山学院の女子短大がなくなることは既に決まったことなので構わない。
 女子大生マニアなどの所謂男目線からいうと、他の数多の女子短大がなくなっても構わないけれど「青短」だけはなくなってほしくない、惜しまれるというのが相場なのではないか。
 先のリンク記事の筆者ヒロ氏は青山女子短大の学生食堂に「時々忍び込んでいました。」と語る。
 私もそこには幾度か訪れて昼飯をしたことがあるが、彼の言う「女子学生が好きそうなピラフやドリアなどが器も女子好みのかわいい系で取り揃えていた」というような憶えはない。かの4年制の大学の学生食堂と比べるとこじんまりとしていて献立の数も少なく、器も普通に地味な感じであるが、味は4年制のよりも確かであったのを憶えている。

 この記事に問うのは女子短期大学一般についてである。

 この処に政治において与野党が課題として掲げている高等教育の無償化――
 それとのリンクにおいて女子短期大学の存在意義と可能性について考える。

 単純に見積もっては、大学などの高等教育が無償になればただで享受する余地が増す訳であり、そうなると2年間の女子短期大学より4年間の大学に入りたいと思う人は今までよりも増すことが予想される。「ただで2年」と「ただで4年」を比べれば後者となろう。
 そこで得をする余地が小さくても女子短大に入りたいと思うには余程にその存在意義と可能性が確かである、即ちコスパが高くなければならない。
 今までの女子短大を支えていたのもコスパの高さである。より少ない費用と時間の負担で相応に高い社会的利益を享受する可能性が開けていると、昔は広く認識されていた。社会的利益とは職業の安定とその賃金若しくは地位である。また、それらを具える女子とつき合いたい或いは娶りたいと思う男子は女子がその経済力や地位を相対的にでも高めることを否定的に見ない、否、肯定する人であり、いわばリベラルな価値観が女子短大を支えていたといえる。
 しばしば勘違いする向きが多いが、男女平等を軸とするリベラルな価値観は4年制大学も何程かには担っていたけれども、主に担っていたのは女子短大であり、女子短大は女向けの学問や素養をしか扱わない保守的教育であるというのは女子短大の歴史と現実からみれば誤りである。寧ろ、4年制大学の内にこそ同じ土地と教育制度の枠組みの中で男女の異なる世界が形成されて男女平等とは程遠くなることが少なくないのである。

 市場規模と国内需要の縮小、それによる経済力の減少が不可避とされる今後の時代に、時間はともかく、費用の負担のより少ない女子短大はより重要性を増す筈である。
 時間に関しては、大学がただで行けるようになれば年数が多い程によいという先述の発想も手伝い、4年制大学への、延いては大学院への志向は既に生じているようにより強まるであろう。

 そもそも、若い人における時間の経ち方は遅い。
 齢を重ねると経つ時間が信じ難い程に早くなるとはしばしばいわれる。私がブログやツイッターをPCに向かって書いていても如実にそう思う。20歳辺りにとっての2年はかなり長い。2020年のオリンピックの選考会からは4年となる。恐らく若い人はそれを一時代前という程のかなり昔のことと思っていよう。
 女子短大の2年は決して腰掛だけの短縮コースではない。

 そしてくれぐれも云っておきたいのは、『人づくり』は自己責任におけるものであること。
 女子短大などの学校の教育は各々の自己責任を支えるものに過ぎない。
 国が『人づくり』をするべきではない、促すべきではない、それが女子短大を立てた学校の多くの伝統的認識である。
 あくまでも、国とは金を出す機械である。教育者とはその機械を操作する労働者である。

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by keitan020211 | 2017-07-25 18:37 | 文明論 | Comments(0)
花王ハミングファインの「オトコ臭」のCMとベートーベン交響曲第5番に見る日本の「伝統」
 日本の奇習の一つに、年末にはベートーベンの交響曲第9番を聴くというのがある。
 それは日本の公共放送を自称するNHK、日本放送協会とその系列の音楽団であるNHK交響楽団が年来に強く推して出来た慣行であるが、近年は下火となっているようである――NHKを全く観ないので本当の処は分からないが、――。それについては1990年頃に主に出版界の一部が年末の第9を奇妙な慣行と批判する見方を示し、それがいつしか「確かにそういわれてみればそうだ。」と衆目の得心を得て下火になったのではないかと考えられる。
 第9と並びベートーベンの交響曲として日本においては名高いのが交響曲第5番である。
 番号で呼ばれても分からないというのはもぐりであり、本当は9とか5とかと言うだけで分からなくては音楽を愛するとはいえないと思うが敢えてそれらの通りの良い別名を示すと第9は『喜びの歌』であり第5は『運命』である。それらの別名もまた’90年代の頃からしばしば日本の奇習と諸々のメディアに指摘されている。ベートーベンの本場ドイツにもその他の日本以外の世界にもそんな呼び名はない。
a0313715_23441337.jpg 第9が『喜びの歌』というのは聴いた感じ、頌歌がほとぼり出るような感じが何となく分からなくもないが第5が『運命』というのは皆目も分からない。一体、第5のどこをどう聴けば『運命』という主題が浮かび上がるのか?
 私は小学生の頃に父の持っていた第5のレコードを聴いてみたことがあるがその率直な感想は「勇ましい」、「新天地を望み、力の湧き出るような」、そして語彙と感性に乏しい小学生の常套句で言えば「格好いい」という感じであり、どこも『運命』ではない。強いて理屈を付けるなら、運命を感じている人に聴かせれば運命を解放されるということになろう。何れにしても第5の趣は「反運命」であるといえる。
 日本人がそれを何故『運命』と誤解するのかを分析してみると、曲に多く見られる速度と音量の変化が或る種の日本人には情緒不安定を想わせ、運命とは不安定な情緒に支配されることであるからその曲を『運命』と呼ぶことになったということ。しかしベートーベンだけではなく、そのような速度や音量の変化は多少なりとも聴く人々の大切な時間を借りるものである音楽には当然に用いられる演出の手法であり、情緒不安定とか何の関係もない、豊かさと気合の発露である。
a0313715_23460532.jpg それは日本のテレビ番組等においてBGMとして使われることの多い楽曲を見れば何となく明らかであり、例えば同じANN報道ステーションの主題歌でも、2016年3月までの古舘伊知郎キャスターの頃のピアノの楽曲は速度や音量が凡そ一定で馬鹿みたいな感じで他局の番組等にもしばしば使われるのと比べ、2016年4月から現在のジャズフォーンの楽曲は速度や音量が目まぐるしい程に変化し、粗全く報道ステーションの他には使われない。前者は日本受けし易い音楽であり後者は日本受けしにくい普遍的音楽といえそうである。それでいて放送の内容は前者は日本受けしにくいものであり後者は日本受けするのが色々な都合である。
 もう一つの原因は日本に広く知られるドイツの巨匠はベートーベンの他にニーチェがおり、彼はベートーベンとは逆に『運命愛』を説き、そのニーチェのイメージがベートーベンにも勝手に敷衍されたことである。一概にドイツといえども色々といる。尤も、昨今は「癌で死ぬことは運命ではない。」という見方が強まって来ており、医療を取り掛かりとして明治時代から広まった日本人のドイツ観も日本人自らの基本思想も何となく変わって来てはいる。

 その『運命』こと交響曲第5番が使われている最近のテレビCMに家庭用化学製品のメーカー花王の消臭効果洗剤ハミングファインのものがある。
 花王といえば誤った学芸文化観を日本人に植えつけているNHKと並び、誤った科学観や消費文化観を植えつけている大手企業である。
 花王の基本的考え方(ベーシックコンセプト)は「汚くて不快なものはとにかく洗い落とすべし」というもの。
 洗い落とすためならば手段を選ばず、人の健康や精神を害しても構わない。
 それでいて花王製品を使えば何でも落とせてきれいになるという訳でもない。
 丁度、日本の特徴とされる所謂「禊」の発想に近い。禊とは身を削ぐということであり、花王製品を使うと本当に肌身が削がれて殺がれる。
a0313715_23482074.jpg 科学が人間社会の諸々の問題を悉く解決するべし、消費者は科学を信頼するべしという誤った科学観の産物が花王である。
 本当に効いて体への副作用も最小限な製品は得てして匂いが余り香しくなかったりするが、花王の製品は多くの場合はその効果を香料で錯覚させており、誤った科学なだけではなく似非科学でさえある。単に好い匂いにするだけではなく如何にも効きそうで且つ香しい匂いがミソであり、その典型はふけと痒みに効くと謳う洗髪剤のメリットである。ライオンのフルーツシャワーシャンプーなどのように単に良い匂いなだけでは素人ぽく見られるので巧妙に程よく婆臭くて分かりにくい匂いを作り出す訳である。その点は若々しくて分かり易い楽曲を嫌う、即ちプロ気取りと職人気取りを尊ぶ日本の音楽とも相通じるものがある。
 尤も、汚肌は一日にして成らず。花王製品も一度や二度使うだけで肌が汚くなる訳ではないので美肌美人として名高い石原さとみを化粧品部門のテレビCMに出すことも可能な訳であるが、さすがに嘘はつき通せないので久本雅美を出すことになる。久本による花王のCMはいわば等身大の花王であり、花王による汚さを洗い落とせるものは花王を選ばない適切な選択だけである。

 ハミングファインのCMは開口一番、けたたましい第5の旋律に乗せて「オトコ臭!オトコ臭!」と歌うもの。
 先ずは視聴者消費者が馬鹿にされているのであり、誰がそれを観てそんな宣伝元の企業の商品を買いたいと思うものか?
 案の定といいたい処ではあるが、この狂っている世の中にしては意外にもそれについての視聴者の非難が相次いだという。花王の横暴さに、誰も批判しない、批判すれば抹殺されるのが世の常と思っていた。故に非難が巻き起こったことに率直に感動する。
・オトコ臭ねぇすげぇ男性差別なCMだな
・「オトコ臭」だの「男脂臭」だのと男性差別が酷いw
・オトコ臭のCM、これ立場が女性なら炎上するよね??
・オトコ臭や男脂臭やらのCMってなんかさ、、、。
・オトコ臭ってなんか失礼では?
・オトコ臭やば
・ハミングのオトコ臭のCMなんか好き(笑)
・これは男性への差別に当たるんでないか?
・オトコ臭とかいうCMメッチャ不快なんだけど。
・花王の「オトコ臭」のCMは男女差別ではないのか?自称人権団体様は仕事しろ
・女性の皆さんはこういうのはOKなんですかね...
・オトコ臭とか言ってるけど、もし逆にオンナ臭って言ったら大問題になるんだろうな。オトコだと臭いことにしてもいいという風潮。
・洗剤のCM、男子臭だとかオトコ臭だとか早朝からあんまりではないか
 ネットに挙がったいう批判の一例。
 多くは男性差別を主題とする。
 結論から言うと、所謂オトコ臭を含む体の悪臭の原因は花王製品のような物の継続的使用にある。
 花王は自ら原因を作り出しておきながらそれを救うと謳い、自作自演というか、そんなものを使っておれば悪臭の悪循環になる。尤も、使った時に直ぐに悪臭が出るのではなく暫くは消臭や芳香の効果があるがそれが程なく失せて悪臭が増し、地が臭い人の出来上がりとなる。悪循環とはいたちごっこであり、消しても消しても匂う己の身の臭いを度々消すべく花王製品の継続使用が促がされる訳である。その典型的人物は舛添要一前東京都知事であり、如何にもオトコ臭対策を怠らずにしていそうであるがテレビの画面には彼の悪臭が漂う。そんなことを怠らずにする程ならば自分の所の金の管理を怠らずにしてほしい。

 但し、男は女よりも体の悪臭が着き易いことは確かではある。
 しかし「着き易い」であり「出易い」ではない。
 体の悪臭の原因は空気に漂う埃や排気ガスなどが人の肌に着くことにあり、即ち主に外的要因である。
a0313715_23505984.jpg しかし人の体には慣れというものがあり、埃や排気ガスが着いても匂わなくなるような抵抗作用がある。花王製品を使うとその抵抗作用が働かなくなって悪臭の着き易い体質に変わってしまう。
 男性、殊に男社会を脱却していないとされる日本の男性は女性と比べ外に出て働く人が多く、それだけより多く悪臭の素に晒されている。都会は臭い人の率が田舎より高い。専業主婦はどんなに頑張っても、家の中には少々の埃は溜まっても排気ガスもなければ訳の分からない人の吐く息もないのでそれだけ悪臭が着きにくい。体質として匂いの生ずることにはこれという男女の違いはなく、悪臭は自生しないものである。取り分け悪臭の目立つ人、殊に男性におけるそれは抵抗作用を自ら失わせている故に臭う体に変わっているが、重ね重ね、その原因を作っているのは花王とその支持者である。よって女性も花王を支持するならば男性の程ではないにせよ臭い女になる。臭くないのは洗ったばかりの一時だけであるが、普通の人は体が臭うことはない。
a0313715_23524007.png 何れにせよ、男社会なら男性の体が女性の体よりも臭い易くなることは必然であり、個人の体質ではなく社会構造の問題であるといえる。そのような社会構造を事実上はその侭にしておきながら「オトコ臭!」などと揶揄して宣伝するのは話にならない不見識といわざるを得ない。自分達の作り上げている社会を自分達が馬鹿にしている訳である――それもまた日本には時に顕著なことの一つである。――。また、男社会ではなくなれば女性も臭い易さにより晒される訳であり、女性の活躍を煽っておれば臭いのない人間社会になるというような甘いものでもないが、男女平等がより実現されてさえ、体の悪臭を防ぐ一番の策は財政状態の改善と同じように、「臭うことなんて滅多にない、大丈夫。」と思うことである。詰り、支持者が与野党に少なくない財政再建は国民の体を臭くする愚策ともいえる。

 そして悪臭の素は外気だけではなく、今の時代は屋内にもあることに注意が要る。
 その主なものは冷暖房機、エアコンのフィルターの埃やかびなどの汚れが送風と共に室内に出ること。
 詰り、屋外の労働だけではなく冷暖房の効いている屋内の労働においても悪臭の素には晒されかねない。
 私も家で冷房を点けずにいて汗をどっぷりとかいている時には何の臭いもないのに冷房を数時間も点けていると所謂汗臭さがにじむように出て来ることがある。私はけちなのでエアフィルターを偶に水洗いするだけで定期的に付け替えないことが原因であると思われる。送風を受けることにより体が乾くと体の磁力の変化、即ち静電気が生じて悪臭の素を吸い寄せ易くなる。

 要は人工的現象が悪臭の原因であり、それを必要とする近代社会においては多少の体の悪臭は運命といわざるを得ないといえばその通りかもしれない。しかし子供をも動員して歌い捲って揶揄する花王のCMはニーチェが愛すべしと語った運命なるものを愛することとは明らかに違う。私は運命を信じないが、ベートーベンの交響曲第5番を『運命』と呼び、況してやそれを花王のCMなどのように悪用することは運命を信ずる人々にも失礼なことであると思う。

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by keitan020211 | 2017-07-22 23:59 | 文明論 | Comments(0)
或るプリミティブな大衆迎合――古谷経衡のツイートと北条かやのブログ それとトランプ政権半年
 弘法にも筆の誤り。
 私の尊敬する'80年代生まれの文筆家である古谷経衡氏のツイッターにこんなツイートがある。


 猿はお坊さんにはなれない。
 私の軽蔑する'80年代生まれの文筆家である北条かや氏のブログにこんな記事がある。


 さて、トランプ政権が発足から半年になる。
 発足の初めから支持率が50%ない政権はなかなか例がなく、それが更に30%台へ下がっている。しかしその三割が岩盤の如く堅い支持層であり、その水準を下ることは多分ないであろうと日本の報道は予想している。それだけ下がっている理由は見るべき政治成果がまだないのが主なことである。
 そのトランプ氏が大統領選挙で勝った時、そして就任した時、日本の大新聞等は社説などに「大衆迎合」或いは「ポピュリズム」と批判した。
 「大衆迎合」は或る面では正しい指摘ではあるが、「ポピュリズム」は言葉の意味が誤りである。ポピュリズム、民衆主義とは民衆の盛り上がりに基づく政治の新しい波をいう概念であり、大衆迎合や人気取りの政治というようなことではない。民衆が自ら盛り上げるので為政者はそもそも人気を取る必要もなく、その波を受ければよいだけの話である。
 トランプ氏の登場はアメリカの民衆が自ら盛り上げた政治のうねりではない。彼の政権の政策顧問であるヘリテージ財団など、トランプ側により企画されたものであり、それが偶々有権者民衆に受け入れられての選挙戦の盛り上がりである。民衆はそこでは明らかに受け身であり、受け身でしか望みを懸けることができない状況の最大の理解者としてトランプ氏は大統領選挙に出て勝った訳である。そのためには相応の人気取りや大衆への迎合は必然に必要となるが、ポピュリズムではない。
 彼のようにそれが必要且つ可能であると認識しての大衆迎合ならば悪くはない。安倍政権で話題の忖度にも似、良い迎合と悪い迎合があることは彼を批判する報道メディアが最も能く分かっている筈である。

 しかし、自らの言葉や振舞いが、大衆迎合であるとの認識のないそれであったら、どうか?
 自分は普通に常識を語っている、自分は人のためを思って語っている――そのような自意識からの大衆迎合というものがしばしば見受けられる。厳密にいえば、人はそのような錯誤を全く免れることはできないのかもしれない。政治の世界におけるその分かり易い例はトランプ氏と戦ったヒラリー クリントン氏とその陣営及び支持層である。
 そのような錯誤を犯す一因には人間の独自性、オリジナリティーの限界というものがある。人は独立の存在として個性を持つべしとされるが、一億人には一億通りの個性があるかといえばそうでもなさそうなのが常である。故に、人は時に受け売りの考えを受け売りとは思わずに独自のものであるかのように語り若しくは行おうとする。受け売りの考えの基となる「考えの素」はメディアや口コミを通して数限りなく用意されている。
 'America First'もまた受け売りを構成し得ないとはいえない「考えの素」ではあるが、「移民の国アメリカ」よりは明白に独自性が強いと認識されているから、トランプ氏が勝った訳である。

 そして古谷と北条である。

 古谷は独自性の限界に嵌まっているのではないかと思われる。
 彼のようなリベラルナショナリズムの論士は少なくとも今までの日本にはなかった新しい型である。然もそのような型が確立されていると広く認識されてはいないので自らの型に嵌まって退屈になってゆくことにもまだなってはいない。
 「今まで」とは概ね1960年代の高度経済成長期以後である。それまではリベラルナショナリズムと呼ばれてはいないが、それに当て嵌まりそうな政治思想やその支持層が在った。その担い手たる政治家は鳩山一郎総理や三木武吉などであるが、高度成長以降の軽武装経済主義の路線の確立と共に下火となり、彼等自らもそれに合わせてその思想を適当に曲げてゆくこととなった。因みに私、弊ブログはそれらリベラルナショナリズムと軽武装経済主義を秤に掛けるような思想なので、その何れにとっても私は自分達の考えを曲げさせようとしてくる者と見えよう。政界ではそんな私に最も近い思想を持つのはやはり小沢一郎であろう。そのためには時には迎合し時には固辞する。

 大衆迎合の内の最もポピュラーなものは『庶民の気持ち』というテーゼである。
 今風に言い換えれば、『格差社会における相対的貧困層の増加』である。相対的貧困層とは大雑把に言うと所得水準や資産水準の平均を下回る人々のことである。飽くまでも相対であり、絶対的貧困層と比べれば富裕な層である。所得や資産の水準が平均未満なら、必然に社会的パフォーマンスも相対的に乏しくなる。
 社会的パフォーマンスとは良い服を着るとか、良い物を食べるとか、良い家に住むとか、更には愉しくて洗練された催しに加わったり若しくは自ら開くなどのこと、即ち消費と社交の在り方である。古谷氏はそれらを『リア充と意識高い系』という切り口で最近にその著書に論じて話題となりまた支持を受けている。私もその支持者の一人である。
 但し彼の唯一つの誤りは今はやりのハロウィン、イースター、プレ金やナイトプールなどを「意識高い系」に仕分けしていることである。
 ハロウィンとはケルト民族の新嘗祭が起源で今はアメリカに一般の秋祭り。
 イースターとはナザレのイエスの復活を記念するキリスト教の祭。
 プレ金とは日本の経済産業省の企画による、消費の喚起のために金曜日の時短労働を奨める啓発。
 ナイトプールとは夜行のプール。
 ――それらの何処にも意識高い系的要素は見当たらない。偶さか意識高い系がその一人として加わることはあるかもしれないが、彼等が音頭を取って盛り上げるようなものではない。
 彼はそれらを「気がつけば世の中、社交的でコミュ力豊富な、異性とうまく立ち回ることのできる連中だけに都合の良い体制が確立されている。上等じゃねえか。」と評するが、今の世の中の実態は全く逆に、義務的人間関係をしか結ぶことができず、コミュ力はその限りでのもので、異性を根本的に嫌う連中だけに都合の好い体制になっている。言いにくいことではあるが、その象徴は安倍政権を構成する安倍総理とその「お友達」である。安倍政権という義務の中でしか通じない言葉を操り、男女の世界をどこまでも分け隔てようとする。故にどんなに安倍総理のお友達とはいえど稲田朋美は共に歩める者がおらずに空回りすることになり、更には彼の妻安倍昭恵さえ片輪でトランプに蔑まれる。
 反安倍の側もまた、反安倍という内輪の義務のようなものにおいてしか人間関係やコミュニケーション、異性とのつながりを築くことができないので五十歩五十一歩である。
 慧眼の士古谷経衡も、自らの知らないことには「意識高い系」のレッテルを勝手に貼りつけてしまう。
 彼の他にも見られるそれらの華やかな暮らし振りについての批判は義務的人間関係をしか結ぶことができず、コミュ力はその限りでのもので、異性を根本的に嫌う連中だけに都合の好い体制を補強し護持しようとする体制人の口車に乗せられているか或いは自らがそのような体制人である。口車に乗せられて喋っている、允に残念なその一例は彼もまた私の尊敬して已まないマツコ デラックスである。
 「日本は世界で最も成功した社会主義国」とは正にその通りで、その原理は華やかな暮らしやそれ程とはいえないにしても暮らしと生涯の愉しみを自ら作り出してゆく才、即ち自由を蔑むルサンチマンの心性である。安倍政権もまたそのような社会主義政権である。そのような華やかさに対する逆上の見せびらかしとしてしか自国の伝統慣習を語ることができないのが彼等である。故に、オバマがお辞儀をしたり鮨屋の暖簾をくぐったりすると身障者の如く歓ぶ。

 そこでつくづく実感した。「地方には東京よりも、高級車が少ない」のである。走っているのは軽自動車や小型車ばかりで、都心で見かけるような高級車はめったにない。少し奇妙に聞こえるかもしれないが、私はその光景に、とても癒されたのだ。


 「そこで」ではなく、元々知っている筈なのに何やら「つくづく実感」と語るのはその言辞そのものが何等かの見えない見せびらかしの念から来るからである。その一つは「自分には何とならばいつでも帰れる故郷があるぞ。」ということであろう。しかし本当は「帰れる」ではなく帰らざるを得ない不祥事なのではないか。
 その見えない見せびらかしを補強するように、東京を往く車と田舎を往く車を比べる。そこでは東京の車は否定的表象であり、田舎の車は肯定的表象となる。
 そもそも見せびらかしに加わりたいから東京へ来た筈なのに、この期に及び、「東京の車=見せびらかし=人を傷つけるもの」という印象操作をする。「「傷つける」なんて言ってないではありませんか。」と言うかもしれないが、題名が「東京の「クルマ見せびらかし地獄」はしんどいぞ」で本文の冒頭に「都心で見かけるような高級車はめったにない。少し奇妙に聞こえるかもしれないが、私はその光景に、とても癒されたのだ。」と言い、要は「傷ついた。」ということである。「少しかもしれない」ではなく、まんま奇妙でしかない。
 そのような口上の在り方は「どいつもこいつも…」などと同じく、被害妄想を人に植えつけることを目的とするものである。そのように言う自らが被害妄想を持つ場合もあるし全く持たずに只人を陥れることだけを考えてのものな場合もある。北条氏はどちらかといえば、仮病の常習者なので後者そのものであるか後者に近いかであろう。
 被害妄想を人に植えつけることは政治性が伴う場合も多い。その政治性とは先述の、日本を世界一の社会主義国家にする永年来の営みである。被害妄想が社会主義的政策への志向を強め、そしてその成就の暁には不当な恩義をおしつける訳である。だから、「日本人に生まれてよかった。」となる。
 どうも北条かやは初めからそのような「日本は世界で最も成功した社会主義国」と「日本人に生まれてよかった。」の宣伝(プロパガンダ)の士としてデビューした者なようである。弊ブログの予てより批判する『安倍政治と反安倍の融合』、俗に言う『保守とリベラル』の一体化を地でゆく存在である。「『保守とリベラル』の一体化」とは勿論、弊ブログや中島岳志教授などの標榜するリベラル保守のことではないし、保守とリベラルが結婚することでもない。

 「都心をゆくクルマは「レベルの高い」車種ばかりだ。」は意図してか否か、前出の古谷経衡氏の『意識高い系』と符合する。「都心をゆく車は意識高い系の車種ばかりだ。」と読み替えられる。
 しかし現実にはそれらフェラーリやアウディ、BMWなどの高級外車は意識高い系とは殆ど関係ない。にもかかわらず、北条はそれらをそこに「意識高い系で嫌な車」という風に印象操作をする。そのための小道具がコインパーキングと都内の百貨店の駐車場、「ツンとすました顔で停まっている。」である。コインパーキングは高級外車の持主なら本来は使いそうもなさそうな下世話なものという表象性があるし、百貨店は本来は電車で行く所でありそれもまた高級外車には似つかわしくない筈なものではあるが「都内の百貨店だけは違う」という既成の文脈、即ち先述の「考えの素」で語るもの、「ツンとすました顔で停まっている。」は正に被害妄想を植え付けるための形容表現そのものである。
 アウディやBMW、それに何故かそこには挙げられないメルセデス ベンツを見掛けて「ツンとすました顔」と思う人は殆どいない。それらは最も素直に認めて受け容れられる車、即ち嫌味のない車であるというのが通念である。例えば自分が貧乏になった際に或いは貧乏ではないけれども偶々銭の持ち合わせがない際に乗せて送ってもらう場合にはBMWとマツダとどちらが素直に喜べるか?どう考えてもBMWである。逆に、マツダ車に乗せて送ってもらうよりは和光市までも独りで歩いて帰りたいと思うであろう。そのような違いこそがトヨタ以外の日本車と外車の歴然たる違いであり、トヨタ以外の日本車は子供騙しの見せびらかしの心性で出来ている。
 「それが悪いわけではないが、」ではなく「所詮そういうものなんだよ、世間知らず!」というのが北条の本音ではないか。それが続く「滑稽なような羨ましいような」に明らかである。明確に「しんどい」や「嫌い」などとは言っていない。
 「悔しかったら見せびらかせるようになりなよ!私だって所詮この程度でも精一杯見せびらかしてる――失笑するばかりであるが、――んだから!」、北条かやそのようなメッセージのエバンジェリストである。戦後レジームの訣別ということなら、正にその手の人々をいなくしなくてはならない。
 そういえば私のお気に入りで北条も近頃に気に入っているというGUが無人支払所をこの程に設けて有人支払所を原則廃止にしている。何と商品を一つ一つバーコードで通さなくてもよくて丸毎読み取って計算してくれる優れもの。北条には支払機の読み取り庫に入れた商品を置いてゆかないように精々気をつけられたい。「忘れて来ちゃった、ま、いいか。」と言えば立派な見せびらかしになる。

 北条かやはこの処にしばしば郷土愛とか田舎に癒されるとかと語っているが、そのような現実逃避的言説が正に都会の見せびらかしや所謂一極集中を助長するものであり、それもまた併せて根絶する必要がある。北条もまたその一端を担っている、地方を散々疲弊させて潰しておいて郷土愛や癒しなどとは余りに見え透いている。

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by keitan020211 | 2017-07-22 17:03 | 文明論 | Comments(0)
【Freesia料理】朝鮮風麻婆豆腐
 私の得意料理である麻婆豆腐は豆板醤や花椒などの中華の調味料を使い作る料理。
 その麻婆豆腐を朝鮮風にして作ってみました。
 ――さて何でしょう?

 特亜調味料東アジアの調味料に関心のある方なら容易く察しがつくかもしれません。答は豆板醤を苦椒醤に代えて作る麻婆豆腐です。

a0313715_18562942.jpg 苦椒醤は朝鮮や韓国の料理には広く用いられる醤系調味料であり、辛い豆板醤と比べ大いに甘いのが特徴です。その甘みを生かして日本の焼き鳥のたれなどにも用いられます。但し焼き鳥のたれの基本の材料は醤油と味醂、砂糖で、苦椒醤を使うのはやや特殊な品に向けてのものとなります。

 その苦椒醤を使う麻婆豆腐は、麻婆豆腐の由来を浮かび上がらせます。
 豆板醤をベースとする中華の麻婆豆腐の由来は「あばたのあるお上さん」なそうです。「麻」は蕁麻疹の「麻」で、「婆」はお上さんのこと。因みに「婆」や「爺」、「老」などの日本においてはしばしば蔑む意味合いで遣われる語はシナ語では尊び敬う意味合いのものです。というか、日本においても本来はそうです。故に「お婆さん」よりも若い「おばさん」と言われて気を悪くするようなことは正しい日本語やシナ語の観念からは考えられないことです、理屈ぽく解釈するとおばさんはお婆さんより未熟ということで莫迦にしていると取れなくもないですが。
 で、麻婆豆腐のような油の多いものを食べていると吹出物ができるということではありません。麻婆豆腐の皿に盛られた様があばたのお上を想わせることから呼ばれます。挽肉が面を覆って赤々としているのが「麻」という訳です。
 しかし、ここに紹介する朝鮮風麻婆豆腐は挽肉が面を覆うのは中華風と同じでありながら、赤々としてはいません。その黒みがかった色合いは麻疹や傷が癒えて瘡蓋となりつつある時のような感じがします。とはいえ、この朝鮮風麻婆豆腐にはそれらの治癒効果があるかどうかは何ともいえませんが、なるべく健康的な料理に仕立てました。

 作り方は簡単、牛豚合などの挽肉、豆腐と葱を苦椒醤、ナンプラー、酢、擂下葫(すりおろしにんにく)と片栗粉で炒めるだけ。
 炒め油はサラダ油でもオリーブ油でもよい。
 その他の調味料は胡椒だけ。
 葱は縦切りにする。

 <下の写真は『プロから学ぶ簡単家庭料理 シェフごはん』に掲載の『ヘルシー!健康韓国風味麻婆豆腐♪ 呉本昇太郎シェフのレシピ』のものです。>
a0313715_18565945.jpg ナンプラーが入るとは純粋な朝鮮風ではないと思われるでしょう。ナンプラーはタイの魚醤油です。
 私には朝鮮は東南アジアにも開けているものという印象があるため、東アジアだけではなく東南アジアの味を加えたいと思う訳です。因みにタイと北朝鮮は国交が開かれて今年で40周年となります。
 そして日本の代表的野菜である葱、それを豆腐と挽肉に加えて顔とします。葱は肌をきれいにするといわれ、あばたにも効果があるかもしれません、余り無責任なことはいえませんが。
 朝鮮風とはいいながら、事実上は日本、朝鮮とタイを融合した味となり、「アジア麻婆豆腐」とも呼べます。これで中国を包囲するのです。

 苦椒醤の麻婆豆腐は前例が結構あるようで、「辛い物の苦手なお子様に」などの謳い文句があります。確かにそうでしょう。
 鶏殻だしを中華風と同じく使うとするレシピが多いですが、私のこれはナンプラーがだしの代わりになるため、鶏殻などのだしは要りません。日本テレビのキューピー3分クッキングのレシピは何れでもなく、料理酒と醤油としています。
 また、胡麻油を使うとするレシピも多くありますが、私の朝鮮風はなるべく単純(シンプル)に苦椒醤の味を愉しむため、基本としては使わず、使っても微量とします。

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メ~テレ Jチャンネル―UP! 前記の時間の後 18.15~19.00/月~金

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by keitan020211 | 2017-07-15 19:04 | 生活 | Comments(0)
【Freesia料理】黒オリーブを使う料理を二つ――・黒オリーブの豚ステーキ ・黒オリーブのペペロンチーノ スパゲティ
 オリーブの実は直径1cm程の大きさの球が少し縦長になったような形のもの。

 その最もベタなものである緑オリーブまたは青オリーブは表面や中身の感触が青梅と似ています。
a0313715_17365724.jpg 先日のテレビ朝日の『マツコ&有吉 かりそめ天国』に、マツコと有吉が例のドリンクバーに臨時に加わった瓶入りの珍しい飲み物の試し飲みをする場面があり、そこにオリーブサイダーというのがありました。香川県の小豆島に採れるオリーブを使う炭酸飲料で、そこでの有吉の感想は「梅酒みたいな感じだね。」というものでした。感触だけではなく味も少し似ているとは私も思いますが、オリーブは梅のような酸ぱさはなく、甘みと苦みが溶け合うような味です。

a0313715_17383684.jpg 緑オリーブの他に一般なものとしてあるのは黒オリーブ。
 緑オリーブよりも熟成が深く、味は甘みがより強く、表面や中身の感触はより軟らかいのが特徴です。
 色は黒豆のように黒光り、彩の豊かな料理に添えると一際に引き締まって見えます。
 甘みがより強いとはいえども、糖分の甘みではなく、逆にビタミンE、オレイン酸やカロテン及びビタミンAなど、健康効果のある栄養素がふんだんに含まれます。極言するなら、オリーブがあれば野菜は要らないとさえいえるかもしれません。

 この記事ではその黒オリーブを使う料理を2つ紹介します。
 それだけではなく、凡そ何にでも付け加えて――例えば米の飯やみそ汁にもOK!――付け加えられる材料の味を全く変えずに味を添えることができます。固い玉である故に粉や液のように付け加えられる材料に染みないからです。他には赤胡椒(レッドペッパー)の玉も同じような効き目があります。黒オリーブの付かない味で食べたい時は、それを避け(よけ)て何もない部分を食べればよいのです。

●オリーブの豚ステーキ

a0313715_17400903.jpg 擂粉木で柔らかくしてある豚ばらブロック肉をオリーブ油、蝦(えび)の肝、薄口醤油、胡椒と輪切りにした黒オリーブで焼く。
 各々の量はオリーブ油は微量、蝦の肝と薄口醤油は少量、胡椒は適量で黒オリーブを肉の大きさに対したっぷり目に。
 皿に盛る際には黒オリーブが肉の上面にふんだんに乗るようにする。

 付合せはお好みとなるが、私は蝦と厚切りの人参にしました。
 蝦の肝は蝦の殻を取り除く際にその頭から流れ出て来るものです。俗に蝦の脳みそとも呼ばれますが脳ではない。
 オリーブのカロテンに加え、人参のβカロテンでカロテン尽くしになります。

 昨今の日本にはオリーブ油が健康効果の故により普及して来ているのでもう当たり前と思う方々も少なくないかと思われますが、昔は西洋物なオリーブ油に日本物な醤油を混ぜるなんて邪道と思われていたようです。というか、そもそもサラダ油も西洋物なのに、サラダ油に醤油は当たり前でオリーブ油に醤油は邪道というのはおかしな話です。オリーブ油に醤油を混ぜた最初の例は多分、'80年代からはやり始めた和風スパゲティーの茸ものや貝ものではないかと考えられます。
 但し、最初の和風スパゲティーといわれるたらこスパゲティー、一足も二足も早く’60年代に生まれたものですが、そこに使う油の標準はバター。当時はまだ日本の食べ物にオリーブ油を使うことは考えられないものであったことが窺われます。しかしバターも西洋物ですが。そのたらこスパゲティーにもいつしかオリーブ油を使うのが最良と気づかれて今に至ります。
 因みに香川県の小豆島はオリーブ油と醤油の産地であり、当地産の物に揃えて作るとよりプレミアムな味わいになります。

 但し知っておくべきは日本に売られているエクストラバージンオリーブ油の殆どは本場イタリアなどのヨーロッパ圏においてはその一段下のバージンオリーブ油並の仕立てであることです。本場の標準の通りにバージンオリーブ油と銘打つ商品は日本には殆どありません。

●黒オリーブのペペロンチーノ スパゲティ

a0313715_17495199.jpg 簡単な話で、ペペロンチーノスパゲティーに輪切りにした黒オリーブを和えるだけ。
 但しもう一つ、葫と赤唐芥子を炒める際には適量の白ワイン酢を加える。
 私や上沼恵美子のペペロンチーノの常套であるが、赤唐芥子は初めから炒め、オリーブ油に充分に煮出す。
 塩加減は任意、私は薄めにして黒オリーブの味を引き立たせた。塩が濃いめでもオリーブの味は妨げられることなく違う引き立ち方をする。

 黒オリーブのペペロンチーノ スパゲティはかなり普及しているらしいものですが、私は葫と赤唐芥子の他には何もない基本のペペロンチーノ以外を作ることには二の足を踏んでおり、この程に初めて他のものを入れてみました――厳密にいうとベーコンと茄子や青紫蘇を加えたことはあるがそれは茄子とベーコンのスパゲティーとの合併作や青紫蘇スパゲティーとの合併作というべきもの。さすがに黒オリーブだけのスパゲティーはない――作ってみても良いとは思うが、――のでこれは合併作ではなく純然たる和え物といえる。――。
 基本のペペロンチーノは俗に貧乏料理ともいわれ、黒オリーブや白ワイン酢の加わるこのペペロンチーノは少し富裕なペペロンチーノといえるかもしれません。

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by keitan020211 | 2017-07-15 17:50 | 生活 | Comments(0)
【総括 安倍政権×東京都知事選挙 合併SP】安倍:「こんな人たちに負ける訳にはゆかないんです。」は問題なし
 昨日は弊ブログがかつて総統と呼び習わしていた菅義偉官房長官が久々に面白いことを記者会見で言ってくれた。
 菅長官は安倍政権の一連の疑惑から、それだけではなくもう少し前から、どうも精神崩壊を来していたのではないかと思っている。会見での話の脈絡が滅茶苦茶で、何を言っているのか分からないような応答がしばしばあった。しかし一昨日の東京都知事選挙での大敗けに至り、何か吹き切れるものがあったのではないかと都議選から一夜が明けた昨日の記者会見には感じられた。
 精神崩壊といえば、小学館のSAPIOの最新号に、落合信彦氏がトランプ大統領が自らのツイッターに存在しない単語を打って出しているのを指してトランプ大統領は精神崩壊に至っていると評する。その単語はどう見てもキーボードの普通の打ち間違いではあり得ないような綴りのものであり、そうとしか考えられないという。尤も、落合氏のジャーナリズムには印象操作が含まれることもあるといわれ、本当の処は過酷な勤務による過労がキーボードのあり得ないような打ち間違えを起こさせたと見るのが妥当であろう。しかし、菅長官は今は極右を含む安倍政権に仕えるが元は梶山派の穏健な保守政治家であり、本来の彼の政治性と今の政権の最高権力者としての政治性との矛盾に耐え切れずに精神崩壊を来していることは考えられる。

a0313715_16405922.jpg で、その「久々に面白いこと」とは都議選での安倍総理の東京秋葉原における最初で最後の応援演説での「安倍やめろ!」のシュプレヒコールに対し「皆さん、誹謗中傷からは何も生まれないんです。こんな人たちに負ける訳にはゆかないんです。」との口上で返したことについて訊かれ:「何等問題ないと思います。」――記者:「何故問題ないといえるのですか?」――菅長官:「問題ないからです。」と答えたもの。菅長官の記者会見を見て笑うのは久し振りで、バウバウ爆笑した。
 そのような言辞は論理学の概念では循環論法(トートロジー)と呼ばれ、論理を形成しないものである。答になっていないとか説明になっていない、理由になっていないとしばしばいわれる口上である。
 多くの場合は循環論法は避けるべきものといわれるが、そのような場合は仕方がない或いは有効なものと重われる。
 何故それが問題ないのか、それを論理的に説明しようとすることは難しいし時間が掛かる。安倍総理ならば「ないことは証明できないからです。」というかもしれない――「ないことは証明できない」という命題は誤りで、或るローマ法の法理学を日本の法律家が勘違いして解釈したことがその由来。つまり日本にしかない命題。――。
a0313715_16435737.jpg 世の中には「あるからある。」や「ないからない。」、「良いから良い。」、「悪いから悪い。」としかいいようのない事実や概念は時折にある。古くは社会党の土井たか子委員長が消費税選挙の時に言った「駄目なものは駄目。」。
 政治は議論がものをいうとはいえ、政治家はプロの議論家ではないのでどうしても循環論法で語らざるを得ない場合がある。――勘違いしてはならないのは、議員などの政治家は職業(プロ)ではないということである。議員歳費なんかもアマチュアの活動家への臨時報酬(ギャラ)であり給与ではない。偶にテレビの討論番組なんかで「議員の給料が高過ぎる」などと語る識者がいるがそれは誤りであり、議員歳費は給料ではない。――

 循環論法はしばしば「貴方とはお話にならない、引き取り願う。」という意味合いで用いられ、菅長官のそれは正に「こんな記者に応える訳にはゆかないんです。」ということでもあろう。私も嫌である。
 今村前復興大臣なんかも、その位の弁が立てば問題なかったかもしれない。
 弁が立つとはよく考えているということでもあり、そうであればそもそも「東北でよかった。」などという発想すら出ては来ないのである。

 安倍総理の「こんな人たちに負ける訳にはゆかないんです。」を問題視する人達は自らが責任を負う役目を引き受けたことがないのではないか。
 責任を果たすためには正にそれを果たさせなくするような「こんな人たち」を斥けなければならないことがある。
 殊に民選政治においては、全ての人が等しく納得するような責任はない。「こんな人たち」には振り回されないことが政権交代のある民主的政治である。民主党も、自民党という「こんな人たち」に動かされてはいけないという認識から生まれて成長し、政権を担うに至った訳である。
a0313715_16455034.jpg 故に、「こんな人たちに負ける訳にはゆかないんです。」を非難する人達は政権交代を否定している訳で、ならば自民党永久政権でよいでしょうということになる。
 責任を負う程ではない場合にしても、国民各位は散々「電車で化粧をする人たちを認める訳にはゆかないんです。」とか「暴言や失言を吐く人たちに負ける訳にはゆかないんです、負けてるけど。」と言っている。
 故に、安倍総理の「こんな人たちに負ける訳にはゆかないんです。」の言葉そのものには何の問題もない。「安倍やめろ」を連呼した人達は少なくとも彼等安倍政権にとっては重大な排斥の対象なのである。
 あのシュプレヒコールは国民各位の個人としての思いとは到底に見えない、「人として尊重される」国民の集団として周到に計画されたものであろうと見える。安倍自民党憲法に忠実である。彼等の頭である安倍総理が偶々その任に耐えなくなったから辞めさせて首を挿げ替えて新たに安倍2号を担ぎたい、どうもそれだけのメッセージなようである。
 「国民を「あんな人たち」とは何か?!」、それが正に「すべて国民は人として尊重される」という安倍自民党憲法の論理である。
 故か、安倍政権を支持しない、自民党を支持しない、それもかなり強くそう思う人々に、件のシュプレヒコールとそれに肩入れするように報じた東京新聞を否定的に見るツイートが多くある。翌日のANN報道ステーションなどはそのような見方を一切も顧みずに安倍総理に否定的な報をした。

a0313715_16483776.jpg イギリスのサッチャー総理は保守党の代表として野党であった時には与党、自らの政権を立てた後は野党の労働党を指してしばしばというか年中、「こんな人たちに負ける訳にはゆかないんです」と演説や答弁をしていた。そしてそのように言っていた間は支持が増して常勝であった。
 そこが安倍総理のそれとの違いであり、彼はそのように言い出したら敗けた。同じような調子にせよ、それが「こんな人たち」ではなく「民進党」という組織をいう間は常勝であったが、サッチャー総理が言っていたのは労働党の組織だけではなくそれを支持する個々の人達をも明らかに指していた。安倍総理は「民進党などの野党にも建設的議論に参加してくれる人は少なくありませんが、」と変に控え目である。そこは時代背景や状況に鑑みない、メッセージの持ち得る訴求力を考えない安倍政権の現実味のなさによるサッチャー政権との違いであろう。
 当時の労働党の支持者達は明らかに「こんな人たち」、即ち人にあらざる者であり、彼等を斥けなければイギリスはどうにもならなかった。今の日本にもそのような人達は当時のイギリスよりも多いかもしれない。
 反安倍や反自民を自負する人々にも、思い当るような「こんな人」や「こんな人たち」はいるであろう。
 しかも安倍総理はそんな彼等を直ちに排斥せよというのではなく、「戦って勝たなくてはならない」と言ったのであり――彼等には勝ったが全体では敗けた。――、「こんな人たち」が尚更に寛容で有り難いと思うべきものである。彼等にこそ、安倍の外に相応しい指導者はいない。

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by keitan020211 | 2017-07-04 16:50 | 政治、社会 | Comments(0)
戦後昭和~平成の鉄道の名車 'They're the trains'
 弊ブログの選ぶ、日本の戦後昭和~平成の魅力ある鉄道車輌です。
 地下鉄については今年の1月に番付5傑+次点を発表しています。

 近年は魅力ある車輌がとんと少なくなっています。
a0313715_18135877.jpg 最近に関東の私鉄京王電鉄と西武鉄道が座席指定の通勤車を新しく発表しており、首都圏の通勤事情を少し変えるのではないかと注目されています。弊ブログのそれらについての評価はまずまずで、外装については1990年代~2000年代の不作続きからかなり改善されていると思います。内装については関東の私鉄やJRには今までになかった質の向上があります。
 私は元々は通勤車の全座席指定には否定的であり、全座席自由或いは一部座席指定が良いと思っています。しかし京王と西武のそれは通常の全座席自由としても座席の位置の切り替えにより使うことができるといい、その便利さに注目しています。
 とはいえ、全座席指定は「座らせろよ、おらー!…」みたいなおっさんの論理を感じて嫌な感じです。座る必要のある障碍者などのバリアフリー策に関しては縦置長座席(ロングシート)が設計の観点からは有利であり、何も健常者が座れることにこだわることはない筈であるからです。
 魅力ある車輌が少なくなっているのは’90年代から勧められているステンレス鋼製車輌の導入及びJRなどの他社との設計の共通化が原因です。それらにより、首都圏の鉄道はどこも同じような車輌が走ることになっています。安ぽくて景観にも悪いし、経済的にも実は何も良いことがありません。製造や保守の経費の削減は需要を少なくしてしまうし、鉄道関係会社だけではなく乗客一般にもそのように誤った経済観念を植え付けています。
 どこも同じような列車が走ると、沿線地域の印象の格差は小さくなります。それにより、人気の沿線地域の生活様式などを真似る所謂意識高い系が跋扈することになっています。よって意識高い系を別名「ステンレス電車系」と呼ぶことにします。既存の別名は「スタバでマック系」。
 京王と西武の新車輌がそんな時代を終わらせるきっかけになれば良いですが、それでもまだまだ心許ないのが現状です。

 そんな時代になる前の、素晴らしい鉄道車輌の数々を以下に紹介します。

●西鉄2000系
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1973年~2010年
川崎重工製

 「美し過ぎる電車」と呼ぶと田舎の議員みたいに聞こえてしまうが、そのような今様の言葉の遣われ方のようにではなく本当に美し過ぎるといえるのが西鉄の主に特急に用いられていた2000系である。
 前面のデザインは路線バスの名車三菱エアロスターの1980年型に似ており、その姿には日常と非日常の織りなす機微が感じられる。
 2扉で車内は全席自由の転換式横置座席であり、他には関西の阪急6300系や国鉄117系などがその方式を採る。関東の京急2000系が転換式ではなく双方向設置の固定式ではあるが類似の方式である外は関東には全くないもの。
 私は西鉄電車には一度大宰府天満宮へ行く時に乗ったことがあるが、その時には現在の主力である8000系が福岡天神~二日市までの特急であり――それも感動的であるが、――、二日市~大宰府は他の3扉車であったので2000系には一度も乗ったことがない内に廃止となってしまった。
 他にも、西鉄には福岡の洗練されたイメージに相応しい車輌が多い。

●西鉄8000系
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1989年~
川崎重工製

 前書の、鉄道車輌が魅力をなくしてゆく時代の変わり目に出たのが西鉄の主に特急に用いられる8000系、先の2000系の後継車である。
 そこで時代の流れとは一線を画しながら良い所だけを取り入れる、絶妙な立ち回りによる新しいデザインは美し過ぎる2000系に見劣りすることのない鮮やかな印象である。
 先述の通り、私が初めて乗った西鉄車である。

●西鉄5000/6000系
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5000系:1975年~近日全廃
6000系:1993年~
川崎重工製

 西鉄の主に急行以下に用いられる。
 デザインは何れも粗同じであり、側面の扉が5000系は3扉で6000系は4扉、窓が5000系は2段式で6000系は1段式。
 装備類は一新されて別物となっている。6000系が出た’90年代の前半は三菱電機がVVVFインバーター制御装置を開発して全国の鉄道車輌に次々と導入されており、6000系もそれ。
 前面の非対称形のデザインは他に余り例がなく、数少ない例は関東の京王6000系など。何れも運転席のない右側の窓を思い切り節約している。使うべき所には使い、要らない所には使わない。――そんな真当な経済観念が形にも表れている名車である。
 自動車では日産自動車のコンパクトパフォーマンスカー キューブが後面の扉(バックドア)を2002年以降の型式で非対称形としている。
 31アイスクリームことバスキン ロビンスのダイキュリーアイスを想わせる緑色も、夏には涼しく冬にはほの暖かい感じで私好みである。

a0313715_18475373.jpg174.png西海九州の雑学
◯佐賀県には何故西武ライオンズのファンが多い?
 全国47県の最もファンの多いプロ野球団を示す地図が先日にツイッターに出ていました。
 そこで、私のファンである埼玉西武ライオンズは、佐賀県と滋賀県の2つ。ライオンズの地元の埼玉県は読売ジャイアンツが最多と出ています。
 滋賀県は西武財閥の創業家の出身地であり、近江鉄道はライオンズのレオ印をあしらう車輌があるのでそこにライオンズのファンが多いのは何となく分かりますが、しがさが違いの佐賀県に多いのは何故でしょうか?
 ――ライオンズは元は福岡を本拠地とする西鉄ライオンズ、よって昔は福岡を中心として九州にはライオンズのファンが多くいました。しかし、今は福岡ソフトバンクホークスがあり、福岡のライオンズファンはホークスファンに変わってゆきました。しかし隣の佐賀県はライオンズ離れが余り起こらず、今も残党が根強く残っているのです。
 因みに私の地元神奈川県は埼玉県とは逆に、意外にも―?―地元横浜ベイスターズのファンが最も多く、ジャイアンツを上回っています。
 西鉄は佐賀県を通りませんが、県域に最も近い所にある駅は福岡県小郡市の大牟田線の味坂駅です。

●阪急6300系
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1975年~現在稀少
アルナ工機製

 阪急京都線の特急に用いられるものとして出た2扉の転換式横置座席車。
 現在は嵐山線の普通にも用いられる。
 公衆電話機を備えるなど、一般車としては最高級のおもてなしを持つ。しかし、今は携帯電話が広く普及しており、時代が変わっていることがこの車輌からも感じられる。
 京都線は25km程の宝塚線や30km程の神戸線とは違い路線の距離が50km近くあるため、居住性の高い特急車を要する訳である。かつての特急停車駅は大阪梅田;十三~京都大宮;烏丸;河原町、大阪と京都の間を無停車で直行していた。'90年代に中間地点の高槻市に停まるようになり、今は更に増えてかつての急行と粗同じになっていて残念である。
 西鉄の特急や京急の快速特急と同じく、座席指定はないので気軽に乗れるのが魅力である。

●阪急9300系
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2001年~
日立製作所;アルナ工機製

 前項の6300系の後継車であるが、2扉が3扉になっている。
 特急の停車駅を増やす目的から来るものなので率直に良いとはいえないが、物としては鉄道車輌がますます詰まらなくなってゆく2000年代にあって孤軍奮闘の力作といえる。

●阪急8000系
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1988年~
アルナ工機製

 阪急の'90年代の主力車。
 更新工事によるデザインの変更が最も多くなされた型式でもあり、上の写真は前面の銀色の帯板が取り除かれた第2期型。更に前面の車番の表示位置の変更や彫をなくして斜め切りにするなどの型がある。どれもそれ自体は良いが様々の駅地域に応える停車駅の増設と同じく、様々の好みに応えようとする余りに節操がない感じがする。やはり最良は初期型である。通勤車として最も安心して乗れる車輌。

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 今は上の写真にはない広告向けのような書体に変わっており、安ぽくなってしまっている。
 嵐山線用の木目地に毛筆書体はおぞましい程に俗悪。

●阪神8000系
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1984年~
武庫川車両工業製

 阪神電車の永年の平凡なイメージを変えた'80~'90年代の主力車。
 上の写真は特急または快速急行、急行に用いられる旧塗装であり、普通車は下半が紺色で上半が肌色。
 '90年代後半に薄紫と白の二調塗装やステンレス時に赤帯などの新塗装が出たが、最新のものは橙と白の二調となり、8000系も今はその塗装に変わっている。
 橙と白はプロ野球の読売ジャイアンツを想わせるとの苦情が今年2017年の阪神電鉄の株主総会においてあったという。阪神といえば甲子園、甲子園といえば阪神タイガースということであるが、時にはタイガースの図柄を車体にあしらう列車もある。
 室内は大阪~神戸で競り合う阪急電車の木目の内装とは異なり、よくある白の壁板であるが、他のそれと比べ一際に綺麗で落ち着きが感じられる。
 前面のデザインは同時代の阪急8000系に似ているが、阪急の彫の深さと比べ阪神は滑らかな感じでより日本的美しさといえる。
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 今は青字にUFJ銀行の案内板と同じポップ調の書体のものに変わり、阪急と同じく俗悪化している。

●近鉄3000系
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1979年~2012年
近畿車輌製

 京都と奈良とを結ぶ近鉄京都線の専用車であり、京都市地下鉄烏丸線に乗り入れられる。
 屋根の冷暖房機が前を後へ一連に繋がっており、当時は主流であった分散式冷暖房機の凸凹な感じがなく美しい。
 近鉄電車の当時の塗装色は真紅一色であり、3000系だけが違うステンレス地に真紅の帯が入るもので一際目を引く。
 近鉄車に特有の重たい感じは3000系も同じであるが、その重たさにもどこか賢く爽やかな感じが漂う。
 それまではステンレス鋼製の車輌は東急車輌のみがアメリカのバッドカンパニーの特許により製造できるものであったが、近鉄3000系は東急車輌の外では日本に初めてのステンレス鋼製の車輌となった。それも、東急の特許が切れたのではなく特許に抵触しない製造法を用いることにより実現した。
 因みに当時は東急車輌製も、東京急行電鉄の外にはステンレス鋼製の車輌は殆どなく、地下空間の湿気に由る車体の腐食が懸念される地下鉄でも東急東横線との直通運転のある営団地下鉄日比谷線の3000系や東京都地下鉄三田線の6000系、新宿線の10-000系など数える程しかない。ステンレス鋼製車輌が広く普及し始めたのは'80年代の半ばの頃からであり、話がこの記事の前書に戻る。

●近鉄3200系
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1986年~
近畿車輌製

 前項の3000系に続く京都線及び地下鉄烏丸線の専用車。
 地下鉄の車輌には多い、前面の貫通扉が中央ではなく脇寄りにある設計であるが、ステンレス鋼製ではなくアルミニウム鋼製に近鉄の定番色の塗装がなされたものである。関西には他にも阪急7000系や前出の8000系など、地下鉄以外におけるアルミニウム鋼製車体の車輌は比較的に多くある。自動車ではドイツのアウディなどが採用しており、製造費用は高くつくが耐性が強くて結局は得をする。
 外装だけではなく内装の白を基調とする落ち着き感も、京都の雰囲気に好く適う。

●近鉄21000系
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1988年~
近畿車輌製

 アーバンライナーと呼ばれ、大阪~名古屋の名阪特急に用いられる。
 その2002年の改良型として21020系があり、アーバンライナーネクストと呼ばれる。
 私のかつて住んでいた神戸を、名古屋へ行く際には大阪でJR東海道新幹線に乗り換えて行く経路があるが、費用対効果を考えると大阪のミナミに立ち寄り、難波を出て近鉄アーバンライナーで行くのが最良である。
 昭和の名車としてビスタカーと呼ばれる二階建の30000系などがあり、アーバンライナー21000系にはそのような出色のものはないが、座り心地や乗り心地、夢み心地などの質の高さでは後者が全国一の優れものであり、日本史上最高の観光特急車といえる。
 車窓風景の優れ所は何といえども、室生口大野や東西青山を通過する三重県西部の山なりの村々である。それだけを日本の原風景といっては他に失礼ではあるが、昔話によく出て来るような所謂日本の古典的風景がそこにある。

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 書体がモリサワ新ゴシックに変わった上にデザインが白地に変わり、阪急や阪神のように俗悪ではないがかなり改悪されている。

●国鉄-JR西日本;JR東海117系
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1979年~2014年
川崎重工;近畿車輌;日本車輌;東急車輌製

 既になくなっているであろうと察しがついてはいても、いざその事実を知るとなるとなかなか辛いものがある。
 国鉄大阪支社管内の東海道-山陽本線の新快速などに用いられ、主力を退いた後は白地に橙色の帯のJR東海色に着替えて関ヶ原越えの普通などにおいて用いられていた117系――
 しかし、意外と最近である。私が東海へ移った'00年代の半ばにはまだ辛うじて目にしていたが、後に関東へ移ってからは全く音沙汰がなく、その間に'10年代を見ることなく全廃となっているであろうと思っていたが、今の新安倍政権の時代まで生き残っていたとは。
 「高かろう悪かろう」といわれる国鉄では出色の質の高さが魅力、それが当時に検討されていた民営化の後を見据えての布石であったのか或いは駄目企業国鉄が最後にやってみた贅沢であったのかは明らかではない――というか、根からの民営企業にもない程の空想的資本主義に依って立つJRも違う意味で駄目企業であるが、――。

●JR西日本221系
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1989年~
近畿車輌;川崎重工;日立製作所;JR西日本製

 平成の世の始まりと共に出た、JR西日本東海道-山陽本線の新快速などに用いられる車輌。
 JRの発足から3年目で、正に国鉄との違いを鮮烈に印象づけた。
 お蔭で、それまでは京阪神間では圧倒的に優位にあった阪急電車の利用客が少なからずJRへ流れ、'90年代から今に至る阪急の苦戦につながった。
 私の住んでいた神戸の岡本は、阪急岡本駅とJR摂津本山駅が歩いて3分程、阪急は'90年代に特急が停まるようになって地域客のJRへの流出が食い止められたようであるが、それでも、普通しか停まらない本山駅を出て隣の芦屋駅で新快速に乗り継ぐと阪急よりも早いような気がする。尤も速いことでは前項の117系の新快速の頃からであるが、それに更に車両の快適さが加わった。取り分け側窓の大きいことによる車窓風景の眺めの良さが群を抜く。
 ということで、JR221系を平成名物電車と呼ばせていただく。

●JR西日本207系
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1991年~
川崎重工;近畿車輌;日立製作所;JR西日本製

 前項の新快速と快速用の221系と共に、普通用として出た。
 今は321系や323系が主力となっているが、そのデザインには基本形としては従来型に乗かっていながら枝葉末節で無理矢理に新時代風をこねくり出そうとしているような感じがして良くない。新しい標準―?―を作り出した207系の淡麗さには劣る。
 207系というと、JR東日本にも207系があるが全く違う型である。東日本の207系は常磐線と営団地下鉄千代田線の直通に用いられるものであり、かつて山手線など全国の電車特定区間に用いられていた205系をベースとするもの。
 221系と同じく、西日本の207系は阪急などの高品質な私鉄とも全く互角な快適さと信頼性の高い車輌である。

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 デザインは今も変わってはいないが、書体がモリサワ新ゴシックに変わり安ぽくなってしまっている。鉄道ファンとはそのようなことを何とも思わない人達であるらしい。

174.png近畿の雑学
◯「大阪嫌い」と一口にいえど…
 大阪を嫌う人は多いといわれる。
 '90年代の前半、地方分権が本格的に提唱されて自民党の一党支配が崩れ去ろうとしていた時代に『全国住みよい都市番付』というのが出たが、大阪は六百数十ある市の内の六百数十位となっている。感性における好感度だけではなく実際にも良からぬ評価を受けている。最近にも、経済力や学力、治安などで最下位級或いはまんま最下位となる番付が多く出ている。
 その'90年代はそんな低い評価にありながら、大阪の好感度は寧ろ高まっており、それが反転し出したのは'00年代以降である。当時は谷村新司の歌によるJR西日本の『三都物語』のテレビCMや大阪ビジネスパークや京阪奈学研都市の造成など、大阪-近畿圏の再生が盛り上がっていた故でもあるが、今はそのような景気の良い話を余り聞かない。'00年代以降の大阪の不人気の一因は弊ブログがかねがね指摘しているように、大阪芸人の質の低下である。昭和関西芸能界の大御所上岡龍太郎が20世紀最後の年2000年に突如に引退し、その後の後継者が育っていない。大阪芸人の全国向け番組における登場の数は前世紀よりも増えたが詰まらない芸人が多くを占めており、未だに笑福亭鶴瓶や明石家さんま、桂文枝などの旧人類に頼らなければ消極的視聴率は得られてもリアルに笑いを取れる率は激減にあるのが現状である。本当にどうしようもなく下らない――しょうもなくおもろいのではなく。――のが今の関西芸能界である。
 しかし、一口に大阪といえど、大阪には様々な顔がある。
 歴史的に大別すると:①摂津難波宮以来の大阪;②大阪城代松平忠明以来の大阪;③明治文明開化以来の大阪;④箕面有馬電軌(現:阪急電鉄)以来の大阪:がある。
 '90年代の俄か大阪景気は①と②を合わせたものであり、いわば大阪の伝統への回帰の試み。
 '00年代から現在のどうしようもなく下らない大阪は③で、大阪近代主義への回帰の試み。
 ④は戦前大正と戦後昭和の時代を牽引した当時としては新しい大阪の姿であり、一世を風靡した読売テレビの『11PM』などの関西お色気ものも④の流れ、平成生まれの人々は知らない。
 ③の明治文明開化における大阪は薩長藩閥の大久保利通の肝煎りにより大阪に大日本帝国の権力と経済力を担保するべく生まれたものであり、中央の力に乗っかって成り立っている。薩長藩閥の末裔の一人は現総理の安倍晋三であり、よって安倍政権の下の現在は『明治文明開化の大阪』の復刻が試みられている訳である。そんな流れを利用するように、大阪維新の会が出て来て一世を風靡している。
 今時の大阪人に、どこかいいようのない権威主義が感じ取れて鼻につくと思う人は少なくないと思われる。その権威主義というのも、大阪が偉い、一番であるということでの権威主義ではなく、「東京と一緒、安倍さんと一緒で日本の大阪」ということでの権威主義である。
 但しそのような流れを拓いた大阪維新の会の橋下徹元大阪府知事または大阪市長は議会において公明党と敵対している。公明党は元々は「東洋のマンチェスター」の美名の下に大阪を煙塗れにしていた③に与するものではない下層労働者階級の勢力であったが、'00年代以降は自民党と中央政府に近づくことにより③への仲間入りを果たそうとしている。そもそもが近代人間主義を是とする公明党、明治文明開化の流れとは相性が良いのである。
 ③の流れから出た橋下が、③と敵対して戒めているのが面白い。橋下がそうなのは彼が大阪の出身であると共に東京の出身でもあることからのことであろうと考えられる。橋下にとっての大阪とは主に江戸の薫る②である故に、③は歴史の現実の一部ではあれども覇権を許すべきものではないのである。
 私、弊ブログも③の意味における大阪についてなら、大阪嫌いといえる。

●名鉄100系;200系
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1979年~
日本車輌製

 前出の西鉄2000系と共に、美し過ぎる電車。乗って行けば何か良いことがありそうな、という感じ。
 主に豊田線及び名古屋市地下鉄鶴舞線、名鉄犬山線に用いられ、その都会風景と田園風景に良く馴染む。
 今は珍しくなくなっているが、当時は通勤車としては珍しい、窓の開かない設計。
 しばしば、窓が開かないなんて風情がないという人がいるけれど、冷房があれば窓が開く必要はない。そのような合理的発想も当時としては斬新で、魅力に感じられる。

●名鉄1000系
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1988年~
日本車輌製

 従来の展望車7000系のパノラマカーの後継としてパノラマスーパーと呼ばれる。
 7000系の展望席は乗務員室が2階にあって1階が先頭部まで丸々客室になっているものであるが、1000系のそれは乗務員室が半地下型になっており、その頭上が眺望できるようになっているもの。
 特急券を要する特別車と要しない一般車が半分ずつ編成され、観光や遊興にも通勤にも気軽に乗れる。但し、犬山~常滑線の特急は全車特別車の列車が殆どを占め――それでも安く、偶には通勤利用もする気になれる。――、一般車が付くのは主に名古屋本線の特急である。
 パノラマカー7000系は歴史的名車といわれ、私も幾度か乗ったことがあり、やはりその通りと感じさせる味があるが、靴跡を真横に広げたような形の前照灯やレジャー感覚の溢れる逆さ富士形の行先表示板など、デザインがもはやあり得ない程に旧過ぎる。

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 近鉄やJR西日本と同じく、デザインは変わらないが書体がモリサワ新ゴシックに変わって安ぽく改悪された例。
 前の書体はゴナであった。 

174.png東海の雑学
◯名古屋は西日本か東日本か?
 名古屋を中心とする東海圏は中京圏とも呼ばれる。中京とは明治時代の一頃に西京と呼ばれていた京都と新しく名を受けた東京との間に位置する都市圏ということでの名である。
 中間域なら、話は早い、「中日本」が正解である――そのような呼び方もありはする。より多く用いられるのは「中部日本」。
 しかし「中」はなしに、日本を西と東の二つに分けるなら、名古屋は西なのか東なのかはしばしば見解が分かれるようである。
 私は予てより名古屋は東日本と見ており、近年はテレビや新聞、雑誌などのメディアにおいても名古屋を東日本と見るのが優勢になっているようである。
 昔は東日本といえば東京を中心としてその直接の影響の及ぶ地域のことと解され、故に名古屋は直接の影響はなくて東京圏とは異質であるから西日本であると思う向きが多いものであった。色々な風習にも見られる名古屋の独特さが注目されていたのである。しかし、名古屋名物のコメダ珈琲店や寿がきやラーメンなどが関東に進出するなどすると共に、名古屋は今時は独特と見做されることが余りなくなっている。寧ろ名古屋流がリアルに充実を感じられて好ましい、日本の新しい標準(ニュースタンダード)と思われさえしている。前述の大阪の更なる不人気の一因は近年の大阪芸人のどうしようもない下らなさだけではなく、前世紀には考えられない現象であった名古屋流の鯱の如き躍進台頭により相対的に支持されなくなったことにもある。
 即席食品の味のつけ方なんかも、東日本向けはおしなべて三重県までが扱い範囲となっているものが多い。三重県は名古屋の更に西であり、それもまた近畿地方か中部地方かとの論争のある地域である。近畿地方が東日本とされる程ならば、名古屋は悠に東日本であるといえる。
 もう一つの理由はこれも平成生まれは知らない、電気製品の周波数の違いによる製品の仕様の違いの解消である。昔は静岡県の富士川を境に西は60Hzで東は50Hzと流れる電気が違い、故に電気製品はその境を跨ぐと使えないことが常であったが、今は何れにも対応できる製品が殆どを占め、そのことを考えることを要しなくなっている。故に名古屋と東京の断絶も認識されなくなり、普通に関東の隣と感じられるようになっている訳である。

●長電0系;10系
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1966年~2003年
日本車輌製

 廃止されたのは2003年であるが、その後14年に亘り須坂駅に留置されて物置として使われ、今年2017年の春に改めてお別れ会が催されてその直ぐ後に解体処分された、最期が変わり種な車両である。
 そもそも、長野には4扉の車両を要するのかとの疑問が湧くかもしれない。その疑問に応えてか、1980年に0系の改良型として出た10系は3扉になっている。3扉車は普通は車体長が18mないしは19mであるが長電10系は4扉車と同じ20mで、珍しい規格である。
 また、長電長野線の長野市街の区間は地下線であり、それも長野のような地方都市には例のない珍しいものである。長野人はとにかく、大都市と同じようなものがなければ気が済まないのである。
 しかし、その見栄張りも尽きてか、10系の後には自社調達の車輌は一つもない。東京メトロ日比谷線の3000系や東急8500系、小田急10000系などを譲受して用いられている。
 地方私鉄の車輌の事情を見ると、自社調達の可能性はやはり日本経済の成長力にあるのかと思うばかりである。

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 他にも色々とあり、その度に大きく変わっているがどれも良い。但し一つだけ、国鉄書体を用いるものがあり、変である。

174.png信濃の雑学
◯「北信と南信」とは何か?
 長野県に行くと、偶に「北信」や「南信」という言葉を耳にする。
 それが何かはテレビの天気予報を見れば一目瞭然で、それぞれ長野県の北部と南部のことである。長野県の旧称は信濃国であり、その北と南である。北信は長野市を中心とし、南信は松本市を中心とする。
 観光需要では、北信は主にスキー場の多いことから冬が売りで南信は山間の高原の多いことから主に夏が売りとされる。
 産物は、北信は野沢菜や善光寺七味唐芥子などの辛いものが多く、南信は果物などの甘いものが多いとされるが、長野県産の代表的果物である林檎や葡萄の多くは北信で採れるものである。味は辛いも甘いも北信である。
 それらには気質の違いはあるのか?
 何となくではあるが、かなり明らかな違いがあると見える。
 南信は、教育県長野の先駆けである開智学校が創られた地でもあり、知識に訴える人が多いとされる。
 北信は知性を軽んずるものではないが、知識よりも智慧を重んずる人が多いとされる。
 観光客の迎え方なんかも、南信は豊富な―?―知識を武器として客に合わせてゆこうとするが、北信は智慧を用いて客を自分達の世界に招き入れようとする。故に南信を訪れると自分の所と違う所に来たという感じが余りしないが、あくまでも余所者扱いに留まるような感じがする。北信を訪れると如何にも敷居が高そうな感じがするが、数日もいればそこの機微に分け入り或いはそこの人になったかのような感じがする。
 南信の出身の有名人には池上彰や美川憲一などがおり、北信の出身の有名人には7&Iの鈴木敏文やエイベックスの依田巽などがいる。何れにしてもスターダムには乏しい地味な人物が多いが、南信は芸能やスポーツに強くて北信は政治や学問、商業に強いといえそうである。芸事は客の好みに合わせてゆかなければ見向きもされないが、政や商は有権者や客のペースに乗せられれば損をすることもあり、説得力が必要なものである。

●富山地鉄14760系
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1979年~
日本車輌製

 前項の長電10系と同じく、富山地鉄の最後の自社調達となった車輌。
 後には、京阪3000系などを譲受し、主力となっている。
 デザインは1983年に出た小田急8000系に通じるような、前面の角丸の広い長方形の連続窓が斬新である。真直ぐ-真直ぐ、角は丸く――そのような形は一過性に終り今時の車輌には殆ど見受けられないが、もっと普及するべきであったと思う。
 アイボリーホワイト地にダークベージュと真紅の塗装色も洗練されており、今の黄土色とエメラルドグリーンの塗装色に変わっているのは残念で、田舎は田舎らしくしろという圧力があったのであろうかと思うようなだささである。

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174.png北陸の雑学
◯北陸は何故自民党王国なのか?
 北陸四県といわれる福井県、石川県、富山県と新潟県――
 それらの内の福井、石川と富山は自民党王国であり、一頃に例外がありはしたものの、自民党の候補者が選挙の度に圧倒的に勝つ。新潟県だけは元は自民党の地盤を持っていた田中角栄の田中家の娘が民主党に移ってその主力の政治家となったために民主党及び民進党がやや優勢な地域である。
 その理由は当地の自民党が近年にいわれるように著しく右寄りではないからであると考えられる。
 昭和時代の自民党のように、右も左も保守も革新も何でもオールインワンで自民党に属す。なのでどんな考え方をしていても支持する政党は選ぶ余地がなく自民党になる訳である。
 寧ろ、当地の自民党は初めから他地方と比べて左寄りであり、高福祉路線である。それは今は鷹派であるかのようにいわれている石川県の森喜朗元総理なんかも同じである。北陸地方はいわば日本の北欧である。
 尤も、そんな北陸もおしなべて低福祉な日本と共にあるのでその願いの悉くが叶えられている訳ではない。願いの半分に達するかしないかな程であろう。それでも高福祉で安心できる社会は北陸人の宿願であり、その願いが今も自民党に託されているので民進党が何歩その政策を左めかしてみても一度は見向きされただけで終わった訳である。話は逸れるが、故に民進党はそんな北陸自民党との競合や重複を避けて理念や政策をもっと右に――それこそ台湾の民進党のように。――構えなければならない筈である。例えば中福祉中負担を具体的に打ち出すなどである。

●京急2000系
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1982年~
東急車輌;川崎重工製

 主に快速特急に用いられるものとして出た、2扉固定式横置座席車。
 固定式横置座席の配置は車両の真中に向かい同じ向きになるように並ぶものであり、真中の所だけが向い合せとなる。国鉄-JRなどに多い向い合せ型の配置は自由席では知らない人と向い合せになるのでかなり鬱陶しく、京急2000系のその座席の配置はなかなかよく考えられたものといえる。とはいえ、関東においては何故か転換式横置座席の車輌は絶無なのが残念である。
 2000年までに3扉に改造されて2扉車はなくなり、2000系の座席は縦置長座席となって塗装色も白の帯が上の写真のように窓の周りを塗り潰すものが窓下の帯に変わっている。
 直線と曲線が融け合う'80年代デザインの結晶というべき、形や各部の質感に至るまで美しく出来ている。

●京急800系
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1978年~
東急車輌;川崎重工製

 前項の2000系に4年先立ち主に普通と急行に用いられるものとして出た。
 4扉縦置長座席で形は2000系とは大きく異なるが、基本設計が共通しており、2000系を先取りするものとなった。
 片開扉は当時には殆ど作られなくなっており、粗史上最後の片開扉の新型車であったがそのデザインの新しさは今も古びずに現役にある。

●京急2100系
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1998年~
東急車輌;川崎重工製

 前々項の2000系の後継車として出、主に快速特急に用いられる2扉車。
 2000系の横置座席は固定式であるが、2100系からは転換式が採用され、関東では初となる。但し進行方向のみに自動のみで換わるため、乗客が任意に手動で換えることはできないのが他地方には元々ある自動転換式との違いである。
 デザインは良い意味で'90年代風の新しいものとなっており、デザインの共通化されたステンレス鋼製車輌が主流の当時の下らない鉄道車輌の数々とは明確に一線を画す。
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 下の写真が今のもの。
 かつては今の京急の名のつく駅名は全て京浜とついていた。その頃のものが上左の写真、ローマ字の書体だけがセリフ書体――:日本語や中国語の明朝体に当たるもの――でお洒落である。上右の写真の白地のものは最も馴染み深く、京急の他とは異なる趣を感じさせる。その京急も残念ながらモリサワ新ゴシック――下の写真――を採用しているが、全国で最後まで粘ってゴナ――上右の写真――を堅持していた。

●江ノ電1000系
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1979年~
東急車輌製

 前出の京急2000系や800系と設計の随所が共通する。
 例えば室内の窓枠には強化プラスチックが用いられ、よくあるスチール製の窓枠より見た目がきれいで然も堅牢である。
 強化プラスチック製窓枠はそれらの後には余り採用されていなかったが2001年に出た小田急3000系や2007年に出た小田急4000系が久々に採用している。窓ガラスが一連となることも相俟り窓の眺めが良く見えるのも特徴である。江ノ電における窓の眺めとは勿論水面に光の揺れる湘南海岸である。

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●小田急8000系
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1982年~
日本車輌;川崎重工;東急車輌製

 小田急の主力汎用車として大量生産された5000系の後継車として出た。
 5000系と同じく、営団地下鉄千代田線への乗り入れはできず、小田急線内と箱根登山線内のみの運用のもの。
 一連であるかのように見える前面窓は当時としては斬新であり、'80年代の新しい時代の到来を感じさせた。
 ブラックアウトと呼ばれる、黒色を効果的に用いて窓の形をごまかす良く見せるデザインの手法は1979年に出た国鉄201系がはしりであり、それから全国の鉄道車輌が我も我もと取り入れていた。中でも小田急8000系のそれは素晴らしい。そもそも、黒は青と合うものであり、黒い窓に青の帯は大変に高級感がある。ブラックアウトは今は自動車にも取り入れられている。
 側面の造形も後に普及したステンレス鋼製の車輌にはあり得ない、鉄鋼製の造形の極致なる美しさ。その仕上がりは35年を経る今も少しも崩れることなく保たれている。
 屋根上の冷暖房機が集約分散型と呼ばれる2基となっているのも当時としては斬新で今としても最良である。分散型――:4~5基――のような凸凹感がなく、集中型――:1基――のような寂しい感じがない。
 乗り心地も並な感じの5000系やかなり悪い9000系と比べ著しく改善されており、今時の車輌等よりも乗り心地が良い――改悪されることがしばしばあり得るのは5000系と9000系の比較に明らか。――。

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 左の写真のゴシック4550によるものは右の写真のモリサワ新ゴシックによるものが導入されている今も幾つかの駅に残っている。20世紀末から21世紀に掛けて新しく設けられた駅や高架への移転などにより新調或いは改造された駅は、その頃には駅名標がまだ旧型であったため。
 ローマ字の表記法が'Odakyu-nagayama'のようにではなく'Odakyu Nagayama'のようになっているのは良い。

●東急5000系
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1954年~1986年/2002年~
東急車輌製/東急車輌;総合車両製

 全く異なるような上の写真の2つの車輌――実はどちらも同じ東急5000系である。
 既に廃止された車輌の型式番号が後に再び付くことは近年にはしばしば見られるものになっている。小田急が3000系と4000系を――いずれも通勤車であるが前者は元は特急ロマンスカーの型式番号であった。――新たに用いているなどである。京王は近くハイパフォーマンス通勤車5000系――元の5000系も'60年代の当時としてはそう。――を導入する。番号を使い果たし、一巡している訳である。
 しかし東急5000系は単なる番号の再利用ではない。よく見ると、旧5000系と新5000系はよく似ている。前面の傾きとその裾の部分の引込み具合が先ずそうである。また、窓も作り方は時代を反映して違うが、大き目で眺めの良いことが似ている。それも京王旧5000系や8000系などのように前面窓が側面へ回り込むようなパノラマなものではなく普通に前面に張るだけで広い視界を確保する、東急らしい、贅沢感のない機能性の高さである。
 今や日本の田舎の風景を語るには欠かせないものとなっている1962年に出た7000系以降は、東急電車の車輌は取り敢えず今様の形になっておればよいというような詰まらないものが多いものであったが、新5000系が出たことにより華が取り戻されたように感じられる。とはいえ、新5000系の設計は'90年代から今'10年代に首都圏を主として占めているJR東日本との共通化設計車輌がベース、側面のデザインは小田急3000;4000系と全く同じであったりするが、東急新5000系はそれらの中でもどこかそれらとは一線を画するような高品質感と独自の存在感がある。同じような座席に同じような液晶案内画面を見ていても、東急のそれにはまやかし感がなく信頼して乗れる。
 旧5000系の車体は東京の渋谷駅西口の広場に展示されており、テレビの街頭インタビューにもしばしば映る。

●東急7000系
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2007年~
東急車輌製

 前項の5000系に次ぎ、旧型式番号の再利用となる。
 旧7000系が出たのは1962年であり、派生車の7200系と共に多くが地方私鉄へ譲渡されてそれぞれの当地の顔となっている。首都圏の近場では静岡の静岡電鉄がそうである。
 新7000系は元は池上電鉄という東横電鉄の東急とは前身の違う池上線とその隣の多摩川線の専用車であり、その設計やデザインにもどこか他の東急電車とは違う趣がある。池電と東横の他にもう二つあるのは目黒線、大井町線、多摩川線と田園都市線を持っていた目黒蒲田電鉄と新玉川線と世田谷線を持っていた玉川電鉄であるが、旧目蒲向けの最近の新型車は旧池電向けの7000系や5000系と比べ趣味が悪い。田園都市線は今は2つの本線の一つとなっているので旧東横の東横線と同じ5000系が導入されているが目黒線と大井町線は聊か別世界というような様相である。
 ステンレス鋼はかつては曲面加工が難しく、東急車には平面的デザインしかなされていなかった。それを敢えてしたのは1987年に出た小田急1000系であるが、新造導入から何年も経たない内に曲面が波打ったり、そもそも等しい寸法と形になっていなかったりと、日本の産業経済の凋落をその数年前に暗示するかのような見るも無残な試みとなった――小田急1000系の無残な試みはもう一つ、扉の幅が2mのワイドドア車がある。デザインも利用感覚も破綻しており、鉄道史上稀に見る無用の長物となっている。――。しかし、今は曲面加工が発達しているらしく、東急新7000系はその大成功作となっている。
 室内は総木目調となり、温かみが感じられる。総木目調の内装はそれまでは阪急電鉄だけが用いるものであり、阪急以外または関東では初。座席の色模様が阪急の渋緑茶のような単色とは違い明るく爽やかなエコロジーカラーなのが池電らしい雰囲気を感じさせる。外装色も従来の東急にはない派手な意匠となる。

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 左のものと右のものとの間にもう一つ、線がピンク色で書体がゴナのものが1990年代頃にあった。それが私の最もお気に入りの東急の駅名標であるが2000年代から右の写真のものに替わっている。

●京王5000系
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1963年~1996年
日本車輌;東急車輌;日立製作所製

 室内の幅が広く、縦置長座席でありながら空いている時には至って快適で、京王の永らくの売りである高尾山などへの観光輸送にも充分に耐える。寧ろ脚を伸ばせたり座席に寝れたりで横置座席よりも良いと思える程である。
 乗り心地も絶対値としては今時の新型車と同じ位、当時としては最先端の良さである。鉄道や乗合自動車の乗り心地が進歩改善されていたのは概ね'90年代までであり、以後はやや退歩改悪されている。つまり、京王5000系は今の時代に粗その侭復刻製造されても今の最新鋭の車輌等と互角の性能と利便性があるということである。逆に、平成30年は昭和30年と同じ水準であるともいえる。

●京王6000系
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1972年~2011年
日本車輌;東急車輌;日立製作所製

 日本らしさを特徴づけるもの、即ち日本と他国を明確に分けるものの最たるものは左右非対称にあるとされる。色々と言い立ててはみても殆どの「日本らしさ」は世界のどこにでもあるようなものであるがそれだけは歴然と日本にしかないといわれる。
 前出の西鉄5000;6000系もそうであるが、京王6000系は前面の窓の配置が左右非対称であるのが大きな特徴である。右側は停止位置指標などの右下にあるものだけで他には何も見えなくても実は困らない。故に左側の窓だけを充分に大きくする訳である。
 逆にシナなんかは左右対称が絶対的常識であり、何を作るにも左右非対称は考えられないらしい。
 昭和47年といえば、高度経済成長が終わり、所謂西洋並みの生活水準に追いつくことが至上命題であったそれまでとは物の見方が変わりつつあった時代である。そこで左右非対称などのような独特の姿、取り分け日本の独自性というものが様々に模索されて或るものは支持や普及を得ていた。
 窓だけではなく、その上にある行先表示部も独特。それが単なる奇抜ではなく実用品としてすんなりと受け容れられるようなものとなっているのは当時の活力である。
 そんな6000系は二度目の経済成長期となる'80年代に亘っても次々と増備された。'90年代には5扉仕様車も出、その活力は留まる処を知らず、6年前に全廃となるまで39年に亘り就役していた。私が鉄道車輌の解体作業を見るのはそれが初めてであり、インターネットの恩恵である。

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 かつては線の色が臙脂色に近いダークローズであったが1990年頃からのCIによりピンクと紺になっている。京王バスもそのCI色を取り入れていたが近年は紺色のみになっている。
 書体は1980年代の中頃までは細丸ゴシックであり、それがデザインは同じな侭に左の写真のものに替わった。
 京王は案内表示などに用いる書体を他社のように色々と使わずに物によらず隅々まで残らず同じにし、そのための取換は時間を置かずに一気に進められ、それだけは昔も今も変わっていない。京王の歴史を紐解くと、府中までの京王電軌と府中が起点の玉南電鉄の合併のための線路の改軌の工事も短い工期で直ぐに出来たという。

174.png神奈川の雑学
◯「神奈川の基地負担をなくせ!」との声がないのは何故か?
 この「基地負担」とは自衛隊の基地ではなく、アメリカ軍の基地のこと。
 神奈川県にはアメリカ軍の基地が16か所、横田基地、多摩サービス補助施設、府中通信施設と清瀬の大和田通信所を加えると20か所もある。
 その数は全国47県の内の2位であり、1位は57か所がある沖縄県である。
 沖縄のUS軍基地にまつわる今日2017年7月28日までの最新の話題は太田昌秀元知事の沖縄県民葬、そこには安倍晋三総理や鳩山由紀夫総理などの中央の政治家も招かれて参列したが、献花の時に、鳩山総理の時だけ拍手が起こった。一見は自慢話のようにも見えかねないが、鳩山氏は今日の自らのツイッターにそのことを「私だけが!」と語っている。鳩山総理は沖縄のUS軍基地の負担を減らすべく、普天間基地の日本への返還に伴うその移転先を「最低でも県外へ」として自らの政権(2009~2010)の時にアメリカ政府などへの働き掛けをした。永らく知られるように、沖縄にはUS軍の駐在を好ましく思わない人々が多い。
 面積も人口も沖縄県の何十倍もあって基地の数は三分の一もない神奈川県及び多摩・武蔵野地方なら、沖縄の程にはそのような声が出ては来なかろうとの見方もできるが、その他と比べれば神奈川のUS軍基地の負担は抜き出て多い。沖縄と神奈川の以下に比較的に多いのは北海道の18か所、青森県の6か所、広島県の7か所や長崎県の13か所である。
 昔は神奈川にもUS軍基地を退かせようとする動きがあった。1964年に大和市と町田市に、1977年に横浜市青葉区に、厚木基地のUS軍の飛行機が墜落する事故があり、US軍と日US安全保障体制に対する抗議の運動が神奈川にも興った。
 バブル時代には逗子基地に対する抗議運動が興ったが、粗それを最後に神奈川の反US軍基地の動きはない。
 その理由として考えられるのは一つには沖縄のそれとの密度の大きな違いであるが、もう一つは神奈川人は自国日本の軍を信用することはできないということである。
 日本史を紐解くと、神奈川は古代から栄えており、鎌倉時代には政府の所在地にもなり、或る意味では歴史を通して京都にも勝る程の政権体制の安定や繁栄を日本に及ぼしていた。
 古代にも鎌倉時代にも、神奈川には軍人が多くいたが、明治時代以降の近代日本の軍延いては自衛隊は昔の神奈川の軍とは路線(method)が違う。「鎌倉武士」などというが、近代軍は鎌倉武士ではない。
 神奈川人が憲法の改正を云うのは、鎌倉武士とは違う今の軍なんかは子供騙しなのでそんなものはなくして新しい軍を創れということ:神奈川人が憲法の護持を云うのは鎌倉武士とは違う今の軍なんかは子供騙しなのでそんなものはなくしてとりあえずはアメリカ軍に頼ってごまかせということ。何れにしても自衛隊ではいけないということは同じ。
 私、弊ブログも本音はそうであるが神奈川以外の世論を勘案するととりあえずは自衛隊を能うべく改善する外はないと考えており、憲法の改正の必要はないとしている。新しい軍を創るにも憲法の改正の必要はない。何れにせよ、自衛隊は災害における活動など、日本の誇るべき独特な防衛組織であると思ってはいない。災害の援助などは当たり前にも当たり前の軍の任務であり、それを称賛する今時の報道のありようは愚かである。
 尤も、近代軍ではない軍は世界のどこにもあったことはなく、鎌倉武士を軍事の理想とすることは単なるロマン主義でしかないかもしれない。しかし少なくとも日本の政府や近代軍は神奈川人にとっては信用ならないものなのである。因みに神奈川県の出身の内閣総理大臣は有名なあの人唯一人。
 自国を信用することはできないから、アメリカ軍に頼っておくしかない。故に神奈川における反US軍基地の動きは興りにくい。
 そこが自国への信用を求めて延いてはアメリカへの信頼をも求める安倍政権との違いであり、また、日本が自国ではない沖縄との違いであるが、反安倍でも反沖縄でもない。沖縄については「そういう所も日本にはある。」というような認識であろう。
 自国の歴史を誇りながら自国を信用しないことを、政治思想学の概念ではアナーキズム(無政府主義)という。私、弊ブログの思想の原点でもある。アナーキズムを信ずるのは昔は文化や政治、経済などにおいて強い力を持っていた地域、殊に農業を本位として独立性と中央との関わりを上手いこと保っていた地域に多く、日本語の「無政府主義」というように本当に政府を無用とすることではなく、現在の政府を無用と見做して自地域が主導の政府をしか望ましい政府とは認めないということである。尤も、昔の程にではないが、神奈川は現代の今もかなり強い文化と経済の力を持ってはいる。しかしその力はマスコミベースでは見えては来ない。

●西武30000系
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2007年~
日立製作所製

 いつも定刻に走り、何となく見ている電車――
 するとどうしても気づかないが、この30000系は西武鉄道が社運を賭けて導入した重みのある車輌であるという。
 その社運とは上場廃止に因る経営の再建、2004年、総会屋への利益の供与と有価証券報告書の虚偽記載による証券取引法違反の責めを問われてのことである。当時のニュースを陣取っていたが、電車はそれでもいつものように動く。
 『Smile Train〜人にやさしく、みんなの笑顔をつくりだす車両〜』の考え方の下にプロジェクトチームが組まれ、殊に内装は十人余りの女子社員のみが担当した。
 外装は地下鉄以外では関東には珍しいアルミニウム合金製であり、塗装はないがステッカーで色を配し、塗装のある車体と遜色のない質感がある。前面のみ白の塗装があり、同じく前面塗装ありでも京王などのような強化樹脂製ではなくアルミニウム合金に直に塗装がしてある。
 全体として卵のような丸みを出すためでもあるが、前照灯は今時には珍しく丸形なのも嬉しい。

●西武40000系
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2016年~
川崎重工製

 この記事の前書にも言及した全席座席指定の列車のために導入された。
 その全席座席指定の列車の通称はS-TRAINといい登録商標となっている。そのS-TRAINの社外の解説の記事を見ると、「着席保証列車」と呼ばれている。――「着席保証列車」、何とださい、勘違い真面目な言葉であろうか。勘違い真面目とは、「稲田朋美さんを将来の総理大臣に!」というのと同じような語感。
 単純に考えるだけでも、座席指定券を買って乗っても、そこに無断着席をしている人がいることはあり得、保証されたことになってはいない。
 それを確実に保証しようとするとそのための駅員の案内が大きな声で何度も言わねばならず、乗るまでの快適さは損なわれることになる。「指定券のないお客様は御乗車にはなれません。指定券のないお客様は御乗車にはなれません!!、危険です!乗らないで下さい!!」
 それに違反した際の増料金の徴収をするかしないかなど、運用の既に始まっている今も色々と不透明な問題がある。
 そのような問題点はとりあえず置いておいて、「置いといて。」、車輌だけを見るとかなり良い。近日導入の京王5000系も基本としては同じ内装の造りをしているが、西武40000系のそれの唯一つ残念なのは内装色が青基調で、座席の色の趣が国鉄じみていることである。
 そもそも座席指定は国鉄-JRの急行と同じ発想である。JRは昨年2016年に急行を廃止しており、今やJRにもない前時代なものを京王や西武などの私鉄がする理由は理解できない。これからは逆に田舎の人に笑われることになる。
 私の取り分け好きな点は側面の窓の周りが橙色に縁取られていることである。40000系もまた前項の30000系と同じくアルミニウム合金製の車体にステッカーによる色取り。

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 今まで気がつかなかったが、西武はモリサワ新ゴシックを採用していない。駅名標などの案内表示の書体がモリサワ新ゴシックではないのは大手鉄道会社等では他に西鉄、阪急、阪神、南海、相鉄、京成とJR東海だけ――8社/19社である。
 西武が今は用いる右の写真の書体は現在のANN報道ステーションの字幕にも用いられるものであり、私も好きな書体である。
 左の写真の、昔の丸ゴシックのものも焦茶色が落ち着きを醸し出していて良い。駅名標の常套である横線がないのが独特である。文字というものはきっちりと整理整頓をして記せば一々線を引かなくてもよいということがそれから分かる。

●東武50000系
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2005年~
日立製作所製

 日立といえば20世紀末の頃から経営不振がニュースに伝えられ、如何にも斜陽の企業という感じであった。
 家庭用電気製品なんかも、日立は’80年代までは普通に見掛けられていて私の出身家も地元の電器屋が日立の代理店であったこともあり日立製品を支持していたが、'90年代からはとんと見掛けない、会社が存在さえしているのかという感じ。
 その日立の業績を回復させた立役者が2005年のこの東武50000系と前出の2007年の西武30000系である。
 鉄道車輌だけではなく、近年は日立が元気である。広告なんかを見ても、今時の企業広告に多い、頭の弱い無能経営者の説教を安倍晋三が演説の原稿にしそうな日本人英語を交えてまとめたような、下らないコメンテーターが喜びそうなグローバリズム広告ではなく、企業の政策を面白真面目に訴えて好感度な広告が日立には多い。残念ながら、今時は三菱さえその手のグローバリズム広告である。
 東武50000系はいわば「走るプレミアム文房具」である。プレミアム文房具とは銀座伊東屋に売っていそうな文房具のことである。
 別に伊東屋でなくても売っているが、私は永年にシュテットラー(STEADLER)を愛用しており、東武50000系の姿は宛ら走るシュテットラーの繰出鉛筆である。
 因みに日立について言うと、私の家の冷暖房機は'10年代製の日立の白くまくんであり、電気代がとても助かっている。
 丁度東武50000系が出来た頃には日立のドライヤーを買って使っていたが性能もデザインも落ち着きに満ちていてなかなかである。風の出方のプレミアム感が素晴らしい。

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 伊勢崎・日光線と東上線は駅名標の意匠が昔から異なる。上右の写真は今の伊勢崎・日光線のものであり、下の写真は東上線のもの。
 東武は駅名標のデザインをくるくると変え、案内表示板をイメージ作りに役立てようという発想はないらしい。逆にいうと、東武以外の案内表示板は印象操作の道具であり政治的に好ましくないということでもあろうか?

●JR東日本651系
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1988年~近日全廃
川崎重工製

 東京と仙台とを結ぶ常磐線の特急スーパーひたちに用いられていた。
 当時の鉄道車輌の最先端が注ぎ込まれて出た新時代のJR特急であったが、制御装置には当時に既に出ていたVVVFインバーター制御を採用せず'80年代までの主流であったサイリスター制御を守っているのも好感である。
 651系に代わる新しいスーパーひたちとしてE657系が2010年に出たが、何の進化もないだけではなく、改悪である。デビルマンが迫って来るかのようである。2010年に世に出た良品といえば、マイクロソフトのOffice2010であるが、その他はおしなべて'10年代の新製品は良くない。
 尤も、651系のデザインは旧世代の国鉄特急の183系がその侭新時代向けにデジタル的にリファインされたような感じであり、技術ともてなしの外には目新しさはないともいえる。しかしそのリファインの妙こそが魅力であり、E657系などのように独創性などといいながら下らないものを垂れ流し続ける今の時代とは似ても似つかない。

174.png関東の雑学
◯「寄合所帯」は関東の家芸
 京急~京王の項の後の『神奈川の雑学』では神奈川と日本の軍について語った。
 軍といえば文民統制(シビリアンコントロール)、強制収容所へ送ることはシベリアンコントロールと言うが、この『関東の雑学』では関東と政党政治の関係を語る。
 日本の大政党には自民党と民主党の二大政党と公明党や共産党などの中小政党がある。
 民主党政権についての批判から、民主党はしばしば寄合所帯といわれる。党における諸派閥が互いに合意をなさずに党の統率や理念の共有がないということである。しかし、その特色は民主党だけではなく自民党も永らく同じといわれており、その民主党との違いは合意と統率、共有のない党が或る利益のためには一致することにある。その利益とは'50年代には憲法の改正、頓挫:'60年代には高度経済成長、成功:'70年代には列島の改造、疑問が残りながらも成功:'80年代には民営化、成功とされながら破綻が生じているも無視:'90年代は自民党の不毛の時代で'00年代は国民の誇りを取り戻すこと、現実には存在しない潮流――
 国民の誇りは利益としての計量が可能なものではないが、'00年代から今の自民党政権はそれを国益の確保や実現のためには欠かせないものであるという。尤も、物事は軽量の可能な事柄だけで成り立つものではなく、誇りなどのような或る種の精神主義は何にでも必要ではある。
 軽量の可能なものは文明の基であり、それを押さえている人達が国の実際の権力である。東京を中心とする関東には軽量の可能なものを押さえている人々が多い。それが一概に同じく寄合所帯とはいえど、民主党と自民党の違いを生み出す。
 とはいえ、私などは料理の調味料の量を一々匙やカップで量る気には到底なれない。直観と常識が頼りであり、その点は私は民主党的気質が強い。
 関東は民主党の支持層にせよ自民党の支持層にせよ、寄合所帯を常とする。人の居る所や集まる所は何でも、支配的権力や理念というものはあり得ない。関東の南隣にある神奈川を政府とした源氏が三代で滅んだ理由もそこにある。源氏は皇室を由来とする古代以来の日本の支配的権力であってしばしば理念を生み出す。それが、支配的権力や理念を嫌う栃木県の足利氏や東京の近代権力にとっては脅威なのである。学校なんかを見ても、理念を大切にする学校の多くは本部が東京にあってもその主要の校地(キャンパス)を神奈川に設ける。埼玉や千葉の学校は単なるブルジョワ主義、即ち経済力に任せて子供に金箔を貼るものに過ぎない――ブルジョワ主義も理念の一種ではあるが、――。そしてそんな関東の土地柄に妥協して権力を得て立ち回りの文化を広めたのが源氏に替わって幕府を持つことになった北条氏である。
 その観点から見ると、自民党も民主党も関東の政党、東京の政党であり日本の政党ではないともいえる。しかし公明党もまた自民党における利益による一致の代わりに信仰による一致を保つだけであり、その現世的現実はやはり寄合所帯の原理であり、自民党との連立政権を常とするようになっている今はその傾向が一層強い。
 寄合所帯の原理にも有意義なものはあり、政党や企業の多様性はこれからも大切にするべきではあるが、関東のそれは殆どイスラム原理主義に近い原理主義といえる。合意の形成などはありはしない。故に自民党の利益や公明党の信仰のように、目立つ処だけは皆同じ共通の様式で統一するのであり、その一例が駅名標などの案内表示板におけるモリサワ新ゴシック体の書体や共通語と呼ばれる、NHKという放送局が作り出した言葉やそれをベースとした新語・流行語などである。

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by keitan020211 | 2017-07-02 17:52 | 生活 | Comments(0)
【総括 安倍政権】安倍政治とその支持率は もてない君の怨念 である
a0313715_21132768.jpg 稲田朋美防衛大臣の明日7月2日が投票日の東京都議会議員選挙の自民党の候補の応援演説の「自衛隊、防衛省そして自民党からも投票をお願いいたします!」との文言が違法ではないかという批判を受けている。また、稲田氏の自衛隊の南スーダンPKOの日報の問題についての疑惑からの資質への疑念が再び起きている。
 稲田氏は安倍総理のVIP、所謂お友達の一人といわれ、稲田氏の批判は安倍政権の本質に関わるものとして受け止められている。

 稲田氏のその演説の前に、おしなべて50%を上回ることが常であった安倍内閣の支持率は10pt程下がり40%台になっており、それが更なる支持率の低下を招くかどうかは予断を許さない状況となっている。その都議会選挙さえ、現有では最大勢力の自民党の大きな逆風が指摘されており、選挙の結果がその発言との相乗効果を生む可能性もある。

 稲田氏のその発言、その本質は何なのか?
 そんな発言の出る安倍政権の本質は何なのか?

 安倍政権を支持しない人々にとっては分かり切っていることであるかのようなその問いを、安倍政権が倒れるか倒れないかの瀬戸際にある今、改めて考えてみる必要があるかと思う。

a0313715_21145841.jpg 古舘伊知郎氏が2016年3月に自らのキャスターとしての退任を控えるANN報道ステーションで、ドイツのワイマールを訪れて独裁とは何かを学ぶという仕立ての特集に出ていた。その特集がワイマール憲法を停止にして独裁権力をかちとったヒトラー総統と安倍総理を比べて暗示しているとの見方が即ち広まり話題を呼んだ。つまり、安倍総理は独裁者である、そのような見方をする人が多いということである。
 安倍総理が独裁者ではなくまた安倍政権が独裁政権ではないとは言い切れないが、どうも批判としては意味がないのではないかとかねがね感じている。そのような批判が高まる程に支持率は上がり、延いては彼等がそんな安倍政権を支持する国民を愚かと批判するに至っている。しかし国民を愚かという者が支持されることはない。「日本国民は平和呆けです。」と演説する候補者が選挙で受かることは粗全くあり得ない。稀にあり得るのはそのような真意を巧妙に蔽い隠して国民をおだて上げることに成功する者だけである。どうしても日本国民が総じて愚かと思うならば例外的に愚かではないと思う一部の国民に訴えて自らの勢力を地道に増すことだけが支持を得る道となる。弊ブログも或る意味ではそんな地道な努力を重ねる者であるし、自民党や民進党のような大政党の方々の多くも派閥単位で自らが信用するに足ると思う一部の国民の支持を得ている。

a0313715_21170813.jpg ヒトラーはドイツ国民をおだて上げたし、安倍は日本国民をおだて上げているので、その点では二人の類似はある。何れも国民を本心では愚かと思っている。にもかかわらず、愚かではないと思う一部の人々の支持を固める地道な努力をしない。そうはしないのは国民を愚かと思うことがそうではないと思う程に当たり前に感性として染み着いているからである。彼等は国民は賢い、自らは国民を愚かと思ってなどいない、そんな筈がないと思い込んでいる。故に彼等においては愚かな国民と愚かではない国民を分ける必要がない。十把一からげに「日本人で良かった。中国人や韓国人ではなくて良かった。」と言っておればよい――そこまでになると一政治家の人間性や資質の問題だけには帰し得ず、ドイツや日本が歴史的に抱える風土や文化の根源的問題がヒトラーや安倍にも影響していると考えざるを得ない。寧ろ安倍はそのような自らの負い目に抗って自らを善い人間に変えようとする個人的努力をしている者と見える。旧安倍政権の時の彼と今の新安倍政権の彼は明らかに違う。身を結んでいるかどうかはともかく何であれ自らを変えようとしていることは確かであり――個人的努力をするが組織的努力には無頓着、政府自民党を自己実現の場としか見ない。――、故に安倍をヒトラーと全く同一視することはできない。少なくとも全くの独裁者ではない。
 尤も、安倍が組織的努力をしないのは組織というものが何なのかを多くの国民が理解していないからでもある――故にお手軽な組織論が批評空間にいつも現われる。また、派閥政治が崩壊して久しいこともその理由であろう。――。訳の分からないものに関して努力することはできず、政権は国民の在りようの反映なりという歴史の真理が安倍においても当て嵌まる。

 安倍政権の支持率が下がらないのは、一つは、安倍政権を否定することが個人的努力をも否定することであるかのように感じられることである。
a0313715_21193348.jpg 安倍政権の構造が如何に悪いものであれ、安倍総理の振舞いには何かしらの感動を覚える。それがなくなれば組織だけではなく個人さえ失われるのではないか、そんな予断に過ぎないかもしれない疑念が多くの国民の心にあるから支持率が常に高止まりするのである。その点、安倍政権は極めて個人主義的価値観に基づく政権であるといえる。森友学園の籠池泰典氏も加計学園の加計孝太郎氏も、自らの大志を実現しようとする個人である故に、安倍が友として敬うべき者として認めた訳である。弊ブログは少なくとも今は安倍政治の不手際の下にさ迷う彼等の志を無下に否定しはしない。そのような弊ブログ自らの姿勢は少なくとも安倍政権に顕著に見受けられるとかげの尻尾切りよりは悠に良いと思う。

a0313715_21212364.gif 多くの国民が組織とは何かを分かっていない――それは2000年代の日本企業が自社の負債を減らすことだけに専念していることが大きな一因である。所謂バランスシート不況である。極めて単純化していうと、利益の多くを負債の返済に充てて自己資本比率の改善を図る経営の在り方である。そこにおいては、事業活動の成果としての利益は過去の埋め合わせに向かい、現在と未来の企業活動と生活に資するものとはならない。それは何となく、女/男にもてない人が走りがちな行動様式に似る。そして歴史認識を巡る事柄もそれに似る。自らの過去と現在の関係を理屈づけて一々確認すること、そんなことに明け暮れる人はその『素晴らしい歩み』に感心する振りをしてくれることはあっても、もてる筈はない。無論冗談ではありながら、そんな風潮の象徴として機能しているテレビ番組は日本テレビの『有吉反省会』やフジテレビの『訂正させてください~人生を狂わせたスキャンダル~』である。冗談ではなくそれそのものみたいな番組も散見される。

 安倍政権はそんな時代を創って来たもてない君達の砦として支持されている。
 もてないことを馬鹿にするな、そんな怨嗟のようなものが安倍政権の政治生命と支持率を支えている。
 安倍政権の下における日本は悉く、もてない君に有利になるようになる。

a0313715_21233771.jpg そのような政府を乗っ取っての政治運動が興ることは仕方がないともいえる。
 安倍政権が実現する前の日本はもてない君にとっては厳し過ぎる世の中であった。
 彼等が与党の権力の源泉となっている今は、多くの人は彼等を馬鹿にしなくなっている。女/男にもてる人々を含む多くの人にとっては自らも必ずしももてるとは限らないと思うからである。
 しかし、未だに馬鹿にし続けているのは反安倍の人々である。そもそも、彼等反安倍は女/男にもてることを端から価値としてはいない。男は男だけで仲良くし、女は女だけで仲良くし、男と女は世間体のために仕方なく寄り添うか或いは一生出会わなくてもよいと思うような人々である。異性を根本的に嫌うので同性婚にも賛成する向きが多い。
 私は「女は女だけで仲良くし」には幾らか分かるものがあるので、私、弊ブログが単に安倍政治に反対するということでの反安倍を標榜していることとの関わりはそれにあるのかもしれないが、弊ブログは同性婚には全く反対する。
a0313715_21255253.jpg 彼等にとっては女性の政治参加は平等に区別された男の世界と女の世界のすり合わせ、即ち男女の利益の調整の場に過ぎない。一党支配の自民党と万年野党の社会党の構図とも似ている。それらの二党は数の差はあれども立場としては平等と見做されるので、現在の安倍政権に対する野党の批判とも相通じる。議会政治はどんなに逆立ちして考えても数が力な筈なのに、彼等は議席の数の違いは立場の差を意味しないと強弁する。世の中や政治を男性原理と女性原理で捉えるそもそもの誤りから来る破綻論理及び空疎な批判である。また、『世間体のためには仕方なく』という点は反安倍と安倍政権の粗全く一致するものであり、故に反安倍がどんなに安倍政権を批判しても倒れることがないのである。安倍政権が倒れれば自らも倒れるからである。例えば批判の対象、即ち儲けの種を失うことである。

 しかし彼等反安倍はもてることを端から価値としてはいないにもかかわらず、もてない人、即ちもてない君を馬鹿にすることを好む。
a0313715_21273786.jpg それはもてない君は彼等が事実上絶対視する世間体を得ることの叶わない/叶わなさそうな人々であると見るからである。一方のもてる君は、その動機や経緯は彼等とは違えど、女/男を得ることにより中長期的結果としては世間体に服することになる身であると見る。アメリカのベストセラー本『愛は四年で終わる』は彼等反安倍にとっては古(いにしへ)の常識である。アメリカ人はそんな当たり前のことが今時になって分かったかと見下しながら評価している。もてる君達は彼等とは異質ながら事実上は彼等反安倍のコントロールに属することになるものと認識するのである。
 よって彼等の主張する「結婚しろと云うなら、結婚できる国にしろ。」には、もてない君は含まれない。あくまでも彼等反安倍がもてる君達に後れを取りながらも結婚という世間体の装置を手に入れることができることを求めているだけであり、LGBTを除くあらゆる人々に結婚の可能性が開かれる国を求めてはいない。

a0313715_21302590.jpeg 尤も、もてない君も少なからず結婚しており、その身で安倍政権を支持している。それは世間体を得た者の掟を裏切るものであり許されない。反安倍は森友学園問題を通して「子供がかわいそう。」という彼等への分かり易い非難の文句を得た。「安倍首相頑張れ!安倍首相頑張れ!」、あれはそんな裏切り者の末路だと思っている。しかしもてない君達の多くも「あれはやり過ぎだ。」と思っているのでまたも批判は意味をなさない。

 従来はもてることを自らの価値とはしないのに人のもてないことを論う反安倍に散々に馬鹿にされて侮られて来たもてない君の怨念――それは安倍政権の実現という形でとりあえず晴らされた。そしてかつては体制を築き上げていた現在の反安倍に連なる勢力は共産党を除き、今や少なくとも政治勢力としては完全に淘汰されようとしている。思えば時代は変わった。
 怨念も世に認められれば正義となる。反安倍が大好きな韓国にとっては尚更にそれが真理である。安倍政治の全てが実際に正義とは到底にいえないが、そのエネルギーには相当に正しい処がある。原発に代わるエネルギーは既に確保されているのである。安倍晋三は歩く発電機である。

 話は飛ぶが、怨念、怨みというものを肯定的に捉え直すことが大切なのではないか。
 日本社会は永らく、怨みを抱かないことを美徳とし是としていた。
a0313715_21331261.jpg しかし世は怨みに溢れている。それを「憎悪の連鎖」などとコメントして悦に入っている場合ではない。
 勿論、我々はテロを興すイスラム過激派などの怨みを捉え直してやることはできない。そんなことをしても重ね重ね西側目線にしかならない。彼等の怨みについては彼等が自ら考えるべきことである。その結論がテロをすることであるというなら、我々はテロとの戦いを続けて彼等を殺し尽くす外はない。
 安倍を支持する人々はテロをせずに怨みを晴らした。故に尚更にイスラム過激派などのテロに対して厳しい見方をする。但し彼等には厳しい見方を支えるための知識や情報に欠ける。そしてそれだけではなくあらゆる事柄について厳しい見方をする資格が反安倍には尚更にない。

a0313715_21345413.jpg 今、もてない君女子の部が崩壊に瀕している。男子の部と比べ数が少ないだけに切る尻尾もない。
 その傍ら、もてたい君達が東京都の議席を占めそうな勢いにある。
 豊洲市場と築地市場の両立、如何にももてたい人の発想である。
 その意味では地方選挙は国政と無関係とはいえない。

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by keitan020211 | 2017-07-01 21:35 | 政治、社会 | Comments(0)



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