【ちょっと知りたいキリスト教 ユダヤ教・イスラム教合併SP】日本はイスラム国である。 その2 日本は本来は自由と民主主義を尊ぶ国である。
 直前の記事『【ちょっと知りたいキリスト教 ユダヤ教・イスラム教合併SP】日本はイスラム国である。』の続きです。

 ユダヤ-キリスト教は:抵抗しない者は殺してもよいという信仰
 イスラム教は:抵抗しない者を殺してはならないという信仰

 というと、イスラム的思想の強い日本にはかようなイスラム教が好ましいと思う向きが多いかと思われる。
 しかし裏返して言うと――

 ユダヤ-キリスト教は:少しでも抵抗があれば殺さない信仰
 イスラム教は:抵抗する者は殺すべしという信仰

 ――良し悪しはさておき、少なくとも自由と民主主義の観点から見ればユダヤ-キリスト教がより「良心的」ということになる。自由と民主主義を何よりも重んずるアメリカがイスラム教徒の排除を訴えるのはアメリカのイスラム教徒が民権を持つことによりそのようなイスラム的原理に基づく法や政策を勧めかねないという懸念から必然ともいえる。
 殊にアメリカのイスラム教はインドネシアなどの東南アジア諸国やイランのそれのようにそれぞれの国の自由や民主主義のために再構成されたイスラム教ではなく少数派のものとして剥き出しのアラブ直輸入のイスラム教なので懸念は深まる。
 尤も、それらのような再構成されたイスラム教を正しく保持するためには権力が幾らかは独裁的たらざるを得ず、日本人やアメリカ人が思うような自由と民主主義とはやや異なろう。そして東南アジアのイスラム圏のような一部独裁の自由と民主主義、即ち権威主義体制に基づく自由と民主主義はこれからの世界の標準となると思う。

 抵抗しない者を殺してはならない、抵抗する者は殺すべし――それが東南アジア諸国とは異質な日本の通奏低音である。東南アジア諸国は自国が自由と民主主義を導入している以上は抵抗しない者はいないとするので全ての国民は抵抗する可能性があり、つまり国は全ての国民を殺す可能性があると見定める。しかし中でも法に照らして悪質な者を殺すべしとする。日本はそのような発想をしない。抵抗を知る筈もない国民を殺すなんて考えられない以ての外と見定めながら、時に抵抗する者がいれば適宜に殺すという発想である。故にリベラルを名乗る人達が戦争や権力による弾圧を語る時に、「無抵抗の市民を殺した、許せない。」などというイスラム的言辞が出て来る。というか、日本赤軍はイスラム過激派との提携の集団なので必然にイスラム的になる。キリスト教圏の自由と民主主義の国においても市民を殺すことは望ましくないことは同じではあるが、そこに「無抵抗の」とか「無辜の」とかというような言葉は冠されることはあり得ない。キリスト教においては無抵抗の者こそを殺してもよいものとするからである。抵抗は神が命あるものに与えた賜物であり、抵抗しないとは自らを命ではないと見做すことであり、故に殺しても構わない訳である。そのような信仰からは当然に、「嫌よ嫌よも好きの内」などという思想は生まれ得ない。「嫌よ嫌よも好きの内」は本来は殺すべき抵抗者に猶予を与えるというイスラム教の発想から来るものである。抵抗していても回心してされる侭になれば赦すということである。
 抵抗しないとは女性的たるべしということであり、女性を守るべき清らかなものと見做す。鉄道の女性専用車が日本とアラブにしかないのはそれが理由であり、毎朝夕の通勤通学の風景にも日本のイスラム性が見える。場所を分け隔てることに由り女性による抵抗の余地を予めなくしておけばよいという訳である。「君の怒る顔なんて絶対に見たくない、そうだろう?」。

 イスラム教とは本質的にはそれ程に日本のおっさん的にキモヲタな宗教である。故におちおち寛容の精神をとか異文化の尊重をとかいう訳にはゆかない。
 故に、「日本は仏教国、日本らしさを大切にしよう。」などという人達は仏教の名を借りるのをやめて潔くイスラム教徒になるべきである。そうなれば日本はインドネシア並に魅力ある国になるかもしれない。
 イスラム教の成り立ち、殊にその正統派とされるスンニ派の成り立ちそのものがそもそも、ユダヤ教とキリスト教の駄目出しのような否定的動機からのもの。批判のための批判から生まれたものである。

 無抵抗といえばマハトマ ガンジー。
 日本にも支持者が少なくないチベット仏教の導師である。
 しかし、ガンジーは何となれば殺されても構わない、文句を云わない、それが彼の無抵抗の信仰である。
 ならばとばかりに殺しに掛かることを奨めるのではないが、日本の支持者達が無抵抗とはいいながら殺されることは罷りならない、殺されれば文句を云うのを見るにつけ、ガンジーを信ずることにはなってはいないのが閉口である。ガンジーとリベラルな価値観は相容れる筈がない訳であり、なのに彼等はガンジーを尊敬するリベラルを称する。ガンジーはそれそのものは超保守主義ではないが、超保守主義を容認するものである。また、同じく無抵抗を信仰するイスラム教の影響が強くある。
 キリスト教にも殉教の信仰はあるが、それは然るべき抵抗の末に殺されてもその血が抵抗の最も大きな証となるということであり、無抵抗ならば殉教ではない。
 殉教といえば今時に連想されるのはイスラム過激派の自爆テロであるが、彼等はそれを抵抗と位置づけてはいない。彼等のしようとしていることは西洋のキリスト教文明に対する抵抗ではなく「権力の側からの処刑」である。あれだけ情けない風采をしていても自分達は権力者なのであり、その銃や爆弾は戦争のそれではなく処刑のためのものである。その本質が次々と示されたのがイスラム国によるビデオ付の「処刑」である。自らを権力や体制の側に位置づけることを嫌う左翼ならばイスラム過激派のそのような権力主義や体制主義は絶対に受け入れられるものではなく、イスラム過激派の歴史や現状を少しでも擁護することはできないと思う筈であるが、何故か日本の左翼からは彼等に忖度するような言説が相次ぐ。日本の左翼はイスラム過激派と親しい日本赤軍の流れを汲むからである。彼等の殉教はどこまでも権力者の任務における殉死である。それがまた日本においてはしばしば受ける。

 但し人には抵抗することを知らないこともある。
 抵抗したい思いはあれども、如何に抵抗すればよいのかが分からない。
 そのような場合をも無抵抗でありイスラム的であるとする訳にはゆかない。

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# by keitan020211 | 2017-07-30 21:14 | 文明論 | Comments(0)
【ちょっと知りたいキリスト教 ユダヤ教・イスラム教合併SP】日本はイスラム国である。
 昨日の宵にテレビ朝日が『池上彰のニュースそうだったのか』で中東イスラム圏の特集をした。
 イスラム国の潰滅の見通しが立って来たことやイスラエルの混乱が強まっていることを受けてのものである。
 池上彰はこれまでにも中東についての知識を紹介する特集を幾度か行っている。

 そこで中東とアラブは別物であること――中東とは地理的区別であり、アラブとはアラビア語圏のこと――やイスラム圏にも色々とあることなど意味のある知識も幾つかあったが、総じて酷い内容である。

 中東のイスラム圏には親日国が多いことを殊更に語り、その御礼としてか、イスラム文化を絶賛する。
 イスラム圏の多くは男女交際が信仰上禁じられるが、女子と接吻をもしたことがない男子を、取り分け日本に留学をして東京の文京区茗荷谷に住んでいたという男子を「偉いですねえ!」みたいに紹介する。
 池上彰の番組の他にも、日本に留学の経験のある親日なイスラム男子やイスラム女子を紹介した番組がこれまでに幾つかある。
 その親日姿勢が嘘とはいわない。但し日本の力だけではなく中東の産油国等に関わっているアメリカが「奴等とは仲良くしてやってくれ。」と彼等に云ったから好意を持っている面は否めまい。池上番組はそのような点は全く無視して日本が中東諸国との良い関係を自力で築き上げて来たかのように語る。

 折しも、アメリカのトランプ政権が当国のイスラム教徒の排除を訴えている中、反トランプを叫ぶ日本のマスメディアはそんなトランプ政権には耳を貸さずにイスラム圏を大切にしようというプロパガンダを行っているようである。

 しかし日本と日本人ががイスラム圏とイスラム人を大切にすることは、そう容易いものではない。
 日本とイスラム圏及びそれらの文化は歴史的に非常に根深い関わりがある。
 一言で言うと、「日本はイスラム国である。」。
 ――尤も、歴史を通して常にそうなのではなく、殊に明治以降の近代日本国家はイスラム国にとても近い性質がある。

 その謎を解く鍵は日本の仏教である。
 仏教は元々は同じ一つの宗教ではない。インドに興ったインド仏教の影響を受けたシナの諸々の地域宗教が更に変化して日本に伝わったのが日本の仏教の諸宗派である。つまり、日本仏教はインド仏教の原形を殆ど留めてはおらず、シナの地域宗教の数々がその原型である。そこまでは日本人にも夙に知られるものである。インド仏教の直輸入は名古屋の覚王山日泰寺など、極めて少ない。因みに日泰寺はトヨタの豊田家の菩提寺である。それからしてトヨタの日本における地位及び日本の自動車愛好家のトヨタについての評の独特さの理由が浮かび上がる。
 日本の仏教の一つ一つの宗派は真面な信仰を持って大切なものではあるけれど、それらを一つに捉えて「仏教」というと、とても胡散臭いものになる。
 仏教とは国家の保護の下にある宗教ということであり――即ち、今の日本においては神道もキリスト教も仏教である。――、一つの「日本の仏教」というとそれは日本国家の教えということになる。それぞれの宗派の信仰とは関係ない。
 故に自分は日本人です仏教徒です、日本は仏教国ですという人は宗派の信仰に帰依しているのではなく自分にとって都合の好い日本国家を作ろうと志しているということになる。
 そのような姿勢はイスラム国とくりそつ、否、そのものである。
 所謂日本仏教というものとイスラム国の共通点は 世俗主義的原理主義 にある。
 原理主義というと普通は非常に峻烈な反俗主義を旨とするものであるが、イスラム国と日本仏教における原理主義は世俗主義を含むことにおいて他の多くの原理主義とは異なる。世俗の繁栄に見放されているイスラム原理主義者が世俗の経済力や権力を一から得ようとすることにより成り立ったイスラム国――絶対的欲望による世俗主義的原理主義――とそれらがそれなりにあって尚より高い経済力や権力を得ようとする日本仏教――相対的欲望による世俗主義的原理主義――は機会の差があるにせよ、その本質は同じである。それらの世俗主義の契機となったものは中国を除く現在の国連の常任理事国をなす西洋の近代国家等による政治経済的介入であることも共通する。
 比叡山延暦寺の僧兵による反乱は彼等にとってのモデルとなるレジェンドである。延暦寺の僧兵は歴史的国教としての地位を確立していた比叡山天台宗の失地を回復するための過激派であり、オスマントルコを取り戻すことを目的とするイスラム過激派と似てはいるが延暦寺の僧兵は程なく――とはいえども三十年以上が経つが、――解散された。彼等は時の新しい権力に敗けたのではなく更に新しい江戸幕府の体制が出来るにつれ自ら妥協して矛を収めた。しかし矛を収めた処をまでは見ずに反乱を興した処をだけが切り取られて彼等のモデル及びレジェンドとされたのである。しばしば、レジェンドは自らの人気に当惑する。
 日本国家の原理もまた、世俗主義的原理主義を常とする。尤も、日本国家を永らく治めていた自由民主党は世俗主義ではあっても原理主義ではなかったが、近年は原理主義の傾向をも呈し出しているし、自らが原理主義ではなくても原理主義的勢力への忖度や譲歩を常としていたのは確かである。安倍政権及び安倍政治とは永らくは忖度と譲歩の対象となる周辺勢力でしかなかったものが一挙に主流派となって来て出来たものであるといえる。人間は、強い者には忖度も譲歩もしないものであり、それらをせざるを得ないような感じがするのは相手が弱い者であるからである。安倍政権は本質的には弱者政権である。弱者として、見放されていた繁栄と権力をあらゆる手立てを尽くして奪う。

 日本の仏教及び日本国家に及ぶイスラム的性質、しかし、イスラム圏と日本には歴史を通して直接のつながりはない。
 唯一つ考えられるのはペルシア、今のイランイスラム共和国をなす地域である。
 ペルシア-イランはイスラム教のシーア派圏である。シーア派は政治的にはもう一つの大教派のスンニ派よりも保守的で強硬路線を常とするがイスラムの信仰においてはよりリベラルである。それは昨日の池上番組にも紹介されている。池上番組が明らかに贔屓にしているのは政治的には穏健で信仰においては原理主義、戒律主義なスンニ派である。
 ペルシア-イランは言語が異なるので中東ではあってもアラブではない。ペルシアはイスラム教の出来る前から繁栄し、西のヨーロッパにも東のアジアにも影響を及ぼしていた。殊に日本にはアジアでは随一の強い影響を及ぼしていたと考えられ、私は出雲大社はペルシアの古代信仰の影響を受けて成り立ったものであるかと思う。出雲大社の他にも、西日本にはペルシアの影響が強く、博多の明太子なんかもペルシア流なのではないかと思う。対してイラクはいくらである。
 かようの古代にはまだイスラム教はない。しかし後にシーア派圏となるペルシアとその他のアラブ圏の中東を分ける或る種の空気のようなものがペルシアの日本への影響と共に「遺伝」し、ペルシアの影響を好ましく思わない他の日本人をスンニ派圏に多いイスラム原理主義者のような気質にしたのではないかと考えられる。ペルシア流はより知的な繁栄の象徴であり、それとは縁のない「私達庶民」は下剋上的気質、即ち世俗主義的原理主義を身に着けることになった。私が明太子を好きではありながら余り食べないのはそんな日本人に目を着けられないためかと考えられる。それと、値段が高いからでもある。
 シーア派は元々アラブ-イスラム教ではなかったペルシア-イランの現地現物に見合うように組み直されたイスラム教であるといえる。それがイスラム共和国と称するのは根深くも面白い。

 古谷経衡氏の『リア充と意識高い系』に擬えると、イスラム教は本家のスンニ派が意識高い系で彼等から見れば贋物のシーア派がリア充なのである。それは日本においてしばしば見受けられる「本家」や「本物」、「プロ精神」などとよく似ている。日本はしばしば意識高い系を本物、主流派と見做す。スタバの味は本物の味で、そこで本物のPCであるマックを使うのがプロ精神の象徴となる訳である――マックが本物というのは私もその通りと思いはするが、――。
 尤も、リア充だけではオスマントルコのような大帝国は出来得ず、意識高い系などの本物の贋物や或る種のならず者を包含するから大帝国が出来るのではある。それだけの統治の巧さがあるからである。イランは統治の巧さがないからそれを補うべく宗教国家にせざるを得ない。

 ――この記事は【ちょっと知りたいキリスト教 ユダヤ教・イスラム教合併SP】、なのにイスラム教と日本仏教の話ばかりになってしまっている。それ程に池上彰はジハーディー池上と呼ぶべき問題の存在であるということでもある。

 その池上番組にも紹介されている、イスラム圏における豚肉の厳禁の風習、というか信仰――
 それが確立している風習であり信仰である以上はそれを尊重しなくてはならないことは論を俟たない。
 日本の食品メーカー味の素はイスラム圏のインドネシアにおいて豚肉の成分の含まれる製品を売って当地における販売の禁止と非難を受けたことがある。味の素のそのような傍若無人夜郎自大の性質はその問題が解決された今も変わってはいない。味の素は人の嫌がることをしたがる企業であり、その顧客もまたそのような味の素の性質に共感する人々から成る。「ほーら、毛虫毛虫!」みたいな――否、もっと酷いか。――。

 ここでは豚肉にまつわるユダヤ教、キリスト教とイスラム教――:古い順――の違いを見てゆく。

 大雑把にいうと:
 ユダヤ教: 豚肉は原則禁止 しかし血を搾り取れば食べてもよい
 キリスト教: 何を食べるか食べないかは自己責任によること 豚肉も禁止ではない
 イスラム教: 豚肉は例外なく禁止

 それを見ると、イスラム教は厳しくてキリスト教は緩いというかもしれないがそうではない。
 何故そうなのか、それぞれ何に厳しいのかを考える必要がある。

 そこに浮かび上がるのはユダヤ教の回りくどさ。
 優柔不断の末に妥協策を編み出したかのようにも見えるが、実はその通り。
 ユダヤ教は根から優柔不断な性質のある宗教である。
 そもそもが妥協策なのに、それを厳に守るべき本質なものと見做すエホバの証人、ものみの塔聖書冊子協会はその意味ではユダヤ教的ではない。
 イスラエルを中心とするユダヤ教圏は元々は菜食主義であり獣の肉を食べることには明確な禁忌ではないが戸惑いがあった故に、獣の肉をどうすれば食べてもよいかを考える必要があった。羊は祭で焼き尽くして食べる。豚肉は血を搾り取って食べる――それらは命を犠牲にすることを目に見える形で明らかにし、その罪の贖いへの感謝の内に食べることを旨とするものである。野菜も命であり同じではあるけれど、野菜は獣よりも嵩が軽く捧げ易いのでそのような問題にはならなかった訳である。
 キリスト教はそのようなユダヤ教圏だけではなく全世界を志向するために、あらゆる慣習に対応し延いては馴染み得るような原理をなす必要があった。獣の肉を食べる人をも食べない人をも包含するためには何を食べるか食べないかはそれぞれの自己責任に委ねるべしとなる。ここに言う自己責任とは今時に聞かれるような自己責任、即ち個人の責任だけのことではなく個人の責任をも集団の責任をも、延いては国の責任をも含む歴史的に重要な概念である。自己責任というのはさようにキリスト教圏においては伝統的に重要な概念である。
 イスラム教が豚肉を全面禁止とするのは何故か?それも、何故豚だけであり他の肉はよいのか?
 先ずは先のユダヤ教における豚の指名が根底にある。ユダヤ教もまた、豚だけを他とは違う特別なものと見做す。イスラム教はユダヤ教が例外付の禁止としたものをより厳しく例外のない禁止とした。
 一つは優柔不断ではいけないと思うから。信仰が優柔不断ならばそれを信ずる人々とその社会が皆優柔不断になりかねない。安倍晋三の口上の如く「ハッキリものを言う」ことを殊更に尊ぶ日本とも相通じる。
 もう一つは中東においては豚は特別なものと見做されていること。
 中東情勢に詳しい落合信彦もその著書にしばしば、メンタリティーの低い人を「ブタ」と呼ぶ。
 豚は抵抗しない、少なくとも人間がそのように認識することができるようには。メンタリティーの高さとは抵抗することができることである。
 イスラム人は抵抗しない者を殺してはならないと思う。コーランには理由なく殺してはならないとの教えがあるが、その「理由なく」とは「抵抗しないのに」ということであり、抵抗すれば殺してもよいということ。つまり、イスラムの発想は落合信彦とは真逆様である。要は、イスラム人にとっては豚は「女性のように清らか」な存在なる故にそれを殺して食べてはならないのである。同じ特別でも、ユダヤ教が豚を指名して特例を設けるのは豚を抵抗することもない程に不浄な存在と見るからであり、血を取り除くのはそれを浄める意味がある。しかしどんなに不浄で馬鹿でも命は命とし、それを捧げなくてはならない。
 その点もまた、ユダヤ教圏とイスラム教圏の決定的対立の要因である。ユダヤは「豚はブタ。ブタは死ななければ治らない。」といい、イスラムは「ブタで何が悪い!豚を馬鹿にするな。」という。
 無抵抗を清らかで美しいと見る発想は日本にも顕著なもの。その点でも仏教国こと日本はイスラム国であるといえる。
 ユダヤ-イスラエルは「抵抗しなければ殺せ。」という発想である。抵抗は神が命あるものに与えた尊いものであり、それがないことは自らを命ある者とは認めないということなのでモーセの十戒にある「殺してはならない。」の対象にはそもそもならない。植物野菜を食べるのも植物の多くは抵抗しないからである。ユダヤ教を前身とするキリスト教も本流においてはユダヤ教のそのような「抵抗は命;無抵抗は命にあらず」という生命観を受け継ぐが、その本流思想を支持するもしないも自己責任であるとし、異論も多く、異論が即ち排除される訳ではない。
 「ブタで何が悪い!豚を馬鹿にするな。」というイスラム人も、それを抵抗と見ることもできなくはないからキリスト教圏にはイスラム圏贔屓な反トランプの人々もいるが、何れにせよ無抵抗を命とは認めないことにおいては同じキリスト教の発想である。

 とはいえ、命だけに焦点を絞ると血腥い話になるが、命のないものを破壊するのは全然OKという教えはどの宗教にもない。

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# by keitan020211 | 2017-07-30 18:36 | 文明論 | Comments(0)
青山学院女子短期大学が閉学へ 短大の存在意義を見直すべし
 青山学院女子短期大学――:東京都渋谷区――が2018年度の新入学生の募集を最後に閉学となる。


 18歳人口が減っており、また女性の4年制大学志向が強まり、志願者が減少傾向にあるためとされる。

 青山学院は東京築地に1878年にアメリカのメソジスト教会のジュリアス ソーパー宣教師により創立された耕教学舎、東京麻布に1874年にアメリカのメソジスト教会のドーラ E. スクーンメーカー宣教師により創立された女子小学校と横浜山手に1879年にアメリカのメソジスト教会のロバート サミュエル マクレーにより創立された美會神学校を前身として1894年に設立された。当学はその創立をそれらの最も古いスクーンメーカーの女子小学校の創立と見做すので今年は143周年となるが、青山学院の名で数えると1994年が100周年で今年は将棋の加藤一二三九段の名を想わせる123周年となる。
 特にそれらの三つのどれが正統で他が傍流というような位置づけはないが、最も古い女子小学校が何となく青山学院のアイデンティティーの祖と見做されており、直接の関係は分からないが、1950年に設立された女子短期大学も何となくその流れを汲むものと認識されているらしい。

 東京及びその近郊の学校には学生生徒児童の住む地域による柄の違いと言うものがあるというが、青山学院もまた東京西部の人はスクーンメーカー系を、東京東部の人はソーパー系を、横浜方面の人はマクレー系を何となく尊敬(リスペクト)するようである。東京東部と横浜方面には元女子校という見方は余りなく、大学の進学なんかも若干の例外はあるが、4年制の青山学院大学を志願する傾向が強い。
 よって青山学院女子短期大学の閉学の理由は少なくとも青山学院生やそれを志願する人々にとっては、港区を中心として青山学院のある渋谷区や世田谷区に及ぶ、東京西部の価値観が衰退していることにあるともいえそうである。因みに女子小学校の祖スクーンメーカーの名を記念する女子寮は東京都世田谷区祖師谷にある。祖師谷といえばNHKの技術研究所やフジテレビ、関西テレビやTBSなどのスタジオの集まる東京メディアシティのある所でもあり、東京西部の価値観の衰退とはこの国の言論や風俗を作り出しているマスコミの信用の喪失を反映するものでもありそうである。
 寄合所帯といえば聞こえは悪いが、同じ学校にも様々の流派があり、どの学校はどんな気風とは一概にはいえない。

 青山学院の女子短大がなくなることは既に決まったことなので構わない。
 女子大生マニアなどの所謂男目線からいうと、他の数多の女子短大がなくなっても構わないけれど「青短」だけはなくなってほしくない、惜しまれるというのが相場なのではないか。
 先のリンク記事の筆者ヒロ氏は青山女子短大の学生食堂に「時々忍び込んでいました。」と語る。
 私もそこには幾度か訪れて昼飯をしたことがあるが、彼の言う「女子学生が好きそうなピラフやドリアなどが器も女子好みのかわいい系で取り揃えていた」というような憶えはない。かの4年制の大学の学生食堂と比べるとこじんまりとしていて献立の数も少なく、器も普通に地味な感じであるが、味は4年制のよりも確かであったのを憶えている。

 この記事に問うのは女子短期大学一般についてである。

 この処に政治において与野党が課題として掲げている高等教育の無償化――
 それとのリンクにおいて女子短期大学の存在意義と可能性について考える。

 単純に見積もっては、大学などの高等教育が無償になればただで享受する余地が増す訳であり、そうなると2年間の女子短期大学より4年間の大学に入りたいと思う人は今までよりも増すことが予想される。「ただで2年」と「ただで4年」を比べれば後者となろう。
 そこで得をする余地が小さくても女子短大に入りたいと思うには余程にその存在意義と可能性が確かである、即ちコスパが高くなければならない。
 今までの女子短大を支えていたのもコスパの高さである。より少ない費用と時間の負担で相応に高い社会的利益を享受する可能性が開けていると、昔は広く認識されていた。社会的利益とは職業の安定とその賃金若しくは地位である。また、それらを具える女子とつき合いたい或いは娶りたいと思う男子は女子がその経済力や地位を相対的にでも高めることを否定的に見ない、否、肯定する人であり、いわばリベラルな価値観が女子短大を支えていたといえる。
 しばしば勘違いする向きが多いが、男女平等を軸とするリベラルな価値観は4年制大学も何程かには担っていたけれども、主に担っていたのは女子短大であり、女子短大は女向けの学問や素養をしか扱わない保守的教育であるというのは女子短大の歴史と現実からみれば誤りである。寧ろ、4年制大学の内にこそ同じ土地と教育制度の枠組みの中で男女の異なる世界が形成されて男女平等とは程遠くなることが少なくないのである。

 市場規模と国内需要の縮小、それによる経済力の減少が不可避とされる今後の時代に、時間はともかく、費用の負担のより少ない女子短大はより重要性を増す筈である。
 時間に関しては、大学がただで行けるようになれば年数が多い程によいという先述の発想も手伝い、4年制大学への、延いては大学院への志向は既に生じているようにより強まるであろう。

 そもそも、若い人における時間の経ち方は遅い。
 齢を重ねると経つ時間が信じ難い程に早くなるとはしばしばいわれる。私がブログやツイッターをPCに向かって書いていても如実にそう思う。20歳辺りにとっての2年はかなり長い。2020年のオリンピックの選考会からは4年となる。恐らく若い人はそれを一時代前という程のかなり昔のことと思っていよう。
 女子短大の2年は決して腰掛だけの短縮コースではない。

 そしてくれぐれも云っておきたいのは、『人づくり』は自己責任におけるものであること。
 女子短大などの学校の教育は各々の自己責任を支えるものに過ぎない。
 国が『人づくり』をするべきではない、促すべきではない、それが女子短大を立てた学校の多くの伝統的認識である。
 あくまでも、国とは金を出す機械である。教育者とはその機械を操作する労働者である。

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# by keitan020211 | 2017-07-25 18:37 | 文明論 | Comments(0)
花王ハミングファインの「オトコ臭」のCMとベートーベン交響曲第5番に見る日本の「伝統」
 日本の奇習の一つに、年末にはベートーベンの交響曲第9番を聴くというのがある。
 それは日本の公共放送を自称するNHK、日本放送協会とその系列の音楽団であるNHK交響楽団が年来に強く推して出来た慣行であるが、近年は下火となっているようである――NHKを全く観ないので本当の処は分からないが、――。それについては1990年頃に主に出版界の一部が年末の第9を奇妙な慣行と批判する見方を示し、それがいつしか「確かにそういわれてみればそうだ。」と衆目の得心を得て下火になったのではないかと考えられる。
 第9と並びベートーベンの交響曲として日本においては名高いのが交響曲第5番である。
 番号で呼ばれても分からないというのはもぐりであり、本当は9とか5とかと言うだけで分からなくては音楽を愛するとはいえないと思うが敢えてそれらの通りの良い別名を示すと第9は『喜びの歌』であり第5は『運命』である。それらの別名もまた’90年代の頃からしばしば日本の奇習と諸々のメディアに指摘されている。ベートーベンの本場ドイツにもその他の日本以外の世界にもそんな呼び名はない。
a0313715_23441337.jpg 第9が『喜びの歌』というのは聴いた感じ、頌歌がほとぼり出るような感じが何となく分からなくもないが第5が『運命』というのは皆目も分からない。一体、第5のどこをどう聴けば『運命』という主題が浮かび上がるのか?
 私は小学生の頃に父の持っていた第5のレコードを聴いてみたことがあるがその率直な感想は「勇ましい」、「新天地を望み、力の湧き出るような」、そして語彙と感性に乏しい小学生の常套句で言えば「格好いい」という感じであり、どこも『運命』ではない。強いて理屈を付けるなら、運命を感じている人に聴かせれば運命を解放されるということになろう。何れにしても第5の趣は「反運命」であるといえる。
 日本人がそれを何故『運命』と誤解するのかを分析してみると、曲に多く見られる速度と音量の変化が或る種の日本人には情緒不安定を想わせ、運命とは不安定な情緒に支配されることであるからその曲を『運命』と呼ぶことになったということ。しかしベートーベンだけではなく、そのような速度や音量の変化は多少なりとも聴く人々の大切な時間を借りるものである音楽には当然に用いられる演出の手法であり、情緒不安定とか何の関係もない、豊かさと気合の発露である。
a0313715_23460532.jpg それは日本のテレビ番組等においてBGMとして使われることの多い楽曲を見れば何となく明らかであり、例えば同じANN報道ステーションの主題歌でも、2016年3月までの古舘伊知郎キャスターの頃のピアノの楽曲は速度や音量が凡そ一定で馬鹿みたいな感じで他局の番組等にもしばしば使われるのと比べ、2016年4月から現在のジャズフォーンの楽曲は速度や音量が目まぐるしい程に変化し、粗全く報道ステーションの他には使われない。前者は日本受けし易い音楽であり後者は日本受けしにくい普遍的音楽といえそうである。それでいて放送の内容は前者は日本受けしにくいものであり後者は日本受けするのが色々な都合である。
 もう一つの原因は日本に広く知られるドイツの巨匠はベートーベンの他にニーチェがおり、彼はベートーベンとは逆に『運命愛』を説き、そのニーチェのイメージがベートーベンにも勝手に敷衍されたことである。一概にドイツといえども色々といる。尤も、昨今は「癌で死ぬことは運命ではない。」という見方が強まって来ており、医療を取り掛かりとして明治時代から広まった日本人のドイツ観も日本人自らの基本思想も何となく変わって来てはいる。

 その『運命』こと交響曲第5番が使われている最近のテレビCMに家庭用化学製品のメーカー花王の消臭効果洗剤ハミングファインのものがある。
 花王といえば誤った学芸文化観を日本人に植えつけているNHKと並び、誤った科学観や消費文化観を植えつけている大手企業である。
 花王の基本的考え方(ベーシックコンセプト)は「汚くて不快なものはとにかく洗い落とすべし」というもの。
 洗い落とすためならば手段を選ばず、人の健康や精神を害しても構わない。
 それでいて花王製品を使えば何でも落とせてきれいになるという訳でもない。
 丁度、日本の特徴とされる所謂「禊」の発想に近い。禊とは身を削ぐということであり、花王製品を使うと本当に肌身が削がれて殺がれる。
a0313715_23482074.jpg 科学が人間社会の諸々の問題を悉く解決するべし、消費者は科学を信頼するべしという誤った科学観の産物が花王である。
 本当に効いて体への副作用も最小限な製品は得てして匂いが余り香しくなかったりするが、花王の製品は多くの場合はその効果を香料で錯覚させており、誤った科学なだけではなく似非科学でさえある。単に好い匂いにするだけではなく如何にも効きそうで且つ香しい匂いがミソであり、その典型はふけと痒みに効くと謳う洗髪剤のメリットである。ライオンのフルーツシャワーシャンプーなどのように単に良い匂いなだけでは素人ぽく見られるので巧妙に程よく婆臭くて分かりにくい匂いを作り出す訳である。その点は若々しくて分かり易い楽曲を嫌う、即ちプロ気取りと職人気取りを尊ぶ日本の音楽とも相通じるものがある。
 尤も、汚肌は一日にして成らず。花王製品も一度や二度使うだけで肌が汚くなる訳ではないので美肌美人として名高い石原さとみを化粧品部門のテレビCMに出すことも可能な訳であるが、さすがに嘘はつき通せないので久本雅美を出すことになる。久本による花王のCMはいわば等身大の花王であり、花王による汚さを洗い落とせるものは花王を選ばない適切な選択だけである。

 ハミングファインのCMは開口一番、けたたましい第5の旋律に乗せて「オトコ臭!オトコ臭!」と歌うもの。
 先ずは視聴者消費者が馬鹿にされているのであり、誰がそれを観てそんな宣伝元の企業の商品を買いたいと思うものか?
 案の定といいたい処ではあるが、この狂っている世の中にしては意外にもそれについての視聴者の非難が相次いだという。花王の横暴さに、誰も批判しない、批判すれば抹殺されるのが世の常と思っていた。故に非難が巻き起こったことに率直に感動する。
・オトコ臭ねぇすげぇ男性差別なCMだな
・「オトコ臭」だの「男脂臭」だのと男性差別が酷いw
・オトコ臭のCM、これ立場が女性なら炎上するよね??
・オトコ臭や男脂臭やらのCMってなんかさ、、、。
・オトコ臭ってなんか失礼では?
・オトコ臭やば
・ハミングのオトコ臭のCMなんか好き(笑)
・これは男性への差別に当たるんでないか?
・オトコ臭とかいうCMメッチャ不快なんだけど。
・花王の「オトコ臭」のCMは男女差別ではないのか?自称人権団体様は仕事しろ
・女性の皆さんはこういうのはOKなんですかね...
・オトコ臭とか言ってるけど、もし逆にオンナ臭って言ったら大問題になるんだろうな。オトコだと臭いことにしてもいいという風潮。
・洗剤のCM、男子臭だとかオトコ臭だとか早朝からあんまりではないか
 ネットに挙がったいう批判の一例。
 多くは男性差別を主題とする。
 結論から言うと、所謂オトコ臭を含む体の悪臭の原因は花王製品のような物の継続的使用にある。
 花王は自ら原因を作り出しておきながらそれを救うと謳い、自作自演というか、そんなものを使っておれば悪臭の悪循環になる。尤も、使った時に直ぐに悪臭が出るのではなく暫くは消臭や芳香の効果があるがそれが程なく失せて悪臭が増し、地が臭い人の出来上がりとなる。悪循環とはいたちごっこであり、消しても消しても匂う己の身の臭いを度々消すべく花王製品の継続使用が促がされる訳である。その典型的人物は舛添要一前東京都知事であり、如何にもオトコ臭対策を怠らずにしていそうであるがテレビの画面には彼の悪臭が漂う。そんなことを怠らずにする程ならば自分の所の金の管理を怠らずにしてほしい。

 但し、男は女よりも体の悪臭が着き易いことは確かではある。
 しかし「着き易い」であり「出易い」ではない。
 体の悪臭の原因は空気に漂う埃や排気ガスなどが人の肌に着くことにあり、即ち主に外的要因である。
a0313715_23505984.jpg しかし人の体には慣れというものがあり、埃や排気ガスが着いても匂わなくなるような抵抗作用がある。花王製品を使うとその抵抗作用が働かなくなって悪臭の着き易い体質に変わってしまう。
 男性、殊に男社会を脱却していないとされる日本の男性は女性と比べ外に出て働く人が多く、それだけより多く悪臭の素に晒されている。都会は臭い人の率が田舎より高い。専業主婦はどんなに頑張っても、家の中には少々の埃は溜まっても排気ガスもなければ訳の分からない人の吐く息もないのでそれだけ悪臭が着きにくい。体質として匂いの生ずることにはこれという男女の違いはなく、悪臭は自生しないものである。取り分け悪臭の目立つ人、殊に男性におけるそれは抵抗作用を自ら失わせている故に臭う体に変わっているが、重ね重ね、その原因を作っているのは花王とその支持者である。よって女性も花王を支持するならば男性の程ではないにせよ臭い女になる。臭くないのは洗ったばかりの一時だけであるが、普通の人は体が臭うことはない。
a0313715_23524007.png 何れにせよ、男社会なら男性の体が女性の体よりも臭い易くなることは必然であり、個人の体質ではなく社会構造の問題であるといえる。そのような社会構造を事実上はその侭にしておきながら「オトコ臭!」などと揶揄して宣伝するのは話にならない不見識といわざるを得ない。自分達の作り上げている社会を自分達が馬鹿にしている訳である――それもまた日本には時に顕著なことの一つである。――。また、男社会ではなくなれば女性も臭い易さにより晒される訳であり、女性の活躍を煽っておれば臭いのない人間社会になるというような甘いものでもないが、男女平等がより実現されてさえ、体の悪臭を防ぐ一番の策は財政状態の改善と同じように、「臭うことなんて滅多にない、大丈夫。」と思うことである。詰り、支持者が与野党に少なくない財政再建は国民の体を臭くする愚策ともいえる。

 そして悪臭の素は外気だけではなく、今の時代は屋内にもあることに注意が要る。
 その主なものは冷暖房機、エアコンのフィルターの埃やかびなどの汚れが送風と共に室内に出ること。
 詰り、屋外の労働だけではなく冷暖房の効いている屋内の労働においても悪臭の素には晒されかねない。
 私も家で冷房を点けずにいて汗をどっぷりとかいている時には何の臭いもないのに冷房を数時間も点けていると所謂汗臭さがにじむように出て来ることがある。私はけちなのでエアフィルターを偶に水洗いするだけで定期的に付け替えないことが原因であると思われる。送風を受けることにより体が乾くと体の磁力の変化、即ち静電気が生じて悪臭の素を吸い寄せ易くなる。

 要は人工的現象が悪臭の原因であり、それを必要とする近代社会においては多少の体の悪臭は運命といわざるを得ないといえばその通りかもしれない。しかし子供をも動員して歌い捲って揶揄する花王のCMはニーチェが愛すべしと語った運命なるものを愛することとは明らかに違う。私は運命を信じないが、ベートーベンの交響曲第5番を『運命』と呼び、況してやそれを花王のCMなどのように悪用することは運命を信ずる人々にも失礼なことであると思う。

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# by keitan020211 | 2017-07-22 23:59 | 文明論 | Comments(0)
或るプリミティブな大衆迎合――古谷経衡のツイートと北条かやのブログ それとトランプ政権半年
 弘法にも筆の誤り。
 私の尊敬する'80年代生まれの文筆家である古谷経衡氏のツイッターにこんなツイートがある。


 猿はお坊さんにはなれない。
 私の軽蔑する'80年代生まれの文筆家である北条かや氏のブログにこんな記事がある。


 さて、トランプ政権が発足から半年になる。
 発足の初めから支持率が50%ない政権はなかなか例がなく、それが更に30%台へ下がっている。しかしその三割が岩盤の如く堅い支持層であり、その水準を下ることは多分ないであろうと日本の報道は予想している。それだけ下がっている理由は見るべき政治成果がまだないのが主なことである。
 そのトランプ氏が大統領選挙で勝った時、そして就任した時、日本の大新聞等は社説などに「大衆迎合」或いは「ポピュリズム」と批判した。
 「大衆迎合」は或る面では正しい指摘ではあるが、「ポピュリズム」は言葉の意味が誤りである。ポピュリズム、民衆主義とは民衆の盛り上がりに基づく政治の新しい波をいう概念であり、大衆迎合や人気取りの政治というようなことではない。民衆が自ら盛り上げるので為政者はそもそも人気を取る必要もなく、その波を受ければよいだけの話である。
 トランプ氏の登場はアメリカの民衆が自ら盛り上げた政治のうねりではない。彼の政権の政策顧問であるヘリテージ財団など、トランプ側により企画されたものであり、それが偶々有権者民衆に受け入れられての選挙戦の盛り上がりである。民衆はそこでは明らかに受け身であり、受け身でしか望みを懸けることができない状況の最大の理解者としてトランプ氏は大統領選挙に出て勝った訳である。そのためには相応の人気取りや大衆への迎合は必然に必要となるが、ポピュリズムではない。
 彼のようにそれが必要且つ可能であると認識しての大衆迎合ならば悪くはない。安倍政権で話題の忖度にも似、良い迎合と悪い迎合があることは彼を批判する報道メディアが最も能く分かっている筈である。

 しかし、自らの言葉や振舞いが、大衆迎合であるとの認識のないそれであったら、どうか?
 自分は普通に常識を語っている、自分は人のためを思って語っている――そのような自意識からの大衆迎合というものがしばしば見受けられる。厳密にいえば、人はそのような錯誤を全く免れることはできないのかもしれない。政治の世界におけるその分かり易い例はトランプ氏と戦ったヒラリー クリントン氏とその陣営及び支持層である。
 そのような錯誤を犯す一因には人間の独自性、オリジナリティーの限界というものがある。人は独立の存在として個性を持つべしとされるが、一億人には一億通りの個性があるかといえばそうでもなさそうなのが常である。故に、人は時に受け売りの考えを受け売りとは思わずに独自のものであるかのように語り若しくは行おうとする。受け売りの考えの基となる「考えの素」はメディアや口コミを通して数限りなく用意されている。
 'America First'もまた受け売りを構成し得ないとはいえない「考えの素」ではあるが、「移民の国アメリカ」よりは明白に独自性が強いと認識されているから、トランプ氏が勝った訳である。

 そして古谷と北条である。

 古谷は独自性の限界に嵌まっているのではないかと思われる。
 彼のようなリベラルナショナリズムの論士は少なくとも今までの日本にはなかった新しい型である。然もそのような型が確立されていると広く認識されてはいないので自らの型に嵌まって退屈になってゆくことにもまだなってはいない。
 「今まで」とは概ね1960年代の高度経済成長期以後である。それまではリベラルナショナリズムと呼ばれてはいないが、それに当て嵌まりそうな政治思想やその支持層が在った。その担い手たる政治家は鳩山一郎総理や三木武吉などであるが、高度成長以降の軽武装経済主義の路線の確立と共に下火となり、彼等自らもそれに合わせてその思想を適当に曲げてゆくこととなった。因みに私、弊ブログはそれらリベラルナショナリズムと軽武装経済主義を秤に掛けるような思想なので、その何れにとっても私は自分達の考えを曲げさせようとしてくる者と見えよう。政界ではそんな私に最も近い思想を持つのはやはり小沢一郎であろう。そのためには時には迎合し時には固辞する。

 大衆迎合の内の最もポピュラーなものは『庶民の気持ち』というテーゼである。
 今風に言い換えれば、『格差社会における相対的貧困層の増加』である。相対的貧困層とは大雑把に言うと所得水準や資産水準の平均を下回る人々のことである。飽くまでも相対であり、絶対的貧困層と比べれば富裕な層である。所得や資産の水準が平均未満なら、必然に社会的パフォーマンスも相対的に乏しくなる。
 社会的パフォーマンスとは良い服を着るとか、良い物を食べるとか、良い家に住むとか、更には愉しくて洗練された催しに加わったり若しくは自ら開くなどのこと、即ち消費と社交の在り方である。古谷氏はそれらを『リア充と意識高い系』という切り口で最近にその著書に論じて話題となりまた支持を受けている。私もその支持者の一人である。
 但し彼の唯一つの誤りは今はやりのハロウィン、イースター、プレ金やナイトプールなどを「意識高い系」に仕分けしていることである。
 ハロウィンとはケルト民族の新嘗祭が起源で今はアメリカに一般の秋祭り。
 イースターとはナザレのイエスの復活を記念するキリスト教の祭。
 プレ金とは日本の経済産業省の企画による、消費の喚起のために金曜日の時短労働を奨める啓発。
 ナイトプールとは夜行のプール。
 ――それらの何処にも意識高い系的要素は見当たらない。偶さか意識高い系がその一人として加わることはあるかもしれないが、彼等が音頭を取って盛り上げるようなものではない。
 彼はそれらを「気がつけば世の中、社交的でコミュ力豊富な、異性とうまく立ち回ることのできる連中だけに都合の良い体制が確立されている。上等じゃねえか。」と評するが、今の世の中の実態は全く逆に、義務的人間関係をしか結ぶことができず、コミュ力はその限りでのもので、異性を根本的に嫌う連中だけに都合の好い体制になっている。言いにくいことではあるが、その象徴は安倍政権を構成する安倍総理とその「お友達」である。安倍政権という義務の中でしか通じない言葉を操り、男女の世界をどこまでも分け隔てようとする。故にどんなに安倍総理のお友達とはいえど稲田朋美は共に歩める者がおらずに空回りすることになり、更には彼の妻安倍昭恵さえ片輪でトランプに蔑まれる。
 反安倍の側もまた、反安倍という内輪の義務のようなものにおいてしか人間関係やコミュニケーション、異性とのつながりを築くことができないので五十歩五十一歩である。
 慧眼の士古谷経衡も、自らの知らないことには「意識高い系」のレッテルを勝手に貼りつけてしまう。
 彼の他にも見られるそれらの華やかな暮らし振りについての批判は義務的人間関係をしか結ぶことができず、コミュ力はその限りでのもので、異性を根本的に嫌う連中だけに都合の好い体制を補強し護持しようとする体制人の口車に乗せられているか或いは自らがそのような体制人である。口車に乗せられて喋っている、允に残念なその一例は彼もまた私の尊敬して已まないマツコ デラックスである。
 「日本は世界で最も成功した社会主義国」とは正にその通りで、その原理は華やかな暮らしやそれ程とはいえないにしても暮らしと生涯の愉しみを自ら作り出してゆく才、即ち自由を蔑むルサンチマンの心性である。安倍政権もまたそのような社会主義政権である。そのような華やかさに対する逆上の見せびらかしとしてしか自国の伝統慣習を語ることができないのが彼等である。故に、オバマがお辞儀をしたり鮨屋の暖簾をくぐったりすると身障者の如く歓ぶ。

 そこでつくづく実感した。「地方には東京よりも、高級車が少ない」のである。走っているのは軽自動車や小型車ばかりで、都心で見かけるような高級車はめったにない。少し奇妙に聞こえるかもしれないが、私はその光景に、とても癒されたのだ。


 「そこで」ではなく、元々知っている筈なのに何やら「つくづく実感」と語るのはその言辞そのものが何等かの見えない見せびらかしの念から来るからである。その一つは「自分には何とならばいつでも帰れる故郷があるぞ。」ということであろう。しかし本当は「帰れる」ではなく帰らざるを得ない不祥事なのではないか。
 その見えない見せびらかしを補強するように、東京を往く車と田舎を往く車を比べる。そこでは東京の車は否定的表象であり、田舎の車は肯定的表象となる。
 そもそも見せびらかしに加わりたいから東京へ来た筈なのに、この期に及び、「東京の車=見せびらかし=人を傷つけるもの」という印象操作をする。「「傷つける」なんて言ってないではありませんか。」と言うかもしれないが、題名が「東京の「クルマ見せびらかし地獄」はしんどいぞ」で本文の冒頭に「都心で見かけるような高級車はめったにない。少し奇妙に聞こえるかもしれないが、私はその光景に、とても癒されたのだ。」と言い、要は「傷ついた。」ということである。「少しかもしれない」ではなく、まんま奇妙でしかない。
 そのような口上の在り方は「どいつもこいつも…」などと同じく、被害妄想を人に植えつけることを目的とするものである。そのように言う自らが被害妄想を持つ場合もあるし全く持たずに只人を陥れることだけを考えてのものな場合もある。北条氏はどちらかといえば、仮病の常習者なので後者そのものであるか後者に近いかであろう。
 被害妄想を人に植えつけることは政治性が伴う場合も多い。その政治性とは先述の、日本を世界一の社会主義国家にする永年来の営みである。被害妄想が社会主義的政策への志向を強め、そしてその成就の暁には不当な恩義をおしつける訳である。だから、「日本人に生まれてよかった。」となる。
 どうも北条かやは初めからそのような「日本は世界で最も成功した社会主義国」と「日本人に生まれてよかった。」の宣伝(プロパガンダ)の士としてデビューした者なようである。弊ブログの予てより批判する『安倍政治と反安倍の融合』、俗に言う『保守とリベラル』の一体化を地でゆく存在である。「『保守とリベラル』の一体化」とは勿論、弊ブログや中島岳志教授などの標榜するリベラル保守のことではないし、保守とリベラルが結婚することでもない。

 「都心をゆくクルマは「レベルの高い」車種ばかりだ。」は意図してか否か、前出の古谷経衡氏の『意識高い系』と符合する。「都心をゆく車は意識高い系の車種ばかりだ。」と読み替えられる。
 しかし現実にはそれらフェラーリやアウディ、BMWなどの高級外車は意識高い系とは殆ど関係ない。にもかかわらず、北条はそれらをそこに「意識高い系で嫌な車」という風に印象操作をする。そのための小道具がコインパーキングと都内の百貨店の駐車場、「ツンとすました顔で停まっている。」である。コインパーキングは高級外車の持主なら本来は使いそうもなさそうな下世話なものという表象性があるし、百貨店は本来は電車で行く所でありそれもまた高級外車には似つかわしくない筈なものではあるが「都内の百貨店だけは違う」という既成の文脈、即ち先述の「考えの素」で語るもの、「ツンとすました顔で停まっている。」は正に被害妄想を植え付けるための形容表現そのものである。
 アウディやBMW、それに何故かそこには挙げられないメルセデス ベンツを見掛けて「ツンとすました顔」と思う人は殆どいない。それらは最も素直に認めて受け容れられる車、即ち嫌味のない車であるというのが通念である。例えば自分が貧乏になった際に或いは貧乏ではないけれども偶々銭の持ち合わせがない際に乗せて送ってもらう場合にはBMWとマツダとどちらが素直に喜べるか?どう考えてもBMWである。逆に、マツダ車に乗せて送ってもらうよりは和光市までも独りで歩いて帰りたいと思うであろう。そのような違いこそがトヨタ以外の日本車と外車の歴然たる違いであり、トヨタ以外の日本車は子供騙しの見せびらかしの心性で出来ている。
 「それが悪いわけではないが、」ではなく「所詮そういうものなんだよ、世間知らず!」というのが北条の本音ではないか。それが続く「滑稽なような羨ましいような」に明らかである。明確に「しんどい」や「嫌い」などとは言っていない。
 「悔しかったら見せびらかせるようになりなよ!私だって所詮この程度でも精一杯見せびらかしてる――失笑するばかりであるが、――んだから!」、北条かやそのようなメッセージのエバンジェリストである。戦後レジームの訣別ということなら、正にその手の人々をいなくしなくてはならない。
 そういえば私のお気に入りで北条も近頃に気に入っているというGUが無人支払所をこの程に設けて有人支払所を原則廃止にしている。何と商品を一つ一つバーコードで通さなくてもよくて丸毎読み取って計算してくれる優れもの。北条には支払機の読み取り庫に入れた商品を置いてゆかないように精々気をつけられたい。「忘れて来ちゃった、ま、いいか。」と言えば立派な見せびらかしになる。

 北条かやはこの処にしばしば郷土愛とか田舎に癒されるとかと語っているが、そのような現実逃避的言説が正に都会の見せびらかしや所謂一極集中を助長するものであり、それもまた併せて根絶する必要がある。北条もまたその一端を担っている、地方を散々疲弊させて潰しておいて郷土愛や癒しなどとは余りに見え透いている。

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# by keitan020211 | 2017-07-22 17:03 | 文明論 | Comments(0)
【Freesia料理】朝鮮風麻婆豆腐
 私の得意料理である麻婆豆腐は豆板醤や花椒などの中華の調味料を使い作る料理。
 その麻婆豆腐を朝鮮風にして作ってみました。
 ――さて何でしょう?

 特亜調味料東アジアの調味料に関心のある方なら容易く察しがつくかもしれません。答は豆板醤を苦椒醤に代えて作る麻婆豆腐です。

a0313715_18562942.jpg 苦椒醤は朝鮮や韓国の料理には広く用いられる醤系調味料であり、辛い豆板醤と比べ大いに甘いのが特徴です。その甘みを生かして日本の焼き鳥のたれなどにも用いられます。但し焼き鳥のたれの基本の材料は醤油と味醂、砂糖で、苦椒醤を使うのはやや特殊な品に向けてのものとなります。

 その苦椒醤を使う麻婆豆腐は、麻婆豆腐の由来を浮かび上がらせます。
 豆板醤をベースとする中華の麻婆豆腐の由来は「あばたのあるお上さん」なそうです。「麻」は蕁麻疹の「麻」で、「婆」はお上さんのこと。因みに「婆」や「爺」、「老」などの日本においてはしばしば蔑む意味合いで遣われる語はシナ語では尊び敬う意味合いのものです。というか、日本においても本来はそうです。故に「お婆さん」よりも若い「おばさん」と言われて気を悪くするようなことは正しい日本語やシナ語の観念からは考えられないことです、理屈ぽく解釈するとおばさんはお婆さんより未熟ということで莫迦にしていると取れなくもないですが。
 で、麻婆豆腐のような油の多いものを食べていると吹出物ができるということではありません。麻婆豆腐の皿に盛られた様があばたのお上を想わせることから呼ばれます。挽肉が面を覆って赤々としているのが「麻」という訳です。
 しかし、ここに紹介する朝鮮風麻婆豆腐は挽肉が面を覆うのは中華風と同じでありながら、赤々としてはいません。その黒みがかった色合いは麻疹や傷が癒えて瘡蓋となりつつある時のような感じがします。とはいえ、この朝鮮風麻婆豆腐にはそれらの治癒効果があるかどうかは何ともいえませんが、なるべく健康的な料理に仕立てました。

 作り方は簡単、牛豚合などの挽肉、豆腐と葱を苦椒醤、ナンプラー、酢、擂下葫(すりおろしにんにく)と片栗粉で炒めるだけ。
 炒め油はサラダ油でもオリーブ油でもよい。
 その他の調味料は胡椒だけ。
 葱は縦切りにする。

 <下の写真は『プロから学ぶ簡単家庭料理 シェフごはん』に掲載の『ヘルシー!健康韓国風味麻婆豆腐♪ 呉本昇太郎シェフのレシピ』のものです。>
a0313715_18565945.jpg ナンプラーが入るとは純粋な朝鮮風ではないと思われるでしょう。ナンプラーはタイの魚醤油です。
 私には朝鮮は東南アジアにも開けているものという印象があるため、東アジアだけではなく東南アジアの味を加えたいと思う訳です。因みにタイと北朝鮮は国交が開かれて今年で40周年となります。
 そして日本の代表的野菜である葱、それを豆腐と挽肉に加えて顔とします。葱は肌をきれいにするといわれ、あばたにも効果があるかもしれません、余り無責任なことはいえませんが。
 朝鮮風とはいいながら、事実上は日本、朝鮮とタイを融合した味となり、「アジア麻婆豆腐」とも呼べます。これで中国を包囲するのです。

 苦椒醤の麻婆豆腐は前例が結構あるようで、「辛い物の苦手なお子様に」などの謳い文句があります。確かにそうでしょう。
 鶏殻だしを中華風と同じく使うとするレシピが多いですが、私のこれはナンプラーがだしの代わりになるため、鶏殻などのだしは要りません。日本テレビのキューピー3分クッキングのレシピは何れでもなく、料理酒と醤油としています。
 また、胡麻油を使うとするレシピも多くありますが、私の朝鮮風はなるべく単純(シンプル)に苦椒醤の味を愉しむため、基本としては使わず、使っても微量とします。

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メ~テレ Jチャンネル―UP! 前記の時間の後 18.15~19.00/月~金

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フジテレビ みんなのニュース 15.50~18.57 <FNN>17.54~18.57/月~金

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# by keitan020211 | 2017-07-15 19:04 | 生活 | Comments(0)



政治、社会、文明論、生活などについて語るブログ ●自民党水月会(石破派)、志公会(麻生派)と民主党民社協会(高木派)を支持します。 ●"Logry Freesia"とは『ブログのある所 自由な国』の意味です。
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