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 長崎県の隠れキリシタンにゆかりのあるカトリック教会の数々の歴史的施設等がこの程にユネスコの世界風土遺産に認定されることになりました。
 その報を見て怪訝に感じたのは隠れキリシタンを「潜伏キリシタン」と呼んでいることです。
 隠れキリシタンは隠れキリシタンと呼び慣わされており、「潜伏キリシタン」なんて聞いたこともありません。潜伏とは、何やら極左テロ集団やオウム真理教のようであり、隠れキリシタンがそのように言い換えられているのはキリスト教に対する敵対心や再迫害の意図の現れとしか考えられません。本当に酷い言葉であり、そのような言葉を政府が用いているのは極めて由々しいことです。なのでキリスト教の関係者はその世界遺産の推挙に喜んでばかりもいられないでしょうし、寧ろそれらの遺産の当事者として決定の取消の検討を申し入れてもよいのではないでしょうか。

 隠れキリシタンとは江戸時代に地元社会による迫害を受けたことにより当地のキリスト教徒等が自らの信仰を隠して過ごしていたこと。因みに、江戸幕府がキリスト教徒を迫害していたというのは誤りであり、地元社会による迫害を避けさせてキリスト教徒の安全と人権を守るために仕方なく採られたのがキリシタン禁教令です。寧ろ江戸幕府はキリスト教を擁護したい考え方でした。表向きはキリスト教を公認しないことにしながら迫害を止めさせることが目的であり、観音菩薩像の形をした聖マリア像であるマリア観音などに見られる隠れキリシタンの慣習を勧めたのも江戸幕府の側です。また、記録が残っていないので分かりませんが、禁教令は断続的に解かれたことがあるとも考えられます。
 つまり、今は長崎は日本のキリスト教の発祥の地であり元々キリスト教に親和性の強い土地柄であったかのように思われていますが実は元々は長崎は反キリスト教の感情と排除の強い土地柄でありました。それががらりと変わったのはキリスト教が公認されて文明開化の勧められた明治時代以降です。江戸時代以前からキリスト教に肯定的であったのは主に大阪(旧:大坂)、京都や江戸の三大都市及びその周辺であり、フランシスコ ザビエル宣教師が日本を訪れてキリスト教を伝えた室町時代の末期からのそれらの地域においてはキリスト教徒が加速度的に増えていたといわれます。
 また、瀬戸焼の町として知られる愛知県瀬戸市は隠れキリシタンを想わせるような、焼物の壺の中に十字架が隠してあるかのような形の印を市章としています。
 ――故に、件の世界遺産の登録が長崎の元々の反キリスト教的感情を何百年振りに呼び覚ますことにつながり、長崎にひいては日本中にキリスト教やその関係筋への現代的迫害が増えるのではないかと懸念されます。「お前らは単なる観光資源、いい気な顔をするな。」みたいに。先日は早速や東京のキリスト教学校である青山学院が爆破予告をされて全学が一日休講となっています。無関係とは考えられません。

 長崎も元はそうであったように、日本には反キリスト教の感情の強い人々が多いとされます。彼等の数は然程に多くはなくても影響力が強いのは確かであろうといえます。また、反キリスト教の意識はなくて寧ろ自らはキリスト教徒ではないがキリスト教に心から共感するというようなことを云いながらその内容を全く誤って解していて実態は反キリスト教な人もそう多くはないようですが見受けられます。後者は殊にカトリック教会のローマ司教(教皇)を平和の使者や寛容の精神などといいしばしば絶賛します。中にはそれを日本の天皇と重ね合わせて見る人もいます。勿論、教皇と天皇は日本語の同じ字を用いても全く異なるものです。聖書に擬えるなら、「天皇のものは天皇に、教皇のものは教皇に返しなさい。」とでもなるでしょう。しかし天皇はそのイエスの言葉「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」が念頭に置くローマ皇帝とも異なるものです。

 但しそれらの三者のいずれも、自らの任された領域を治める者であることは同じです。治めるものが異なればそのあり方も自ずと異なります。

 そもそも「治める」とは何か?――その問いへの一つの答というか示唆がキリスト教やユダヤ教の信ずる聖書にあります。

 旧約聖書の創世記の天地創造の話にこのような行があります。
 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。
 「治める」ではなく「支配する」と記されますが、それは治める者というとどうしても一人の長やその周辺の者達が思い浮かぶので何人いても差支えのない支配する者という言葉になったと思われます。しかし本質としては治めることと支配することは同じことです。
 実は日本などの反キリスト教な人々がキリスト教に最も反感を持つのもこの行です。キリスト教は人間が全てを支配すると考えている、それは傲慢なことであるといいます。
 しかし聖書はそこに人間が全てを支配するというようなことを説くのではありません。治めること、支配することとは何かという根源の問いがそこにはあります。
 実際に現実を見て考えれば必然に分かりますが、人間が海の魚、空の鳥や地の上を這う生き物の全てを思うように支配することができる筈はありません。烏が盗み取ったハンガーを持って飛んでいたりさえします。
 そこで少し勘違いしている人は人間の力だけではできないことも神の助けがあればできるといいます。しかし神の助けがあろうとできないことはできません。聖書はそのようなことを云うのではない。
 その神の言葉とされるものは「全てを支配せよ」とではなく「すべて支配せよ」と言います。英語なら'dominate the all'ではなく'dominate all'です。'the'があるかないかにより意味は全く違います。
 「すべて支配する/dominate all」:一つの解釈は「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして治める」こと。全身全霊や不撓不屈とも言えますが、それが新約聖書においては「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。」というイエスの言葉に変化します。主に公に責任を負う個人の生き方に関わる解釈のし方です。なかなか支配することができそうにはない、しかしその難題に向き合いつつ生きる。
 もう一つの解釈は「なるべく何もしないこと」です。日本には昔「何もせんじゅうろう」と呼ばれた林銑十郎という総理大臣がいました。彼がそのように呼ばれたのは何かをするべき時なのに何もしないことを揶揄されてのものですが、一般論からすれば「何もせん」ことは政治の要諦として重要な心得です。自由主義の原点は国民の自由を守ることの外にはなるべく何もしない政治が望ましいということです。但し国民の権利や安全を守るための武力を含む力の行使はためらわない。それは今日に主にいわれる自由主義と別けて古典的自由主義と呼ばれます。しかし古典的自由主義とはかなり趣向を異にするような今日の自由主義も元来は「何もせん」の古典的自由主義の影響を強く受けて成り立ったものであり、政治が介入することのできる事柄は相当に限られるものであるという基本の認識はヨーロッパ諸国やアメリカ二国の自由主義においては変わりありません。自由主義ではなく保守と呼ばれる勢力もまた同じです。
 そのような自由主義は人間ができることはかなり限られるという聖書の認識の影響を受けて出来たものです。つまり、反キリスト教な人々の嫌う、人間が全てを支配するということとは初めから全く違うのがユダヤ・キリスト教です。
 そのような誤解が生じるのは日本は常に「天下の統一」のような全日本を一手に掌握する権力を得るための争いがあり、「全てを支配する」ことへの願望が強くありながらその試みがしばしば挫折して「所詮はこの位しかできない」という意識を持たされているからであろうと思われます。最も成功した日本の権力者は江戸幕府の徳川家ですが、地方分権制にして「なるべく何もしないこと」を体制作りの肝に据えていたからでしょう。処が地方分権制にしたら今度はキリシタンの迫害などの局地問題を招いた。
 「所詮はこの位しかできない」という意識は現代にはより強まっていると見え、反キリスト教的価値観に基づく言説や行動も平成の時代にはそれ以前よりも増えています。同時に、キリスト教を誤解して「共感」する人々もまた増えていると見えます。

 なるべく何もしないのが政治の要諦であるとはいえ、必ずしなくてはならないことは欠かさない。少し前の時代までは日本も諸外国も、その所謂右も左もそのような取り組み方が守られていたと思います。しかし今は「必ずしなくてはならないこと」というような感じのものではなく「やってみたいこと」や「そうしないと遅れているといわれていること」が政治に求められているものの多くであると感じられます。特に自由主義と呼ばれる勢力には顕著です。政治や社会の根底にそれぞれの信仰がなく、政治や社会が世俗主義になっている。

 キリスト教圏である西洋の人々の現実の姿を見れば、人間が世の全てを支配することができるなどとは初めから思っていないことは明らかです。人間が自然をいじることについての責任もまた重く認識されている。
 キリスト教とはあんなもの、西洋とはあんなものという空想がそれを好むにせよ嫌うにせよ、現代の日本の世の認識とあり方を歪めているものの一つなのでしょう。

 平成の世が終わるまであと356日。

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by keitan020211 | 2018-05-09 03:15 | ちょっと知りたいキリスト教 | Comments(0)
【ちょっと知りたいキリスト教】「復活」と「永遠の命」
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 今日先程に、私のツイッターのアカウントの名前を変更しました。
 新しい名は:keitan こと 渓香(Keiqua) こと Keitan
 keitanはこのブログにもツイッターにも初めから用いている名であり、私の本名に基づくものであり、渓香は私のキャバクラ嬢の頃の源氏名です。渓谷のように清かに香るような人でありたいとの願いからのものですが、物事の経過を大切にするということでもあります。目的意識は大切ですが、そのためには相応しい経過が必要です。

 先頃にクリスマスがあり、年明けを経て今は1月の後半に入っています。
 クリスマスはキリスト教においては降誕祭と呼ばれ、ナザレのイエスが生まれたことを記念する祝日です。近年は、というかかなり昔から、それを念頭にしてクリスマスはキリスト教の行事なのでキリスト教の国ではない日本人が祝うのはおかしいという意見がありますがそれはクリスマスの実際の起源を知らない誤りです。
 ネットの普及のお蔭でこのような豆知識が手軽に知れるようになっていますが、クリスマスの実際の起源は西ローマにおける冬至の祭であり、キリスト教との関係はありません。日本にも柚子湯に浸かるなどをする冬至の祭があり、冬の深まりを味わう祭として見るならばクリスマスはそのバリエーションに過ぎず日本において祝われても何の問題もないといえます。
a0313715_02044424.jpg クリスマス/Christmasの語はイエスの尊称であるキリストに由来しますが、'christ'は'crystal'に通じ、霜や雪の輝きということで、それもキリスト教の信者ではない人々が用いることに何の問題もありません。
 但しキリスト教の信者ではない人々がイエスをキリストまたはイエス キリストと呼ぶことは「キリスト」が救い主のことである以上はいわば越権行為であり正しくありません。尤も、「あんたに救われた覚えはない。」というのも如何なものかとは思われますが、その名を呼ぶことは彼は救い主であると認めることを表明することになるのでキリストとはなるべく呼ばないことが望ましいです。その辺りのことは日本の歴史の教科書などがその記述を改めることが望まれます。
 キリスト教のクリスマスはその西ローマの冬至の祭の日に合わせて独自の祝日としたものです。昨年の弊ブログの【ちょっと知りたいキリスト教】の記事に、クリスマスは冬至の祭とイエスの降誕を併せて生命の神秘を祝う日と解することができると解説しました。寒い冬はあらゆる生命体にとっては生存を左右しかねない重要な季節であるからです。
 ということで、日本政府はクリスマスの12月25日を「命の日」という名の国民の祝日にしては如何かと思います。日本の古来の冬至の日はそれとは数日ずれてしかも移動制ですが、25日をそれに加えて命の日とすれば固定日として国際性のある祝日になります。或いは23日の今の天皇誕生日を明仁天皇が退位した後にそれにすることも考えられます。11月3日の明治天皇の誕生日は文化の日、4月29日の昭和天皇の誕生日は一頃はみどりの日――:現在は5月4日で4月29日は昭和の日――で、文化、緑に命と意義のあるつながりになります。23日と25日の両方をするなら23日を「平成の日」とすればクリスマスイブの24日も祝日になり、三連休ができます。
 何やら、近年は「キリスト教徒じゃないのにおかしいよ。」みたいな屁理屈が昔よりも普通に罷り通ってしまっている時代と見えます。それが近年のクリスマスの盛り下がり様につながっていると考えられます。決してデフレ不況とは何のa0313715_02071775.jpg関係もないでしょう。恐らく、男女交際の大事な日と見做されていたかつてのクリスマスにそのような「おいしい思い」をできなかった当時には若者であった今の中高年がそのような無知に基づく屁理屈を振り翳して日本人をクリスマスとは遠ざけようと執念を持ち続けて若者の風俗を変えてやろうとしているのでしょう。そのような事情を考えると「無知の知」などというのは真赤な嘘であり、無知は罪であるとも思えます。若者のだけではなく広く国民の時めきと安らぎを奪い、自分達に取って腹いせの好い世の中にしようとしているからです。
 因みに、自分達がおいしい思いをすることができないのは彼等自らが当時のクリスマスに異常に高い相場を設けていたからでもあり、自分が作った環境に自分が適わなくて「こんなのは使えない、クリスマスなんて要らない。」と切り捨てている訳です。デフレ不況などの経済状況とは何の関係もないとはそういうことですが、彼等は安上がりに良い思いをすることさえをも阻みます、とにかくお祝いやお祭りは良くない、意味がないと。

 年が明けて元日の1月1日は神の母聖マリアの祝日があり、それがキリスト教徒にとっての初詣になります。マリアはイエスの母なのでイエスの降誕祭を過ぎて程なくその祝日になるのは自然な流れといえます。
 そしてその次の日曜日または1月6日――:国により違う。日本は前者――は主の公現の祝日――:聖公会では顕現日――があり、平たく言えばイエスが他人に会ったことを記念する祭です。
 その他人とはイエスがベツレヘム――:先日に訳あって報道ステーションなどのニュースに出た町。――で生まれた時に東の国を訪れて来た三人の博士等やイエスが大人になってから彼にヨルダン川で洗礼を授けたヨハネなどです。
 人にとっては他人と出会うことは自らの存在を意識させられて公共心などを身に着ける大切なことです。イエスにとってもそれは同じことですが、彼のそれは一々他人と出会う度毎に彼自らの存在が神に捧げられていたということを憶えるのが主の公現の祭の意味と思われます。
a0313715_02092313.jpg 人が神に捧げられることを、ギリシア正教会の教理概念では神化といいます。「神」の語の意味が古来と現代と違う日本においてはその神化の語は誤解され易いですが、ギリシア正教会のそれは古来の日本の「神」の意味と同じく、神聖なものとして捧げられるということです。神社の賽銭や榊、神酒なども「神」です。現代日本語は「神」をキリスト教の父なる神のような絶対者や天照大神のような最高者ということに用いるため、神化というとどうしても人や物が絶対者や最高者になるというようなことに誤解される訳です。尤も、キリスト教においてはイエスは絶対の神であるという信仰もありますが単なる人が一気に神となるということではなく、他者との出会いを通してその神聖さが深まってゆき、しかも元々はそうではない者が或る時になったのではなく初めから神であったと人々に認識されるようになったという信仰です。初めから神であったなら一々神になってゆく必要はないと思うかもしれませんがそうではなく、平たく言えば神であるイエスも人でしかない万人も何の努力もなく初めの性質を保つことはできないということです。そう見ると、極めて難解とされるキリスト教の神学と教理も案外と簡単なものと分かります。
 神化とは呼ばないその他のキリスト教会も、基本としてはそのような理解であり、それが主の公現の祭の意義です。ギリシア正教会はそれを降誕祭に優る祝日とし、故にクリスマスはローマカトリック教会、聖公会や諸派の降誕祭の程には元々盛り上がりません。なので「クリスマスなんて要らない。」と思う日本の人達にとってはギリシア正教圏は頗る過ごし易いかと思われますが、かの地のクリスマスは「元々はない」から盛り上がらないのであり「要らない」から盛り上がらないではありません。

 そのギリシア正教会が最も重視する祝日は春に行われる復活祭(イースター)です。
 その他のキリスト教会も本当は同じですが、圏内の一般の人々の慣行では降誕祭(クリスマス)が最も重視される傾向が永らくあるためにその他のキリスト教圏の復活祭はギリシア正教会のそれの程には盛り上がりません。

 「復活」と「永遠の命」についての話なのに復活祭についてではなくクリスマスと正月についての話が長くなりましたが、それらは密接な関わりがあります。
 イエスの誕生を記す福音書には東方の三人の博士がイエスの生家に黄金、乳香と没薬を贈り捧げたとの行があります。その話が実はイエスの死と復活を暗示するものとされます。黄金と乳香はこの世の生を象徴し、没薬は死を象徴するものであり、イエスのだけではなく人間の生と死の象徴でもあります。イエスの誕生の話には既にその死と復活がキリスト教の主題として併せて描き込まれています。但しそれはイエスの人生が初めから殺されることに運命づけられていた或いは予見されていたということではありません。旧約聖書には恰もそうであるかのように曲解することもできるような預言者の言葉がありますがそのような解釈はキリスト教の信仰に基づくものではありません。運命や予見ではなく、寧ろイエス自らがそれらの預言の本質を知って自らそのように殺される立場を引き受けたと解するのが妥当かと思いますし、後の世の殉教者等もそのような思いから命を捨てた訳でしょう。
a0313715_02124383.jpg イエスが救い主として人々に祀り上げられて担ぎ出されたのではなく、それを自分の意思で引き受けた、そこにキリスト教の信仰の焦点があります。そこに、キリスト教圏が殆どを占める西洋の本来の自己責任の概念も生まれて来たのです。そのような意味では西洋を「キリスト教世界」と位置づけるのは妥当な見方といえますが西洋の文化や思想の全てがキリスト教に由来するものではありません。
 しかしそれも近年の日本には屁理屈が罷り通っており、本来のものとは異なる自己責任の概念が知られています。その日本流の自己責任とは恐らく、キリスト教を迫害していた西ローマなどにもあった信賞必罰のことなのではないでしょうか。しかし信賞必罰は専らそれらを与える側、即ち支配する側の論理であり受ける側、即ち行動する側の論理ではありません。キリスト教だけではなく宗教の信仰はどちらかの側だけのものではありませんし、両者を一体のものとして融和を求めるものでもありません。

a0313715_02160807.jpg 今日2018年1月16日から、日本全国の気温が三日程の間だけ15度程に上がって小春日和となります。平年の3月中旬並みの気温と云われ、それを過ぎるとまた冬の寒い陽気に戻ります。
 復活祭は早ければ3月の下旬に祝われ、今年の日本の1月の陽気は早くもイエスが十字架に死して3日目に復活したと云われる復活の祭を告げるかのようです。
 私の感覚を差し挟むと、今年を含む近年の関東地方の冬の気候は昔の関東地方のそれとは違い、しのぎ易くなっていると感じます。気温は低くて寒いのは確かですが、所謂空っ風のような痛々しい寒さがなく、冷たさにも和らぎがあって暖房を使わなくても過ごせる日が多くなっています。二十年前、大学生の頃は東京の隣の狛江という町に住んでいましたが当時の当地は空っ風が秋冬の恒例の現象として肌を刺していました。「夜空のムコウ」には乾きのめした風だけが見える…。安室奈美恵の歌の切なさもそんな当時の関東地方の気候を映すかのように見えます。しかし、今は余りない。私の体がそれだけ強くなっているからでもあるかもしれませんが、関西の出身の私にとってはありがたい気候の変化です。しかしその変化には地球の温暖化による寒波と熱波の分離によるものとの説もあり、今後のなりゆきが注目されます空っ風を愛する関東人はその内に「そら見たことか!」と言うことになるかもしれません。因みに今の住む所は八王子と横浜の天気を両睨みにする地域です。
 逆に西日本は殊に今年はより寒くなっており、関東地方だけがやや高温となる日がこの処に多くあります。関東平野は元々日本海側の寒波の影響を受けにくく、全国の気候の傾向とは違くなることが多い。西日本は日本海に面する地域が多くて瀬戸内海沿いにも日本海側の冷気が低い山地を越えて伝わるので寒くなるのでしょう。また、かつての関東の空っ風も実は気温の下がりようが他と比べ小さい所に風だけが吹いて東北地方の冷気が運ばれてくるからと考えられます。

 クリスマスから復活祭に掛けての気候の変化は生、死と復活を想わせるものなのでしょう。

 イエスは『復活』ということについては実は首尾が一貫した一つの説を語ってはいません。
 キリスト教は唯、イエスの十字架の死と復活のあり様と彼の生き様にのみ、復活の神秘を見出そうとしているというのが事実です。イエスの現実の心と体にのみ復活の本質と力があると説きます。
 よって復活とは一様にどのようなものということはできません。
 イエスは復活について幾つかの違う説を別々の所で語っています。それは釈迦の得意業といわれる対機説法のようなものなのか、細かい処は分かりませんが、一ついえることは人によって違う復活があるということです。
 但しそれは偶にあるような、死んでも誰かの心に生き続けるというようなことではありません。それははっきり違うと断言できます。
 死んでも誰かの心に生き続けるとは死者の存在が霊としてのみ認識されるということであり、人は霊と肉を不可分に具える存在であるというキリスト教の信仰とは異なります。霊と肉が分離することはあり得ないので、若し肉が死ぬならば霊もまた死ぬことになり、即ち死後の存在はないとの結論になる筈です。諸派のキリスト教会には死後の存在については問わない、唯神のみに委ねられる事柄であるとするものもありますが、伝統的キリスト教会は死後の存在を認め、死後に復活があるとの信仰があります。内容はかなり違いますが仏教には輪廻転生という死後の存在についての信仰があり、死後の存在についてはキリスト教圏ではない日本人にも然程の違和感はないかと思われます。

 イエスが何故復活についての統一見解を説かないか?それは人間には様々な死生観があってその考えは容易く変わりはしない故に、或る人にとってはとって馴染みにくい一つの説を説いても仕方がないと考えてのことと思われます。逆に言えば復活は然程にもキリスト教の核心の信仰であるということです。
 しかし大きく分けて二つの説がイエスにより説かれています。

 一つは:イエスを信じる人は決して死なない。
 一つは:イエスを信じる人は死んでも生きる。

 前者は「死なない」というので、「永久の命」です。
 後者は「死んでも生きる」というので、「永遠の命」です。

 一方では「死なない」と云い、一方では「死ぬ」と云う。その首尾一貫のなさがキリスト教の重要な特色です。よって首尾の一貫するもの、矛盾のないものを求める人にはキリスト教は向きません。事実、そのような志向の高まっていた近代の西洋においてはキリスト教はどんどん地盤沈下してゆき、その影響を受けた日本においては西洋の近代文明と思想が普及しましたがキリスト教は普及の処か一定の安定勢力にもなっていません。西洋の近代文明と思想の影響のより大きい日本の所謂リベラル左派には殊にキリスト教徒やキリスト教に理解のある人が少なくてどちらかといえば保守派や右派とされる人々に多いのが実情です。そしてしばしばキリスト教徒の保守派や右派の言説はリベラル左派にちゃらんぽらんといわれて批判されます。ちゃらんぽらんとは首尾一貫がなく矛盾が多いということです。
 それでも西洋のリベラル左派には伝統的に或いは遺伝的に染み着いているキリスト教圏の発想や感覚が尚も生きていたりしますが日本のリベラル左派にはそれもないのでどうしても近代原理主義的になっています。バタ臭いというよりはマーガリン臭い。

 日本がそんな思想の地盤であるからでしょうか、近年に「永久に」と言うべき処を「永遠に」と言う人が多くなっています。「永久に続く」を「永遠に続く」などとです。
 勿論、それが日本の伝統に根差す正しい日本語ではなく、「永久に」が正しい。

 「永久」は時間の観念で捉えられるものであり、主に未来に焦点がある語です。それが変わるべきものか変わるべきではないものかを問わず、変わることがなかろうと予想されることをいいます。英語では'permanently'。
 「永遠」は時間に関わりなく変わらないもののことであり、主に過去に焦点がある語です。過去に存在した大いなるものや望ましいものを想い起し、それが今もいつも存在することを願うということです。英語では'eternally'。

 それらの違いを知ってか知らずか、何れをも「永遠」と言って恥じない人が多く、例えば池上彰もその一人です。彼はしばしば自らの司会の番組で「そうなると貧富の差は永遠に解消しないことになる訳ですね。」などとニュースの解説をしています。正に本来の永遠というものには関心のない近代原理主義の反映としての言葉遣いでしょう。そしてそのような人々が今の時代の知識と情報を支配していることに空恐ろしさを感じます。「無知の知」を通り越して「無知こそは知」といわむばかりです。また、そのような人達が逆に「世界と日本の反知性主義の台頭を憂う」などと説いており、自分を憂うているのかという感じです。永遠なるものをなくしてしまいたいから「永遠」と言うのです。
 然るに池上彰と彼を起用するテレビの企画制作者等――横並びの典型です。――には粗全く軽蔑をしか感じないのですが端的知識情報には誤りのないものも少なくはなく、教科書に載っていたことの備忘録のようなものがあるのでそれらを拾うために時折に彼の番組を偵察しています。三日前の晩に今年の私の初夢となった夢に池上彰が出て来ました。彼が私の学校の講師をしており、講師控室で'70年代風の無線機とラジオが一体になったミニコンポに聴き入ってにんまりしている夢です。池上彰の本質がそこに分かり易く解説されているようで印象的な夢です。

 復活については、「イエスを信じる人は決して死なない」という説が訴える人々と「イエスを信じる人は死んでも生きる」という説が訴える人々がいるのです。それらは何れも新約聖書の福音書に載っています。イエスが或る時に考えを変えたのではなく、どちらもキリスト教の信仰の本質を含むものとして説かれています。
a0313715_02253401.jpeg 「イエスを信じる人は決して死なない」とはいいますが、実績としては例えば日本には明治生まれの人は既に数名しかいません。昨年2017年にメソジスト教会系の日本基督教団の信徒で聖公会の聖路加国際病院の医師であった日野原重明教授が105歳で逝去しました。それでも平均寿命よりかなり長い生涯ですが、理論的には105歳でもかなり短い、200年も300年も生きることができるともいえます。旧約聖書に記される800年とか930年とかの生涯も強ち誇張とはいえません。しかしイエス自らが復活の後を含めても30年余りしか生きておらず、少なくとも今の人類世界にはないとはいえそうです。因みに私は150年以上生きることを目標としています。多くの場合はそれ程には持たないのは「100年は持たない」などの先入観の支配はそれだけ強いものであるからです。人間は思うようにはならないのではなく、思うようにしかならない。
 片や、「イエスを信じる人は死んでも生きる」は大筋では相当の齢になれば死ぬことを前提とする説です。または不慮の出来事により不本意に亡くなった人々を含むものです。悔いはないか不本意かの違いが先ずあることからしても死と復活についての説は統一することはできないと分かります。よって「死んでも生きる」についての理解にも幾つもの説が成り立ちます。
 イエスの復活以外の死後の復活とは現象として見ては何かについていえば、取り敢えずは死後に気化などの色々な体の物質の変化を経てもそこには霊が宿り続けて生前から引き続く心を持ち続けると見做すのが妥当かと思いますが――人の体はそもそも物質なので死とはそれが動かなくなることでしかなく、生命を失うことではないとも考えられる。つまり細胞などの「死滅」とはあくまでも状態の相対的変化に過ぎないことになる。――、聖書もキリスト教会もその点については「体の復活と永遠の命」ということの他には何も言及してはいません。

 何にせよ、一つの説だけを信じるのではなく事柄を多角的に見ること、明白な誤りの外は全て尊重すること、それが大切であるといえそうです。その姿勢が寛容の精神を云う人達の程にないのが今の時代の姿です。

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by keitan020211 | 2018-01-17 02:29 | ちょっと知りたいキリスト教 | Comments(0)
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a0313715_18415816.jpg ロバート キャパという20世紀の世界大戦の時代を生きたハンガリーの戦場カメラマンが「私の願いは私が失業することだ。」と語ったことがあるという。弊ブログのフォローブログ『旧民主党支持者の、立憲民主党応援ブログです!!』が最近の記事に言及している。
 キャパ氏は逝去した1954年に日本を毎日新聞社の招待により訪れている。
 キャパ氏の撮る写真が載ってはいないが私は20世紀末に毎日新聞社の発行の『20世紀の記憶』のシリーズ本を何冊か買って読んだ。20世紀を報道写真等と共に「振り返る」ものであり、取り分け戦中戦後の巻は見応えがある。その本を通して初めて知ったことも多い。
 報道カメラマンはジャーナリストに随行することが多くてジャーナリズムの一部を構成するのでここでは報道カメラマンをもジャーナリストと呼ぶ。
 
 「私の願いは私が失業することだ。」――つまり、ジャーナリストが失業することは良いことなのであろうか?
 果ては、ジャーナリストという職業がなくなることは良いことなのであろうか?
 キャパ氏のその言葉はそんな素朴な疑問を呈する。
 その言葉はジャーナリストが要らなくなる世の中が望ましい、即ちジャーナリズムの主な題材である戦争や政治の悪、社会の悪、個人の罪……そのようなものがなくなることが望ましいということであるが、そのようなことがあり得るのかという問いが浮かび上がる。
 因みに、「御免で済むなら警察は要らない。」という言葉とは意味が違う。その言葉は悪いことが「御免」と言えば済む故に警察の要らない世の中を想定するものであり、悪いことがなくなることを想定するキャパ氏の言葉とは根本が違う。

 先ずは私、弊ブログの常々言っていることから見ると、世の悪いことは人々がそれがない世の中というものを想像することができず、人が想像することのできないことは決して実現しない故に世の中の悪いことは決してなくならない。それが良いのか悪いのかについては何とも言いようがない。まだ存在していない未来を良いとも悪いともいうことはできない。人は只、現在までに存在している物事を良いか悪いかいうことができるだけである。

 つまり、キャパ氏の願いは実現しない訳であるがそれは良くないことであるとはいえない。
 尤も、キャパ氏はジャーナリズムが需要に応える供給ではなく、供給が需要を作り出す近現代の状況を批判してそのように語るのかもしれない。軍事兵器にもその供給が需要を作り出している例があるし、昨今の日本における感動ポルノと呼ばれる社会ドキュメンタリーもその一つであろう。何等かの必要や欲望の満足のためにではなく、身や技を見せびらかすための商売、ジャーナリズムもまたしばしばその陥穽に嵌まっている。
 ジャーナリズムが自らの存在を顕示するためではなければ、人間の罪はなくなるものではない以上はジャーナリストが失業することは望ましくはないのである。

a0313715_18492671.jpg キャパ氏の出身のハンガリーの宗教はカトリック教会が六割、カルヴァン派が二割にその他と、キリスト教が殆どを占める。
 キリスト教もまた人間の罪はなくならないといい、キャパ氏の言葉はキリスト教がヨーロッパ世界において相対化されて来ていた20世紀の前半の時代の思潮を反映するかのようである。ハンガリーは彼の晩年に共産化が興り、ハンガリー人民共和国という共産主義国家になったためにキリスト教の存在意義は更に下がった。
 それでもヨーロッパ人の多くが人間の罪を題材とするジャーナリズムの存在意義を疑わない中、ジャーナリズムを相対化するかのようなキャパ氏の見方は新しい思潮を物語るものといえる。脱宗教と脱ジャーナリズムが人間の世界を幸福にするという。
 その流れに棹差すかのように見えて水を差したのはイギリスのロックバンドビートルズのジョン レノン、「わしはキリストよりも有名よ!」と'60年代に語り、'70年代には「天国がないと想う」と歌う。――一見はキャパ氏の時代を受け継ぐかのような印象であるが実はその逆を、人間の罪は決してなくならないということを語りまたは歌っていた。キリスト教のものの見方をキリストと呼ばれるイエスよりも分かり易く伝えたので、自らをキリストよりも有名なりと云うのは尤もなことである。

 何故キリスト教は人間の罪は決してなくならないというのか?

 そのことは旧約聖書の創世記の初めに記されているとされるが、先ずはその解釈が難しくて書そのものの由来も一つのものではなく二つの別の書物の併合されたものであるといい、その決定的理由を探り出すことはなかなかできない。
 キリスト教においてしばしばなされるその説明は「人が神に背いたことが罪の初めである。」という。
 しかし神の存在を信じない人にはその説明は何も訴えんじゅうろうである。ないものに背くことはできないからである。
 先日にフランシスコローマ司教が偽善的キリスト者よりは無神論者がましであると語ったと報じられている。珍しく真面なことを言う、彼がローマ司教になってから初めて正しいことを語った言葉である。それは一般論からしてもキリスト教の観点からしても正しい。但し偽善的キリスト者というものがどんなものであるかは人それぞれに見方が違い、本当は偽善ではないものが偽善と見られることもあるのでその手の言葉はキリスト教に対する嫌悪や迫害を招いて自らの首を絞めることになりかねない危うさがある。尤も、そこでは自らがキリスト教の者である故にキリスト者について言ったまでであり、それをあらゆる宗教に読み替えることもできる普遍性はある。

 そのカトリック教会は元々、神の存在を認めない無神論者にも分かるような「罪」の概念がある。キリスト教においてそれと同じものがあるのは罪の告白をして赦しを得る秘跡――:キリスト教の枢要をなす七つの礼典――のあるギリシア正教会と聖公会だけであり、プロテスタントとも呼ばれる諸派にはない。諸派は「人が神に背いたことが罪の初めである。」ということをしか云わない。キリスト教にはキリスト者ではない人々のことについては分からないので干渉しないという考え方の徹底の故でもある。キリスト教はキリスト教にとっての罪のことだけを思えばよいというのである。故に諸派のキリスト者にとってはイスラム国などのようなイスラム過激派のしていることは「罪」ではなく「迷惑」として斥ける対象でしかない。自分達への迷惑を「悪の枢軸」とするのが昨今のキリスト教諸派圏の思潮である。
 旧教と総称されるカトリック、ギリシア正教と聖公会もまた「人が神に背いたことが罪の初めである。」とはいうが「キリスト教はキリスト教にとっての罪のことだけを思えばよい」という考え方はない。宗教を問わず問うべき人間の罪というものはあると見る。
 キリスト旧教における罪の概念は「人が自ら罪と思うことが罪である。」というものである。どんなことであれ、悪いと思えば悪い、悪くないと思えば悪くない、至って単純な原理である。
 そこには罪は人が作り出すものであり神が作り出すものではないという前提がある。何か罪という実体があって神がそれを作り出したのではない。人が罪を作り出すことができるのは神が人を自由な意思と責任のあるものとして造ったからである。自由の行使が罪を生むことがあるという。しかし神はそれでも人の自由を剥奪せずに罪を生みながらも自由を持ち続けることを望むことにした。故に世の中に悪いことがあり続けるのは神の望みからなっていることなので決してなくなることはないという。
 罪は実体をなすものではない以上は全てのものが実体として善となりまたはあり続けることができるといい、それを保証するものが洗礼の秘跡を一とする七つの秘跡であるとされる。それがないと保証されはしないが自らが善となりまたはあり続ける意思があればそれが可能であるという。

a0313715_18525427.jpg 罪は実体をなすものではないという見方は「罪を憎みて人を憎まず」とは全く異なるものであるといえる。
 「罪を憎みて人を憎まず」は罪を実体と見做すことが前提である。実体のないものを憎むことはできない。罪を幾ら憎んでも罪は何の反応を示しもしない。
 世の中には善なる実体と悪なる実体が存在してそれらが互いに戦うものであるという見方から出た観念が「罪を憎みて人を憎まず」である。そのような見方を善悪二元論といい、キリスト教はそのような見方には立たない。
 善悪二元論からすると、人の悪を救い善を勧めるためには実体としての悪を離れさせて善の側へ迎え入れるということになる。善の側とはしばしば、というか粗必ず、自分達の側であるというのが認識である。
 尤も、キリスト教には或る悪い物事に対する緊急避難ということでの「悪を離れさせる」という考え方はある。但しそれもその悪い物事を実体としてではなく実態、即ち特殊な状況としか見ない。故に或る戦争を特殊な状況として否定することはあり得ても戦争そのものを否定することはキリスト教にはない。

 ジャーナリズムも、或る日に或る所で起こっている特殊な状況を特殊な状況として見て伝えることが目的のものである。決して実体として存在し続ける悪を「相変わらずですね。」と云うためのものではない。
 そのような目的に日本のジャーナリスト等が適うようになることは可能であるだけではなく本来は向いている。
a0313715_18544111.jpg 日本の伝統宗教である神道はキリスト教の「神に造られたものは全て善である。」という信仰ととても近いものがある。少なくとも神社の佇まいには徹頭徹尾、善をしか感じない。そこで人が自由な意思と責任を新たにして世に漕ぎ出す。
 また、仏教はそもそも善悪を問わない信仰である故に、善悪二元論はない。仏教にとっての善悪とは人それぞれの生から出る煩悩に由来するものであり、仏は煩悩を解き放つ。その信仰は或る一方を善とも悪とも決めつけず或いは双方の善悪の何れをも問う公正中立や不偏不党に資し得る。
a0313715_18571870.jpg ジャーナリズムは決してキリスト教圏という特殊な世界に生まれただけの特殊な存在であって他がキリスト教圏の価値観に屈服や忖度を強いられることによってしか普及しないものではない。
 しかし日本のジャーナリズムにはしばしばそのような海の向こうへの屈服や忖度の念があるので、この陸における屈服や忖度をどうすることをもできずにいる。「今度の件」も実体として歴史的に存在する悪の派生なのでどうにもならない、詮めるしかないであろうとなる。物事を追及をする側の程にそのような傾向が強い。

 善悪二元論は日本だけではなく、歴史を権力闘争を主眼として見る歴史観を持つ国に普及し易い概念である。
 権力闘争はどの国や地域にもあるが、それが歴史を巡る関心事の最も大きなものとなると闘争し合う者やそれを支持し或いは抵抗する人々を善の側と悪の側に分けて見ることになり易い。
 権力には様々な固有性があり、何が権力というものであるかは一概にはいえない筈であるが、権力闘争史観からは権力はいつでも同じの実体であるかのように見える。それを奪る者とそれを支持する人々が勝ち組であり他は負け組であるという世相の認識もそこから生まれる。
 古くはアフリカのとんでもなく黒い地域など、植民地支配の虞に晒される地域に善悪二元論が信じられていた所が多い。日本も同じような理由がその一因であろうが、昔のものではなく今も信じられ続けているのは珍しい。例えば
安倍自民党 対 野党 というのもその一つであり、政治論がさようにも野蛮なものとなった時代は当の日本にも今までにはなかった。

 キリスト教におけるいわば最終解脱(マハーヤーナ)とは世の罪に思いを致して祈り続けることであり、思いを致すものがなくなればキリスト教の徳もなくなってしまう。
 しかし罪を作り出したり擁護してはならない。
 ――「じゃあどうしろというんだ?」と思うならば善と悪を固定的実体と見做して善の側への到達と加入を目指す二元論的発想の影響が強いということである。

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by keitan020211 | 2017-12-05 18:58 | ちょっと知りたいキリスト教 | Comments(0)
【ちょっと知りたいキリスト教 ユダヤ教・イスラム教合併SP】日本はイスラム国である。 その2 日本は本来は自由と民主主義を尊ぶ国である。
 直前の記事『【ちょっと知りたいキリスト教 ユダヤ教・イスラム教合併SP】日本はイスラム国である。』の続きです。

 ユダヤ-キリスト教は:抵抗しない者は殺してもよいという信仰
 イスラム教は:抵抗しない者を殺してはならないという信仰

 というと、イスラム的思想の強い日本にはかようなイスラム教が好ましいと思う向きが多いかと思われる。
 しかし裏返して言うと――

 ユダヤ-キリスト教は:少しでも抵抗があれば殺さない信仰
 イスラム教は:抵抗する者は殺すべしという信仰

 ――良し悪しはさておき、少なくとも自由と民主主義の観点から見ればユダヤ-キリスト教がより「良心的」ということになる。自由と民主主義を何よりも重んずるアメリカがイスラム教徒の排除を訴えるのはアメリカのイスラム教徒が民権を持つことによりそのようなイスラム的原理に基づく法や政策を勧めかねないという懸念から必然ともいえる。
 殊にアメリカのイスラム教はインドネシアなどの東南アジア諸国やイランのそれのようにそれぞれの国の自由や民主主義のために再構成されたイスラム教ではなく少数派のものとして剥き出しのアラブ直輸入のイスラム教なので懸念は深まる。
 尤も、それらのような再構成されたイスラム教を正しく保持するためには権力が幾らかは独裁的たらざるを得ず、日本人やアメリカ人が思うような自由と民主主義とはやや異なろう。そして東南アジアのイスラム圏のような一部独裁の自由と民主主義、即ち権威主義体制に基づく自由と民主主義はこれからの世界の標準となると思う。

 抵抗しない者を殺してはならない、抵抗する者は殺すべし――それが東南アジア諸国とは異質な日本の通奏低音である。東南アジア諸国は自国が自由と民主主義を導入している以上は抵抗しない者はいないとするので全ての国民は抵抗する可能性があり、つまり国は全ての国民を殺す可能性があると見定める。しかし中でも法に照らして悪質な者を殺すべしとする。日本はそのような発想をしない。抵抗を知る筈もない国民を殺すなんて考えられない以ての外と見定めながら、時に抵抗する者がいれば適宜に殺すという発想である。故にリベラルを名乗る人達が戦争や権力による弾圧を語る時に、「無抵抗の市民を殺した、許せない。」などというイスラム的言辞が出て来る。というか、日本赤軍はイスラム過激派との提携の集団なので必然にイスラム的になる。キリスト教圏の自由と民主主義の国においても市民を殺すことは望ましくないことは同じではあるが、そこに「無抵抗の」とか「無辜の」とかというような言葉は冠されることはあり得ない。キリスト教においては無抵抗の者こそを殺してもよいものとするからである。抵抗は神が命あるものに与えた賜物であり、抵抗しないとは自らを命ではないと見做すことであり、故に殺しても構わない訳である。そのような信仰からは当然に、「嫌よ嫌よも好きの内」などという思想は生まれ得ない。「嫌よ嫌よも好きの内」は本来は殺すべき抵抗者に猶予を与えるというイスラム教の発想から来るものである。抵抗していても回心してされる侭になれば赦すということである。
 抵抗しないとは女性的たるべしということであり、女性を守るべき清らかなものと見做す。鉄道の女性専用車が日本とアラブにしかないのはそれが理由であり、毎朝夕の通勤通学の風景にも日本のイスラム性が見える。場所を分け隔てることに由り女性による抵抗の余地を予めなくしておけばよいという訳である。「君の怒る顔なんて絶対に見たくない、そうだろう?」。

 イスラム教とは本質的にはそれ程に日本のおっさん的にキモヲタな宗教である。故におちおち寛容の精神をとか異文化の尊重をとかいう訳にはゆかない。
 故に、「日本は仏教国、日本らしさを大切にしよう。」などという人達は仏教の名を借りるのをやめて潔くイスラム教徒になるべきである。そうなれば日本はインドネシア並に魅力ある国になるかもしれない。
 イスラム教の成り立ち、殊にその正統派とされるスンニ派の成り立ちそのものがそもそも、ユダヤ教とキリスト教の駄目出しのような否定的動機からのもの。批判のための批判から生まれたものである。

 無抵抗といえばマハトマ ガンジー。
 日本にも支持者が少なくないチベット仏教の導師である。
 しかし、ガンジーは何となれば殺されても構わない、文句を云わない、それが彼の無抵抗の信仰である。
 ならばとばかりに殺しに掛かることを奨めるのではないが、日本の支持者達が無抵抗とはいいながら殺されることは罷りならない、殺されれば文句を云うのを見るにつけ、ガンジーを信ずることにはなってはいないのが閉口である。ガンジーとリベラルな価値観は相容れる筈がない訳であり、なのに彼等はガンジーを尊敬するリベラルを称する。ガンジーはそれそのものは超保守主義ではないが、超保守主義を容認するものである。また、同じく無抵抗を信仰するイスラム教の影響が強くある。
 キリスト教にも殉教の信仰はあるが、それは然るべき抵抗の末に殺されてもその血が抵抗の最も大きな証となるということであり、無抵抗ならば殉教ではない。
 殉教といえば今時に連想されるのはイスラム過激派の自爆テロであるが、彼等はそれを抵抗と位置づけてはいない。彼等のしようとしていることは西洋のキリスト教文明に対する抵抗ではなく「権力の側からの処刑」である。あれだけ情けない風采をしていても自分達は権力者なのであり、その銃や爆弾は戦争のそれではなく処刑のためのものである。その本質が次々と示されたのがイスラム国によるビデオ付の「処刑」である。自らを権力や体制の側に位置づけることを嫌う左翼ならばイスラム過激派のそのような権力主義や体制主義は絶対に受け入れられるものではなく、イスラム過激派の歴史や現状を少しでも擁護することはできないと思う筈であるが、何故か日本の左翼からは彼等に忖度するような言説が相次ぐ。日本の左翼はイスラム過激派と親しい日本赤軍の流れを汲むからである。彼等の殉教はどこまでも権力者の任務における殉死である。それがまた日本においてはしばしば受ける。

 但し人には抵抗することを知らないこともある。
 抵抗したい思いはあれども、如何に抵抗すればよいのかが分からない。
 そのような場合をも無抵抗でありイスラム的であるとする訳にはゆかない。

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by keitan020211 | 2017-07-30 21:14 | ちょっと知りたいキリスト教 | Comments(0)
【ちょっと知りたいキリスト教 ユダヤ教・イスラム教合併SP】日本はイスラム国である。
 昨日の宵にテレビ朝日が『池上彰のニュースそうだったのか』で中東イスラム圏の特集をした。
 イスラム国の潰滅の見通しが立って来たことやイスラエルの混乱が強まっていることを受けてのものである。
 池上彰はこれまでにも中東についての知識を紹介する特集を幾度か行っている。

 そこで中東とアラブは別物であること――中東とは地理的区別であり、アラブとはアラビア語圏のこと――やイスラム圏にも色々とあることなど意味のある知識も幾つかあったが、総じて酷い内容である。

 中東のイスラム圏には親日国が多いことを殊更に語り、その御礼としてか、イスラム文化を絶賛する。
 イスラム圏の多くは男女交際が信仰上禁じられるが、女子と接吻をもしたことがない男子を、取り分け日本に留学をして東京の文京区茗荷谷に住んでいたという男子を「偉いですねえ!」みたいに紹介する。
 池上彰の番組の他にも、日本に留学の経験のある親日なイスラム男子やイスラム女子を紹介した番組がこれまでに幾つかある。
 その親日姿勢が嘘とはいわない。但し日本の力だけではなく中東の産油国等に関わっているアメリカが「奴等とは仲良くしてやってくれ。」と彼等に云ったから好意を持っている面は否めまい。池上番組はそのような点は全く無視して日本が中東諸国との良い関係を自力で築き上げて来たかのように語る。

 折しも、アメリカのトランプ政権が当国のイスラム教徒の排除を訴えている中、反トランプを叫ぶ日本のマスメディアはそんなトランプ政権には耳を貸さずにイスラム圏を大切にしようというプロパガンダを行っているようである。

 しかし日本と日本人ががイスラム圏とイスラム人を大切にすることは、そう容易いものではない。
 日本とイスラム圏及びそれらの文化は歴史的に非常に根深い関わりがある。
 一言で言うと、「日本はイスラム国である。」。
 ――尤も、歴史を通して常にそうなのではなく、殊に明治以降の近代日本国家はイスラム国にとても近い性質がある。

 その謎を解く鍵は日本の仏教である。
 仏教は元々は同じ一つの宗教ではない。インドに興ったインド仏教の影響を受けたシナの諸々の地域宗教が更に変化して日本に伝わったのが日本の仏教の諸宗派である。つまり、日本仏教はインド仏教の原形を殆ど留めてはおらず、シナの地域宗教の数々がその原型である。そこまでは日本人にも夙に知られるものである。インド仏教の直輸入は名古屋の覚王山日泰寺など、極めて少ない。因みに日泰寺はトヨタの豊田家の菩提寺である。それからしてトヨタの日本における地位及び日本の自動車愛好家のトヨタについての評の独特さの理由が浮かび上がる。
 日本の仏教の一つ一つの宗派は真面な信仰を持って大切なものではあるけれど、それらを一つに捉えて「仏教」というと、とても胡散臭いものになる。
 仏教とは国家の保護の下にある宗教ということであり――即ち、今の日本においては神道もキリスト教も仏教である。――、一つの「日本の仏教」というとそれは日本国家の教えということになる。それぞれの宗派の信仰とは関係ない。
 故に自分は日本人です仏教徒です、日本は仏教国ですという人は宗派の信仰に帰依しているのではなく自分にとって都合の好い日本国家を作ろうと志しているということになる。
 そのような姿勢はイスラム国とくりそつ、否、そのものである。
 所謂日本仏教というものとイスラム国の共通点は 世俗主義的原理主義 にある。
 原理主義というと普通は非常に峻烈な反俗主義を旨とするものであるが、イスラム国と日本仏教における原理主義は世俗主義を含むことにおいて他の多くの原理主義とは異なる。世俗の繁栄に見放されているイスラム原理主義者が世俗の経済力や権力を一から得ようとすることにより成り立ったイスラム国――絶対的欲望による世俗主義的原理主義――とそれらがそれなりにあって尚より高い経済力や権力を得ようとする日本仏教――相対的欲望による世俗主義的原理主義――は機会の差があるにせよ、その本質は同じである。それらの世俗主義の契機となったものは中国を除く現在の国連の常任理事国をなす西洋の近代国家等による政治経済的介入であることも共通する。
 比叡山延暦寺の僧兵による反乱は彼等にとってのモデルとなるレジェンドである。延暦寺の僧兵は歴史的国教としての地位を確立していた比叡山天台宗の失地を回復するための過激派であり、オスマントルコを取り戻すことを目的とするイスラム過激派と似てはいるが延暦寺の僧兵は程なく――とはいえども三十年以上が経つが、――解散された。彼等は時の新しい権力に敗けたのではなく更に新しい江戸幕府の体制が出来るにつれ自ら妥協して矛を収めた。しかし矛を収めた処をまでは見ずに反乱を興した処をだけが切り取られて彼等のモデル及びレジェンドとされたのである。しばしば、レジェンドは自らの人気に当惑する。
 日本国家の原理もまた、世俗主義的原理主義を常とする。尤も、日本国家を永らく治めていた自由民主党は世俗主義ではあっても原理主義ではなかったが、近年は原理主義の傾向をも呈し出しているし、自らが原理主義ではなくても原理主義的勢力への忖度や譲歩を常としていたのは確かである。安倍政権及び安倍政治とは永らくは忖度と譲歩の対象となる周辺勢力でしかなかったものが一挙に主流派となって来て出来たものであるといえる。人間は、強い者には忖度も譲歩もしないものであり、それらをせざるを得ないような感じがするのは相手が弱い者であるからである。安倍政権は本質的には弱者政権である。弱者として、見放されていた繁栄と権力をあらゆる手立てを尽くして奪う。

 日本の仏教及び日本国家に及ぶイスラム的性質、しかし、イスラム圏と日本には歴史を通して直接のつながりはない。
 唯一つ考えられるのはペルシア、今のイランイスラム共和国をなす地域である。
 ペルシア-イランはイスラム教のシーア派圏である。シーア派は政治的にはもう一つの大教派のスンニ派よりも保守的で強硬路線を常とするがイスラムの信仰においてはよりリベラルである。それは昨日の池上番組にも紹介されている。池上番組が明らかに贔屓にしているのは政治的には穏健で信仰においては原理主義、戒律主義なスンニ派である。
 ペルシア-イランは言語が異なるので中東ではあってもアラブではない。ペルシアはイスラム教の出来る前から繁栄し、西のヨーロッパにも東のアジアにも影響を及ぼしていた。殊に日本にはアジアでは随一の強い影響を及ぼしていたと考えられ、私は出雲大社はペルシアの古代信仰の影響を受けて成り立ったものであるかと思う。出雲大社の他にも、西日本にはペルシアの影響が強く、博多の明太子なんかもペルシア流なのではないかと思う。対してイラクはいくらである。
 かようの古代にはまだイスラム教はない。しかし後にシーア派圏となるペルシアとその他のアラブ圏の中東を分ける或る種の空気のようなものがペルシアの日本への影響と共に「遺伝」し、ペルシアの影響を好ましく思わない他の日本人をスンニ派圏に多いイスラム原理主義者のような気質にしたのではないかと考えられる。ペルシア流はより知的な繁栄の象徴であり、それとは縁のない「私達庶民」は下剋上的気質、即ち世俗主義的原理主義を身に着けることになった。私が明太子を好きではありながら余り食べないのはそんな日本人に目を着けられないためかと考えられる。それと、値段が高いからでもある。
 シーア派は元々アラブ-イスラム教ではなかったペルシア-イランの現地現物に見合うように組み直されたイスラム教であるといえる。それがイスラム共和国と称するのは根深くも面白い。

 古谷経衡氏の『リア充と意識高い系』に擬えると、イスラム教は本家のスンニ派が意識高い系で彼等から見れば贋物のシーア派がリア充なのである。それは日本においてしばしば見受けられる「本家」や「本物」、「プロ精神」などとよく似ている。日本はしばしば意識高い系を本物、主流派と見做す。スタバの味は本物の味で、そこで本物のPCであるマックを使うのがプロ精神の象徴となる訳である――マックが本物というのは私もその通りと思いはするが、――。
 尤も、リア充だけではオスマントルコのような大帝国は出来得ず、意識高い系などの本物の贋物や或る種のならず者を包含するから大帝国が出来るのではある。それだけの統治の巧さがあるからである。イランは統治の巧さがないからそれを補うべく宗教国家にせざるを得ない。

 ――この記事は【ちょっと知りたいキリスト教 ユダヤ教・イスラム教合併SP】、なのにイスラム教と日本仏教の話ばかりになってしまっている。それ程に池上彰はジハーディー池上と呼ぶべき問題の存在であるということでもある。

 その池上番組にも紹介されている、イスラム圏における豚肉の厳禁の風習、というか信仰――
 それが確立している風習であり信仰である以上はそれを尊重しなくてはならないことは論を俟たない。
 日本の食品メーカー味の素はイスラム圏のインドネシアにおいて豚肉の成分の含まれる製品を売って当地における販売の禁止と非難を受けたことがある。味の素のそのような傍若無人夜郎自大の性質はその問題が解決された今も変わってはいない。味の素は人の嫌がることをしたがる企業であり、その顧客もまたそのような味の素の性質に共感する人々から成る。「ほーら、毛虫毛虫!」みたいな――否、もっと酷いか。――。

 ここでは豚肉にまつわるユダヤ教、キリスト教とイスラム教――:古い順――の違いを見てゆく。

 大雑把にいうと:
 ユダヤ教: 豚肉は原則禁止 しかし血を搾り取れば食べてもよい
 キリスト教: 何を食べるか食べないかは自己責任によること 豚肉も禁止ではない
 イスラム教: 豚肉は例外なく禁止

 それを見ると、イスラム教は厳しくてキリスト教は緩いというかもしれないがそうではない。
 何故そうなのか、それぞれ何に厳しいのかを考える必要がある。

 そこに浮かび上がるのはユダヤ教の回りくどさ。
 優柔不断の末に妥協策を編み出したかのようにも見えるが、実はその通り。
 ユダヤ教は根から優柔不断な性質のある宗教である。
 そもそもが妥協策なのに、それを厳に守るべき本質なものと見做すエホバの証人、ものみの塔聖書冊子協会はその意味ではユダヤ教的ではない。
 イスラエルを中心とするユダヤ教圏は元々は菜食主義であり獣の肉を食べることには明確な禁忌ではないが戸惑いがあった故に、獣の肉をどうすれば食べてもよいかを考える必要があった。羊は祭で焼き尽くして食べる。豚肉は血を搾り取って食べる――それらは命を犠牲にすることを目に見える形で明らかにし、その罪の贖いへの感謝の内に食べることを旨とするものである。野菜も命であり同じではあるけれど、野菜は獣よりも嵩が軽く捧げ易いのでそのような問題にはならなかった訳である。
 キリスト教はそのようなユダヤ教圏だけではなく全世界を志向するために、あらゆる慣習に対応し延いては馴染み得るような原理をなす必要があった。獣の肉を食べる人をも食べない人をも包含するためには何を食べるか食べないかはそれぞれの自己責任に委ねるべしとなる。ここに言う自己責任とは今時に聞かれるような自己責任、即ち個人の責任だけのことではなく個人の責任をも集団の責任をも、延いては国の責任をも含む歴史的に重要な概念である。自己責任というのはさようにキリスト教圏においては伝統的に重要な概念である。
 イスラム教が豚肉を全面禁止とするのは何故か?それも、何故豚だけであり他の肉はよいのか?
 先ずは先のユダヤ教における豚の指名が根底にある。ユダヤ教もまた、豚だけを他とは違う特別なものと見做す。イスラム教はユダヤ教が例外付の禁止としたものをより厳しく例外のない禁止とした。
 一つは優柔不断ではいけないと思うから。信仰が優柔不断ならばそれを信ずる人々とその社会が皆優柔不断になりかねない。安倍晋三の口上の如く「ハッキリものを言う」ことを殊更に尊ぶ日本とも相通じる。
 もう一つは中東においては豚は特別なものと見做されていること。
 中東情勢に詳しい落合信彦もその著書にしばしば、メンタリティーの低い人を「ブタ」と呼ぶ。
 豚は抵抗しない、少なくとも人間がそのように認識することができるようには。メンタリティーの高さとは抵抗することができることである。
 イスラム人は抵抗しない者を殺してはならないと思う。コーランには理由なく殺してはならないとの教えがあるが、その「理由なく」とは「抵抗しないのに」ということであり、抵抗すれば殺してもよいということ。つまり、イスラムの発想は落合信彦とは真逆様である。要は、イスラム人にとっては豚は「女性のように清らか」な存在なる故にそれを殺して食べてはならないのである。同じ特別でも、ユダヤ教が豚を指名して特例を設けるのは豚を抵抗することもない程に不浄な存在と見るからであり、血を取り除くのはそれを浄める意味がある。しかしどんなに不浄で馬鹿でも命は命とし、それを捧げなくてはならない。
 その点もまた、ユダヤ教圏とイスラム教圏の決定的対立の要因である。ユダヤは「豚はブタ。ブタは死ななければ治らない。」といい、イスラムは「ブタで何が悪い!豚を馬鹿にするな。」という。
 無抵抗を清らかで美しいと見る発想は日本にも顕著なもの。その点でも仏教国こと日本はイスラム国であるといえる。
 ユダヤ-イスラエルは「抵抗しなければ殺せ。」という発想である。抵抗は神が命あるものに与えた尊いものであり、それがないことは自らを命ある者とは認めないということなのでモーセの十戒にある「殺してはならない。」の対象にはそもそもならない。植物野菜を食べるのも植物の多くは抵抗しないからである。ユダヤ教を前身とするキリスト教も本流においてはユダヤ教のそのような「抵抗は命;無抵抗は命にあらず」という生命観を受け継ぐが、その本流思想を支持するもしないも自己責任であるとし、異論も多く、異論が即ち排除される訳ではない。
 「ブタで何が悪い!豚を馬鹿にするな。」というイスラム人も、それを抵抗と見ることもできなくはないからキリスト教圏にはイスラム圏贔屓な反トランプの人々もいるが、何れにせよ無抵抗を命とは認めないことにおいては同じキリスト教の発想である。

 とはいえ、命だけに焦点を絞ると血腥い話になるが、命のないものを破壊するのは全然OKという教えはどの宗教にもない。

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by keitan020211 | 2017-07-30 18:36 | ちょっと知りたいキリスト教 | Comments(0)
【ちょっと知りたいキリスト教】「全知全能の神」
 「私は神様ではないのでそんなことはできない。」という文言を偶に耳にする。

 では「私ではない神様」とはどんなことのできる人なのか、それに答えられる人はなかなかいない。

 そこで早速や突込みが入りそうなのは「神様は人ではない」というもの。
 しかしキリスト教においては神は人でもあると信仰される。

 キリスト教の神は「父と子と聖霊」という。
a0313715_18421317.jpg 父とは天地万物を初めに造った人、子とはその父の意を受けて世の終りまで父と子を信ずる人と共に在る人そして聖霊とは父と子の意を受けてそれを世に遍く伝える人々の働きと解される。
 キリスト教はそれらの三者を神と呼び、神は少なくとも三人以上いるのでキリスト教は神は一つであるとする一神教ではない。しかしその三者が拠りどころとなるために、もっと沢山いるとする多神教でもない。弊ブログの用語ではそのようなキリスト教の神の観念の類型を寡神教と呼ぶ。企業の独占と寡占の「寡」である。
 日本の市場は寡占が多く、そのような寡神教の観念も比較的に理解され易い筈である。数多くはない幾つかの企業が市場をなして消費者の需要を満足する状態、それはキリスト教の父と子と聖霊による支配というものと似ている。
a0313715_18444150.jpg 面白いことにというべきか、西ローマなどの多神教を好ましく思う人々の程に市場における多くの企業等による競争を是とする。彼等にとっては市場とはどこまでも自由に参入してどこまでも自由に競争することのできるものとなることが望ましいのでそのための規制緩和などの企業活動の自由化を支持することが多い。
 逆に、キリスト教の父と子と聖霊、至聖三者の信仰の構造を理解することができずにキリスト教信仰を一神教と取り違えてしまった人々が企業の国有化や労働者の主権、文化におけるthe universal value―:統一価値、しばしば「普遍的価値」と誤訳されるが、「普遍的」の英語は'the ordinary'或いは'the cathoric'である。―などを是とする国家社会主義を好む。
 至聖三者の信仰の構造とは至って簡単で、「神が三人いる、三人寄れば文殊の知恵」ということである。三人おれば互いに対話をすることができるので、神は互いに対話するものであるともいえる。決して一段も二段も高い所にいる神がその下にいる人間に一方的に語り掛けたり「黙って俺について来い。」などというものではない。
a0313715_18465019.jpg ローマを本拠とするカトリック教会においてはその「文殊の知恵」、即ち神同士の対話が完全に成り立つことを「一致」と呼び、それが実現されるための力を「三位一体」と呼ぶ。因みにその読みは「さんいいったい」であり、小泉純一郎総理が自らの政策を呼ぶ「さんみいったい」ではない。
 至聖三者と呼び習わすのは主にコンスタンチノープルなどの四か所を本拠とするギリシア正教会であり、その呼び方の違いをしばしばローマカトリック教会とギリシア正教会の教義の違い、埋め難い歴史的溝という向きがあるが、それらの指すものは全く同じであり、両教会の歴史的分裂の理由はそこにあるのではない。但し最も古くて正しい教義を保持するギリシア正教会とその展開している東洋世界が「一体」という観念というかイメージを嫌うことは確かである。「一体」というイメージはどうしても「統一価値/the universal value」という観念と結びつき易く、そうなるとキリスト教の信仰ではなくなってしまう。
a0313715_18480699.jpg そもそも、「三位一体」の「一体」は日本の用語にしかつかず、英語などでは'Trinity'、「三位」としか言わない。よって変に深い処に立ち入らずに伝統的キリスト教用語を素直に受け止めておれば「一体⇒統一」という観念と結びつく虞はない。変に立ち入る向きが西洋にも日本にも少なくないが、カトリック圏や新教圏の西洋人の多くもギリシア正教と同じように至聖三者、即ち「神が三人いる」のがキリスト教であると解している。

 尤も、子なるイエスとその心を伝える人々の群れなる聖霊はそれぞれどこかに実在する人である。但し聖霊は個体、即ち一人ひとりの単位では神と見做されることはない、人は神ではないからである。しかしイエスだけは特例として個体として神であるとされる。その理由は父なる神に最も近い―:キリスト教の理解では「父なる神と一致する者」―とされるからである。
 しかし、父なる神は人でありながら、どこかに実在するのではない。先にも後にもどこかに実在したことはない。さて、それを人というのは如何なものか?

 実在したことのない人の例には野比のび太や剛田武などがいる。
 彼等はアニメーションドラマの登場人物であるが、キリスト教の神はアニメーションではなく、彼等とは異なる。しかし神というものを少しでも窺い知ることのできるヒントではありそうである。
 野比のび太の弱さや剛田武の強さ、などなどは神の特色の一端を表すものである。神にはそれらの特色がある、それがキリスト教とその前身のユダヤ教の神の観念である。
a0313715_18514235.jpg 野比のび太のように弱々しい神や剛田武のように暴力的な神などあってはならないと思うならばそれはユダヤ-キリスト教的ではない。神の全知全能とは彼等のような望ましくない行いや或いは罪を犯すことさえできるということであり、単なる理想像ではない。尤も、神は実績としては罪を犯したことはないらしい。
 また、神は自らを反省して悔い改める者でもある。罪を犯してはいないが、反省して悔い改める。その特色がその子イエスの十字架の贖罪により体現される。
 神は全知全能なので何を反省する必要も悔い改めることもないと思うならば、それはキリスト教の神ではない。そもそも全てを知り全てが能うなら、そのようなことも出来る筈である。その本質はイエスの処刑の話しに記される「あなたが神の子なら、自分を救ってみよ。」の言葉とは真向に対立する。

 人は神に似せて造られた、ならば、神は人に似ている筈である。
 そうであれば、人の特色は悉く神の特色でもあると解するのが自然である。
 但し違いは神はどこかに実在するものではないこと、即ちいつどこにでも立ち現われることのできるものであること、それを神の遍在性と呼ぶ。
 しかし神がいつどこに現われるかを予測することはできない――日本には狐がどこからともなく現われては消えるという話があるが、それは多分にユダヤ-キリスト教の神の観念の影響によるものであろう。そのような伝説は近年の日本におけるユダヤ-キリスト教を嫌い『八百万の神と仏を信ずる日本人』としての国民の意識を覚醒する思想の強まりと共に廃れていると思われる。
a0313715_18535893.jpg 実は仏教も元々はそのような狐伝説との親和性が強く、仏様はいつどこに現われるか分からないものという感覚が生きていた筈であるがそのような仏教信仰の要諦がすっぽりと落ち、仏様とはいつも自分の身近にいるものであるという信仰―?―に摩り替えられている。寧ろ、仏教こそが一神教と化しているのが昨今の日本の精神風景である。
 八百万の神に関しても誤解が多く、『八百万』とは神が八百万いるということ、即ち多神教のことではない。神には八百万を数える程にも沢山の特色があるということ、即ちユダヤ教に基本としては近い不特定神教であるということである。しかしそれを日本の神道は多神教であると誤解する向きが少なくはなく、その見方に沿うような自由競争主義などの世界観もまた国民の意識を覚醒する思想の強まりと並び昨今の日本に強まっている―最近はやや廃れてもいるが、―。

a0313715_18565295.jpg 但しユダヤ-キリスト教、仏教や神道とは異なる一神教は或る人間が取り敢えずの命脈を保つためにしばしば編み出す信仰の一つの在り方ではあり、その限りにおいては必ずしも否定されるべきものではない。しかし一神教はその役目を果たし終えたりその内部に異なる傾向が生じたりすると分裂して多神教に転化し易いものでもある。その分裂は得てして国家の状況の変化を反映する。一神教は或る国を統一価値により支配することに有利なものであり、『神はいつも等しく国中にいる』ということを国の支配力の源泉の一つにするからである。一神教に転化している仏教と多神教に転化している神道―何れも本来は不特定神教である。―からなる所謂日本というものはそのような独裁的一神教国の統一と分裂が同時に起こっている稀有な国であるといえる。

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by keitan020211 | 2017-05-06 18:57 | ちょっと知りたいキリスト教 | Comments(0)
【ちょっと知りたいキリスト教】厩(うまや)で生まれたイエスは貧しかったか?
 キリスト教の復活祭が近づいている。

 復活祭の日取りは月の満ち欠けに随い年毎に違う日が決まり、そこが毎年12月25日に定まる降誕祭との違いである。降誕祭はローマの冬至の祭とのコラボで制定された祭であり太陽、日の象徴性があるのと比べ、復活祭は月に象徴性のあるものなようである。
 太陽の形は年中無休でかわらないが、月の形は不断に――じっと見ていても分からないけれど、――かわり、日が改まって気がつけば元の同じ形に戻る。その『変化と不変』の様が復活というものを物語るようでもある。
 今年の復活祭は4月16日となる。お月様の都合によっては3月となることも多い復活祭が、只今の日本の遅い春に恰も合わせてくれているかのようでもあり、クールジャパンや日本の素晴らしさを喧伝するテレビ番組等、そして2020東京オリンピックなどの日本の自己満足につきあってくれている諸外国を想わせる。

 京都の或る人が「桜は散ってもまた咲きますえ。」と語ったとの逸話がある。桜の魅力をそのように捉えるならば、桜は復活を物語るかのような生き物にも見える。元々は桜は日本の伝統の花ではないので、寧ろそれが桜の本分であるともいえそうである。「寧ろ」とは、日本における桜の愛され方は『散りゆくこと』に見定められがちであることを指す。それが全くの誤りであるとはいわないが、日本に移植されて親しまれるようになった西洋の花である桜の本義は『散るかのように見えても散りゆかないこと』にある筈である。

 ――「桜ってパンだね。」

 さて、今日のこの【ちょっと知りたいキリスト教】はイエスの復活とも関わりがあるけれどもどちらかといえばイエスの降誕に照準を合わせる話となる。まだ寒気が残るので強ち季節外れな話ではなかろう。

 この晩冬初春に、日本の文部科学省の検定による学校の歴史の教科書につき、永らく記される史実である聖徳太子の名が厩王子に改められるとの報があった。
 私はそれに賛成したが、結構な批判反対が出て挙句にそれが取り下げられた。今までと同じく聖徳太子の名とするという。
 厩王子とは彼――何れにせよ「その彼」であることは確か。――が馬の住み処である厩で生まれたことから呼ばれる名であり、その名を以て現に呼ばれていたことは事実であると予てよりされる。問題は聖徳太子の名が彼の生前にはなかったということにある。後世の決定が史実の説明としては好ましいのかどうか、なるべく当時の実際の名を標準とするべきではないかとの見方に立てば厩王子の名はより相応しいではないかと考えられる。尤も、私も聖徳太子の名を不適切と思うのではない。

 キリスト教の歴史的最高指導者または神と称されるナザレのイエスもまた、聖徳太子と同じく厩で生まれたと聖書に記される。
 更には、インド仏教の最高指導者と称される釈迦もまた、聖徳太子やイエスと同じく厩で生まれたとされる。

 人なのに厩で生まれるなんて汚くて貧乏くさいと思われるかもしれない。
 そう思う人が多い故に、イエスは貧しい生まれ育ちであるとの説が結構に支持されている。それはキリスト教の知識の乏しい教外者だけではなくキリスト教圏のキリスト教徒にもかなり多い。その反映は日本基督教団の讃美歌の歌集に収められる歌の一つ『みどりもふかき』、122番である。その第2節の歌詞が「♪貧しく低き工(たくみ)として 主は若き日を過ぎ給へり」、「主」とはそこではイエスのことであり、イエスは貧乏育ちであるという。工とは大工のことであり、彼の父ヨセフが大工なので彼はその家業を継ぐことを視野に入れて育った。
 しかし、バブル経済の時代に入る1980年代の末期に、そこが「♪人の住まひを調へつつ 主は若き日を過ぎ給へり」に変更となり、当時に刊行された歌集の本は差し替えの説明書の紙片が挟まって出ていた。
 何やら左翼の言葉狩りを想わせる怖いことであるが、その本当の理由はイエスが貧乏育ちではないという説が有力となったからである。尤も、教団におけるそのための説得には言葉狩ラーが納得するような「「貧しく低き」は差別的表現である。」との方便も遣われていたという。日本基督教団は元々は雑多の福音派キリスト教会、所謂新教またはプロテスタントが戦中に当時の東京急行電鉄のように大同合併して発足した教会であり、宗教的にも政治的にも、右翼も左翼も保守も革新も寄合所帯である故にそのような説得の方便、即ち政治的嘘は日常茶飯であるといわれる。いわばその政治性の故に歴史の教科書に悪名の高いローマカトリック教会も顔負けの政治的風土であるともいえる。尤も、普遍的たることを志す宗教はなるべく多くの人々からなることが望ましいのでそのような寄合所帯と方便は必ずしも悪いものではない。

 厩で生まれたイエスは貧乏育ちではない。
 それは同じく厩で生まれた釈迦が金持ち育ちの所謂ぼんぼんであったことが夙に知られることからも推し量ることができる。何しろ仏像には金ぴかのものが多い。
 イエスはそれなりに裕福で安定していた大工ヨセフとその妻マリアの子としてそれなりに豊かな暮らし向きの育ちをしている。
 そのことはイエスが数々の学者等の下に学び、その学識を深めていたと福音書に記されることからも察せられる。貧乏育ちが学識を得られない訳ではないが、そのために数々の学者が付いてイエスを指導していたとなると、それはそれなりに裕福でないとできない。教授等のギャラの前に、先ずは彼等の許に行くための費用或いは彼等がイエスの許に来るための費用の負担を要する。公共交通機関のない時代ならば移動の銭は掛からなかった訳ではない。

 それが、厩で生まれたとは如何なることか?

 それは釈迦や聖徳太子を見れば分かって来る。
 古代の東洋においては偉くなることが生まれる前から予め決まっている人は、その母が厩で産むことになっていた。そのような常識的仕来が東洋には広くあった。
 そもそも、厩にも色々とあり、偉い家の持つ厩は汚くも貧乏くさくもなかったのかもしれない。私なんかもかなりきれいな厩で馬達の世話をしていたことがある。臭いは慣れれば好い匂いと思える。
 尤も、釈迦は夙にいわれるように、むちゃ金持ちの家であったという。そんなに金持ちなのに何をも生み出すことがないのは不徳と思える訳で、故に釈迦はインド仏教を開いて世に仕えたと考えられる。
 聖徳太子の公開資産額は知らないが、彼もまた皇族の育ちであり、釈迦の程ではないがかなり裕福であったろう。この前の日曜日のフジテレビの池上彰の緊急特別番組に皇室皇族に定例支給される国費の個人毎の金額が示される企画があったが、そのように帝の分の10分の1とかの小遣いを子供の頃から貰っていたことは間違いなさそうである。
 イエスは聖徳太子の程ではないが、大工ヨセフの子としてそれなりに裕福な育ちにあった筈である。裕福なだけではなく高学歴である。「貧しい子供たちのために教育を」という考え方は当時にはなかった筈であり、イエスもまたその例ではない。
 にもかかわらず、イエスが「♪貧しく低き工として」といわれるのは先ずはイエスを伝える福音書に「貧しい人は幸いである。」や「金持ちが天の国に入ることは駱駝が針の穴を通るよりも難しい。」などと記されるからである。記されるだけではなくイエス自らがそのように説いた、故にそのイエスが裕福な育ちであったとは思いにくいということからである。尤も、裕福な育ちがそれらの言葉と両立するというと、自らの裕福さを捨てて、即ち断捨離をして貧しくなり天の国を目指す身になったというような如何にも日本的珍解釈――というか、非人道的解釈――が助長される虞もあり、イエスは貧乏育ちであったとの説の意義は全くなくはなかったとはいえそうである。その説は、自らの貧しさは自ら興す革命により解決するべしとの共産主義の信念とも一致する。丁度共産主義との入れ替わりの時代に、讃美歌のその歌詞が改められた。

 イエスは生まれる前から偉くなることが望まれていた、即ち勝つことを宿命づけられていた人である。
 彼が何で数々の学者等に付いて学んでいたか、それはイスラエルの指導者、王となることが望まれていたからである。
 福音書の上面だけを追って読むと、イエスはそのような身分を望みはせずに、それこそ断捨離で貧しくなってプアーな市民運動の活動家となることを志していたかのように見えたりする。金も知識も要らず、貧しいその身一つで父なる神の教会をおっ建ててみせる!――そのような生き方が格好良いと思われていた時代も今と然程に遠くはない昔にはあった。これも日本に見受けられる珍思想である、『下剋上』の理念である。しかしそのような人が上に剋って偉くなっても尚貧しい身でい続けるかといえばそのような前例は日本と世界の何処にもない。イスラエルの王にはならずに上ではなく横へ出てキリスト教会をおっ建てるだけでも莫大の費用を要し、それを全て皆のために遣って自らは貧しくあり続ける人はいない。
 そうではなく、イエス自らもまたイスラエルの王、指導者となることを望み、そのために学業に勤しみ自らを修めていた。

 しかしそんな彼のキャンパスライフのさ中の或る時に、彼はふと思いを変えた:「イスラエルの王になるべきではない。」――
 何故か?
 それは当時のイスラエルの民が余りにも愚民でローマへの属国根性が強く、何を説いても交わりを重ねても彼等がイスラエルを名誉ある国にすることはあり得ないと悟ったからである。
 因みにここにいう属国根性とは植民地一般のことではない。植民地には植民地なりの独立性がある。当時のイスラエルは寧ろ大層な独立国でありながら属国根性を宿し続ける今の日本に近い。当時のイスラエルはローマ帝国の属国であり日本のような大層な独立国ではないが、独立国たることの意味を分かっていないことにおいては両者は同じようなものである。
 随分と上から目線と思われるかもしれないが、イエスは若くしてイスラエルの民を愚民として見限って見下す構えに入った訳である。日本には上から目線では宗教家として相応しくはない、人間を救うべき者が人を愚かと見定めて見下すようではいけないというようなそれもまた、世界に類を見ない珍思想がある。
 しかし福音書にはイエスがそうであったことを直接に示す行がある:「聞く耳のある者は聞きなさい。」である。即ち、「愚民の耳に聖書」ともいうべき聞く耳のない、何を云っても無駄な人はいるということである。
 イエスがイスラエルの王にはならなかったのはその地位を好ましくないもの、意義のないものと思うからではなく国民の皆さんが聞く耳を持っておればその座に就く意思は充分にあったけれどもそうではないようであるからである。イエスが十字架に磔けられて殺されることになったのはその公約違反、そしてアメリカならぬローマにたてついたからである。それもローマが初めに目を着けてではなくイスラエル人がローマに密告をしてローマがそれを渋々勘案して決まったと云い、日本とアメリカの関係ととてもよく似る。アメリカはローマのような帝国ではないし日本はイスラエルのような属国ではないが、内と外との関係ということでは同じである。
 他にもイエスがイスラエルの民を愚民扱いにしていたことを伝える行は福音書に数々ある。それを通し、イエスの当初の自他共に認める政治性は失われて宗教性が高まってゆく。
 育ちについていえば今の日本でいうと、並に豊かな庶民が慶應や青山には入れないけれども東大を目指して見事に受かり、留年もなく順風満帆に4年で卒業したのがイエスの青春時代である。しかし総理大臣や高級官僚の座を目指しながら社会人となるのではなく、家業の手伝いをしながら宗教右派系の市民運動家を志すようになった。日本にはリベラル系の市民運動家を経て総理大臣となった者がいる。
 因みにイエスの弟子の一人には熱心党のシモンという宗教右派の活動家がいる。そこから見ると、キリスト教はその初めから右翼色や保守性の強い集団であるといえそうであり、近代になるとルターの宗教革命で先ず左派が離反し、フランス大革命などを経てキリスト教とは距離を置く人々が世俗主義的左翼層を確立した理由が見えて来る。

 ではそんな右翼のイエスが、「貧しい人は幸いである。」や「金持ちが天の国に入ることは駱駝が針の穴を通るよりも難しい。」などという左翼染みたことを説き出すのか?
 先ず、「貧しい人は幸いである。」は少なくともカール マルクスは否定する。マルクスの信念は幸いではない貧しい者が革命により豊か且つ幸いとなるというものである。右翼の信念は、幸いなることは豊かであるか貧しいかには関わりがないというものである。
 その決定的意味は私には分からないが、仮の解釈として妥当と思うのは右翼のいう「幸いなることは豊かであるか貧しいかには関わりがない」を踏まえながら殊に貧しい人について語ったというものである。「貧しい人々」ではなく「貧しい人」であることがミソである。貧しい人々が生じることについていうならば、そこには何等かの政治や経済、文化の体制や政策の不義があるからな場合がある。イエスは自らの脱政治を通してそのような主題を避け、個人に訴える当時のイスラエルにおける第三の道を選んだのである。
 逆に、「金持ちが天の国に入ることは駱駝が針の穴を通るよりも難しい。」においては政治的意味合いにおける金持ち、即ち富裕層という概念で一緒くたに捉えられる人々を指して語ったのではないか。故に寄付金についての話も出て来る。当時の神殿は政治との密接な関わりのあるものなのでそこへの奉献は自ずと政治的意味を帯びる。故にその強い関心を持つ人々は政治的富裕層が殆どな訳である。そんな彼等の質疑を受けたので、イエスは政治的意味合いの強い話をした訳である。
 偏に個人として金持ちなだけならば正に「天の国に入れることは豊かであるか貧しいかには関わりがない」故に金を持っている人が容易く天の国に入る場合も幾らでもあろう。

 日本のキリスト教においては初めからそのような傾向は余りないが、諸外国のキリスト教においては左寄りの人々がキリスト教を離れてゆく傾向が今時は頓に強い。フランスの社会学者エマニュエル トッドの指摘に拠ると、一昔前までの、キリスト教離れを踏み止まった左派系のカトリック層が今は極右に衣を替えているという。その心理を推し量って説明づけることは難しいが、カトリック教会に対する不信を募らせながら離れる訳にはゆかず自らのカトリックへの帰属意識と政治思想を正当化せざるを得ないのであると考えられる。そしてそれを説得することのできる識見と勇気のあるキリスト教の指導者がいない――政治指導者としてはルペンがいる。――。先ずは現職の教皇ことローマ司教フランシスコが極めて卑俗で卑怯な似非左翼のならず者、侵略国の出身の人類の侵略者であり、速やかに明仁天皇より早く退位することを要する。

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by keitan020211 | 2017-04-04 23:11 | ちょっと知りたいキリスト教 | Comments(0)
【ちょっと知りたいキリスト教】「初めに言葉があった。」――ヨハネによる福音書の核心
 直前の記事においては「新聞の言葉は脳に悪い。」ことにつき語った。

 言葉にまつわり、この記事では聖書の言葉について語る。

 とは雖も、この【ちょっと知りたいキリスト教】はキリスト教の宣教を目的とするものではない。――というのは日本にも数多くあるキリスト教学校の常套句でもあるが、私なりに学んでいるキリスト教学の知見をキリスト教やその他の諸宗教についての年来の誤解や偏見を解くことに生かすことを目的とするものである。誤解や偏見は自らの属する宗教とは異なる宗教に関してだけではなく、しばしば自らの属する宗教に関しても持たれているものである。例えば日本は仏教国であるとか神道国であるとかとしばしばいわれるけれども、その仏教徒の日本人や神道を奉ずる日本人がそれらの適切な理解を持っているとは限らない。少数であるキリスト教徒の日本人にも少なくはなかろう。
 よって【ちょっと知りたいキリスト教】の内容は仏教徒や神道派だけではなく、キリスト教徒にも心して覚ゆべきものが大いにあるのではないかと思う。

 昨日に買った本は橘玲の『言ってはいけない 残酷すぎる真実』と山本七平の『空気の研究』である。
 前者はキリスト教かどうかとは余り関わりのない、人類世界の生の現実を語ろうとする本であるが、後者の『空気の研究』は山本氏のユダヤ・キリスト教に関する知見が公然と反映されている本である。
 先ず、そこが山本後、略してA.S.の時代の日本においてしばしば語られる『空気』の論の前提となる筈なのであるが、しばしば「日本人は空気を読んで行動したりものを言ったりする、良くない。」という論はしばしば山本氏の拠って立つユダヤ・キリスト教という要素を粗全く捨象して『空気の研究』を自己流に読み替えていると見える。それを煎じ詰めると、状況を勘案せずにア プリオリにものを言いまたは行動することが正しいというように見える。それが『空気を読む』ことを脱して日本が真の文明国となるに欠かせないことであるという。ア プリオリとは『自由と民主』であるという。臍が茶を濁すような話であり、『空気』は日本だけではなく世界に幾らでもあり、『空気を読む』ことは逆に、自由と民主を実現するためには欠かせないものである。山本氏は『空気-を読む』ことを否定しているのではなくあくまでも日本に特有の或る種の『空気』を批判的に考察している。

 ア プリオリを自由と民主の同義語とすることは日本の所謂リベラル左派、殊に脱構築主義的リベラル左派に顕著に見受けられるものであり、故に彼等の政治的社会的主張は何の意味をも力をも持たない。現実をかえるためには既成の現実を的確に捉えることが欠かせなく、そのためには空気を読むことが欠かせない。彼等はそれを否定するので何の意味をも力をも持たない訳である。
 何しろ『空気の研究』という。それは『空気を読む』と同じ意味である。研究とは読むことである。山本氏はそれを通して空気を読むことを奨めているのに、何故かそれが「空気を読むことは良くないということを山本七平は説いた。その通りだ。」と真逆様に解されている。

 ――そのようなことを、「何故『空気の研究』を読まずに買っただけで分かるのか?」と突込む人がいるかもしれない。
 奇しくも、その本の近くには『大物は皆心得ている 読まずに語る術』みたいな本が並べてあった。
 私もマルクスの『資本論』を一文字も読まずに資本論と共産主義を語ったりしているが、山本七平の『空気の研究』に関してはそうではない。前に一度読んだことがある。この度はそれを再び読み直して懐に入れるために買ったのである。
 前に読んだ時に、「これは「『空気を読む』ことを脱しなければこの国はかわらない」というのとは全く違う。」と直観した。今度は更なる精読となる。

 尤も、山本七平の著書は聖書のようなものとは違う。かなり正しい彼にも誤りはある。
 日本のリベラル左派や或る種の親七平の右派の人々は彼の著書を聖書のようなものに祀り上げている。
 「聖書のようなもの」と聖書は異質であり、彼等は聖書とは如何なるものであるのかを理解することができない。実は聖書もまたユダヤ・キリスト教圏においては一般の著書と同じように批判的考察が加えられることが当然であると認識されているものであり、祀り上げるようなものとは違う。

 学生の頃に、或る日本基督教団の信者が聖書をぽい!と投げ捨てるような仕草をするのを見たことがある。彼の云わむとするのは聖書そのものが神ではない、聖書により示される啓示、即ち自らの『神との出会いの体験』が神であるということであった。
 尤も、それは聊か極端ぽいパフォーマンスであり、キリスト教圏の敬虔なキリスト教徒が聖書をそのように扱うことは殆どあり得ない。しかし彼のパフォーマンスは或る本質を捉えてはいる。一冊一冊の聖書はマルティン ルターが至上のものと説く『聖書そのもの』を伝える写しに過ぎない。その彼のパフォーマンスはキリスト教の信仰に加えて日本的超合理主義に基づくものであろう。欧米などのキリスト教徒はそこまで合理的にはなれない。寧ろ日本の神道的風土が説くような、『物にも命が宿る』みたいな感性があり、物としての聖書を生き物のように大切に扱う。

 聖書は言葉で書かれている。
 その聖書の有名な行に、「初めに言葉があった。言葉は神であった。」というのがある。ヨハネによる福音書の初めの一句である。

 その彼のパフォーマンスが示すように、言葉そのものは神ではない。言葉は人間が作り出したものである。しかしヨハネというナザレのイエスの一番弟子は「言葉は神であった。」という。それは如何なることか?

 言葉を用いる人及び人間の態度、そこに神が宿るということである。

 前の【ちょっと知りたいキリスト教】の記事に語ったように、ユダヤ・キリスト教は神の『正体』を特定しない信仰である。『正体』を特定しないとはそれが一であるか多であるかというようなことを決めつけないということである。故にユダヤ・キリスト教は日本の宗教学者やそれを信じる人々が思っているような「一神教」ではない。「多神教」でもない。弊ブログの用語では「不特定神教」である。

 言葉は人を結びつけるための大切なものである。
 それを作りだしたのは人間であり、神が直接に作り出したものではない。
 しかし人は神を知りまたは人を結びつけるために言葉に依らなくてはならない。
 言葉を用いるに際しての態度、そこに神が宿るか宿らないかの違いがある、それがヨハネによる福音書が説く「初めに言葉があった。言葉は神であった。」の意味である。

 ユダヤ・キリスト教はさように、神が何でも作り出してくれる、それを元手にして人を導いてくれるというような発想ではない。「神は万物の造り主」とはキリスト教の信仰箇条にもあるが、「万物」とは「一つ残らず全て」ということではない。そのことは日本の神道の「八百万の神」が「一つ残らず全ての神聖なるもの」のことではないことからも分かろう。神が作り出すものとはいわば、人が最後まで歩み通すことができるだけの力である。その「最後」とはキリスト教信仰にいう「終りの日」であるが、その「終りの日」とは実は『必ず来るもの』ではない。
 聖書には「終りの日は必ず来る」と言う箇所があるが、その「必ず」とは「人間がこの世が終わってほしいと思うならば必ず」ということである。そのようには望まないならば「終りの日」は来ない。
 「この世が終わってほしいと思う」とは神の国を実現する意思を捨て去るということであり、そこには必然に神の罰がある。すると神による天地の創造の全ては無駄であったということになり、神自らがその罪を認めることになる。――「終りの日は必ず来る」とは不可避の真実――ジャーナリストとかいう人達が好む言葉――を語るものではなく、「貴方方がそう思うならばそうなりますよ。それでよいのですか?」という警告であると解することができる。

 故に、ユダヤ・キリスト教は「真実/truth」を嫌う信仰であるということもできる。「真実/truth」は神とは何の関わりもないからである。
 詰り、それを社是にし延いては最近のテレビCMの標語にしているニューヨーク タイムズは少なくともキリスト教圏の新聞とはいえない訳である。

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by keitan020211 | 2017-03-22 19:13 | ちょっと知りたいキリスト教 | Comments(2)
【ちょっと知りたいキリスト教】マリアの処女懐胎と生命の始まり
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 昨日のテレビ東京の『たけしの新世界七不思議大百科』を何となく観ていると、古代エジプトのツタンカーメン王などを巡る話をしていた。紀元前14世紀のことである。
 そこに、紀元前14世紀の王アメンホテプ4世が世界初となる一神教を編み出したことが語られた。

 すると、驚く人がいるかもしれない。
 それは旧約聖書の出エジプト記の伝えるイスラエル人、即ちユダヤ人がエジプトを脱して祖国に帰ったことが紀元前16世紀なので若しそのアメンホテプの一神教の説が本当であるとするならばユダヤ教は一神教ではないことになるというものである。
 先ずその驚きと疑問には一つの大きな前提の誤りがある。
 それは「ユダヤ教は一神教である」ということである。
 ユダヤ教は一神教ではない、少なくともその始まりは一神教ではなかった。
 では多神教かというとそうではない。ユダヤ教は一神教か多神教かなどという近代の社会学者や宗教学者などの底の浅い議論とは無縁な処に出来た宗教である。
 因みにユダヤ教とは異なるが、日本の神道もまた一神教でも多神教でもないことにおいては似る面がある。

 ユダヤ教はそもそもは神の数を特定しない信仰がある。一つかもしれないし有象無象かもしれないが、何にせよイスラエル人にとって確かな拠り処となる不思議な働きが存在するということを信仰する宗教である。特定が不可能ならば当然に、それを形に表すこともまた不可能な訳であり、然るに神を象ってはならない、その名を口にしてもならないという偶像崇拝を禁ずる教えも出て来る。
 一神教はそのようなものとは異なり、特定が可能で形も名も把握と表現が可能な存在としての唯一つの神を信仰するものである。ユダヤ教はそうではないしその一派として成立したキリスト教もそうではない。よって「一神教の西洋キリスト教圏と多神教の日本とはそもそも異なる」という説は全くの誤りである。

 キリスト教の基本的教義を示す『ニケア・コンスタンチノープル信経』にはしかし、その初端から「我は信ず唯一の神…」とある。ではユダヤ教がそうではないとしても、キリスト教は一神教なのではないかと思うかもしれないが、宗教の公に示す教義にはしばしば政治的深謀遠慮が反映されるものである。その政治的深謀遠慮の対象となるのが一つは一神教を世界で初めて創ったアメンホテプ王のエジプト――に対するユダヤ教のイスラエル人――であり、今一つはキリスト教を弾圧していた西ローマ帝国である。逆に、日本においてはその「我は信ず唯一の神…」が真に受けられて警戒されて弾圧につながったので世界のつながりの拡がりはややこしい。
 キリスト教はニケア・コンスタンチノープル信経にそのような文言を入れておかないと「前項の目的を達するため、」ではないが、成り立ち得なかったのでそうなっている、しかし、その本質は一神教でも多神教でもないいわば不特定神教である。
 キリスト教の祈りの結びの言葉である「アーメン」はアメンホテプ王に始まるエジプト一神教の宥和を意味する政治的符牒、即ち護身符でしかないなのかもしれない。

 『何等かの働き』、それがユダヤ・キリスト教の肝である。
 しかしそれは人間の思惟によって説明づけられるものではなく、故に西洋文学の訳語としてしばしば用いられる「神の配剤」というものではない。ユダヤ・キリスト教は神の存在についてのそのような説明づけや神の正体の特定を排するものであり、「配剤」を信ずることはそれらとは相容れないものである。また、「神の御加護」もまた「神の配剤」の派生概念としてユダヤ・キリスト教とは相容れないものであり、'God bless you.'の訳としては全くの誤り、正しくは「神は(あなたに)恵みを給ふ。」である。
 そこで一つ生じる疑問は「何れにせよ'God blesses you.'が正しい英語ではないのか?」である。それには決定的解答はできず、或いは本当に誤用の定着なのかもしれないが、三人称にしばしばあるよそよそしさを嫌って'you'と同じ二人称としたのではないかと考えられる。即ち、神をそこで呼びながら皆に呼び掛けるということである。するとまたは、それを言う者が個人的に神を信ずるのであり、それを皆に圧しつけがましく説いて宣伝するものではないという解釈もそこには可能である。

 特定の可能なものを信ずるならば、自らの想定の範囲内でしか願いが叶わないことになる。しかしユダヤ・キリスト教はあらゆる願いは叶い得るとするものであり、そのためには神が特定の不可能な存在でなくてはならない訳である。故にユダヤ・キリスト教は一神教ではない。
 但し、キリスト教はそのような『何等かの働き』を完全に体現する者としてナザレのイエスをキリスト教信仰の唯一つの拠り処とし、それを神と呼ぶ。神と一体となっている故に神である。――故にキリスト教が一神教であるかのような誤解の余地はしばしばあることになる。

 さて、この記事の題名は『マリアの処女懐胎と生命の始まり』である。

 イエスの母はマリアという女であり、マリアに祈るとあらゆる願いが叶うとされる。
 何故か?、それはここまでを読めば何となく分かる。神とは『何等かの働き』のことであり、それを完全に体現する者は神と呼ばれる資格が生ずる。その資格を有する者は唯一人イエスであるというのがキリスト教の信仰であるが、それに準ずる者としてもう一人いるのがその母マリアである。その『神に準ずる立場』を「生神女(しょうしんじょ)」、即ち「生ける神の女」という。「生ける神なる女」では誤りで「神の」である。

 そのマリアはイエスを処女として懐胎して生んだといわれる。

 処女が懐胎するとはどういうことか?
 ――その答が出エジプト記の直前にある創世記の或る行にある。

 因みに、その行はオナニーについて記されたものであるとの誤解がしばしばある。そこにオナンという男が出て来るが、彼がオナニーをしたので神が怒った、それがオナニーの語の起源であるなどと実しやかにいわれている。
 しかしその行を読むと、オナンが問題の箇所でしたのはオナニーではなく膣外射精であることが分かる。確実ではないが最も簡単な避妊の方法であるとされる。
 また、もう一つの誤解は「知った」という言葉が性行為のことであるというものである。「彼は彼女を知った。/彼女は彼を知った。」と言うとそれが性行為或いはそれに準ずることをしたということであるとしばしばいわれる。しかしそこに言う「知った」は単に親しくなったということであり、ユダがタマルと性行為をしたことがあるかどうかは分からない、多分していない、少なくともその一連の話の意味を構成するものとはならないことになる。
 また、もう一つの誤解は「彼女の所に入った」という言葉が「彼はその陰茎を彼女の膣に入れた/彼女は彼の陰茎を自らの膣に入れた」ということであるというものである。そのようなことが絶対に一度もなかったとはいい切れないが、それも多分していない、少なくともその一連の話の意味を構成するものとはならない。「彼女の所に入った」とは単に彼女の居る所に入ったということである。

 それらの誤解を誘う箇所は「彼はこれらを与えて彼女の所にはいった。彼女はユダによってみごもった。 」である。詰り、入れたから出来たというのである。
 しかし「身籠る」とはそもそもは妊娠するということではない。
 妊娠は出産及び生命の必要条件ではあるが十分条件ではない。それがその行が云わむとする肝である。
 出産及び生命の十分条件をなすものはそこに語られるユダの心に象徴される、神の『何等かの働き』であり、具体的には例えばイスラエルの社会における出生の認知と祝福である。または親となる男や女の自らの自覚もある。それらの『何等かの働き』が条件として揃う処に、生命は新たに存在を得ることができるというのである。また、それらの条件の不足は出生の時だけではなく生涯のいつでも揃え直すことができる、それがユダヤ・キリスト教の云う『贖い』――元々は「再び買い戻す」ということ――である。

 ではユダヤ・キリスト教とは偏に社会教説であり国家の教えなのか?――一面としてはそうであるともいえる。少なくとも全くの無政府主義や反体制、個人の信仰とそれに基づく行いの奨励だけを志向するものではない。キリスト教の信者を含む、キリスト教に関してユダヤ教を捨象したがる人々、所謂「イエス キリストはユダヤ教とは全く異なる新しい信仰を打ち立てた。」とする人々はしばしばそのような誤解を持つ。
 弊ブログの原点は無政府主義であるが、政府の存在を許さないという意味における全くの無政府主義ではない。政府の膨張や頽廃を戒めて政府の支配になるべく依存しないという意味における無政府主義である。

 また、ユダがとても悩みの多い人であったことから、ユダヤ・キリスト教における神は悩みの多い父のような存在であるという人格神と父性神の信仰も出て来る。そのユダの許に身籠て生まれたのがペレズとゼラと名づけられる双子であり、その母がイエスの母マリアは生神女、即ち処女懐胎の無原罪の聖母であるとの信仰のモチーフとなったタマルである。贖い主イエス キリストのモチーフが双子であるのは面白いことである。

 そもそもは日本語の「処女」の語も性行為をしたことがなくて処女膜のある女ということではなく、慎み深い賢い女という程の意味である。そのような意味においてならば、処女には価値があるといえるが「男を知らない」という意味における「処女」には見るべき価値はないのである。「処女」であってもなくてもよいが、慎み深くあろうとすること、そこに日本的にもユダヤ・キリスト教的にも価値がある。慎み深くあろうとすることにであり慎み深い状態にではない。
 故に、CNNの記者は大統領となるトランプ氏に「慎め!」と云われる訳である。

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by keitan020211 | 2017-01-14 18:27 | ちょっと知りたいキリスト教 | Comments(0)
シャルリーエブドがイタリア大震災を風刺 素晴らしい。/【ちょっと知りたいキリスト教】『自由意思』
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 フランスの風刺画を売りにする新聞シャルリー エブドがイタリアのアマトリーチェ大震災の被災者の姿をラザニアなどの料理に擬えて風刺する画を載せたことにつきイタリアの政府関係者などが非難しているという。
 シャルリーエブドは昨年の正月のイスラム国によるパリのテロにおいてその本社が襲撃されたことでも知られる。
 アマトリーチェは避暑地であり、アマトリチャーナなどの料理の地元としても知られる。

 シャルリー、掴みはOKである。握手!

 弊ブログは数日前の記事『コラム 葉がつく』にその大震災を巡る当地の司祭の不徳を批判した。アマトリーチェが昨今の安倍日本と同じく、観光立国を志向することにより安全を疎かにしたりキリスト教の信仰を捻じ曲げるまでに頽廃していることをである。
 シャルリーはその弊ブログのコラムを読んだのか、弊ブログの批判の論点を粗正確に反映するような風刺画を物した。眩達である。日本語のブログを読むことができるなんて国際人じゃん!

 自らを料理などと共に身売りにして危険な建築物を温存させ、市民が死ねば殉教者聖人のように褒めちぎるアマトリーチェ――シャルリーを非難する暇があったら、そのような地元と自らを省みるべきである。また、イタリアが日本の旧同盟国であり、言論と表現の自由を未だに嫌う国柄であることをも物語る最悪な対応である。
 「アマトリーチェ、君達は芸者と同じなのだよ。」、そう喝破してほしい。
 無論、地震は自然現象に過ぎず、震災を天罰などとそれも或る日本人と同じように云う積りはない。しかし、日頃の不徳が偶然の出来事において決算することは往々にしてある。分かり易い例は原子力発電である。それもシャルリーの風刺の対象となったことがある。なのでシャルリーの国フランスも批判のし放しではおられない。

 シャルリーによるラザニアの風刺はシャルリー自らのアマトリーチェについての見方よりも、アマトリーチェ自らの自意識の本質を徴すものといえる。
 『わたしたちはさかなのよう』ではなく、「わたしたちはラザニアのよう」、大震災が来てニュースになればもっと有名になってもっと多くの人が食べてくれる、そんな自意識である。故に、妹を守ろうとして死んだ姉を聖人のように云って一方的に喜ぶ。遺族と知人の悲しみや地元の抱える構造悪には目もくれない、『命くれない』とはそのことである。
 尤も、その姉の取った行動は彼女の自由意思であり、それをとやかく云う積りはない。彼女には本当に聖人並みの信仰と徳あるのかもしれないが単なるパニック症候群や自暴自棄、英雄願望などの発露であったかもしれず、信仰や徳に由るものであると断言することはできない。殊に長女はそれらのような傾向が強いものである。フランスもまたその国柄を「ローマ教会の長女」と古くより称されるので、それを他所事とすることはできない。自戒の意味でもシャルリーの風刺には意義がある。

 日本語において偶に聞かれる言葉に「天の配剤」というのがある。キリスト教圏である欧米の文芸書の日本語訳本などに多く見受けられ、日常会話やラジオ、テレビなどにおいても稀に用いられる。
 しかし、欧米語とキリスト教にはそのような言葉や概念はない。誤訳であり、多分日本にしかない言葉と概念である。
 「天が料理のように配剤をし、私達に試練と喜びを与えている。」、アマトリーチェは日本なのでそのように思う人もいるのかもしれないが、欧米キリスト教圏の常識とは掛け離れるものである。欧米キリスト教圏の常識は、「災害は災害でしかない。」、「死は不幸である。」、それだけである。被った災害をどう収束して復興するかや死傷の悲しみを共にすること、そこにキリスト教的愛が宿るという。配剤や試練などといういい気なものではない。配剤や試練というものはキリスト教などの宗教の信仰ではなく日本教などの人間中心主義の概念である。訳本の文芸書などは日本の文学者が欧米を勝手に日本の論理に捻じ曲げて空想するものに過ぎない。尤も、訳本を読まないと何も始まらないことが多いものではあるが、読むならばそのような誤訳を信ずることを避けるためにも批判的に読まなくてはならない。

 悲しみを共にしながら復興を実現するためには現状認識と自由意思が必要となる。神を含め、誰も配剤してくれる訳ではない。貴方方の責任がなければ何も始まらない。そのための力と知恵を与えるのが神なのではなかったのか?――それを分からない不信心と不徳の故に、シャルリーの風刺にぶち切れるのである。アマトリーチェは野蛮日本人と本当によく似てますな。

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