【ちょっと知りたいキリスト教】「復活」と「永遠の命」
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 今日先程に、私のツイッターのアカウントの名前を変更しました。
 新しい名は:keitan こと 渓香(Keiqua) こと Keitan
 keitanはこのブログにもツイッターにも初めから用いている名であり、私の本名に基づくものであり、渓香は私のキャバクラ嬢の頃の源氏名です。渓谷のように清かに香るような人でありたいとの願いからのものですが、物事の経過を大切にするということでもあります。目的意識は大切ですが、そのためには相応しい経過が必要です。

 先頃にクリスマスがあり、年明けを経て今は1月の後半に入っています。
 クリスマスはキリスト教においては降誕祭と呼ばれ、ナザレのイエスが生まれたことを記念する祝日です。近年は、というかかなり昔から、それを念頭にしてクリスマスはキリスト教の行事なのでキリスト教の国ではない日本人が祝うのはおかしいという意見がありますがそれはクリスマスの実際の起源を知らない誤りです。
 ネットの普及のお蔭でこのような豆知識が手軽に知れるようになっていますが、クリスマスの実際の起源は西ローマにおける冬至の祭であり、キリスト教との関係はありません。日本にも柚子湯に浸かるなどをする冬至の祭があり、冬の深まりを味わう祭として見るならばクリスマスはそのバリエーションに過ぎず日本において祝われても何の問題もないといえます。
a0313715_02044424.jpg クリスマス/Christmasの語はイエスの尊称であるキリストに由来しますが、'christ'は'crystal'に通じ、霜や雪の輝きということで、それもキリスト教の信者ではない人々が用いることに何の問題もありません。
 但しキリスト教の信者ではない人々がイエスをキリストまたはイエス キリストと呼ぶことは「キリスト」が救い主のことである以上はいわば越権行為であり正しくありません。尤も、「あんたに救われた覚えはない。」というのも如何なものかとは思われますが、その名を呼ぶことは彼は救い主であると認めることを表明することになるのでキリストとはなるべく呼ばないことが望ましいです。その辺りのことは日本の歴史の教科書などがその記述を改めることが望まれます。
 キリスト教のクリスマスはその西ローマの冬至の祭の日に合わせて独自の祝日としたものです。昨年の弊ブログの【ちょっと知りたいキリスト教】の記事に、クリスマスは冬至の祭とイエスの降誕を併せて生命の神秘を祝う日と解することができると解説しました。寒い冬はあらゆる生命体にとっては生存を左右しかねない重要な季節であるからです。
 ということで、日本政府はクリスマスの12月25日を「命の日」という名の国民の祝日にしては如何かと思います。日本の古来の冬至の日はそれとは数日ずれてしかも移動制ですが、25日をそれに加えて命の日とすれば固定日として国際性のある祝日になります。或いは23日の今の天皇誕生日を明仁天皇が退位した後にそれにすることも考えられます。11月3日の明治天皇の誕生日は文化の日、4月29日の昭和天皇の誕生日は一頃はみどりの日――:現在は5月4日で4月29日は昭和の日――で、文化、緑に命と意義のあるつながりになります。23日と25日の両方をするなら23日を「平成の日」とすればクリスマスイブの24日も祝日になり、三連休ができます。
 何やら、近年は「キリスト教徒じゃないのにおかしいよ。」みたいな屁理屈が昔よりも普通に罷り通ってしまっている時代と見えます。それが近年のクリスマスの盛り下がり様につながっていると考えられます。決してデフレ不況とは何のa0313715_02071775.jpg関係もないでしょう。恐らく、男女交際の大事な日と見做されていたかつてのクリスマスにそのような「おいしい思い」をできなかった当時には若者であった今の中高年がそのような無知に基づく屁理屈を振り翳して日本人をクリスマスとは遠ざけようと執念を持ち続けて若者の風俗を変えてやろうとしているのでしょう。そのような事情を考えると「無知の知」などというのは真赤な嘘であり、無知は罪であるとも思えます。若者のだけではなく広く国民の時めきと安らぎを奪い、自分達に取って腹いせの好い世の中にしようとしているからです。
 因みに、自分達がおいしい思いをすることができないのは彼等自らが当時のクリスマスに異常に高い相場を設けていたからでもあり、自分が作った環境に自分が適わなくて「こんなのは使えない、クリスマスなんて要らない。」と切り捨てている訳です。デフレ不況などの経済状況とは何の関係もないとはそういうことですが、彼等は安上がりに良い思いをすることさえをも阻みます、とにかくお祝いやお祭りは良くない、意味がないと。

 年が明けて元日の1月1日は神の母聖マリアの祝日があり、それがキリスト教徒にとっての初詣になります。マリアはイエスの母なのでイエスの降誕祭を過ぎて程なくその祝日になるのは自然な流れといえます。
 そしてその次の日曜日または1月6日――:国により違う。日本は前者――は主の公現の祝日――:聖公会では顕現日――があり、平たく言えばイエスが他人に会ったことを記念する祭です。
 その他人とはイエスがベツレヘム――:先日に訳あって報道ステーションなどのニュースに出た町。――で生まれた時に東の国を訪れて来た三人の博士等やイエスが大人になってから彼にヨルダン川で洗礼を授けたヨハネなどです。
 人にとっては他人と出会うことは自らの存在を意識させられて公共心などを身に着ける大切なことです。イエスにとってもそれは同じことですが、彼のそれは一々他人と出会う度毎に彼自らの存在が神に捧げられていたということを憶えるのが主の公現の祭の意味と思われます。
a0313715_02092313.jpg 人が神に捧げられることを、ギリシア正教会の教理概念では神化といいます。「神」の語の意味が古来と現代と違う日本においてはその神化の語は誤解され易いですが、ギリシア正教会のそれは古来の日本の「神」の意味と同じく、神聖なものとして捧げられるということです。神社の賽銭や榊、神酒なども「神」です。現代日本語は「神」をキリスト教の父なる神のような絶対者や天照大神のような最高者ということに用いるため、神化というとどうしても人や物が絶対者や最高者になるというようなことに誤解される訳です。尤も、キリスト教においてはイエスは絶対の神であるという信仰もありますが単なる人が一気に神となるということではなく、他者との出会いを通してその神聖さが深まってゆき、しかも元々はそうではない者が或る時になったのではなく初めから神であったと人々に認識されるようになったという信仰です。初めから神であったなら一々神になってゆく必要はないと思うかもしれませんがそうではなく、平たく言えば神であるイエスも人でしかない万人も何の努力もなく初めの性質を保つことはできないということです。そう見ると、極めて難解とされるキリスト教の神学と教理も案外と簡単なものと分かります。
 神化とは呼ばないその他のキリスト教会も、基本としてはそのような理解であり、それが主の公現の祭の意義です。ギリシア正教会はそれを降誕祭に優る祝日とし、故にクリスマスはローマカトリック教会、聖公会や諸派の降誕祭の程には元々盛り上がりません。なので「クリスマスなんて要らない。」と思う日本の人達にとってはギリシア正教圏は頗る過ごし易いかと思われますが、かの地のクリスマスは「元々はない」から盛り上がらないのであり「要らない」から盛り上がらないではありません。

 そのギリシア正教会が最も重視する祝日は春に行われる復活祭(イースター)です。
 その他のキリスト教会も本当は同じですが、圏内の一般の人々の慣行では降誕祭(クリスマス)が最も重視される傾向が永らくあるためにその他のキリスト教圏の復活祭はギリシア正教会のそれの程には盛り上がりません。

 「復活」と「永遠の命」についての話なのに復活祭についてではなくクリスマスと正月についての話が長くなりましたが、それらは密接な関わりがあります。
 イエスの誕生を記す福音書には東方の三人の博士がイエスの生家に黄金、乳香と没薬を贈り捧げたとの行があります。その話が実はイエスの死と復活を暗示するものとされます。黄金と乳香はこの世の生を象徴し、没薬は死を象徴するものであり、イエスのだけではなく人間の生と死の象徴でもあります。イエスの誕生の話には既にその死と復活がキリスト教の主題として併せて描き込まれています。但しそれはイエスの人生が初めから殺されることに運命づけられていた或いは予見されていたということではありません。旧約聖書には恰もそうであるかのように曲解することもできるような預言者の言葉がありますがそのような解釈はキリスト教の信仰に基づくものではありません。運命や予見ではなく、寧ろイエス自らがそれらの預言の本質を知って自らそのように殺される立場を引き受けたと解するのが妥当かと思いますし、後の世の殉教者等もそのような思いから命を捨てた訳でしょう。
a0313715_02124383.jpg イエスが救い主として人々に祀り上げられて担ぎ出されたのではなく、それを自分の意思で引き受けた、そこにキリスト教の信仰の焦点があります。そこに、キリスト教圏が殆どを占める西洋の本来の自己責任の概念も生まれて来たのです。そのような意味では西洋を「キリスト教世界」と位置づけるのは妥当な見方といえますが西洋の文化や思想の全てがキリスト教に由来するものではありません。
 しかしそれも近年の日本には屁理屈が罷り通っており、本来のものとは異なる自己責任の概念が知られています。その日本流の自己責任とは恐らく、キリスト教を迫害していた西ローマなどにもあった信賞必罰のことなのではないでしょうか。しかし信賞必罰は専らそれらを与える側、即ち支配する側の論理であり受ける側、即ち行動する側の論理ではありません。キリスト教だけではなく宗教の信仰はどちらかの側だけのものではありませんし、両者を一体のものとして融和を求めるものでもありません。

a0313715_02160807.jpg 今日2018年1月16日から、日本全国の気温が三日程の間だけ15度程に上がって小春日和となります。平年の3月中旬並みの気温と云われ、それを過ぎるとまた冬の寒い陽気に戻ります。
 復活祭は早ければ3月の下旬に祝われ、今年の日本の1月の陽気は早くもイエスが十字架に死して3日目に復活したと云われる復活の祭を告げるかのようです。
 私の感覚を差し挟むと、今年を含む近年の関東地方の冬の気候は昔の関東地方のそれとは違い、しのぎ易くなっていると感じます。気温は低くて寒いのは確かですが、所謂空っ風のような痛々しい寒さがなく、冷たさにも和らぎがあって暖房を使わなくても過ごせる日が多くなっています。二十年前、大学生の頃は東京の隣の狛江という町に住んでいましたが当時の当地は空っ風が秋冬の恒例の現象として肌を刺していました。「夜空のムコウ」には乾きのめした風だけが見える…。安室奈美恵の歌の切なさもそんな当時の関東地方の気候を映すかのように見えます。しかし、今は余りない。私の体がそれだけ強くなっているからでもあるかもしれませんが、関西の出身の私にとってはありがたい気候の変化です。しかしその変化には地球の温暖化による寒波と熱波の分離によるものとの説もあり、今後のなりゆきが注目されます空っ風を愛する関東人はその内に「そら見たことか!」と言うことになるかもしれません。因みに今の住む所は八王子と横浜の天気を両睨みにする地域です。
 逆に西日本は殊に今年はより寒くなっており、関東地方だけがやや高温となる日がこの処に多くあります。関東平野は元々日本海側の寒波の影響を受けにくく、全国の気候の傾向とは違くなることが多い。西日本は日本海に面する地域が多くて瀬戸内海沿いにも日本海側の冷気が低い山地を越えて伝わるので寒くなるのでしょう。また、かつての関東の空っ風も実は気温の下がりようが他と比べ小さい所に風だけが吹いて東北地方の冷気が運ばれてくるからと考えられます。

 クリスマスから復活祭に掛けての気候の変化は生、死と復活を想わせるものなのでしょう。

 イエスは『復活』ということについては実は首尾が一貫した一つの説を語ってはいません。
 キリスト教は唯、イエスの十字架の死と復活のあり様と彼の生き様にのみ、復活の神秘を見出そうとしているというのが事実です。イエスの現実の心と体にのみ復活の本質と力があると説きます。
 よって復活とは一様にどのようなものということはできません。
 イエスは復活について幾つかの違う説を別々の所で語っています。それは釈迦の得意業といわれる対機説法のようなものなのか、細かい処は分かりませんが、一ついえることは人によって違う復活があるということです。
 但しそれは偶にあるような、死んでも誰かの心に生き続けるというようなことではありません。それははっきり違うと断言できます。
 死んでも誰かの心に生き続けるとは死者の存在が霊としてのみ認識されるということであり、人は霊と肉を不可分に具える存在であるというキリスト教の信仰とは異なります。霊と肉が分離することはあり得ないので、若し肉が死ぬならば霊もまた死ぬことになり、即ち死後の存在はないとの結論になる筈です。諸派のキリスト教会には死後の存在については問わない、唯神のみに委ねられる事柄であるとするものもありますが、伝統的キリスト教会は死後の存在を認め、死後に復活があるとの信仰があります。内容はかなり違いますが仏教には輪廻転生という死後の存在についての信仰があり、死後の存在についてはキリスト教圏ではない日本人にも然程の違和感はないかと思われます。

 イエスが何故復活についての統一見解を説かないか?それは人間には様々な死生観があってその考えは容易く変わりはしない故に、或る人にとってはとって馴染みにくい一つの説を説いても仕方がないと考えてのことと思われます。逆に言えば復活は然程にもキリスト教の核心の信仰であるということです。
 しかし大きく分けて二つの説がイエスにより説かれています。

 一つは:イエスを信じる人は決して死なない。
 一つは:イエスを信じる人は死んでも生きる。

 前者は「死なない」というので、「永久の命」です。
 後者は「死んでも生きる」というので、「永遠の命」です。

 一方では「死なない」と云い、一方では「死ぬ」と云う。その首尾一貫のなさがキリスト教の重要な特色です。よって首尾の一貫するもの、矛盾のないものを求める人にはキリスト教は向きません。事実、そのような志向の高まっていた近代の西洋においてはキリスト教はどんどん地盤沈下してゆき、その影響を受けた日本においては西洋の近代文明と思想が普及しましたがキリスト教は普及の処か一定の安定勢力にもなっていません。西洋の近代文明と思想の影響のより大きい日本の所謂リベラル左派には殊にキリスト教徒やキリスト教に理解のある人が少なくてどちらかといえば保守派や右派とされる人々に多いのが実情です。そしてしばしばキリスト教徒の保守派や右派の言説はリベラル左派にちゃらんぽらんといわれて批判されます。ちゃらんぽらんとは首尾一貫がなく矛盾が多いということです。
 それでも西洋のリベラル左派には伝統的に或いは遺伝的に染み着いているキリスト教圏の発想や感覚が尚も生きていたりしますが日本のリベラル左派にはそれもないのでどうしても近代原理主義的になっています。バタ臭いというよりはマーガリン臭い。

 日本がそんな思想の地盤であるからでしょうか、近年に「永久に」と言うべき処を「永遠に」と言う人が多くなっています。「永久に続く」を「永遠に続く」などとです。
 勿論、それが日本の伝統に根差す正しい日本語ではなく、「永久に」が正しい。

 「永久」は時間の観念で捉えられるものであり、主に未来に焦点がある語です。それが変わるべきものか変わるべきではないものかを問わず、変わることがなかろうと予想されることをいいます。英語では'permanently'。
 「永遠」は時間に関わりなく変わらないもののことであり、主に過去に焦点がある語です。過去に存在した大いなるものや望ましいものを想い起し、それが今もいつも存在することを願うということです。英語では'eternally'。

 それらの違いを知ってか知らずか、何れをも「永遠」と言って恥じない人が多く、例えば池上彰もその一人です。彼はしばしば自らの司会の番組で「そうなると貧富の差は永遠に解消しないことになる訳ですね。」などとニュースの解説をしています。正に本来の永遠というものには関心のない近代原理主義の反映としての言葉遣いでしょう。そしてそのような人々が今の時代の知識と情報を支配していることに空恐ろしさを感じます。「無知の知」を通り越して「無知こそは知」といわむばかりです。また、そのような人達が逆に「世界と日本の反知性主義の台頭を憂う」などと説いており、自分を憂うているのかという感じです。永遠なるものをなくしてしまいたいから「永遠」と言うのです。
 然るに池上彰と彼を起用するテレビの企画制作者等――横並びの典型です。――には粗全く軽蔑をしか感じないのですが端的知識情報には誤りのないものも少なくはなく、教科書に載っていたことの備忘録のようなものがあるのでそれらを拾うために時折に彼の番組を偵察しています。三日前の晩に今年の私の初夢となった夢に池上彰が出て来ました。彼が私の学校の講師をしており、講師控室で'70年代風の無線機とラジオが一体になったミニコンポに聴き入ってにんまりしている夢です。池上彰の本質がそこに分かり易く解説されているようで印象的な夢です。

 復活については、「イエスを信じる人は決して死なない」という説が訴える人々と「イエスを信じる人は死んでも生きる」という説が訴える人々がいるのです。それらは何れも新約聖書の福音書に載っています。イエスが或る時に考えを変えたのではなく、どちらもキリスト教の信仰の本質を含むものとして説かれています。
a0313715_02253401.jpeg 「イエスを信じる人は決して死なない」とはいいますが、実績としては例えば日本には明治生まれの人は既に数名しかいません。昨年2017年にメソジスト教会系の日本基督教団の信徒で聖公会の聖路加国際病院の医師であった日野原重明教授が105歳で逝去しました。それでも平均寿命よりかなり長い生涯ですが、理論的には105歳でもかなり短い、200年も300年も生きることができるともいえます。旧約聖書に記される800年とか930年とかの生涯も強ち誇張とはいえません。しかしイエス自らが復活の後を含めても30年余りしか生きておらず、少なくとも今の人類世界にはないとはいえそうです。因みに私は150年以上生きることを目標としています。多くの場合はそれ程には持たないのは「100年は持たない」などの先入観の支配はそれだけ強いものであるからです。人間は思うようにはならないのではなく、思うようにしかならない。
 片や、「イエスを信じる人は死んでも生きる」は大筋では相当の齢になれば死ぬことを前提とする説です。または不慮の出来事により不本意に亡くなった人々を含むものです。悔いはないか不本意かの違いが先ずあることからしても死と復活についての説は統一することはできないと分かります。よって「死んでも生きる」についての理解にも幾つもの説が成り立ちます。
 イエスの復活以外の死後の復活とは現象として見ては何かについていえば、取り敢えずは死後に気化などの色々な体の物質の変化を経てもそこには霊が宿り続けて生前から引き続く心を持ち続けると見做すのが妥当かと思いますが――人の体はそもそも物質なので死とはそれが動かなくなることでしかなく、生命を失うことではないとも考えられる。つまり細胞などの「死滅」とはあくまでも状態の相対的変化に過ぎないことになる。――、聖書もキリスト教会もその点については「体の復活と永遠の命」ということの他には何も言及してはいません。

 何にせよ、一つの説だけを信じるのではなく事柄を多角的に見ること、明白な誤りの外は全て尊重すること、それが大切であるといえそうです。その姿勢が寛容の精神を云う人達の程にないのが今の時代の姿です。

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