最も正しい リベラルと保守;左翼と右翼の定義 その6 風俗編その2

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 前回の『最も正しい リベラルと保守;左翼と右翼の定義 その5』では性風俗の話に始まり、成人雑誌や文芸についての左翼、革新、保守と右翼のそれぞれの大筋の見方を語りました。
 コンビニエンスストアに成人雑誌を置くことは表現の自由とは何の関係もない。
 性の表現の自由は性そのものの自由を狭め或いは失わせる虞がある。
 昨今の文芸は、左翼と保守が衰退して右翼と革新が主流となっている。

 今回はその他の風俗についてそれらの人々の違いを見ます。

 文芸、殊に音楽においては、右翼と革新が主流となっていることには一つの合理的理由が考えられます。
 それは価格の優位性です。

a0313715_00025629.jpg 勿論、衰退している左翼や保守の音楽人の作品と活動に懸ける熱意と努力の不足はないとはいえません。他が栄えることが自らの栄えない理由に即ちなる訳ではありません。
 但し昨今の日本市場や旧西側諸国の市場は完全競争状態にあります。完全競争市場とは或る売り手が市場を脱落することなしには価格延いては景況の上昇が起こらない経済の膠着の状態のことです。あらゆる物の価格が現状を維持し或いは漸減する傾向となります。
 しかし音楽作品は初めからそのような市場の構造をなしています。レコード、カセットテープ、コンパクトディスク、レーザーディスク、mp3ファイルなどの音楽ソフトウェアの価格は全て常に横並びです。すると著しく購買力の高い消費者を除き、多くの消費者においては一人当たりの音楽ソフトの購買可能数量は粗皆同じになります。どんなに良い音楽が豊富に生まれる時代でも買えるレコードの枚数は同じなので消費者はどのアーティストのものを買うことにするかを決めておかなければなりません。すると、どうしても固定ファンに支えられることが多くなり、様々な人々がとりあえず買って聴いておくことにより高く評価されるアーティストは少なくなります。
 購買可能数量の限界があるために、より多く消費者に訴える余地を作るためには買わずに聴ける機会を作らなければなりません。それが音楽作品をテレビの広告放送(CM)や番組の主題歌に用いる方法です。テレビ放送の試聴は無料なのであらゆる人が聴くことができます。尤も、好きな時に好きなだけ聴くことはできませんが心に残ることは確かです。そこで聴いた作品のアーティストのレコードを買うことに決めれば好きな時に好きなだけ聴くことができます。
a0313715_00062020.jpg 前回の『その5』の記事に'90年代の音楽界は多様ではあるが排除と蹴落としの傾向にあったと語りましたが、元々音楽市場はそのような完全競争市場の構造があります。それが当時は頓に著しくなっていたのです。'80年代以前は売れないアーティストは「負けは負け」と認識して排除や蹴落としに遭う前に退いていましたが'90年代になると「可能性に賭ける」みたいな思潮が強まったために往生際が悪くなって行ったのでしょう。

 '00年代以降はmp3の普及により音楽ソフトの単価が下がり、購買可能数量は増えていますが限界があることには違いはありません。しかし音楽ソフトの程に余地が少なくはなくてもあらゆる物には購買可能数量の限界があり、あらゆる物が完全競争市場になり得て現実に今はそうなっています。

 一般に価格の優位性といえば他と比べ安いことやコストパフォーマンスの高さがいわれますが、音楽ソフトにおいては横並び価格が基本な故にもう少し複雑です。
a0313715_00085430.jpg そこではあらゆる作品が同じ条件で並ぶことになります。するとそこで有利になるのは価格の高い昔は高い単価を出すだけの価値があると思えるもの、価格の低い今は「全体で求める満足/購買数量≒1点の満足」なのです。「>」を望まないのは勿論ですが「<」であってもいけないのです。その理由は「<」は全体の購買価格が釣り上る可能性があるからです。或る1点の音楽ソフトの満足度が期待する水準よりも高いとそのアーティストの作品を買い続けなければならなくなるので音楽ソフトに遣う予算が増す。それを防ぐためには付加価値と満足度の低い革新系や右翼系のアーティストの音楽が好まれる訳です。
 よって今時、'00~'10年代は固定ファンに支えられるアーティストは少なくなる傾向にあります。
 何も負け惜しみではなく、そのような売り方も一つの確立されたものとして存在します。それでも価値と満足がなさ過ぎれば何であれ売れることはない。

 音楽ソフトとはかなり違うのは食べ物、食品です。
a0313715_00113459.jpg 食品の販売単価は允に様々であり、安いものも高いものも、またその組み合わせは無限と思える程にあります。故に食品の購買可能数量は認識しにくく、数量ではなく購買可能費用で捉えるべきものです。同じ費用でもその内訳によるコストパフォーマンスの違いが大きくあります。
 近年にもやしが人気になっていることが新聞の経済面などの話題になり、先日にはもやしの利益率が限りなく0に近くなっていたり赤字になっていたりする事業者が増えていることが報じられました。報道が貧困層の頼みの綱などと云い余りにももてはやし過ぎたことが値上げをためらわせているのかもしれません。

 左翼、革新、保守と右翼はそれぞれ食べ物に関しどんな感覚や考え方を持つのでしょうか?
 食べ物は人民の生存権の確保のためには欠かせない重要な資源であり、政治思想によってもそれを見る目は違いそうです。

 左翼:伝統的に自民族に根づいている食べ物を食べるべし。
 革新(中道左派):安全と経済の許す限りでより豊かで高度な食べ物を食べるべし。
 保守(中道右派):資源の分配可能性に応じて適当な食べ物を食べるべし。
 右翼:各々の経済力に応じて豊かな食べ物を食べるべし。

 それらがそれぞれの食べ物に関し最も重視する事柄です。
 それぞれ他にも重視したり時に考えてみる事柄があります。

◯左翼:伝統的に自民族に根づいている食べ物を食べるべし。

 例えば左翼の考え方は一見は経済力を考えてはいないかのように見えますが左翼にとっても「経済力相応」は第二第三の位に重視する事柄です。しかし経済の土台を確立するためには初めから経済力を問うのではなく先ずは「これだけのものを常に食べたい。」と決める必要があり、左翼はその土台作りを最も重視します。経済格差は上へ開くことは幾らあってもよいが下へ開いてはならないというのが左翼の思想と政策の大前提であり、それが確立されて初めて経済が動いてそれぞれの経済力が出来る訳です。その指標となるのが自民族の伝統です。
 左翼というと革命ばかりが歴史的話題になり、恰も伝統の破壊を価値観としているかのように誤解されていますが革命は伝統の破壊を企図するものでも不可避に付随するものでもありません。

 『粗食のすすめ』などを著している料理評論家の幕内秀夫氏はそのような左翼の鑑のような食べ物観の人物といえます。
a0313715_00135047.jpg 「粗食」といって凡そ紹介されているのは家で少し手間を掛ければできる日本料理です。日本料理を推すと何故か今時は保守と見做されることが多くなっていますが、日本の左翼にとっては最も重視するのは日本料理です。正に生活と経済の土台といえるような素晴らしい粗食料理の数々を知ることができます。
 但し保守の私から見ると、ややナショナリズムの強い食べ物観と感じます。保守はナショナリズムを考慮するべき価値の一つと見做しますが自らは基本としてはナショナリズムには立ちません。幕内氏のナショナリズムからするとパスタも健康的ではない食べ物になります。尤も、御飯物の弁当にスパゲティーやマカロニが入っている――信じ難い…――日本の食糧事情は確かに健康的とはいえず、その点は条件付で支持するという感じです。
 もっとマスコミ的に身近な例では、TBSテレビの『サンデーモーニング』の常任解説者の張本勲氏もナショナリスト左翼といえます。幕内氏も張本氏も良い意味における国粋主義者です。

◯革新(中道左派):安全と経済の許す限りでより豊かで高度な食べ物を食べるべし。

 左翼と比べると一概に左寄りとはいえども、上昇志向を前面に出す考え方といえます。
a0313715_00164818.jpg 左翼もそれぞれの努力による経済的或いは社会的上昇を肯定しますがあくまでもそれぞれの自由と事情に応じてするべしと考えますが、革新は経済的社会的上昇を国民のいわば義務のようなものとして共通の価値とします。如何程の経済力を得ることが望ましいかや如何なる社会的地位に就くことが望ましいかを個人の適性を勘案しながら共通化します。よってその共通価値にそぐわない個人の願いは自由の建前から禁じられることはなくても、事実上は否認されます。そして上昇の義務を果たさない人を排除または隔離する手立てとしての社会保障と福祉を必要と考えます。
 食べ物に関しても、安全と経済の許す限りでそれぞれが食べるべきものを段階的に共通化します。但し経済格差の最小化を志向するため、食べ物の格差も著しく大きくはしません。大きな格差の存在は国民の合意(コンセンサス)を毀しまたはその形成を難しくすると考えるからです。

a0313715_00192505.jpg その共通価値延いては国民合意の形成を食べ物の見地から担うのが大手食品メーカーです。
 中小の食品メーカーを重要ではないと見做すのではありませんが価値や合意の形成の担い手とは認めず、あくまでも個人の趣味に応えるものと位置づけます。国民皆が常々食べるべきものは大手食品メーカーの製品なのです。
 故に、革新派がアベノミクスのトリクルダウン――:大企業の利益が中小企業の利益につながるという経済観――の考え方を批判する際に、そこには大手食品メーカーは批判の対象には入りません。そこで批判の対象となる大企業や大手企業はあくまでも食べられない物の一部に限られます。
 革新にとっては望ましい経済体制は独占資本主義が経済格差の縮小のために修正された形態であり、独占資本主義そのものを否定するのではありません。

a0313715_00211878.jpg 食品の安全に関しては、革新の内にも違いがあります。
 それを殊に重視する人達は食品の安全を守る観点からTPPに反対しました。
 食品の安全と人間の健康を望むことは良いことですが、TPPへの反対には日本の食品は無条件に外国の食品より安全である、外国の食べ物は汚くて危ないという偏見を隠し持っているように見えます。世界の食品の安全を高めよう、そのためには日本の技術力を世界に普及させようという発想にはならず、或る自由貿易協定への反対が先立つのでは信用し得ません。
 逆に、食品の安全を合法たることをしか追求しない、軽視する向きも革新にはあります。合法たるためには規制を緩和すればよい訳であり、革新派においてはおしなべて規制緩和を支持する思潮が強いのが現状です。

◯保守(中道右派):資源の分配可能性に応じて適当な食べ物を食べるべし。

 資源の分配可能性とは主には政治的分配のことではなく民間の生産及び経済活動による分配のことです。但し生産力や経済力の著しく低い地域がある場合には民間に任せずに政治的分配、即ち再分配を認めることがあります。従来の日本はそのような意味における再分配を殆ど行っていません。
 但しそこは左翼と同じく、下へ開く格差は否定しても上へ開く格差は肯定するので生産力や経済力の著しく高い地域のそれを低くすることによる格差の縮小を認めることはありません。
a0313715_00243355.jpg よって東京一極集中ということについても、保守は諸手を挙げて賛成することも反対することもありません。保守は東京の持つ権力や文化的影響力をなくそうとすることには賛成する向きがありますが生産力や経済力をなくそうとすることには反対します。余り大きな声では言えませんが、現職の小池百合子東京都知事のしていることやしたいとしていることは正にそれです。東京の著しく高い経済力は生かすべきであるし、生産力は高いとはいえないのが現状です。すると浮かび上がる東京の望ましい在り方は国際金融都市ということになります。

 民間の生産及び経済活動により、食べ物も各地に分配されます。
 それぞれの土地で手に入る物を食べる、勿論食べられる物だけをですが、それが保守の食べ物観です。
 土地で手に入るとは栽培や捕獲によるものや流通と販売によるものがあります。右翼は更に贈与によるものをそれに加えるかもしれません。しかし保守の経済観においては贈与は想定の範囲外です。因みに贈与のための流通機構として用いられるのは宅配便や郵送貨物便ですが、贈与を経済文化として重視する右翼と贈与を通しての社会的人間関係の維持を重視する革新には繁く利用されても保守は余り利用しません。よって保守の政治家は元々利益の供与や有権者への戸別の訪問を重視しないのですが右翼寄りと革新寄りの政治家が重視するので保守もそこそこ付き合っていたのが昔の自民党です。それが昨今は厳禁の風潮になっているのは革新派の中に社会的人間関係に乏しい人々が増えて来たことにより、彼等の孤立を防ぐためであると考えられます。それを保守も元々然程に意味があるとは思わないので良かろうとして了承したことが「旧い政治」の一掃の気運につながっているのです。
a0313715_00264332.jpg 流通と販売の機構の集中により、日本では東京が最も分配の多い地域となっています。人口一人あたりの分配高については最も多いかどうかは分かりませんが、分配された資源の選択の可能性が最も広いことは確かです。そのような地域においては自ずと実際に食べることのできる食べ物の種類も多くなります。
 今は流通機構の発達により東京などの大都市だけではなく多くの地域において選択可能性は広くなっています。よってそのような現実に鑑みると保守は左翼のように伝統的に自民族に根づいている食べ物だけを推すことはできないと考えます。しかしそれ以外を選ぶにしても、伝統的価値になるべく基づくように選ぶことが経済と生活の安定的維持または発展には重要であると考えます。但しその伝統的価値というものを革新のように国民的価値や合意の形成とその共通化によって示すべきものとはしません。逆に、全くの個人の好みによるべきものともしない。色々な観点を勘案しながら浮かび上がる答を大切にします――但しそれは一時に答を出すような「綜合的判断」ではありません。――。

◯右翼:各々の経済力に応じて豊かな食べ物を食べるべし。

 元々、食い道楽型の最も多いのは右翼です。
 弊ブログは『食通はならず者の最後の拠りどころ』と云いますが、それは『愛国心はならず者の最後の拠りどころ』というサミュエル ジョンソンという18世紀の英国の文学者の格言を文字ってのものです。
 御国自慢といえば粗必ず出て来るのはその土地の食べ物であり、食通と或る種の愛国心は相通じ或いは密接な関わりがあるといえそうです。
 しかし十把一絡げに食い道楽や食通といえども、右翼のそれは年季が入っていることが多いようです。
a0313715_00291318.jpg 先日に共同テレビ/フジテレビの『くいしん坊!万才』の司会をしていた村野武範氏が末期癌を治して久々に小さな公演を開いたことが報じられました。今の癌の治療の技術の進歩と普及の故でもありますが、年季が入っていると食べ過ぎや飲み過ぎから来る癌をも治せてしまうのでしょう。
 しかし私は治すということの前に、少しも癌になりたくはありません。私は少なくとも150年は生きるのが目標です。「150年相当」ではなく物理的に150年です。
 但し健康というものを意識するだけで健康になれるものでもありません。その意味では健康を度外視する右翼の食べ物観やその他の習慣や生き方は蔑むべきものではなく時には参考とするべきものでもあります。
 革新派で革新の消費者に主に支えられている大手食品メーカーが大手たり得るのも健康を度外視する右翼が気にせずに買い求めて使っているからでもあります。革新はそれを合法且つ健康的と思って食べますが右翼は仮令違法でも不健康でも旨ければよいと思って食べます。

 右翼の食べ物観は経済力本位です。
a0313715_00310408.jpg 貧乏者は麦を食い、豊かな者は米を食う。それを初めに言った人は右翼ではなく官僚上がりの保守本流ですが右翼にとってはそれが不磨の大典です。食べ物だけではなくあらゆる物事における選択と判断の基準です。
 弊ブログも幾度か言及していますが、今は麦の価格が米の価格の数倍もします。なので私などは貧乏者なのに麦を食う暮らしをしています。経済力にはやや不相応であるかもしれませんがそれが体に良いので食べているのです。
 右翼もそのような経済力対消費性向の一部の不比例を必ずしも認めないのではないでしょうが、基本としては右翼の経済力と消費性向は比例します。なので今時の金持ちな右翼は麦を食います。

 但し右翼の「経済力本位」には個人の努力の評価の意味合いはありません。
a0313715_00331117.jpg 努力しようとしなかろうと、経済力の違いは必然に生じる。よって右翼は経済力が高ければ努力する好人物で低ければ努力しないならず者であるというような人間の評価をしません。その点も保守としては参考とするべきものと思います。人間の評価はあくまでも人間そのものでしか見ない。但し右翼も保守もなるべく好人物を高い地位に就けたいと思う。それは革新がしばしば人間的に疑問の大きい人物を高い地位に就けていると思うからですが、右翼も保守もそのことを余り大きな声では批判しません。自分も人間的に疑問に思われているかもしれず、故に地位や経済力を逸することになりかねないからです。そのようなことを大きな声で批判する人は大抵は批判される人の仲間内であり、少々の批判をしても謝れば赦されるからしているのです。そんな時にも活躍するのが菓子折などの贈答品ですが、彼等の仲間ではない右翼がそれをしようとすれば料亭に誘う位のことを要します。しかし「奢り」は普通は上の者が下の者にするものなので右翼による料亭の接待は特殊でものものしいものとならざるを得ません。その席では「私が驕っておりました。」と平謝りです。左翼や保守にはそのような発想はないのでひたすら口を閉ざすのみです。

a0313715_00351105.png ――故に、右翼は『一杯のかけそば』のような話が普通に好きです。
 そのようなことになる国は良くない、そんなお話に感動してはいけないという人も少なくありませんが、そのような事実がどこかにある以上はその通りに描き出し或いは報ずることは作家やジャーナリストの義務であるといえます。私などの保守はそれが事実に基づくかどうかを厳正に見極めようとするのが先で感動している暇はなかなかないのが実感ですがそこで逐一見極めようとしなくてもそのようなことがあることを知っている人にとっては即ち感動するのでしょう。

a0313715_00371871.jpg しかし、近年の食い道楽や食通もの、或いは、そこまではゆかなくとも「食レポ」などの食べ物の話題を重視する風潮は右翼の「最後の拠りどころ」とはかなり異なるものといえます。
 昔の村野武範や辰巳琢郎などの時代の『くいしん坊!万才』にはまだ、ならず者の空気が漂っていて見れる番組でした。そういう世界があるのかと理解可能な雰囲気です。しかしそれも今は他の「食レポ」のような軽薄な空気のものになっています。寧ろ、そのような人並みの世界の「食レポ」やテレビCMなどに出ている人の方がならず者そのものという感じがします。愛国心が昔より身近なものになったからでしょうか。一億総中流が一億総ならず者になっている。

 お手軽な愛国心の普及に、今は右翼こそが最も心を痛めているのかもしれません、保守の私は「あーーー!!痛痛痛!!!!、人殺し!」という感じですが。

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# by keitan020211 | 2017-12-06 23:22 | 政治、社会 | Comments(0)

【変な言葉】「肉厚ジューシーな赤身サーロイン」

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 近頃にしばしば耳目にする変な言葉に「肉厚ジューシーな赤身サーロイン」というようなのがある。

 さてどこが変なのか?
 「ジューシー」?、横文字は良くないから?
 「赤身」?、何か間違った肉の知識に基づいている?

 答は「肉厚」。

a0313715_02170448.jpg ネットのグルメさん達の話だけが遣うのかと思っていたが最近は大手レストランのガストの幟などの宣伝や商品の能書にも「肉厚」という変な言葉が遣われている。果てには高級料理店の料理人も遣い出しかねない勢いである。尤も、高級な料理人が「どうです?肉厚でしょう。」などと自慢げに言う筈はないが。

 遣われる漢字からして肉が厚いということを云いたいのではあろうが、肉が厚いことを漢字だけで言うと「厚肉」。「肉厚」では肉の厚さのことになり、「肉厚ぅ~♡」と言いながら定規を当てないと意味が通らない。
 魚が鮮やかなことは「鮮魚」、売り場にもそう書いてある。決して「魚鮮」ではない、何やらキムチ漬けの魚のようである。

 「肉厚」は獣の肉の厚さだけではなく、材料を加工して造る板状の製品の全般の厚さということにも用いられる言葉である。例えば樹脂(プラスチック)の板の厚さを業界では肉厚という。担当者の腹の肉の厚さのことではない。

 「肉厚ジューシー」や「肉厚でとろーり」などのような言葉の誤りは漢文の授業を少しでも真面目に受けておれば分かる筈なのであるが――私は正に「少しでも真面目に」という程。――漢文の授業を廃止せよと主張する「愛国作家」が現われる今時にはなかなか気づかれないようである。
 漢文を学ぶことはシナを好きか嫌いか、今の日本にとって利か害かとは関わりなく、日本に生きる日本人の用いる言葉の一部がシナの言葉により構成される歴史の故の宿命である。日本語の一部をなすシナ語の文法を無視して「肉厚ジューシー」などの勝手な言葉を作り出すことは許されない。読み方が訓読みなら漢字を引繰り返してよいというものでもない。というか、「厚」は訓読みでも「肉」は音読みである。
 漢文を学ぶべきではないというならばシナの片鱗を少しも残さない純日本語というものを作り上げてから云うべし。

 因みにその「愛国作家」の代表的小説の題名にもある「永遠」も近年にしばしば誤用されている言葉である。
 例えば「消費税を10%に上げないと日本の財政は永遠に改善されない。」など。
 正解から云うと「消費税を10%に上げないと日本の財政は永久に改善されない。」。
 「永遠」は時間の経過とは関わりなくいわば不動のものとして存在することをいい、主に過去に存在したものを年頭においていう場合が多い。しかし「消費税を10%に上げないと日本の財政は  に改善されない。」は日本の財政の現状とその改善の可能性を時間の軸において未来を想定して見て語るので「永遠」ではなく時間を経ても変わらず続くことを意味する「永久」が正しい。
 そのように厳密な意味の知識がなくても普通の人が普通に遣う言葉からしてなんとなく分かる筈である。「こりゃ永遠に片付かないな。」などと言う人は常識のある人にはいない。
 そのような誤用はしばしば、どちらかといえば常識と知識に欠ける人が或る時から知識を身に着けて世を上手く渡りたいと思うことから生じる。今はやりの意識高い系もその一つ。そもそも昭和平成の日本社会は意識高い系みたいなことを煽るような性質がある。全くの非常識人ではなくても、周りの人がどんな言葉を遣っているかをよく聞いておらず、勉強も嫌い、しかし、それでは社会に出て恥ずかしいとばかりに断片的知識をガーっと学び覚えると誤った言葉を正しい言葉と思って覚えてしまう。池上彰がはやるのも昨今の日本はそのような傾向が頓に強く、テレビや新聞がそこにつけ込むことにより広告主を確保しようとするからである。『教養がないと思われないための 大人の日本語』みたいなコンビニ本なんかもその意味では注意を要する。それ系の本はおしなべて二割は誤った言葉が、三割は応用の利かない準死語が載っており、正しくて使える言葉は残りの半分しかない。
 勉強が嫌いでもあの先生は面白いとかあの級友には一目おくなどの尊敬の念があれば違うのであるが変な言葉を遣う人々にはそのようなものは余りないらしい。

 「ジューシー」なら適当な日本語がないのでまだしも、「つゆだくのおでん」や「プリプリの海老」など、真面な文明国とは思えない野蛮な言葉が取り分け食べ物関係に多い。それらが民衆の生の会話から出たとは考えられず、三流の広告代理店やコピーライターなどのそっち系の業界人が考え出して広めたものであろう。
 ファミリーマートの忖度御膳という名の弁当に少しも食欲が湧かないのも煎じ詰めれば同じ理由であろう。現実に、全く売れない地域が多くあったという。

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# by keitan020211 | 2017-12-06 02:12 | 文明論 | Comments(0)

【書を読む】 ニュースでわかるヨーロッパ各国気質

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ニュースでわかるヨーロッパ各国気質
著:片野優・須貝典子
刊:草思社
1944円 ISDN-9784794220288

a0313715_22221895.jpg ヨーロッパ事情についての本を読むのは二十年振り位となる。私はフランス文学科の卒なので高校生や大学生の頃はその手の本を色々と読んでいた。その頃の私の好きなヨーロッパの国はフランス文学の国フランスとその海の向こうのイギリス、地中海沿いに隣り合うイタリアである。
 それは今も大筋では変わらず、フランス、イギリスとイタリアの他に、アイルランドやデンマーク、カナダ、北朝鮮、台湾、マレーシアが加わっている。社会人になるとアジアへの目が開けて学生の頃までの程にヨーロッパ贔屓ではない。
 その理由は学生の頃から出会う外人にアジアや第三世界の人が多いことと政治経済における日本との関係の視点が加わったことである。殊に中国の経済発展が目覚ましい時代であり――幅があって年齢を曖昧にするには都合が好い史実――、日本を含む東南シナ海に沿う国々を無視することはできないという感じになった。その間に世界におけるヨーロッパの重要性はEUとユーロの発足を見てもめきめきと下がり、これという掴む話題に乏しいのがかの地の現況である。ニュースらしいニュースといえばギリシアなどの財政破綻とそれを見下して今時のヨーロッパの唯一の経済安定の国となっているメルケル政権のドイツだけ。フランスの大統領の存在感は幕下へ落ちようかという勢いにあるし、イギリスもオリンピックをつつがなく終えただけで新しいものを何も生み出していない。イタリアはギリシアの同類と見られている。

 読むと、安倍首相とか東日本大震災が出て来るのでかなり最近に出た本と分かる。
 学生の頃に戻ったような心持で、「安倍首相」と見ると、何か信じられないような感じがする。それに至るまでの時代の変化や私の生涯の変化、それそのものの良し悪しについてはさておき、単純にそのような昔は見たことのない語が出て来ることに眩暈がする。その昔に「安倍首相」といえば『安倍晋太郎が総理になったら』についての夢を語る一部の人達の話である。

 尤も、ヨーロッパの全ての国を一冊に網羅する事情本を見るのは初めてであり、二十年前には同じ形式のものを読んだことは実際にはない。しかし当時の心が甦って来るように感じられる、そんな心を呼び覚ます本なのである。
 しかも新しいのは当時はまだ少ないものであった、東ヨーロッパやロシアを含むヨーロッパについての本。故もあり、その分厚さと寝ながら読む時の重さも丁度好い。本文の書体がリュウミンではないのも嬉しい。リュウミンで書かれていると無条件に時勢に阿る下らない本という印象になる。

 しかし難もある。

 イタリア、フランスやスペインなどの南ヨーロッパの方面の国々についての話が野蛮日本人に永らく受ける「美食家」などのステレオタイプなものばかりであり、また、財政危機にあるイタリアやギリシアについては見下す、日本も財政危機にあるにもかかわらず。
 フランスやスペインについてもどちらかといえば見下し、理解不可能な国という論調に彩られる。取り分けフランスの労働者の「働かなさ」については「フランス人は一日に実質では三時間しか働かない」という他国の批判的ジョークに同調するかのように否定的に描く。
 そこにはフランス製品の品質の高さやそれでもフランス経済が大難なく持っている事実を見る視点がない。品質では今や――或いは昔から?――日本製品に優るともいえるし、それだけの品質と経済や生活の安定をフランス人の三倍も四倍も働いていながら生み出せない日本、残業をなくせとは云うけれど長期休暇(バカンス)を導入しろとは云わない日本人が何をいうのかと思う。折しも今の今、残業時間の上限についての法制化が話題になっているけれど、ぶっちゃけバカンスがあれば残業なんてどうでもよい、家族のためといって残業を控える人が家族に求められる存在になってはいないと云うよくわかっている日本人もいるが。三倍も四倍もの実働時間はそれ以上の在庫のリスクを生じているという単純な事実にも気づかない日本はやはりヨーロッパに劣る国であるといえる。

 片や、中北ヨーロッパについてはおしなべて肯定的である。昔の日本人のヨーロッパ観とは違うのはドイツの杓子定規な気質や冗談の通じにくい気質を否定的に見ないことである。勝てば官軍ということでもあるかもしれないが、もはや他人のことをいえない程に野蛮日本人もまたドイツ人的気質であることがうすうす明らかになってきたからであるかもしれない。ドイツ人の気質については昔のような悪い話もあるがもう少し踏み込み、理解し易い説明になっている。
 そのような中北ヨーロッパ贔屓の論調は著者の須貝氏が弊ブログが日本のスウェーデンと位置づける新潟県の出身であることからのものであると思われる。人間はやはり自分の出身地と相通ずる或いは似ている土地柄を贔屓にする。かつては越後の独立の論もあったといい、若しそうなっていれば今の新潟県は本当にスウェーデンのような国になっていたかもしれない。
a0313715_23414992.jpg そのような感性から見ると、スペイン、フランス、イタリアやギリシアなどの地中海方面はどうしても偏見を隠し切れない対象になる。土地柄は嫌いであるけれど着物と食べ物だけは羨ましい、羨望と軽蔑の相半ばする見方、故に何十年経っても同じような話題の振り方になってしまう。それとセットで「イギリス料理は不味い。」。
 フランス料理もイタリア料理もその基本はイギリス料理にある。全ての皿は英国に通ず。「イギリス料理は不味い。」という感覚ではフランス料理をもイタリア料理をも本当には分からない。そのような見方に立つヨーロッパ事情の本やヨーロッパ論をも読みたいものである。

 因みに私は昼食にワインを飲むことはないが朝食にワインを飲むことはよくある。

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■NEWS of the WORLD


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    ●AFP(フランス パリ)
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    ●フランクフルター アルゲマイネ(ドイツ フランクフルト アム マイン)
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    ●共同通信(日本 東京)
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    ●朝日新聞(日本 大阪)
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    ●日本経済新聞(日本 東京)
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    ●ボストングローブ(アメリカ マサチューセッツ州ボストン)
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    ●タンパベイ タイムズ(アメリカ フロリダ州タンパ)
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    ●ジ インディペンデント(イギリス 英国 ロンドン)
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# by keitan020211 | 2017-12-05 23:49 | 芸術(音楽、文学など) | Comments(0)

【ちょっと知りたいキリスト教】ジャーナリストが失業することは良いことか?――人間の罪について

賊軍を官軍の勝ち組クラブに入れる
賊軍戦没者の靖国神社の合祀に 絶対反対

都合の悪い歴史を覆い隠す
A級戦犯の分祀に 絶対反対

皆様の力で阻止しましょう!

a0313715_18415816.jpg ロバート キャパという20世紀の世界大戦の時代を生きたハンガリーの戦場カメラマンが「私の願いは私が失業することだ。」と語ったことがあるという。弊ブログのフォローブログ『旧民主党支持者の、立憲民主党応援ブログです!!』が最近の記事に言及している。
 キャパ氏は逝去した1954年に日本を毎日新聞社の招待により訪れている。
 キャパ氏の撮る写真が載ってはいないが私は20世紀末に毎日新聞社の発行の『20世紀の記憶』のシリーズ本を何冊か買って読んだ。20世紀を報道写真等と共に「振り返る」ものであり、取り分け戦中戦後の巻は見応えがある。その本を通して初めて知ったことも多い。
 報道カメラマンはジャーナリストに随行することが多くてジャーナリズムの一部を構成するのでここでは報道カメラマンをもジャーナリストと呼ぶ。
 
 「私の願いは私が失業することだ。」――つまり、ジャーナリストが失業することは良いことなのであろうか?
 果ては、ジャーナリストという職業がなくなることは良いことなのであろうか?
 キャパ氏のその言葉はそんな素朴な疑問を呈する。
 その言葉はジャーナリストが要らなくなる世の中が望ましい、即ちジャーナリズムの主な題材である戦争や政治の悪、社会の悪、個人の罪……そのようなものがなくなることが望ましいということであるが、そのようなことがあり得るのかという問いが浮かび上がる。
 因みに、「御免で済むなら警察は要らない。」という言葉とは意味が違う。その言葉は悪いことが「御免」と言えば済む故に警察の要らない世の中を想定するものであり、悪いことがなくなることを想定するキャパ氏の言葉とは根本が違う。

 先ずは私、弊ブログの常々言っていることから見ると、世の悪いことは人々がそれがない世の中というものを想像することができず、人が想像することのできないことは決して実現しない故に世の中の悪いことは決してなくならない。それが良いのか悪いのかについては何とも言いようがない。まだ存在していない未来を良いとも悪いともいうことはできない。人は只、現在までに存在している物事を良いか悪いかいうことができるだけである。

 つまり、キャパ氏の願いは実現しない訳であるがそれは良くないことであるとはいえない。
 尤も、キャパ氏はジャーナリズムが需要に応える供給ではなく、供給が需要を作り出す近現代の状況を批判してそのように語るのかもしれない。軍事兵器にもその供給が需要を作り出している例があるし、昨今の日本における感動ポルノと呼ばれる社会ドキュメンタリーもその一つであろう。何等かの必要や欲望の満足のためにではなく、身や技を見せびらかすための商売、ジャーナリズムもまたしばしばその陥穽に嵌まっている。
 ジャーナリズムが自らの存在を顕示するためではなければ、人間の罪はなくなるものではない以上はジャーナリストが失業することは望ましくはないのである。

a0313715_18492671.jpg キャパ氏の出身のハンガリーの宗教はカトリック教会が六割、カルヴァン派が二割にその他と、キリスト教が殆どを占める。
 キリスト教もまた人間の罪はなくならないといい、キャパ氏の言葉はキリスト教がヨーロッパ世界において相対化されて来ていた20世紀の前半の時代の思潮を反映するかのようである。ハンガリーは彼の晩年に共産化が興り、ハンガリー人民共和国という共産主義国家になったためにキリスト教の存在意義は更に下がった。
 それでもヨーロッパ人の多くが人間の罪を題材とするジャーナリズムの存在意義を疑わない中、ジャーナリズムを相対化するかのようなキャパ氏の見方は新しい思潮を物語るものといえる。脱宗教と脱ジャーナリズムが人間の世界を幸福にするという。
 その流れに棹差すかのように見えて水を差したのはイギリスのロックバンドビートルズのジョン レノン、「わしはキリストよりも有名よ!」と'60年代に語り、'70年代には「天国がないと想う」と歌う。――一見はキャパ氏の時代を受け継ぐかのような印象であるが実はその逆を、人間の罪は決してなくならないということを語りまたは歌っていた。キリスト教のものの見方をキリストと呼ばれるイエスよりも分かり易く伝えたので、自らをキリストよりも有名なりと云うのは尤もなことである。

 何故キリスト教は人間の罪は決してなくならないというのか?

 そのことは旧約聖書の創世記の初めに記されているとされるが、先ずはその解釈が難しくて書そのものの由来も一つのものではなく二つの別の書物の併合されたものであるといい、その決定的理由を探り出すことはなかなかできない。
 キリスト教においてしばしばなされるその説明は「人が神に背いたことが罪の初めである。」という。
 しかし神の存在を信じない人にはその説明は何も訴えんじゅうろうである。ないものに背くことはできないからである。
 先日にフランシスコローマ司教が偽善的キリスト者よりは無神論者がましであると語ったと報じられている。珍しく真面なことを言う、彼がローマ司教になってから初めて正しいことを語った言葉である。それは一般論からしてもキリスト教の観点からしても正しい。但し偽善的キリスト者というものがどんなものであるかは人それぞれに見方が違い、本当は偽善ではないものが偽善と見られることもあるのでその手の言葉はキリスト教に対する嫌悪や迫害を招いて自らの首を絞めることになりかねない危うさがある。尤も、そこでは自らがキリスト教の者である故にキリスト者について言ったまでであり、それをあらゆる宗教に読み替えることもできる普遍性はある。

 そのカトリック教会は元々、神の存在を認めない無神論者にも分かるような「罪」の概念がある。キリスト教においてそれと同じものがあるのは罪の告白をして赦しを得る秘跡――:キリスト教の枢要をなす七つの礼典――のあるギリシア正教会と聖公会だけであり、プロテスタントとも呼ばれる諸派にはない。諸派は「人が神に背いたことが罪の初めである。」ということをしか云わない。キリスト教にはキリスト者ではない人々のことについては分からないので干渉しないという考え方の徹底の故でもある。キリスト教はキリスト教にとっての罪のことだけを思えばよいというのである。故に諸派のキリスト者にとってはイスラム国などのようなイスラム過激派のしていることは「罪」ではなく「迷惑」として斥ける対象でしかない。自分達への迷惑を「悪の枢軸」とするのが昨今のキリスト教諸派圏の思潮である。
 旧教と総称されるカトリック、ギリシア正教と聖公会もまた「人が神に背いたことが罪の初めである。」とはいうが「キリスト教はキリスト教にとっての罪のことだけを思えばよい」という考え方はない。宗教を問わず問うべき人間の罪というものはあると見る。
 キリスト旧教における罪の概念は「人が自ら罪と思うことが罪である。」というものである。どんなことであれ、悪いと思えば悪い、悪くないと思えば悪くない、至って単純な原理である。
 そこには罪は人が作り出すものであり神が作り出すものではないという前提がある。何か罪という実体があって神がそれを作り出したのではない。人が罪を作り出すことができるのは神が人を自由な意思と責任のあるものとして造ったからである。自由の行使が罪を生むことがあるという。しかし神はそれでも人の自由を剥奪せずに罪を生みながらも自由を持ち続けることを望むことにした。故に世の中に悪いことがあり続けるのは神の望みからなっていることなので決してなくなることはないという。
 罪は実体をなすものではない以上は全てのものが実体として善となりまたはあり続けることができるといい、それを保証するものが洗礼の秘跡を一とする七つの秘跡であるとされる。それがないと保証されはしないが自らが善となりまたはあり続ける意思があればそれが可能であるという。

a0313715_18525427.jpg 罪は実体をなすものではないという見方は「罪を憎みて人を憎まず」とは全く異なるものであるといえる。
 「罪を憎みて人を憎まず」は罪を実体と見做すことが前提である。実体のないものを憎むことはできない。罪を幾ら憎んでも罪は何の反応を示しもしない。
 世の中には善なる実体と悪なる実体が存在してそれらが互いに戦うものであるという見方から出た観念が「罪を憎みて人を憎まず」である。そのような見方を善悪二元論といい、キリスト教はそのような見方には立たない。
 善悪二元論からすると、人の悪を救い善を勧めるためには実体としての悪を離れさせて善の側へ迎え入れるということになる。善の側とはしばしば、というか粗必ず、自分達の側であるというのが認識である。
 尤も、キリスト教には或る悪い物事に対する緊急避難ということでの「悪を離れさせる」という考え方はある。但しそれもその悪い物事を実体としてではなく実態、即ち特殊な状況としか見ない。故に或る戦争を特殊な状況として否定することはあり得ても戦争そのものを否定することはキリスト教にはない。

 ジャーナリズムも、或る日に或る所で起こっている特殊な状況を特殊な状況として見て伝えることが目的のものである。決して実体として存在し続ける悪を「相変わらずですね。」と云うためのものではない。
 そのような目的に日本のジャーナリスト等が適うようになることは可能であるだけではなく本来は向いている。
a0313715_18544111.jpg 日本の伝統宗教である神道はキリスト教の「神に造られたものは全て善である。」という信仰ととても近いものがある。少なくとも神社の佇まいには徹頭徹尾、善をしか感じない。そこで人が自由な意思と責任を新たにして世に漕ぎ出す。
 また、仏教はそもそも善悪を問わない信仰である故に、善悪二元論はない。仏教にとっての善悪とは人それぞれの生から出る煩悩に由来するものであり、仏は煩悩を解き放つ。その信仰は或る一方を善とも悪とも決めつけず或いは双方の善悪の何れをも問う公正中立や不偏不党に資し得る。
a0313715_18571870.jpg ジャーナリズムは決してキリスト教圏という特殊な世界に生まれただけの特殊な存在であって他がキリスト教圏の価値観に屈服や忖度を強いられることによってしか普及しないものではない。
 しかし日本のジャーナリズムにはしばしばそのような海の向こうへの屈服や忖度の念があるので、この陸における屈服や忖度をどうすることをもできずにいる。「今度の件」も実体として歴史的に存在する悪の派生なのでどうにもならない、詮めるしかないであろうとなる。物事を追及をする側の程にそのような傾向が強い。

 善悪二元論は日本だけではなく、歴史を権力闘争を主眼として見る歴史観を持つ国に普及し易い概念である。
 権力闘争はどの国や地域にもあるが、それが歴史を巡る関心事の最も大きなものとなると闘争し合う者やそれを支持し或いは抵抗する人々を善の側と悪の側に分けて見ることになり易い。
 権力には様々な固有性があり、何が権力というものであるかは一概にはいえない筈であるが、権力闘争史観からは権力はいつでも同じの実体であるかのように見える。それを奪る者とそれを支持する人々が勝ち組であり他は負け組であるという世相の認識もそこから生まれる。
 古くはアフリカのとんでもなく黒い地域など、植民地支配の虞に晒される地域に善悪二元論が信じられていた所が多い。日本も同じような理由がその一因であろうが、昔のものではなく今も信じられ続けているのは珍しい。例えば
安倍自民党 対 野党 というのもその一つであり、政治論がさようにも野蛮なものとなった時代は当の日本にも今までにはなかった。

 キリスト教におけるいわば最終解脱(マハーヤーナ)とは世の罪に思いを致して祈り続けることであり、思いを致すものがなくなればキリスト教の徳もなくなってしまう。
 しかし罪を作り出したり擁護してはならない。
 ――「じゃあどうしろというんだ?」と思うならば善と悪を固定的実体と見做して善の側への到達と加入を目指す二元論的発想の影響が強いということである。

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    ●ル モンド(フランス パリ)
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    ●リベラシオン(フランス パリ)
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    ●読売新聞(日本 東京)
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    ●毎日新聞(日本 東京)
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    ●ザ シアトルタイムズ(アメリカ ワシントン州シアトル)
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    ●ザ トロントスター(カナダ オンタリオ州トロント)
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    ●ザ ガーディアン(イギリス 英国 ロンドン)
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# by keitan020211 | 2017-12-05 18:58 | ちょっと知りたいキリスト教 | Comments(0)

【Freesia料理】キャベツを使う料理を二つ――・キャベツみそ拉麺 ・より本格的な金沢カレー

賊軍を官軍の勝ち組クラブに入れる
賊軍戦没者の靖国神社の合祀に 絶対反対

都合の悪い歴史を覆い隠す
A級戦犯の分祀に 絶対反対

皆様の力で阻止しましょう!

 そういえば昔にキャベツ畑人形というのがはやったことがありました。
 1983年の流行で、誕生日と名前の入る出生証明書付で販売される。購入の1年後には誕生日祝の札が届き、日本の人口に迫る1億体が世界に渡り売れました。商品の所有者権、オーナーシップを手軽に味わえるということであり、その時代の消費の在り方の豊かさの現われといえそうです。もっと値の高いものではゴルフ会員権。
 因みに自動車は初めからそのような在り方のものです。

 今日はキャベツを使う料理を二つ。
 日本語では玉菜(たまな)といいます。
 
 ビタミンC、ビタミンKと葉酸の多いものですが、ビタミンは血への働きがあり、葉酸は乳酸菌を増やすとされます。古代よりヨーロッパにおいて信じられていたキャベツの整腸の作用は主にその葉酸の働きによるものと思われます。
 この記事に紹介するキャベツみそ拉麺、みそには乳酸菌が多く含まれます。
 みそは70℃程以上になるとその乳酸菌や酵素がなくなってしまうのでみそ汁などのみそは湯が冷めてから入れるべしとされます。キャベツはそのみその乳酸菌を更に増やす。
 仮に――というか私は今までそうしており、半生は何であったのかと愕然としますが、――みそを先に入れて沸騰させてもキャベツの葉酸が他の品の乳酸菌を増やすべく待機してくれます。故にキャベツはいわばバックアップフードといえます。

 一概にいい、冬場は野菜を然程に要しません。
 多くの野菜は春や夏に獲れ、冬は野菜が余り獲れません。自然がそうなっているので人もそれに随っていて問題はないのです。
 春や夏には神経を強くするために野菜を主に食べ、冬には力を強くするために肉や穀物を多めにする、それが大体の理に適います。夏場に力を蓄えてもその分を使わずにはおられなくなるので却って疲れたり倒れたりし易くなります。力を要らないことに遣いたくなる人、即ち要らぬこと、無駄なこと、ずれていることをしたがる人は夏場に力をつけるためといって米や肉を多く食べているのでしょう。夏場はとにかく我慢強さと我を失わない神経の強さが大切であり、それを鍛えるのは野菜です。
 しかし、冬場は冷え込みに耐えるために神経だけではなく力が重要になります。「寒い、寒い、」と言って力を出さないでいると体は更に冷え、動きが緩慢になって転ぶなどの怪我をし易くなります。ビタミン類は神経を敏くするので冬場の摂り過ぎは過敏性になり易く――強いとは反面では過敏になり易いということ――、寒さを殊更に感じて「寒い、寒い、」と託つ(かこつ)ことが増しかねません。冬は暖房費を抑えるためにもビタミンを抑えるべき季節です。「ビタミンを抑える」なんて聞いたことがない、摂れば摂る程に良いと思われるかもしれませんがどんなものにも負の側面はあります。
 しかしそのような冬場もビタミンを全く摂らなくてもよいわけではなく、冬に獲れる野菜であるキャベツは「それでも忘れないように」と人々を待ち構えているかのようです。冬場は悪影響をもたらしにくい穀物などの炭水化物も極端に食べ過ぎたり夏場と同じように食べている人にとっては血や神経を悪くするものとなり、ビタミンによる是正を要します。そうではなくても念のためには必要です。

 冬場は炭水化物が必要であり且つ念のためにビタミンの幾らかの補充を要する。――その必要に極めて忠実な料理がここに紹介するキャベツみそ拉麺です。

■キャベツみそ拉麺

 つゆのだしは煮干と昆布、煮干はティーバック式のものが粉が散らないのでお奨め、昆布は現物を1本使って出します。
 それにみそと、濃口醤油を少量。みそは越中日本海味噌などの麹みそがお奨めです。近頃はイオンなどの合成市場のPB商品にも麹みそを重点としたり麹みそのみになることが増えています。
 拉麺のつゆはみそ汁とは違い沸騰したものを直ちに丼に入れないと感じが出ないために乳酸菌や酵母が失われても仕方がありませんがそれらをより確保するためにはなるべく湯が70℃以下に冷めてから入れて溶きましょう。
 それに胡椒と七味唐辛子を適量。

 キャベツは千切りに。
 それに玉葱の薄切りを添え、終わりに生卵または茹卵を添えます。
 キャベツと玉葱はつゆが冷め過ぎないようにするためにぬるま湯に軽く茹でて入れるのがお奨めです。
 茹卵は糠漬にすると良く、私の最近の一押しとなっています。

 麹みそとキャベツの響き合いを味わうためには、葱油や胡麻油などの油を入れないのがお奨めですがどうしても香りが欲しいなら許容です。麹ではないみそなら寧ろそれが良いかもしれません。

 テレビ朝日の『おかずのクッキング』の土井善晴名人も、みそ汁の具としてキャベツを奨め、報道ステーションで実食しています。彼はそれに更にウィンナーなどを入れます。食わず嫌いです。

■より本格的な金沢カレー

 弊ブログの前の記事に、取り敢えず千切キャベツを取り入れた簡便な金沢カレーを紹介しています。

 今度はより本場の金沢カレーに近いものを作ってみました。

 金沢カレーは当地でも若干の違いはあるものの、黒酢とトマトが欠かせないらしい。
 ――ということで、それらを入れたいのですが黒酢は体にとても良いけれど値が高くて使い途が思いつきにくく、なかなか買う気になれない。
 そこでより安く買える黒酢入り三杯酢を使う。
 三杯酢は土佐酢ともいい、主には酢の物に用いられます。それに黒酢の入ったものがあり、ヒガシマル醤油などが出しています。
 先ずは牛肉を三杯酢に漬け――原液で、量は肉に揉み込める程でよい。――ます。牛の酢の物です。
 黒酢の味わいはその牛の酢の物から煮鍋のカレーに流れ出す程で充分です。

 カレーに加えるたれを作ります。
 牡蠣のたれ(オイスターソース)とトマトケチャップ、料理酒を混ぜます。それでトマトを入れる条件を満たしました。ホールトマトを使うのもよいですが、カレーに香るトマトの味はケチャップでも充分と思います。
 牡蠣のたれはイオンTOPVALUやマルエツ365のもの、PBがお奨め、調味料(アミノ酸等)やカラメル色素が含まれず、味と体に良い。
 牡蠣のたれではなくウースターソースを使うものもあります。

 カレーはこの場合はハウスジャワカレーがお奨めです。加えたたれが能く馴染みます。

 具は牛の酢の物と千切キャベツのみ。
 冬場は野菜を然程には要しないのでそれだけでよい。

 逆に夏場には温野菜をふんだんに使う英国風野菜カレーがあります。英国風野菜カレーはロイヤルホストの夏のカレーフェアにも揃っており、自家製としてはS&Bゴールデンカレーがお奨めです。私がカレーフェアで最も好きなのはカシミールビーフカレーですが英国風野菜カレーは二番目に好きです。
 ハウスジャワカレーを使ってロイヤルホストの定番のジャワカレーにそっくりの味に作ることもできます。
 しかしこの年明け2018年からは正月はロイヤルホストは休みになります。

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――地震が発生したら先ずは火の点いている所を確認して直ぐに消せる火を消し、物の落下を避ける。

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ABCテレビ おはようコールABC 5.00~6.45/月~金
ABCテレビ おはよう朝日です 6.45~8.00/月~金
ABCテレビ おはよう朝日土曜日です 6.25~8.00/土

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フジテレビ めざましテレビアクア 4.00~5.25/月~金
フジテレビ めざましテレビ 5.25~8.00/月~金
フジテレビ めざましどようび 6.00~8.30/土

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# by keitan020211 | 2017-11-30 17:22 | Freesia料理 | Comments(0)

最も正しい リベラルと保守;左翼と右翼の定義 その5 風俗編

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 弊ブログの最近の記事に政治、経済と社会保障・福祉に関し『最も正しい リベラルと保守;左翼と右翼の定義』を『その4』まで記しています。
 今回は『その5 風俗編』です。

 「風俗」と聞くと性風俗店を想い出す人もいるかもしれません。ソープランドやファッションマッサージなどの性風俗の店は略して「風俗」と呼ばれます。
 風俗店とは性風俗店だけではなく飲食店なども含まれ、それらを規制する法律が風俗営業法です。最近に舞踏をすることのできる店の深夜の営業の認可を巡り改正されました。
 私はキャバクラことキャバレークラブのコンパニオン、通称キャバクラ嬢をしていたことがありますがキャバクラもまた風俗店です。キャバクラは性的雰囲気が漂うけれど性風俗ではない、性的行為を厳に排除する微妙な立ち位置のものです。
 その故か、この程に流通業の大手のイオングループが系列のコンビニエンスストアのミニストップにおける成人雑誌の販売を廃止することを決めたことについてはすんなりと支持します。イオン贔屓でもあるのでイオンのすることは一々支持するということもあるかもしれませんが、他にも成人雑誌の販売を廃止する業者が増えるとよいかと思います。
 但し弊ブログは成人雑誌というものを必ずしも否定するのではありません。成人雑誌とは事実上は性的記事を専らとする雑誌のことですが、性的内容そのものは専らであれ一部にであれ、あってもよいと思います。
 しかし現実には日本の――だけではないかもしれませんが、――成人雑誌やアダルトビデオは性を題材としているとはどう見ても思えないようなものが大半を占めています。何か性とは関わりのないメッセージを性的行為の表象を象徴的に用いて暗に伝えようとしているようにしか考えられません。例えばそれは抑圧や侮辱の奨励であったり犯罪の称揚であったりするように見えます。宛ら、犯罪の教科書ともいえます。
a0313715_02180593.jpg 本来なら性的内容の出版物がコンビニエンスストアにあってもよい、更には対象の年齢が引き下げられてもよいと思うのですが、そのような現状と歴史を勘案すると一度は性的内容の出版物の劇的な排除により淘汰が起こらなければならないと思います。
 但しそのようなものの排除はかなり徹底してしないと極左やカルト宗教のように地下に潜伏して闇市場を形作ったり、そこまでにはならなくても専門店の乱立を招いたりしかねません、専門店も先述のようなものを取り揃えるものではなければよいのですが。
 現に、ミニストップを含むコンビニエンスストアにおいてはそのような性に名を借りる悪趣味や反社会性を志向する雑誌等が売られています。イオンの決断が排除と淘汰の第一歩になれば良いと思います。
 イオンのその決断にその本店所在地である千葉市の市長が予め政治圧力を掛けて性的内容の出版物の販売の廃止を求めていたのではないかとの憶測が報じられ、それについての否定的意見が少なからず出ています。イオンは圧力の存在については否認し、自社の任意による決断であると表明しています。
 イオン贔屓なので鵜呑みにするのではありませんが、その表明は多分事実でしょう。
 若しそれが千葉市の政治圧力であったなら、イオンの対応は千葉市のミニストップにおけるものに限られていたでしょう。幾ら鼻息や腕節の荒い首長も他所のことまでを規制させるようにすることはできません。他所のミニストップにおいてもするのはイオンの任意の決断であるからです。
 逆に仮にそれが千葉市長の圧力であったとしても、イオンがそれに忖度して全国における対応にすることは理解できることです。性的内容の出版物に関しては幾つかの地方自治体等において規制の対象となっていることから見て行政による排除の要請は合法であると見做せます。それらの諸々の規制は多くの場合は条例により立法されてのものですがそのような場合には立法は必ずしも要しません。勿論、立法ではない以上は法的には努力義務に留まるものとなりますが要請する側が努力義務を超えるものではないと認識して如何なる強制をもしないでおれば違法となるものではありません。相手が権力者であれば「そんな法律どこにある?」などと言って背かなくてはならない謂れはないからです。
 表現の自由に反するという批判は以ての外というべきものであり、表現の自由に反するとは何者かの表現の機会を直接或いは間接に奪うことをいいます。千葉市長の要請はそのようなことを目的としてはおらず、単にコンビニエンスストアにおける販売の廃止を求めるだけのものなので表現の自由の侵害や脅威には全くなりません。仮に或る種の性的内容の出版物の全面排除を求める意図があったとしても、現にしていることは侵害でも脅威でもありませんし、そのような意図が正しいか誤りかは従後の実際の行動の適法性やそれについての人々の支持により判断されるべきことです。無論、選挙の支持は他の事柄等との兼ね合いもあり、落選したらそれが誤りと判断されたということには必ずしもなりません。
 また、性的内容に関しては内容の変更を求める代わりに表現の機会を保障することは条例等の立法理由の存在からしても認められることです。端的に見て或る種の成人雑誌は基本的人権である人格権若しくは生存権の侵害を奨励するものと解することができ、人格権の保障のための成人雑誌に対する是正の要請若しくは排除の行動は表現の自由や検閲の禁止を定める憲法の他の規定等よりも優先すべき規定です。憲法は国家の最高の法ですが全ての規定が平等なものではなく、基本的人権に近いものから優先されるものです。表現の自由は歴史的に、基本的人権に後から付随して立憲主義に加わった概念であり、生存権、財産権と人格権の保障を求める基本的人権に優先するものではありません。

 そのような原理は政治思想や経済思想を問わず随うべき基本的なものですがその実現のための実際の行動や考え方には歴史的にまたは個人的、社会的に様々な違いがあります。
 その違いをこの『最も正しい リベラルと保守;左翼と右翼の定義』のシリーズの主題に沿って見てゆきます。

 件の千葉市長は熊谷俊人氏、民主党系であり結構な実績を上げている実力派であるといいます。
 民主党系というと左寄り、成人雑誌の販売の廃止の要請もPC, the political correctnessに基づくものと勘違いされるかもしれません。
 しかし田嶋要氏などの当地の民主党は保守系であり、熊谷氏もリベラルな保守系の政治家なようです。
 因みに成人雑誌を巡る問題はPCとは何の関係もなく、自民党にも懸案とする向きはあります。元自民党の石原慎太郎元東京都知事が性的内容の漫画を有害図書とするという政策を打ち出したこともあります。しかし自民党においては性的内容の出版物については歴史的に意見が割れていました。表現の自由などの国民の自由の見地から規制するべきではないとする向きと弊ブログや熊谷市長などの民主党系の一部ように人格権の侵害につながるものとして規制するべしとする向きが自民党にはあります。そしてなかなか決まらない、問題が半永久的に先送りとなるのが自民党の常です。民主党には表現の自由の見地から規制に反対する向きは粗全くなく、規制を支持するかはっきり判断することができないので様子を見るとするかしかありません。しかし、今は自民党にも規制を支持する向きが多数派となってきており、「表現の自由」派はリベラル左派系の無党派や立憲民主党の支持層になっているようです。
 PCが関わるのはテレビや新聞、広告などのマスメディアにおける性的表現の妥当性についてであり、マイナーメディアである成人雑誌などの性的出版物については関心の範囲外です。彼等はそもそもPCに反する人々を蔑視して愉しむことが目的なので、PCに反する発言や行動をしかねない人、喋りを隠す音や局部を隠す画像を要する人を造り出すそのようなものが世になくなってしまうと困るのです。何をしているのか分からないような人達であり、故に日本の「表現の自由」派にも近いといえます。

 故に、成人雑誌を巡る厳しい政策は保守、中道右派の特徴であるといえるかと思われます。

 様子見派はそれぞれ意見を固めていない訳であり、左翼、革新、保守と右翼の何れにもいるでしょう。他の事柄には強いがその事柄についてはまだよく分からないとか自分は他に懸案があるので初めから関わる積りはないとすることからです。

a0313715_02225145.jpg 「表現の自由」派は歴然たる革新、中道左派であり、今は少数派になってきていますが昭和の戦後からの時代には多数派でした。しばしばその思想が「戦後民主主義」といって批判の対象となっています。
 革新は立憲主義における基本的人権の優先性ということとは少し違う立憲主義を持ちます。
 基本的人権を蔑ろにするべしと思うのではありませんが、彼等の基本原理は「新しい概念は旧い概念に優先する」です。よって基本的人権より新しい表現の自由はその故に優先されるべしと考えます。
 旧い概念は新しい概念と入れ替わりに直ちに無意味となるのではないが、新しい概念との綜合的再検討により再定義されないと無意味になるとするのです。再検討と再定義、それが「革新」と呼ばれる所以です。そして再定義されると新しい概念と旧い概念は平等になるので憲法における規定の優先性の概念は初めからないか或いはあっても政治目的のためには無視します。
 再検討や再定義が試みられ或いはなされるのはそれだけ学問や批評、ジャーナリズムなどにおける論議が活発なことでもあります。昭和の時代にはそれが国民世論の主流をなしていましたが'80年代から'00年代に掛けては少数派となり、'10年代に少し再び活況を呈しています、誰のお蔭とは言いませんが。
 しかし「革新」の裾野をもう少し広く見ると革新、中道左派は依然として日本の多数派であるといえます。
 日本の世論は多数が外交と安全保障の面では保守に近づいているのが現況ですが経済、社会保障、福祉、そして風俗の面では「依然として」というよりは突然のように、革新の志向が再び強まっています。古谷経衡氏が今の日本、殊に若者は右傾化してはいない、左傾化しているというのもそのことでしょう。その様は宛ら、'60年代や'70年代の日本をテレビや街頭ではなくネットで観ているかのようです。当時は逆にネット右翼のような右翼の人々も生ではかなりいたそうです。ネット右翼の台頭は今時に始まったことではないといえます。あくまでもその媒体がよりパーソナルなネットに替わったことが目新しさと衝撃を感じさせるのです。

 革新、中道左派においては性的内容の出版物は歴史的に特別な意味があるものです。
 近代出版の始まりはマルティン ルターによる宗教革命の時代です。グーテンベルクの活版印刷が開発され、印刷と出版が近代を開いたとされます。
a0313715_02252353.jpg 活版印刷は文字だけですがそれが後には写真を含むものとなり、近代は更に現代へと発展しました。
 先日の朝日新聞に今年が宗教改革――宗教革命を日本の歴史教科書等はそう呼ぶ。――から500年となることについての意味不明な社説がありました。何を言いたいのか皆目分からない論説ですが、出版と宗教革命が世界の革新、中道左派の心の拠りどころの一つであることに鑑みると話題として取り敢えず押さえておきたい気持ちは分からなくもありません。
 当地やその他の多くの国々においては宗教革命と呼ばれるものを宗教改革と呼ぶことから見ても、革新、中道左派が多数を占めている日本の特別の思い入れが見て取れます。日本においては革命はおしなべて否定的に見られますが改革はしばしば肯定的に見られます。日本の主流派の歴史家は「宗教革命」では何か悪いことをしたかのように聞こえるというので「宗教改革」に言い換えた訳です。
 一つルターのおかしい点を突くと、彼は「聖書のみにより義とされる」というけれど、キリストと呼ばれるイエスは「聖書のみにより義とされる」とは一度も云っていない。イエス自身を信じるべし、信じてほしいとは聖書の中で云うが「私が聖書である。」とは言っていない。
 その手の論理の飛躍のようなものは革新勢力の政治運動や議論、宣伝にはかなり多い。「( )…。」と書くなどして人が言っていないことを云ったかのように云うことは朝日新聞を含む日本の新聞等の常套です。人が言ったことやしたことの事実よりも「真実/truth」と呼ばれる架空の話が意味をなして現実を動かすという思想です。朝日新聞がしばしば唯一の悪玉のようにいわれていますが読売新聞などの他の新聞等もその点は同じです。
a0313715_02272407.jpg ルターの立てたルーテル教会を国教とする国々や宗教革命の影響を強く受けて出来たアメリカは性の先進国といわれます。それでも性的出版物の過激さに関しては日本よりはかなり「遅れている」のですが、性を表現と見做してその自由を追求することは日本の革新にも支持されています。
 そのミソは「性は表現である」という思想です。しばしば「二人の愛の表現」や「愛情表現」などという言い回しを聞きますが、それはそのような思想から来るものなのです。
 「性の自由」ではありません、「性の表現の自由」です。
 私、弊ブログが是とするのは「性の自由」であり「性の表現の自由」ではありません。
 ぶっちゃけ、彼等にとっては性そのものは自由ではなくてもよい、あくまでも表現を自由にしたいというのが信条です。逆に、性そのものに関してはその自由を積極的に制限したりなくしたりするのが革新、中道左派です。同性婚の支持などの同性愛の積極的容認と見える風潮も、彼等の全てがではないでしょうが、性の自由を狭め或いはなくす試みからのものであると考えられます。彼等にとって大切なのはあくまでも性の表現であり、同性愛を描くエンタメを愉しむことまたは同性愛者の権利を求める政治運動をエンタメとして消費することだけなので、同性愛者が現実に何を求めているかなどには実は何の関心もありません。
 そこで需要と供給を増すのが成人雑誌を含むオナニーの道具です。オナニーもまた彼等の重要な表現活動であり、その自由を守りそして拡げようとします。果てにはオナニーをしない人を奇特と見做したり小馬鹿にしたりします。その機会を失わせかねないイオンや千葉市長などの政策は故に「表現の自由」を楯にして批判されます。

 因みにジェンダー/gendersというのも違和感のある概念です。
 勝手に'-s'を外して「性差」という能く分からない意訳を宛てることを含めて違和感があります。
 個人とその自由が大切なら、そもそもジェンダーという概念は生まれては来ない筈です。表現の自由を至上命題として個人とその自由を本当には尊重しないからそのような衒学的概念を生み出す訳です。そして「ジェンダーフリー」や「性差の自由」という自家撞着の概念を派生させます。
 そもそもそのような概念がなければ、それをフリーにするとか自由にするという発想も出ては来ません。要は性表現の自由を種にしてエンタメと思想の市場を興したいということだけなのです。

 保守と革新の性に関する思想の大略を見て来ました。
 では、左翼と右翼のそれはどうなのでしょうか?

 『その4』までの記事に、保守の政策は左翼に近づくことが多くて革新の政策は右翼に近づくことが多いと説明しました。
 性やその他の風俗に関してもそれは当て嵌まります。

a0313715_02315713.jpg 性の自由を大切にするがその表現に関しては厳しく排除することがある保守と同じく、左翼も大筋ではそうです。但し左翼は性の自由に関しては保守よりも積極的であり、科学的でありさえすれば性の表現の排除に関しては保守の程には厳しくはありません。
 左翼は個人やその集まりとしての民族の自治を重んじ、国家社会による規制を全く認めないのではありませんが余り必要と見做しはしません。個人が確りとしておれば延いては民族が確りとその風土を維持しておれば性的出版物の規制の必要もない。そのようなものを欲する民族は好きなようにすればよいが内は内であると考えます。左翼のそのような発想はアメリカの州制の形成や国際連盟の民族自決の原則にも影響しています。アメリカにおける左翼思想は殊にリバータリアニズムとして発展しており、保守の思想にも影響を与えています。
 保守も自治の必要を認めてそれを尊重しますが国家による規制や政権による倫理的指導の必要をも認めます。それらを両立するために必要なものが立憲主義です。世の中には左翼の方々の程には確りとしていない、自律の意志の強くない人もいます。或いは強い人にも弱さはあります。彼等が成人雑誌などに惑わされることや心外な心持になることがないようにするためには国家による規制も幾らかは必要であると考えます。
 但し性の自由を尊重するが性の表現の自由を尊重しないことは「云ってることとやってることが違う。」とか「偽善者だ。」と批判される余地が大きいことでもあります。しかし保守は凡そそのような女子供的批判に耳を貸すことはありません。

 性の自由ではなく性の表現の自由を尊ぶ、その革新の思想は右翼の思想とするものではありませんが実際には右翼にとってはそれが都合の好い建前になることがしばしばあります。そのような主張をする積りはないけれどその思想を利用する。
a0313715_02353131.png 性の表現の自由は豊富にあるけれど性の自由は余りない、そのような状況は自らの子の「貞操」を守らせるためには都合が好い。その点は革新は都合だけではなく思想と信念から子の「貞操」とやらを守らせます。子供の性的交際だけではなく大人の浮気を認めずそれを「不倫」と呼び非難の対象とすることも革新と右翼は同じです。
 尤も、右翼は現状の追認を是とする傾向が強い、他律主義――左翼の自律主義とはそこが大きな違い――なので若し保守が国の主流となってその思想や政策が普通になれば右翼もそれに同調して性の自由を是とするようになるかもしれません。事実に、保守が強い時代であった'60年代や'80年代は右翼の方々の女遊びも俄かに華やかになっていたらしいし、ディスコのブームなどを通して男遊びもそうなっていました。右翼女というと想像がつきにくいかもしれませんが、右翼団体とのつき合いがあるとかいうことではなく――一部にはいるでしょうが、――現状の維持を志向して物事を経験主義で考える女性がそれです。そのような型の人の程に景気が上向くと日頃の疲れを散らすために男漁りを含む遊びに興ずるのです、翼を手にしているのは右ではなく左の手かもしれませんが。
 右翼女は狙っている男が他の女と懇ろになったと見ると粗絶対にその男を狙い続けず、さばさばと他の男を狙い直します。それが右翼が浮気を好まないことの肝です。「略奪愛」や「二番目でも愛されたい」などというような状況を作らない。或る意味では中道である保守よりも穏健といえます。下手に自律主義が強いと狙う男を落とすことを自らの至上命題、アイデンティティーとしてしまうために自律とは似つかわしくなさそうな「略奪愛」や「待つわ愛」をしがちになりますが、右翼は他律主義なので狙う男の決めた不本意な状況を受け入れるのです。それが寧ろ自分を失わない、確りとしていることの現われと自他が思う訳です。
 下手に自律主義の強い人が多いのは革新です。相通ずるものの多い右翼と革新ですが、その点はかなり大きく違います。
 革新にそのような型の人が多いのは彼等よりももっと左な左翼が自律主義を旨とすることからやや左寄りで中道左派をなす革新も同じく「左」として自律主義を重要な価値観とすることが一因です。しかし左翼のように徹底しない、シビアではないために、その自律主義はどうしても他者の自律主義に飲み込まれ易いものになります。所謂戦後的平和主義と呼ばれるものもその生温さを助長しているきらいがあります。その特殊な平和主義が国の平和だけではなく私的平和にも敷衍されて「貫徹」されるからです。逆に、自らをそのようなことがないために守ろうとすると自らを飲み込む側の原理や論理を密かに用いるなどして強く出ようとします。時が時ならば政敵である右翼よりも右翼的になります。俗に「揚げ足取り」や「貴方が見ている私は貴方の鏡なんです。」などと呼ばれるのがそれです。
a0313715_02374621.jpg 偶に「あんなに真面目で気立ても良く、元気ないい子があんなことになるなんて…」というニュース解説があったりします。聞く度にうざいと思いますが確かに真面目で気立ても元気も良いのは事実であるらしく、全くの嘘を言っているのでもなさそうです。そのような子の多くは革新系の家柄か自らが任意に革新贔屓になっていたりする子であり、殺す場合も殺される場合も生温い自律主義が引き起こしていますし、極左派に身を投ずる人は根からの左翼よりも革新、中道左派が多い。オウム真理教の所謂エリート崩れの幹部達もそうでしょう。

 自律主義も他律主義も重要な思想であるには違いありません。
 演劇や文学、音楽などのエンタメも自律主義や他律主義を描くことにその大半の熱意が注ぎ込まれているといえます。
 しかし私、弊ブログはリベラルな保守としての立場から、それらの何れの主義にも立ちません。
 自律と他律は何れも人や人間の本性として凡そ完全に具わっているものです。故に本性を大切にするなら、敢えてどちらかの主義を取る必要はありません。人は自律をしたり他律になったりを繰り返しながら生きてゆくものです。エンタメにもそのようないわば保守の生き方や世界を描くものもあります。
a0313715_02400003.jpg 保守の文学として殊に有名なのは夏目漱石です。朝日新聞にもかつては彼のような保守の者もいました。
 彼に描かれる人物等はなかなか保守たる生き方とはいえませんが、彼等を通して望ましい保守の生き方が本と読み手との間に浮かび上がって来ます。
 色々と読み方はあるかと思いますが、夏目の小説等の登場人物に理想や真実を見るようでは邪道な読み方です。彼等を見つめる夏目との対話、それが肝です。
a0313715_02412369.jpg 時代のエンタメの傾向を見ると、保守の強い'60年代と'80年代は自律主義にも他律主義にも立たないリベラルで保守的な作品が多いと見えます。私は殊に'80年代のエンタメを好みます。先日はアルフィーのA面集のCDを買って聴きましたが、そこに重ね重ね思うのは後の時代の音楽との厚みと奥ゆきの違いです。昔はそれを車のボディーソニックシステムの座席で聴けた、今はなかなかないことです。その厚みと奥ゆきは決して今とは違って景気が良くて金があったからではないでしょう。今は金がないからできないという決めつけで作品が作られているからそれらがないのです。
 '50年代と'70年代は革新の強い時代、生温いか熱いかは人それぞれですが、自律主義が主に描かれていた時代です。強い意志を持って生きて行こう、或いは、強い意志を持てるとよいけれどなかなか持てないという、自我の表現。
 ――十年毎に、every 10 yearsで入れ替わるのかというと、そうでもない。
 '80年代の次の十年である'90年代はいわばエンタメ界の戦国時代の様相を呈しています。左翼、革新、保守と右翼が乱立してそれぞれが自らを主張し或いは他を蹴落とそうとする時代です。多様なのは良い時代でしたが排除の論理なのは悪い時代です。
 殊に劣勢になって来ていた革新派のエンタメは生き残りを図るべくその'90年代に猛攻勢を図っています。その生き残り組の代表選手がドリカムことDreams Come Trueです。
 '00年代は左翼、革新、保守と右翼の色分かれが崩れて絵の具の灰色になった時代。曖昧模糊として個性がないけれど一応の品質はあるらa0313715_02440248.jpgしいエンタメが増えていました。国民の思想よりもグローバル世界の潮流が重要とされ、日本がそこで戦えるのは一応の品質であるという考えからのものでしょう。というか、エンタメに関しては戦う積りはなくてもはや日本だけで通用すればよいという詮めからのものであると思われます。但しその中で飛び抜けて高品質なEXILEが天覧公演をするなどして人気となりました。個性のなさも極めると最高の個性になる。
 '10年代はAKB48とその関連の楽団による列島改造を経てエンタメが粗不毛となっている時代です。分野を問わず低水準で量も乏しい。AKBsが素晴らし過ぎて他のものが生み出せないのでしょう。殊に'90年代から少数派となっている左翼と'10年代に少数派となって来ている保守が殆ど見受けられず、革新と右翼がエンタメの市場を低水準に分け合っているのが現状です。右翼は元々自己表現が苦手なのでエンタメに関してもどうしてもありきたりのものをこなすだけになるし、革新は久々の再躍進からか、昔の焼き直しでその再来を訴えています。「どこかで見たことがあるような」の処ではなくそのまんま左です。違うものがあるとすれば、大会堂の衣装ではなくホテルのディナーショーの衣装になっていることだけ。

 平成、終わるらしいですね。

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a0313715_15074081.png●weathernews 地震情報


a0313715_17314580.jpg●関東地方の緊急地震速報は ダイヤル1134 文化放送


――地震が発生したら先ずは火の点いている所を確認して直ぐに消せる火を消し、物の落下を避ける。


a0313715_13041605.jpg

ANN 報道ステーション 9.54~/月~金
ANN 報道ステーションSUNDAY 16.30~18.00/日

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# by keitan020211 | 2017-11-29 02:44 | 政治、社会 | Comments(0)