カテゴリ:政治、社会( 32 )
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by keitan020211 | 2018-04-25 18:03 | 政治、社会 | Comments(0)
貧富の差を計る数値――何故 中央値 を取るのか?
 森友・加計疑惑や財務省の事務次官の不品行の疑惑などに隠れ、今年は貧困や貧富の格差についてはあまり語られなくなっているようです。果たしてそれらの問題が国民の貧富に関わるものなのかは分かりません:幼稚園を永らく経営してきた学校法人がその小学校を新しく創りたい、それに係り財務省が学校を建てるための用地を前例のない大幅の値引で譲渡しようとした;獣医学部のある大学が地元にはないのでそれを実現したいと志している或る学校法人や地元の自治体がその設立の認可を優先して与えるように政府に要請した;財務省の事務方の代表である事務次官がテレビの報道記者による取材に応じた際にその記者に卑猥な言辞により取材を妨害した。
 政府が或る者をその権力を用いてを不公平に優遇したり抑圧したりすることがそれらの特定の者だけにではなく巡り巡って国民の全般の不公平につながることはありそうとも考えられるしなさそうとも考えられる。勿論、それぞれの国民の受け止めようにもよるでしょう。若しそれがあり得るならば、それらの疑惑について考えることは貧困や貧富の格差についての問題意識ともつながるのかもしれず、それをそっちのけにして衆目を引くような疑惑に注目しているだけとはいえないでしょう。

 因みに、私は弊ブログのこれまでの記事等にも時折に語っているように、貧困や貧富の格差については絶対格差、gapsについては問題ありと思いますが相対格差、differenceについては問題そのものが存在しないと思います。日本においてはそれらの何れも十把一絡に格差と呼ばれて問題にされていますが、幸福を追求することなどの人権に関わるのは絶対格差、gapsだけであり、相対格差、differnceは人権とは関わりがなく、精々が経済論的問題に過ぎません。相対格差の存在は人々にとっての変わることのない所与の条件でもあり、当然に生じ続けるものですがあまりに大き過ぎる相対格差は経済を成り立ちがたくさせるという説もあります。

 しかし「大き過ぎる経済格差」とは一体、何を基準にするものなのでしょうか?

 それを解く鍵が格差、取り分け所得格差の計り方にあります。

 先述の疑惑の話に出て来た、学校や放送事業者においては多く平均値というものが用いられます。
 学校においては考査の平均点、或いは、数値にはならない「生徒達の平均的志向」などがいわれます。放送においては全ての時間帯に亘る平均視聴率が算出されます。平均視聴率と相対する数値は瞬間視聴率です。
 では、国民の所得や生産額も平均値で計ればよいのではないかと思うかもしれません。実際に平均所得という数値は統計されて官民において発表されます。しかし平均所得は他の事柄には役に立つことがあっても、格差を計ることには役に立ちません。
 他には、平均値が重視される事柄には株価を平均する日経平均株価というものがあります。今は電算機と通信装置の時代なので日経平均株価を算出することはその数式を知る人なら誰でも容易くすることができますがそれらのなかった時代には膨大な数の銘柄の株価を全て計算せねばならず、故にその担当者しか計算をしないものであった訳で、日経平均株価の担当者はかつては他に代わる者のない名誉職であったといえます。

 何故に平均値ではならないか?

 それは平均とはその基となるもの、例えば所得なら国民の総所得と個々の所得が一体のものとして互いに相関することが前提となる概念であるからです。平たく言うと、自分の所得と他人の所得または皆の所得の総合計は同じ土俵で比べることができる、そうであって初めて平均値は意味があります。それを数値の有機性と呼びます。
 しかし所得とはそのようなものではありません。先ず、時間賃金、いわゆる時給が千円であることの正当性には貨幣の価値の相対性などからして絶対の根拠はありません。千円の時間賃金はそれが千円なることに意味があるのではなく八百円より高いことや二千円より安いことに意味があります。先ずそこからして平均所得を格差の基準にすることの意味のなさが何となく分かります。皆が誰の千円をも等しい価値と見做していなければ平均額は価値を表す数値とはならないのです。
 政府が平均所得を統計するのは政府が貨幣の価値を制御することの能う立場にあり、正しく制御されておれば同じ金額は等しい価値を表すと推定することができるからですが現実には必ずしもそうではありません。政府の役人等も一市民としてはそのように思ってはいないでしょう。

 貨幣価値だけではなく、賃金とそれに基づく所得の決定には絶対の根拠はないことは業種の違いや地域の違い、労働者や経営者の能力の違いなどにもよります。それらを一様に金額に換算することはできません。唯一の決め手は支給者が支払えるか支払えないかです。
 故に同一労働同一賃金というものも不可能であると分かります。同じ雇用者、事業者の中でも賃金額を同一の基準により決めることは不可能です。実はそれを最もよく知るのは同一労働同一賃金ではなく同一雇用者同一賃金を原則とする共産党です。賃金の総額を単純に被雇用者の頭数で割るだけ。
 しかし何故か、自由主義資本経済を信ずる人達が同一労働同一賃金を実現するべしと主張しているのは貨幣価値などの相対性を前提とする自由経済の根本を理解していないということであり、不可解です。
 全体と個別の価値を有機的に金額に換算することができる、そのような国家社会主義的経済観が平均所得の大前提です。少しずつでも平均所得に近づくように同一労働同一賃金などの政策により国民の所得を高める。――本来の自由主義も共産主義もそれとは異なるものです。

 中央値の意味を説明することよりも平均値の意味のなさを説明することが長くなりました。
 さて、中央値とは何か?

 1; 2; 3; 4; 5――この五つの数値の平均値は7.5ですが、中央値は3です。
 1; 2; 3; 4; 5; 6; 7; 8; 9; 10――この十の数値の平均値は27.5ですが、中央値は5.5です。
 ――中央値とは複数ある数値の丁度真中、どまんなかにある数です。どまんなかの「ど」の漢字は「度」。
 そのような等差数列では分かり易いですが、偏差数列では少し難解です。
 1,856,475,219
 8,546,135
 7,954,264
 4,264,789
 3,786,451
 それらの五つの数値の平均値は376,205,371、3億7620万5371ですが、中央値はぐいと下がり、7,954,264、795万4264で、3番目の数値と同じです。5つある内の度真中は3つ目であるからです。
 つまり、中央値を出すには数値が奇数個なら計算を全く要せず、偶数個なら個数/2つめと個数/2+1つ目の数値を平均すればよい。計算の力よりも表を作る力を要します。
 何故度真中を取るだけの数値が中央値になるのか?、それにはどんな意味があるのか?そもそも計算しなくてよいなんて信用できる数字とはいえないではないかと思うかもしれません。
 それが正にですね、或る数値を決めるものには絶対的根拠はないということなのですよ。
 数値そのものに意味があるのではなく、偶々真中になったことに意味がある、それが世界の真中で輝くということなのかどうかは分かりませんが。
 それらの五つの数値には先に平均値の処で説明した同じ土俵での比較が可能な有機的関係はなく、只それらの五つの数値が発生して存在するだけです。所得(円)なら、それらの五人の所得額はそれぞれ無機的に、即ち無関係に決まって貰っているものです。無関係なら平均値を取っても意味がありません。なので金額を計算するのではなく順位に着目する訳です。
 
 格差の研究をする人達がそれに所得の中央値を用いることを思い立ってしているのは画期的であると思います。従来の経済社会観とその格差についての見方がそれにより根本的に変わっているからです。
 従来のものとは先に説明した平均所得を基準とするものです。その平均所得には全体にも個別にも意味のある数値として認識されていたものが、そうではない、数値そのものではなく順位が重要なのであると喝破しているのです。つまり、二位では駄目なことは全くなく、二位には二位の価値があることになります。
 度真中の順位には、それを上回る者と下回る者が同じ数だけいます。つまり、他者や世の中を中立に曇りなく見ることができる可能性が最も高いと仮定することができます。勿論それは最上級や最下級の人のものの見方は常に偏っているということではありません。最下級の人達も適当な知識や心得があれば物事を公正中立に見ることができますが所得の低さから来る教育の機会の不足などにより偏らざるを得ないのが実情です。彼等のやや偏っている主張を民意の一部として取り込むためには現行の放送法を擁護する人達のように公正中立不偏不党を振り翳す訳にはゆかないでしょう。不偏不党とは主張してはならないということであり、そのようなことを求めることが公正中立な筈はありません。
 但し、格差の是正には関心がないとされるネット右翼には中央値に近いかそれをやや上回る所得の人が多いとされるのが何故かは謎です。最も中立的と思しい所得水準なのに彼等のものの見方はかなり偏っている。考えられるのは所得の高さを自分や子供の教育に向けるのではなく実力の行使に向けることです。知識も心得も乏しいのにそれを主張する機会と装備能力だけは高い。

 格差とは中央値との差をいいます。
 その差を相対として計る際には、差の大きさは問題があるものと捉えられます。
 しかし二位には二位の価値があるのと同じく、最下位には最下位の価値があります。それはそれぞれの順位の者を絶対として見る場合です。それらの順位の間には有機的関係はないのでそれが可能になります。平均値との差で計る場合には有機的関係における差なので最下位には最下位の価値があるとは見做されず、価値がないとされます。
 昨今に格差の問題に関心がある人達には、格差がそのように中央値との差で計られていることを知らずに平均値との差の観念で見て語っている人が少なくないように見受けられます。故に格差を空けられている者はどこまでも疎外されている、それを解決するためには一億総中流の時代の水準を取り戻さなくてはならないと主張することになるのです。ものの見方の前提が格差を作り出しているとされる側と同じ。3億7620万5371円の所得の人はいないのに恰もそれがいるかのような前提で語っている。一概に格差を是正して所得水準を高めるべきとはいえども、存在しないものを想定してはいけません。
 また、問題の意識とその解決を求めることが「解決するまで待て。」という状態を生じてそれが長引くことにつながることが日本の特徴です。無論、待っている間は何も改善されません。それは日本だけでは必ずしもありませんが、その点からも今までの格差社会についての問題意識は百害あって一利ないものであったといえます。

 中央値はMicrosoft Excelの関数にもあり、=MEDIANがそれです。物事の意味によってそれを計る数理も違うものです。

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by keitan020211 | 2018-04-25 15:41 | 政治、社会 | Comments(0)
今の経済は不足供給の時代――過剰供給を懸念する時代は十年も前に過ぎている
 不足供給:供給が需要を下回り、物が足りなくなること
 過剰供給:供給が需要を上回り、物が余ること

a0313715_21543339.jpg 今時の経済評論や経済学者の意見を見ると、その多くが過剰供給を懸念する言説です。人口の減少によるものを含む需要の減少や消費性向の多様化への対応の遅れなどにより物が造り過ぎて余る状況が続いており、生産を抑制しなければならない、生産量を少なくして多様な需要に応える産業経済のあり方を創出するべしといいます。生産が抑制されれば原材料費などの付加価値をも削減せざるを得ず、賃金などの人件費をも抑制せざるを得ないという。
 しかし2012年末に発足した自民党の安倍政権の大型経済政策アベノミクスが実施されてから、そのような意見とは矛盾する指摘が政権の関係者、支持者や安倍総理自らの口から出て来ています。それは企業の多くは今や人手不足にあり、先ずは雇用を増やして賃金をも上げるべしというものです。その声を反映し、安倍政権の五年の間に賃金の増加は僅かではありながら雇用が増えており、失業率が下がる傾向にあります。
 若し民間の経済論が本当なら、雇用が増えている筈はありませんし賃金もより下がっているでしょう。
 政府の統計値だけではなく現実に雇用は増えているのでそれを信用するなら、民間の経済評論は間違っていることになります。
 そうです、間違いであり、彼等は既に過ぎ去っている状況を未だに続いているかのように説いています。
 では、何故に彼等はそのような間違いを説き続けているのでしょうか?状況の変化に気づかずにいるのか?気づいているけれど何かの意図があってしているのか?

■景気はこの10年に上向き続けている

 民間の経済論の懸念している過剰供給は今を遡ること10年、2008年頃に既に終わっています。
a0313715_21560929.jpg 10年前といえば、今や森友疑惑に関し辞任が噂されている麻生太郎財務大臣が総理大臣であった頃です。エコポイントや一人につき1万円の臨時定額給付金が話題になり、僅かながら景気が上向いていました。その景気は2005年頃から続いていた戦後最長の好景気の余波としてのものです。
 しかしその好景気は2008年のアメリカの大手投資銀行のリーマンブラザーズの破綻を受けて起こったリーマンショックにより頓挫し、一年程は不況が生じました。因みにリーマンショックとはリーマンブラザーズ社の破綻が不況を引き起こしたのではなく、それを金融秩序の不安と勝手に解釈した経済界が不況を意図的に作り出してのものです。その出来事までは経済界の人達さえリーマンブラザーズの名を聞いたこともなかったので金融秩序が揺らぐという都市伝説を容易く鵜呑みにした訳です。そんな日本の状況を他所に、当地アメリカの経済は当時に発足したオバマ政権の下に極めて緩やかながら、当時から上向き始めて十年を経る今も続いています。それを更に上向かせてアメリカ経済を再び強くしようとしているのがトランプ政権です。
 日本はそのオバマ景気の始まりに一年程遅れ、麻生政権に続く民主党の鳩山政権の頃に景気が持ち直し、続く菅政権の頃から今まで上向き続けています。先の雇用の状況の改善と失業率の低下も民主党政権の下に始まった傾向です。但し賃金はリーマンショックを受けて抑制されたために上向かず、後の麻生財務大臣も指摘することになった所謂内部留保が増しています。賃金の抑制は経済界が「リーマンショックへの対応」により生産を抑制して過剰供給を防ごうとしたことによるものです。しかしそれはあくまでも噂であり、現実には過剰供給は解消される消費の傾向にあり、経済界の対応は供給の著しい不足を招きました。店は品薄の状態になっていた。そこで利益の上がらない中で増えた雇用を守るためには賃金の更なる抑制を図らなければならない。しかし2000年頃から粗一貫して続くデフレ、即ち貨幣価値の増大の故に実質賃金の低下も抑えられ、民主党政権の下における国民の生活は安定の傾向にありました。
 民主党政権の頃には解消された過剰供給の傾向が始まったのは当時を遡ること更に十年、1998年です:民主党が党勢と議席を増し始めた時代。
a0313715_22003738.jpg なので当時からの十年、1998年から2008年は、そのような経済論は時代の現実を捉えている正論でありました。「造り過ぎの無駄を省く」、トヨタ生産方式が提唱した'just in time'が極めて重要な意義を持ち、本気であれ贋物であれ、それが広く検討されて実行され、過剰供給を生まない産業経済のあり方が考えられていた時代です。その贋物というのは単に生産を抑制して付加価値を削減するあり方のことです。そのような贋物の典型は「今はグローバル化の時代であり、新興経済国が台頭してグローバル市場を牽引する今や日本企業もそれに相応しいあり方にしなくてはならない。」というものです。付加価値の高い従来の日本の術理(テクノロジー)を捨てて消費者が求める無駄のない商品や仕事(サービス)を提供するべし――しかし一度捨てたものを取り戻すのは極めて難しく若しくは不可能であり、「消費者が求める無駄のない商品や仕事(サービス)」を提供している新興国もいつかはかつての日本のように付加価値の高いものが増えてゆきます。そうなると日本は梯子を外されることになる。見下すものではありませんが、今までの新興国等がそのようなものを作るのはまだそれしかないからであり、必ずしも消費者が求めているからではありません。いわば、グローバル市場は消費者の選択肢を狭めており、消費者はその中で比較優位のものを選んでおり、それらが強い商品となっている訳です。尤も、いつのどんな時代も絶対優位の商品は少ないものです。
 そのようなグローバリズムを代表していた政治家は同じ民主党の前原誠司氏や細野豪志氏など。自民党にも若干の支持者がいますがどちらかといえば民主党に顕著です。しかし、今は彼等の影響力は昨年の衆議院総選挙における希望の党を巡る政局により著しく弱まっています。民主党には今の代表の大塚耕平氏や希望の党の代表の玉木雄一郎氏などのような非グローバリスト、所謂普通の経済を支持する人達も多いが前原氏や細野氏のようなグローバリストの力も強くあった。
 1998年~2008年が過剰供給の時代になったのは「造っても得にはならないが造らなければもっと損になる」からです。何もしないことが最も損なことであり、企業は需要の減少の傾向にあっても何とか売捌いて「損失を少なくする」、そして利益が出れば負債を減らして自己資本比率を高めることに専心していました――先の内部留保の問題はまだ生じていない。――。当座の利益よりも資本を核とする財務体質の改善が金利を下げ続ける銀行の信用につながる時代であり――そのような時代ではなくても財務体質は重要ですが、――、残高表不況と呼ばれます。売捌くためには価格を下げることを要し、それが物価が下がる傾向になります。典型的デフレ経済ですが、実際には賃金の低下を上回る物価の低下にはならずに実質ではインフレになる場合もあり、それが弊ブログの度々指摘しているインフレ圧力またはデフレの脱却圧力というものであり、デフレならデフレに任せるべき経済を歪めています。
 1998年が過剰供給の時代の始まりになったのは色々な時代の思潮も影響していますが、最も大きなものは自民党の橋本政権及び大蔵省がその年に打ち出した財政の再建の政策です。政府の負債を減らし若しくは増えにくくするというものであり、その論理が企業の経営にも反映されてのことです。その政策は続く小渕政権からは否定されていますが自民党の一部にも世論にも根強く残り、2010年代に再び有力になって民主党の菅政権、野田政権と自民党の安倍政権にも影響を持っています。

 2005年~2008年の3年間と2009年~2018年の9年間の好景気の主な理由は輸出の好調です。
 2008年から減少に転じた人口などを反映し、国内需要には見切りが付けられましたがそれを補って余りある利益が外国市場への輸出に求められてのものです。その間の賃金は一貫して抑制されているのでしばしば実感のない好況といわれていますが供給の不足が回避されている場合には実質賃金が上がったこともあり、そのような批判は必ずしも当たりません。殊にリーマンショックによる中断の後の2009年からはそれまでに急がれていた生産設備の確保が充分になり、また、雇用が上向いて人手の確保も改善されている故に実質賃金が上がる傾向にあります。しかし、雇用に関しては2013年からのアベノミクスの下においてはそれまでの改善の傾向を更に人為的に強めた故に実質賃金の伸びが鈍り、そのために賃金を人為的に上げる政策が採られた訳です。それが所謂官製賃上げとの批判も強くある、安倍政権による経済界への賃上げの要請です。それが良いか悪いかは評価が分かれ、弊ブログは民主党政権の頃からの雇用の自然増に任せるべきであったとしています。人為的政策が強まると人間のものの見方が狭くなるからです。

 リーマンショック後の今までの十年は輸出の好調の一方では国内需要の見切りが極端になった故に国内の供給が不足している状況にあります。
 輸出は現地生産とは異なりその生産は国内でなされるので雇用の改善は実現しますが輸出への依存が高まると国内の不足供給になります。それでも国内供給の全てをやめることはできないのでそこへ取り敢えず人物金を用意しておかなければなりませんがリーマンショックの対応が極端になった故に不足供給の傾向が生じている訳です。
 また、一部ではありますが、増え続ける高齢者の需要への対応が遅れていることも不足供給と人手不足の一因でしょう。更には、減り続ける若年層の需要への対応が極端に過ぎて結果として不足供給と人手不足になることもあり得ます。殊に日本は「これからはこうだ。」となると皆がそのようにしかしない弊があるのでそのようなことが起こり易い。

■不足供給を防ぐ経済の時代へ

 不足供給は造り過ぎの無駄がないということで如何にも良好な状態のように見えるかもしれませんが必要なものを必要なだけ造ってはいないということでもあるので単純にいえば欠乏であり、不経済の状態です。
 勿論、相対的不足は必ず生じるものであり、それが景気が上向く良い機会にもなるものですが不足供給が続いてはいけません。
 2012年の中央自動車道の笹子隧道の天井板の崩落の事故などは必要なものが必要なだけ造られてはいない今時の状況を現すものです。
 アベノミクスは公共設備の修繕や更新を主とする公共事業の政策を打ち出しており、目のつけどころはシャープですがそれが全国に亘り実践されているかは分かりません。公共設備に分類されるものの他、民間にも様々な「造らなさ過ぎ」が見て取れます。
 供給が不足すれば物価が上がり、経済成長を阻む要因になります。
a0313715_22041798.jpg 昔の社会科や経済学の教科書には「景気が上向くと物価が上がる。」と書かれていましたがそれは高度経済成長という当時の環境に依存する見方であり、景気と物価とには直接の関係はなく、間接的にも関係のない場合が多いです。物価の変動は需要に対する供給の過不足によってのみ生じるものです。高度成長の時代には実際の供給が見込まれる需要を下回る場合が多く、不足供給が常態となり易いので物価が上がります。しかし高度成長の時代にも術理の著しい進歩による生産能力の向上により価格が下がる場合があります。例えば量産効果と呼ばれるものもそれにあたります。
 さすがに今時は「景気が上向くと物価が上がる。」と説明する教科書は少なくなって来ているようであり、中学の公民の教科書にも物価の変動は需要と供給の過不足により生じ、景気との関わりはないと説明されるものが多くなってきています。昔の教科書は高度成長という現象だけを見て書かれていたのでそのように説明されてはいませんでした。

a0313715_22061133.jpg リーマンショックの後に先のような過剰な供給不足の傾向は雇用の促進などにより幾らか是正されていますが不足供給の傾向が猶も続いているのは確かです。今の日本にはいわれているような、需要がないのではなく、供給が足りていないのです。多くの国民、消費者は財が市場に不足するその状況に多少の我慢していますがそれを買い控えと誤解する経済論者が跡を絶ちません。欲しい品はないので買わないのではなく欲しいけれど品がない、ないものは買えない。いわば金余りに物不足です、金余りということはしばしば箪笥預金という語で説明されていますが。
 また、過剰供給を避けるということがそのような状況においては雇用をより促進することや商品の付加価値を高めることを怠ることの口実になってもいます。そのような企業家の口実に意図してかせずしてか忠実なのが先の前原氏や細野氏などのグローバリストの政治家達です――それは彼らの今属する希望の党の理念と政策観ではありません、誤解のないように。――。尤も、消費税、即ち付加価値税を15%にとか20%にとかいう彼らにすれば、商品の付加価値の増加は価格の上昇につながり、それで庶民の消費税の負担が増しては反対に遭うということで雇用の回避を容易くするための社会保障の整備、所謂セーフティーネットの概念や低付加価値型のグローバル産業経済を支持する訳でしょう。しかし消費税を比較的低め――:10%程度――に抑えておけば企業は安心して高付加価値型の業務のあり方にすることができ、社会保障の拡充も雇用の回避のためではなく国民の健康な文化的生活のための基礎をなすべきものになるでしょう。
a0313715_22074593.jpg 10%への消費増税を支持する経済界の全てがグローバリストではなく、そのような高付加価値型の産業経済と社会保障を実現するための消費増税を支持する経済界の人達も少なくはありません。
 逆に、消費増税を渋る安倍政権の意図は単にアベノミクスによる景気の刺激には差し支えるからというものであり、ゆくゆくはどうするかについては正直にいってまだ何も考えてはいないのが本当の処でしょう。少なくとも安倍総理自らはグローバリストではありませんし、麻生財務大臣も違います。但し安倍政権とアベノミクスについていえるのは先の物価についての旧い理解に留まったままで経済政策を考えていることです。スーパーあずさになったあずさ2号が更にウルトラあずさになっただけのことです。走っている時には表示板を消さないといけないようです。

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by keitan020211 | 2018-03-15 15:28 | 政治、社会 | Comments(0)
【2018年 年頭の論説】国とは何か?――人口問題の次に来るもの
■ブルゾンちえみが告げた時代の切れ目

 「…35億。」――ゆく年2017年に人気になったお笑い芸人のブルゾンちえみの決め文句。タイトスカートとシャツを基調とする暗めの色のその装いはそれまでのお笑い芸人の相場を塗り替えるような端正なもの。去年ははっきりと認識し難いが、何かが変わる、既に変わっていると感じさせた名場面である。
 「35億」とは地球の人口の約半分、そこでは男の数を指す。全世界の人口が大きく増える傾向にあると同時にこの日本の人口は数年前から漸減の傾向となっていることは頓に知られている。
 それだけ世界に占める日本の大きさは小さくなってゆかざるを得ない――その危機感が良きにつけ悪しきにつけ、日本の存在感を世界に訴える動きにつながっているのであろう。そこにはこの国の生き残りを懸ける必要な営みもあるが、自国を徒に誇るためのものと思しい恥ずるべき営みもある。一般に知られ易いメディアを通して見聞きするものは後者が圧倒して多い。何れにせよ、希望よりも焦燥が大きくこの国を覆っている。
 そして男の数だけではなく女の数を増やすべしとの掛け声も政権などから出ているが、それなどは焦燥の処か既に手遅れではないかと見る向きも少なくない。日本の男女平等度の評価は世界の最下位級であり、国民のそれに関する意識は新しい憲法の公布から七十年を経てもなかなか変わりそうにはない。
 人口の減少に抗うために、子供をもっと生み育てるべしとの声もある。自民党の山東昭子議員が昨年に子供を四人以上産んだ人を表彰する制度を考えたいと語って批判を受けた。確かに実際には荒唐無稽とも思える提案ではあるが、人口減の一因である「少ない子供を大切に育てる」という価値観を変えることには意味のあるものである。その「大切に」とは何かを考えると、それは必ずしも子供の名誉や将来を本当の意味で尊重することではないことは多くの人々が薄々と感じている。相模原市の障碍者施設で起こった大量殺戮の事件はその価値観の忠実な帰結であり、犯人と同じ思想を持つ自らを恥じるべき人も「普通に」少なくない筈である。実際には大家族が普通になることはもはやないにせよ、大家族的価値観は子供と人口が少なくなってゆくこれからの時代にも大切なものとなろう。
 少子高齢化を基底とする人口問題は21世紀の日本の世論の主要の関心事となっているが、人口減が既に誰にも分かる既定の見通しとなっている今や、その次に来るものを見出す必要がある。

■人は国にとって何なのか?

 希望よりも焦燥が覆うこの国の今にあって、去年の秋の衆議院総選挙で安倍政権の自民党が大勝を収めたことが或る面ではその一時の安堵をもたらしている。それを不本意とする人々にとっても、仮にその時に政権交代が起こっていたならばそこに新しい焦燥が生まれていたであろう。安倍政権に、自民党政権に、負ける訳にはゆかない。――そんな焦りが本当にするべきことを見えなくさせるかもしれない。その意味においては去年2017年は安定の年でもあった。
 しかし、この安定もそう長くは続かない。少なくとも人口問題の認識だけでは解決し難いものがホワイトアウトの状態にある。
 それは国の人口は減っても人の豊かさは増えなくてはならないことである。
 国の人口が減ってゆくことが恰も人の豊かさをも減らしてゆくという見方が跡を絶たないようであるが、それは人の自意識が国の形と別ち難く結びついてしまっているからであろう。国が廃れれば心も廃ることは必然ではあるが、国が栄えれば誇らしいという感覚では国が廃れかけている今は誇りを持ち得ないことになる。国と共に廃れかねない心を保つには何か他の拠り処が必要となる。延いてはそれが国を再び立てる力となる。そうであれば「アメリカはもはや私の国ではない。」などという嘆きは出る筈もない。どんなものであれ、国の形と人の形は異なる。
 人はそして自分は国にとって何なのか、それを問うべき時代に来ている。それは半世紀前にケネディ大統領が語った「国が何を貴方にするかをよりも、貴方が国に何をするかを問うべし。」との言葉にも通じるかもしれない。人と人々がいてそれぞれに何かをする所にしか国はできない。国とは人々の営みの寄せ集めである。そして良きにつけ悪しきにつけ、その現実を共にすることもまた国であり、今そこを含め、どこかに素晴らしい日本というものがあるのではない。故に、『日本を、取り戻す。』という安倍政権の声はそれがどんなものであれ誤りである。

■『一人ひとりの高度成長』の時代に

 ――そんな今、かつてのような高度成長を再びすることはできないことは自明である。
 しかしそうであるといって経済成長には頼らない『成熟社会』が必要であるなどという論理の飛躍は更に誤りである。そのように見る人達は人間の幸せをやはり国全体で見るという、高度成長の時代の物差をそれとは違う今の時代に当てる誤りをしている。その計測結果が大きいか小さいかだけが違いであり、それが小さくても幸せと思うべしというのである。国民一人ひとりや人間一人ひとりを見て考えれば『成熟社会』などという発想は出て来る筈もない。そうではなく、昔は国全体が高度成長を果たしていた、今まではその余韻で動いていた、今度は一人ひとりが高度成長をしてゆく時代であると見定めなくてはならない。その成長率が全体の人口減と比べて大きければ良い。
 そのためにはどんな人に仕えたいか、そしてどんな政治指導者を選ぶべきかを考えてみる必要もあろう。自分を変えることも勿論必要ではあるが、どんな人の下に入るかを選ぶことも必要である。結婚ができないことや子供が出来ないことも意外と、それを想い描くことができない、経済力よりも想像力の貧困が原因なのではないか。想像力と経済力の相乗効果が働いてこそ、豊かさと幸せは実現する。今までの時代はそれらが切り離されてどちらかだけが偏重されていたと考えるべきであろう。而して「成熟」とは頽廃の類語であり、想像力のない経済力と経済力のない想像力を奨励する用語であり、21世紀型のファシズムであった。今年からは世界が総力を挙げてその誤った道を殲滅しなくてはならない。

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■NEWS of the WORLD


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    ●AFP(フランス パリ)
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    ●ル フィガロ(フランス パリ)
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    ●フランクフルター アルゲマイネ(ドイツ フランクフルト アム マイン)
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    ●共同通信(日本 東京)
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    ●朝日新聞(日本 大阪)
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    ●日本経済新聞(日本 東京)
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    ●ボストングローブ(アメリカ マサチューセッツ州ボストン)
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    ●タンパベイ タイムズ(アメリカ フロリダ州タンパ)
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    ●グローブ アンド メール(カナダ オンタリオ州トロント)
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    ●ロイター(イギリス 英国 ロンドン)  
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    ●ザ テレグラフ(イギリス 英国 ロンドン ウェストミンスター)
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    ●ジ インディペンデント(イギリス 英国 ロンドン)
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by keitan020211 | 2018-01-01 00:34 | 政治、社会 | Comments(0)
最も正しい リベラルと保守;左翼と右翼の定義 その7 社会編
賊軍を官軍の勝ち組クラブに入れる
賊軍戦没者の靖国神社の合祀に 絶対反対

都合の悪い歴史を覆い隠す
A級戦犯の分祀に 絶対反対

皆様の力で阻止しましょう!

 リベラルな価値ということがしばしば云われます。

 報道や言論のメディアにおいて云われる場合は、既成の価値観に縛られずに現在世代の人々が求めることやものを許容し若しくはそれを公に認める法制度を作ることをいうようです。
 そのような理解は凡そ正しいといえます。
 既成のものが良くないと思っていてそれに反する何かを実現したい際には、それを変える必要があります。それは新しいことを直ちに実行するだけで実現する場合もありますが法制度を変えることを要する場合もあります。

a0313715_04122471.jpg 但しそのようなメディアを通して云われるリベラルな価値の理解は「現在世代」の求めることやものだけを対象としています。そこは理解の狭さです。
 過去には現在にはいないような様々な人々がいたし、未来には現在にはいないどんな人々が生まれて来るか分かりません。
 過去や未来の人々も現在の人々と同じ土を踏み、同じ空気を吸います。
 彼等のことをも考えなければ本当の意味でのリベラルな価値とはいえません。
 勿論、現在世代は過去の人々の思いを充分に知ってはおらず、未来の人々の思いを充分に見通すことはできません。勝手な想像により昔の人はどうであったとかこれからの人はどう思うに違いないとかということは許されるものではありません。そのような決めつけをせずに、現在世代の人々の知識、良心と責任において考えることがどうしても必要です。
 その知識、良心と責任が過去と未来の人々の心を汲むように働くか、それができることが本当のリベラル、自由であり延いては本当のリベラルな価値をもたらします。

 また、現在世代によるリベラルな価値の追求におけるもう一つの問題としては、事柄の切り売りがあります。
a0313715_04154867.jpg 何等かの問題、争点を個別にパッケージングして分野をなし、それが人々にメディアを通して提示されます。
 そうなると、一つ一つの事柄を自己完結的に処理するように考える癖がつき易く、それぞれの事柄をつなぐような深い考えがなかなか生まれて来ないことになります。
 「つなぐ」ことにつながるものは例えば文芸、les arts libérauxです。文芸は人文学とも呼ばれます。
 それを学業として修めた人々は勿論ですが、そうではない人々にも文芸は多少開かれており、それを学ぶことができます。昔は一々本を買わなければならなかったので文芸を知り得るには経済力の格差が壁となっていましたが今はネットがあるので基本料金だけで済み、格差の壁はややなくなって来ています。それを嘘と思うならばネットを生かしていないか生かそうともしていないかです。
 他にあるのは手当たり次第に知識を拾い、それらを自分の頭でつなぐことです。それも今はネットによりかなりでき易くなっています。学業を修めている人も社会人になるとその手に頼ることが多くなります。
 かつて民主党の小沢一郎氏がインターネット端末を全ての世帯に無償で給付するという政策を提案したことがありましたが彼もまた、若し生かせるならば、ネットのリベラルな価値の追求と実現の可能性を広げる意義は大きいと見ているのでしょう。ヨーロッパには眼鏡を全ての国民に無償で給付する国もあるので小沢氏のそれも充分に可能なのですが、インターネットパソコンがまだ自動車のようなステータスシンボルであった時代の提案なので無償給付による普及はその誇りを毀す、苦労してパソコンを買っている人々に不謹慎なりやということで反対されて実現しなかったのかもしれません。
 ネットの普及は前世紀の「事柄の切り売り」による世論を少しずつではあれど変えているといえます。尤も、それによってもまだまだ残る世論の通弊や新たに出て来た問題もあります。

 文芸と似て非なるのが教養、Kulturです。
a0313715_04171703.jpg 教養はそれそのものが事柄をパッケージングすることを根本とするため、事柄の切り売りを助長し易いものです。明治から昭和や平成に掛けて形成されたこの国の教養というものが事柄の切り売りによる歪んだ世論を形成しており、教養という概念はもはやハードディスクの残り滓データにしか残るべきものではありません。教養を身に着けたいと今時に思っている人は少し視点を変えて教養ではない知識を身に着けることを考えてほしいと思います。
 自分の意見が確立していると思っている或る事柄と他の事柄が不和を起こす、平たく言うと現実に著しく矛盾する、何も生まんじゅうろう、それは教養というものにある本質の故です。
 そのようなものである教養の作り出すものは社会の閉鎖的慣行や自由の阻害、本質的無関心などであり、教養はリベラルと相容れるものではありません。
 故に大学の共通科目なども、今は共通科目という名称になっていますが昔は一般教養科目と呼ばれる向きが多くて今もそのように呼ぶ大学があります。この国も年来に少しずつではあれそのような改善がありますが名を変えても実は変わらないこともあったり、まだ教養主義の壁は薄いとはいえないようです。

 リベラルな価値ということに関し、左翼、革新(中道左派)、保守(中道右派)と右翼の見方の違いはどうなのでしょうか?

 『その1』の記事に政治におけるリベラルとは革新と保守の総称であると語りました。
 しかし政治には限られないリベラルな生き方、生活における自由の追求や確保に関しては革新と保守だけではなくそれらの四つの全てがそうでありうるとも。
 とはいえ、それぞれの見方の多少の違いはあります。

 左翼:政治に関しては基本としてはリベラルではない。但し生活におけるより多くの自由を必要とする場合には政治的リベラルに与することもある。
 革新:政治に関しても生活に関してもリベラルを旨とする。但し経済社会と家庭の彼等なりの共通価値を優先し、それに反する自由は認めない。
 保守:政治に関しては基本としてはリベラルな価値よりも法に基づく伝統的統治のあり方を重視する。生活に関しては個人の自由を他者の自由を損なわない限りは無制限に認める。但しそれが損なわれる場合には政治においてもリベラルな価値を優先する。
 右翼:政治に関しても生活に関しても現状の維持を最も優先するため、保守的価値を求めるかリベラルな価値を求めるかは現状に基づいて決める。どちらがどれほどを占めるかは時により違う。

○左翼:政治に関しては基本としてはリベラルではない。但し生活におけるより多くの自由を必要とする場合には政治的リベラルに与することもある。

 共産党はリベラルではないとはしばしばいわれますが、凡そそれと同じ。
a0313715_04202098.jpg 政治に関してだけではなく生活に関してもなるべく伝統の保守を基本とする考え方をします。
 保守的価値に反する人がいる場合には、左翼は理性的説得による保守的価値への回帰を図ります。排除することもなければ保守的価値に反する方へ譲歩してゆくこともありません。但し多くの人々が保守的価値をより自由な在り方に修正することを求める場合には民主集中的議論を通して改めることが認められることもあります。議論もまた理性的説得の一つであり、左翼においては理性的説得が何よりも大切にされます。
 それらを実践し続けることができれば、左翼は或る意味では人間としての「上がり」であるといえるかもしれません。

○革新:政治に関しても生活に関してもリベラルを旨とする。但し経済社会と家庭の彼等なりの共通価値を優先し、それに反する自由は認めない。

 『その3 経済編』や『その6 風俗編その2』の記事に、革新は経済社会と家庭の共通価値をなすと語りました。それに反しない限りにおける自由、リベラルさを政治に関しても生活に関しても追求します。
 安倍政権が集団的自衛権を制限つきで認めることによる安全保障法を制定しましたが、そのような立法は革新的在り方に基づくものといえます。集団的自衛権が制限される部分はその行使が現在世代の経済社会と家庭の共通価値を侵しかねないものであり、そうではない部分が認められた訳です。保守ならそのような立法はせず、集団的自衛権の行使を全く認めないか無制限に認めるかのどちらかです。但し現在の保守はどちらかといえば集団的自衛権の行使を認めるべしと思う向きが多いのでその安保法そのものが保守的であるとはいえないにせよ、安全保障についての国民の世論が少しでも現在の保守に近づいたとはいえましょう。保守であるとはいえないけれど保守に少し近づいた状況は革新、保守と右翼が混然と分かりにくい思想の状況を招いています。故にも弊ブログは今このような解説と批評を物している訳です。
 革新の共通価値は常に変わらないものではなく、革新というからには時代により多少の変化があります。殊に大きく変わったといわれるのは同性愛者、所謂LGBTの権利についての見方です。
a0313715_04223178.jpg 因みに弊ブログは「LGBT, lesbians, gays, bisexuals and transgenders」の語は寧ろ差別的であることに鑑み、「HBT, homosexuals, bisexuals and transgenders」と呼ぶことにしています。取り分け男性の同性愛者を指す'gay'は元は「陽気な」という意味ですが、本質的無関心を陽気ぽく笑ってごまかすという含みがあります。とにかく'gay'とか'LGBT'と言えば同性愛者の権利と名誉に関心があるかのように装える。そのような欺瞞な言葉とそれを用いての運動を認めてはいけません。そしてそのような欺瞞は革新の最も根本に刻み込まれた特徴です。片や'homosexual'は至って科学的な語であり、本来なら合理主義を旨とする革新は率先してそのように呼ぶべきです。保守も基本としては合理主義なのでそのように呼ぶべきです。その内に「HBT48」も出来るでしょう。
 さて、革新はHBTの権利に積極的であるとされます。しかし本当でしょうか?真面目に考えているのではなく、盲判をついて権利の拡張を認めているだけなように見えます。中でも、同性婚を認めるべしとすることが革新の粗統一見解となっており、それに代わり得るHBTの共同生活、平たく言うと同棲を社会的経済的に支援するような法制度の提案などは絶無です。HBTが実際に求めているのは同棲であり男女の夫婦を真似るような結婚ではありません。同性婚はHBTをそのような男女の夫婦による家族及びそれに基づく社会経済の共通価値に陰に陽に収束させようと、染め直そうとする極めて侮辱的政策です。HBTの方々は彼等に騙されて舞い喜んでいてはいけません。
 同性婚への反対の或いは廃止を求めるデモが日本にも世界の様々の国にも起こってほしいと思います。賛成派は人類とその公正な政治の営みを終わらせようとしているとしか考えられません。

○保守:政治に関しては基本としてはリベラルな価値よりも法に基づく伝統的統治のあり方を重視する。生活に関しては個人の自由を他者の自由を損なわない限りは無制限に認める。但しそれが損なわれかねない場合には政治においてもリベラルな価値を優先する。

a0313715_04245111.jpg あちらを立てればそちらが立たず――何を立てるか立てないかの問題は人の世の常です。
 リベラルな価値、自由の追求は必然にそのようなジレンマを生じます。
 ジレンマを取り敢えず無難な状態に収めることができるのが法に基づく伝統的統治です。
 それは政治家だけではなく、人民がそれぞれ自らの分に応じてすべきものでもあります。何よりもまず、自らを治める、それが保守の思想の根本です。
 しかしそれがなかなかできない、出来る筈なのに上手くゆかない人も少なからずいます。なので自らを治めることだけに関心を持つのではなく他者を治めたり他者に治められたりすることを自ら選び取ることも必要です。そのように保守は自律主義でも他律主義でもありません。
 中には最も大きな自由は自然と共に在ることにこそ存すると思う人もいます。一概に保守といえども、自然を志向する保守と自然とは異なる人工を志向する保守があります。しかし何れにせよ、法に基づく伝統的統治を基本とする限りは自然と人工、自然派と人工派との間に致命的敵対は起こらないと考えます。「他者の自由を損なわない限りにおける無制限の自由」を考える際にはそのように「自然派と人工派」の例でしてみると分かり易いかと思います。例えば、やぎを自宅に飼うことは自由の観点から見てどうなのか?それは自然の営みというべきか人工の営みというべきか、権力としてはどう対応するべきか、示唆の多いものといえます。
 法は如何にして出来るか、それについての考え方は時代により変わります。今は民主的政治なので国民の多数が支持する法が正しい法であるとされます。

○右翼:政治に関しても生活に関しても現状の維持を最も優先するため、保守的価値を求めるかリベラルな価値を求めるかは現状に基づいて決める。どちらがどれほどを占めるかは時により違う。

 何を価値とするかは現状がどうであるかにより決まるので、右翼は相対主義であるといえます。
 現状の維持を基本とする右翼ですが、現状を絶対視するのではありません。それは寧ろ革新に多いものです。革新は自分達に有利な現状は絶対視してそれを変えさせません。
 現状と自分とを相対的に推し量り、そこでできることとできないことを見極める、それが右翼の肝です。
 そのような在り方は多かれ少なかれ、左翼、革新や保守にもあります。故にその点は右翼だけが格別に異なるのではありません。私も保守でありながら、その右翼的特徴を重視します。
 しかし右翼は他にはこれという特徴がないのでそれが右翼の最も大きな特色であるといえます。
a0313715_04265990.jpg 平凡、それが右翼です。
 過剰な平凡さはファシズムに転じ易いともいわれます。平凡さが固有の特色ではなく要求するべき全体の価値となるとそれはファシズムになります。すると現状の維持は所謂忖度と呼ばれるようになります。
 絶対的価値が現実に支配していた時代には右翼というものはありませんでした。あったのは保守と左翼、それにそれらのどちらでもない中間層――経済的中間層ではないが、近現代には主に彼等が革新勢力として経済的中間層をなす。――だけです。保守は権力に与する人々或いは権力に関心を抱く人々であり、左翼は権力とは距離をおく人々です。保守と左翼の何れもが主に宗教に基づく絶対的価値を尊重して生きる世界です。現在の右翼に当て嵌まる人々は保守と左翼の何れかでした。
 絶対的価値の支配がなくなり政治的自由の下に相対主義が生まれると、そこに右翼が出来ます。右翼はそこに絶対的価値の支配を逸早く断念し、相対主義に基づく新しい支配の形を考え出しました。それが象徴としての君主制であり、右翼は絶対王政のようなものを支持しません。しばしば勘違いされていますが、日本の象徴天皇制もまた右翼の考えに基づくものであり、絶対的君主制への復古を考えたことなどは一度もありません。その象徴天皇制を今は革新派がもてはやしており、寧ろ極右というべきなのは革新派です。
 尤も、相対主義に基づく象徴天皇制が侵略戦争を招いた訳であり、右翼の発想が必ずしも現実的であるとは限りません。
 よって保守としては一概に象徴天皇制とはいえどももう少し天皇の実際の権力を認めるべしと思います。他のアジアにはそれで先進的且つ自由に良く治まっている国もあります。

 何れにせよ、右翼がリベラルな価値を蔑ろにするというのは根も葉もない噂でして、それぞれがそれぞれなりに社会問題などにリベラルな視点で目を向けています。右翼には余りないのは「共通の関心」です。故にか、今時のように右翼の力の強い時代には価値や関心がばらばらの国民をその侭で治める強い指導力が重視され、国民の合意(コンセンサス)が出来にくいのです。

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    ●ザ トロントスター(カナダ オンタリオ州トロント)
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    ●ザ ガーディアン(イギリス 英国 ロンドン)
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by keitan020211 | 2017-12-14 04:28 | 政治、社会 | Comments(0)
最も正しい リベラルと保守;左翼と右翼の定義 その6 風俗編その2
賊軍を官軍の勝ち組クラブに入れる
賊軍戦没者の靖国神社の合祀に 絶対反対

都合の悪い歴史を覆い隠す
A級戦犯の分祀に 絶対反対

皆様の力で阻止しましょう!

 前回の『最も正しい リベラルと保守;左翼と右翼の定義 その5』では性風俗の話に始まり、成人雑誌や文芸についての左翼、革新、保守と右翼のそれぞれの大筋の見方を語りました。
 コンビニエンスストアに成人雑誌を置くことは表現の自由とは何の関係もない。
 性の表現の自由は性そのものの自由を狭め或いは失わせる虞がある。
 昨今の文芸は、左翼と保守が衰退して右翼と革新が主流となっている。

 今回はその他の風俗についてそれらの人々の違いを見ます。

 文芸、殊に音楽においては、右翼と革新が主流となっていることには一つの合理的理由が考えられます。
 それは価格の優位性です。

a0313715_00025629.jpg 勿論、衰退している左翼や保守の音楽人の作品と活動に懸ける熱意と努力の不足はないとはいえません。他が栄えることが自らの栄えない理由に即ちなる訳ではありません。
 但し昨今の日本市場や旧西側諸国の市場は完全競争状態にあります。完全競争市場とは或る売り手が市場を脱落することなしには価格延いては景況の上昇が起こらない経済の膠着の状態のことです。あらゆる物の価格が現状を維持し或いは漸減する傾向となります。
 しかし音楽作品は初めからそのような市場の構造をなしています。レコード、カセットテープ、コンパクトディスク、レーザーディスク、mp3ファイルなどの音楽ソフトウェアの価格は全て常に横並びです。すると著しく購買力の高い消費者を除き、多くの消費者においては一人当たりの音楽ソフトの購買可能数量は粗皆同じになります。どんなに良い音楽が豊富に生まれる時代でも買えるレコードの枚数は同じなので消費者はどのアーティストのものを買うことにするかを決めておかなければなりません。すると、どうしても固定ファンに支えられることが多くなり、様々な人々がとりあえず買って聴いておくことにより高く評価されるアーティストは少なくなります。
 購買可能数量の限界があるために、より多く消費者に訴える余地を作るためには買わずに聴ける機会を作らなければなりません。それが音楽作品をテレビの広告放送(CM)や番組の主題歌に用いる方法です。テレビ放送の試聴は無料なのであらゆる人が聴くことができます。尤も、好きな時に好きなだけ聴くことはできませんが心に残ることは確かです。そこで聴いた作品のアーティストのレコードを買うことに決めれば好きな時に好きなだけ聴くことができます。
a0313715_00062020.jpg 前回の『その5』の記事に'90年代の音楽界は多様ではあるが排除と蹴落としの傾向にあったと語りましたが、元々音楽市場はそのような完全競争市場の構造があります。それが当時は頓に著しくなっていたのです。'80年代以前は売れないアーティストは「負けは負け」と認識して排除や蹴落としに遭う前に退いていましたが'90年代になると「可能性に賭ける」みたいな思潮が強まったために往生際が悪くなって行ったのでしょう。

 '00年代以降はmp3の普及により音楽ソフトの単価が下がり、購買可能数量は増えていますが限界があることには違いはありません。しかし音楽ソフトの程に余地が少なくはなくてもあらゆる物には購買可能数量の限界があり、あらゆる物が完全競争市場になり得て現実に今はそうなっています。

 一般に価格の優位性といえば他と比べ安いことやコストパフォーマンスの高さがいわれますが、音楽ソフトにおいては横並び価格が基本な故にもう少し複雑です。
a0313715_00085430.jpg そこではあらゆる作品が同じ条件で並ぶことになります。するとそこで有利になるのは価格の高い昔は高い単価を出すだけの価値があると思えるもの、価格の低い今は「全体で求める満足/購買数量≒1点の満足」なのです。「>」を望まないのは勿論ですが「<」であってもいけないのです。その理由は「<」は全体の購買価格が釣り上る可能性があるからです。或る1点の音楽ソフトの満足度が期待する水準よりも高いとそのアーティストの作品を買い続けなければならなくなるので音楽ソフトに遣う予算が増す。それを防ぐためには付加価値と満足度の低い革新系や右翼系のアーティストの音楽が好まれる訳です。
 よって今時、'00~'10年代は固定ファンに支えられるアーティストは少なくなる傾向にあります。
 何も負け惜しみではなく、そのような売り方も一つの確立されたものとして存在します。それでも価値と満足がなさ過ぎれば何であれ売れることはない。

 音楽ソフトとはかなり違うのは食べ物、食品です。
a0313715_00113459.jpg 食品の販売単価は允に様々であり、安いものも高いものも、またその組み合わせは無限と思える程にあります。故に食品の購買可能数量は認識しにくく、数量ではなく購買可能費用で捉えるべきものです。同じ費用でもその内訳によるコストパフォーマンスの違いが大きくあります。
 近年にもやしが人気になっていることが新聞の経済面などの話題になり、先日にはもやしの利益率が限りなく0に近くなっていたり赤字になっていたりする事業者が増えていることが報じられました。報道が貧困層の頼みの綱などと云い余りにももてはやし過ぎたことが値上げをためらわせているのかもしれません。

 左翼、革新、保守と右翼はそれぞれ食べ物に関しどんな感覚や考え方を持つのでしょうか?
 食べ物は人民の生存権の確保のためには欠かせない重要な資源であり、政治思想によってもそれを見る目は違いそうです。

 左翼:伝統的に自民族に根づいている食べ物を食べるべし。
 革新(中道左派):安全と経済の許す限りでより豊かで高度な食べ物を食べるべし。
 保守(中道右派):資源の分配可能性に応じて適当な食べ物を食べるべし。
 右翼:各々の経済力に応じて豊かな食べ物を食べるべし。

 それらがそれぞれの食べ物に関し最も重視する事柄です。
 それぞれ他にも重視したり時に考えてみる事柄があります。

◯左翼:伝統的に自民族に根づいている食べ物を食べるべし。

 例えば左翼の考え方は一見は経済力を考えてはいないかのように見えますが左翼にとっても「経済力相応」は第二第三の位に重視する事柄です。しかし経済の土台を確立するためには初めから経済力を問うのではなく先ずは「これだけのものを常に食べたい。」と決める必要があり、左翼はその土台作りを最も重視します。経済格差は上へ開くことは幾らあってもよいが下へ開いてはならないというのが左翼の思想と政策の大前提であり、それが確立されて初めて経済が動いてそれぞれの経済力が出来る訳です。その指標となるのが自民族の伝統です。
 左翼というと革命ばかりが歴史的話題になり、恰も伝統の破壊を価値観としているかのように誤解されていますが革命は伝統の破壊を企図するものでも不可避に付随するものでもありません。

 『粗食のすすめ』などを著している料理評論家の幕内秀夫氏はそのような左翼の鑑のような食べ物観の人物といえます。
a0313715_00135047.jpg 「粗食」といって凡そ紹介されているのは家で少し手間を掛ければできる日本料理です。日本料理を推すと何故か今時は保守と見做されることが多くなっていますが、日本の左翼にとっては最も重視するのは日本料理です。正に生活と経済の土台といえるような素晴らしい粗食料理の数々を知ることができます。
 但し保守の私から見ると、ややナショナリズムの強い食べ物観と感じます。保守はナショナリズムを考慮するべき価値の一つと見做しますが自らは基本としてはナショナリズムには立ちません。幕内氏のナショナリズムからするとパスタも健康的ではない食べ物になります。尤も、御飯物の弁当にスパゲティーやマカロニが入っている――信じ難い…――日本の食糧事情は確かに健康的とはいえず、その点は条件付で支持するという感じです。
 もっとマスコミ的に身近な例では、TBSテレビの『サンデーモーニング』の常任解説者の張本勲氏もナショナリスト左翼といえます。幕内氏も張本氏も良い意味における国粋主義者です。

◯革新(中道左派):安全と経済の許す限りでより豊かで高度な食べ物を食べるべし。

 左翼と比べると一概に左寄りとはいえども、上昇志向を前面に出す考え方といえます。
a0313715_00164818.jpg 左翼もそれぞれの努力による経済的或いは社会的上昇を肯定しますがあくまでもそれぞれの自由と事情に応じてするべしと考えますが、革新は経済的社会的上昇を国民のいわば義務のようなものとして共通の価値とします。如何程の経済力を得ることが望ましいかや如何なる社会的地位に就くことが望ましいかを個人の適性を勘案しながら共通化します。よってその共通価値にそぐわない個人の願いは自由の建前から禁じられることはなくても、事実上は否認されます。そして上昇の義務を果たさない人を排除または隔離する手立てとしての社会保障と福祉を必要と考えます。
 食べ物に関しても、安全と経済の許す限りでそれぞれが食べるべきものを段階的に共通化します。但し経済格差の最小化を志向するため、食べ物の格差も著しく大きくはしません。大きな格差の存在は国民の合意(コンセンサス)を毀しまたはその形成を難しくすると考えるからです。

a0313715_00192505.jpg その共通価値延いては国民合意の形成を食べ物の見地から担うのが大手食品メーカーです。
 中小の食品メーカーを重要ではないと見做すのではありませんが価値や合意の形成の担い手とは認めず、あくまでも個人の趣味に応えるものと位置づけます。国民皆が常々食べるべきものは大手食品メーカーの製品なのです。
 故に、革新派がアベノミクスのトリクルダウン――:大企業の利益が中小企業の利益につながるという経済観――の考え方を批判する際に、そこには大手食品メーカーは批判の対象には入りません。そこで批判の対象となる大企業や大手企業はあくまでも食べられない物の一部に限られます。
 革新にとっては望ましい経済体制は独占資本主義が経済格差の縮小のために修正された形態であり、独占資本主義そのものを否定するのではありません。

a0313715_00211878.jpg 食品の安全に関しては、革新の内にも違いがあります。
 それを殊に重視する人達は食品の安全を守る観点からTPPに反対しました。
 食品の安全と人間の健康を望むことは良いことですが、TPPへの反対には日本の食品は無条件に外国の食品より安全である、外国の食べ物は汚くて危ないという偏見を隠し持っているように見えます。世界の食品の安全を高めよう、そのためには日本の技術力を世界に普及させようという発想にはならず、或る自由貿易協定への反対が先立つのでは信用し得ません。
 逆に、食品の安全を合法たることをしか追求しない、軽視する向きも革新にはあります。合法たるためには規制を緩和すればよい訳であり、革新派においてはおしなべて規制緩和を支持する思潮が強いのが現状です。

◯保守(中道右派):資源の分配可能性に応じて適当な食べ物を食べるべし。

 資源の分配可能性とは主には政治的分配のことではなく民間の生産及び経済活動による分配のことです。但し生産力や経済力の著しく低い地域がある場合には民間に任せずに政治的分配、即ち再分配を認めることがあります。従来の日本はそのような意味における再分配を殆ど行っていません。
 但しそこは左翼と同じく、下へ開く格差は否定しても上へ開く格差は肯定するので生産力や経済力の著しく高い地域のそれを低くすることによる格差の縮小を認めることはありません。
a0313715_00243355.jpg よって東京一極集中ということについても、保守は諸手を挙げて賛成することも反対することもありません。保守は東京の持つ権力や文化的影響力をなくそうとすることには賛成する向きがありますが生産力や経済力をなくそうとすることには反対します。余り大きな声では言えませんが、現職の小池百合子東京都知事のしていることやしたいとしていることは正にそれです。東京の著しく高い経済力は生かすべきであるし、生産力は高いとはいえないのが現状です。すると浮かび上がる東京の望ましい在り方は国際金融都市ということになります。

 民間の生産及び経済活動により、食べ物も各地に分配されます。
 それぞれの土地で手に入る物を食べる、勿論食べられる物だけをですが、それが保守の食べ物観です。
 土地で手に入るとは栽培や捕獲によるものや流通と販売によるものがあります。右翼は更に贈与によるものをそれに加えるかもしれません。しかし保守の経済観においては贈与は想定の範囲外です。因みに贈与のための流通機構として用いられるのは宅配便や郵送貨物便ですが、贈与を経済文化として重視する右翼と贈与を通しての社会的人間関係の維持を重視する革新には繁く利用されても保守は余り利用しません。よって保守の政治家は元々利益の供与や有権者への戸別の訪問を重視しないのですが右翼寄りと革新寄りの政治家が重視するので保守もそこそこ付き合っていたのが昔の自民党です。それが昨今は厳禁の風潮になっているのは革新派の中に社会的人間関係に乏しい人々が増えて来たことにより、彼等の孤立を防ぐためであると考えられます。それを保守も元々然程に意味があるとは思わないので良かろうとして了承したことが「旧い政治」の一掃の気運につながっているのです。
a0313715_00264332.jpg 流通と販売の機構の集中により、日本では東京が最も分配の多い地域となっています。人口一人あたりの分配高については最も多いかどうかは分かりませんが、分配された資源の選択の可能性が最も広いことは確かです。そのような地域においては自ずと実際に食べることのできる食べ物の種類も多くなります。
 今は流通機構の発達により東京などの大都市だけではなく多くの地域において選択可能性は広くなっています。よってそのような現実に鑑みると保守は左翼のように伝統的に自民族に根づいている食べ物だけを推すことはできないと考えます。しかしそれ以外を選ぶにしても、伝統的価値になるべく基づくように選ぶことが経済と生活の安定的維持または発展には重要であると考えます。但しその伝統的価値というものを革新のように国民的価値や合意の形成とその共通化によって示すべきものとはしません。逆に、全くの個人の好みによるべきものともしない。色々な観点を勘案しながら浮かび上がる答を大切にします――但しそれは一時に答を出すような「綜合的判断」ではありません。――。

◯右翼:各々の経済力に応じて豊かな食べ物を食べるべし。

 元々、食い道楽型の最も多いのは右翼です。
 弊ブログは『食通はならず者の最後の拠りどころ』と云いますが、それは『愛国心はならず者の最後の拠りどころ』というサミュエル ジョンソンという18世紀の英国の文学者の格言を文字ってのものです。
 御国自慢といえば粗必ず出て来るのはその土地の食べ物であり、食通と或る種の愛国心は相通じ或いは密接な関わりがあるといえそうです。
 しかし十把一絡げに食い道楽や食通といえども、右翼のそれは年季が入っていることが多いようです。
a0313715_00291318.jpg 先日に共同テレビ/フジテレビの『くいしん坊!万才』の司会をしていた村野武範氏が末期癌を治して久々に小さな公演を開いたことが報じられました。今の癌の治療の技術の進歩と普及の故でもありますが、年季が入っていると食べ過ぎや飲み過ぎから来る癌をも治せてしまうのでしょう。
 しかし私は治すということの前に、少しも癌になりたくはありません。私は少なくとも150年は生きるのが目標です。「150年相当」ではなく物理的に150年です。
 但し健康というものを意識するだけで健康になれるものでもありません。その意味では健康を度外視する右翼の食べ物観やその他の習慣や生き方は蔑むべきものではなく時には参考とするべきものでもあります。
 革新派で革新の消費者に主に支えられている大手食品メーカーが大手たり得るのも健康を度外視する右翼が気にせずに買い求めて使っているからでもあります。革新はそれを合法且つ健康的と思って食べますが右翼は仮令違法でも不健康でも旨ければよいと思って食べます。

 右翼の食べ物観は経済力本位です。
a0313715_00310408.jpg 貧乏者は麦を食い、豊かな者は米を食う。それを初めに言った人は右翼ではなく官僚上がりの保守本流ですが右翼にとってはそれが不磨の大典です。食べ物だけではなくあらゆる物事における選択と判断の基準です。
 弊ブログも幾度か言及していますが、今は麦の価格が米の価格の数倍もします。なので私などは貧乏者なのに麦を食う暮らしをしています。経済力にはやや不相応であるかもしれませんがそれが体に良いので食べているのです。
 右翼もそのような経済力対消費性向の一部の不比例を必ずしも認めないのではないでしょうが、基本としては右翼の経済力と消費性向は比例します。なので今時の金持ちな右翼は麦を食います。

 但し右翼の「経済力本位」には個人の努力の評価の意味合いはありません。
a0313715_00331117.jpg 努力しようとしなかろうと、経済力の違いは必然に生じる。よって右翼は経済力が高ければ努力する好人物で低ければ努力しないならず者であるというような人間の評価をしません。その点も保守としては参考とするべきものと思います。人間の評価はあくまでも人間そのものでしか見ない。但し右翼も保守もなるべく好人物を高い地位に就けたいと思う。それは革新がしばしば人間的に疑問の大きい人物を高い地位に就けていると思うからですが、右翼も保守もそのことを余り大きな声では批判しません。自分も人間的に疑問に思われているかもしれず、故に地位や経済力を逸することになりかねないからです。そのようなことを大きな声で批判する人は大抵は批判される人の仲間内であり、少々の批判をしても謝れば赦されるからしているのです。そんな時にも活躍するのが菓子折などの贈答品ですが、彼等の仲間ではない右翼がそれをしようとすれば料亭に誘う位のことを要します。しかし「奢り」は普通は上の者が下の者にするものなので右翼による料亭の接待は特殊でものものしいものとならざるを得ません。その席では「私が驕っておりました。」と平謝りです。左翼や保守にはそのような発想はないのでひたすら口を閉ざすのみです。

a0313715_00351105.png ――故に、右翼は『一杯のかけそば』のような話が普通に好きです。
 そのようなことになる国は良くない、そんなお話に感動してはいけないという人も少なくありませんが、そのような事実がどこかにある以上はその通りに描き出し或いは報ずることは作家やジャーナリストの義務であるといえます。私などの保守はそれが事実に基づくかどうかを厳正に見極めようとするのが先で感動している暇はなかなかないのが実感ですがそこで逐一見極めようとしなくてもそのようなことがあることを知っている人にとっては即ち感動するのでしょう。

a0313715_00371871.jpg しかし、近年の食い道楽や食通もの、或いは、そこまではゆかなくとも「食レポ」などの食べ物の話題を重視する風潮は右翼の「最後の拠りどころ」とはかなり異なるものといえます。
 昔の村野武範や辰巳琢郎などの時代の『くいしん坊!万才』にはまだ、ならず者の空気が漂っていて見れる番組でした。そういう世界があるのかと理解可能な雰囲気です。しかしそれも今は他の「食レポ」のような軽薄な空気のものになっています。寧ろ、そのような人並みの世界の「食レポ」やテレビCMなどに出ている人の方がならず者そのものという感じがします。愛国心が昔より身近なものになったからでしょうか。一億総中流が一億総ならず者になっている。

 お手軽な愛国心の普及に、今は右翼こそが最も心を痛めているのかもしれません、保守の私は「あーーー!!痛痛痛!!!!、人殺し!」という感じですが。

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by keitan020211 | 2017-12-06 23:22 | 政治、社会 | Comments(0)
最も正しい リベラルと保守;左翼と右翼の定義 その5 風俗編
賊軍を官軍の勝ち組クラブに入れる
賊軍戦没者の靖国神社の合祀に 絶対反対

都合の悪い歴史を覆い隠す
A級戦犯の分祀に 絶対反対

皆様の力で阻止しましょう!

 弊ブログの最近の記事に政治、経済と社会保障・福祉に関し『最も正しい リベラルと保守;左翼と右翼の定義』を『その4』まで記しています。
 今回は『その5 風俗編』です。

 「風俗」と聞くと性風俗店を想い出す人もいるかもしれません。ソープランドやファッションマッサージなどの性風俗の店は略して「風俗」と呼ばれます。
 風俗店とは性風俗店だけではなく飲食店なども含まれ、それらを規制する法律が風俗営業法です。最近に舞踏をすることのできる店の深夜の営業の認可を巡り改正されました。
 私はキャバクラことキャバレークラブのコンパニオン、通称キャバクラ嬢をしていたことがありますがキャバクラもまた風俗店です。キャバクラは性的雰囲気が漂うけれど性風俗ではない、性的行為を厳に排除する微妙な立ち位置のものです。
 その故か、この程に流通業の大手のイオングループが系列のコンビニエンスストアのミニストップにおける成人雑誌の販売を廃止することを決めたことについてはすんなりと支持します。イオン贔屓でもあるのでイオンのすることは一々支持するということもあるかもしれませんが、他にも成人雑誌の販売を廃止する業者が増えるとよいかと思います。
 但し弊ブログは成人雑誌というものを必ずしも否定するのではありません。成人雑誌とは事実上は性的記事を専らとする雑誌のことですが、性的内容そのものは専らであれ一部にであれ、あってもよいと思います。
 しかし現実には日本の――だけではないかもしれませんが、――成人雑誌やアダルトビデオは性を題材としているとはどう見ても思えないようなものが大半を占めています。何か性とは関わりのないメッセージを性的行為の表象を象徴的に用いて暗に伝えようとしているようにしか考えられません。例えばそれは抑圧や侮辱の奨励であったり犯罪の称揚であったりするように見えます。宛ら、犯罪の教科書ともいえます。
a0313715_02180593.jpg 本来なら性的内容の出版物がコンビニエンスストアにあってもよい、更には対象の年齢が引き下げられてもよいと思うのですが、そのような現状と歴史を勘案すると一度は性的内容の出版物の劇的な排除により淘汰が起こらなければならないと思います。
 但しそのようなものの排除はかなり徹底してしないと極左やカルト宗教のように地下に潜伏して闇市場を形作ったり、そこまでにはならなくても専門店の乱立を招いたりしかねません、専門店も先述のようなものを取り揃えるものではなければよいのですが。
 現に、ミニストップを含むコンビニエンスストアにおいてはそのような性に名を借りる悪趣味や反社会性を志向する雑誌等が売られています。イオンの決断が排除と淘汰の第一歩になれば良いと思います。
 イオンのその決断にその本店所在地である千葉市の市長が予め政治圧力を掛けて性的内容の出版物の販売の廃止を求めていたのではないかとの憶測が報じられ、それについての否定的意見が少なからず出ています。イオンは圧力の存在については否認し、自社の任意による決断であると表明しています。
 イオン贔屓なので鵜呑みにするのではありませんが、その表明は多分事実でしょう。
 若しそれが千葉市の政治圧力であったなら、イオンの対応は千葉市のミニストップにおけるものに限られていたでしょう。幾ら鼻息や腕節の荒い首長も他所のことまでを規制させるようにすることはできません。他所のミニストップにおいてもするのはイオンの任意の決断であるからです。
 逆に仮にそれが千葉市長の圧力であったとしても、イオンがそれに忖度して全国における対応にすることは理解できることです。性的内容の出版物に関しては幾つかの地方自治体等において規制の対象となっていることから見て行政による排除の要請は合法であると見做せます。それらの諸々の規制は多くの場合は条例により立法されてのものですがそのような場合には立法は必ずしも要しません。勿論、立法ではない以上は法的には努力義務に留まるものとなりますが要請する側が努力義務を超えるものではないと認識して如何なる強制をもしないでおれば違法となるものではありません。相手が権力者であれば「そんな法律どこにある?」などと言って背かなくてはならない謂れはないからです。
 表現の自由に反するという批判は以ての外というべきものであり、表現の自由に反するとは何者かの表現の機会を直接或いは間接に奪うことをいいます。千葉市長の要請はそのようなことを目的としてはおらず、単にコンビニエンスストアにおける販売の廃止を求めるだけのものなので表現の自由の侵害や脅威には全くなりません。仮に或る種の性的内容の出版物の全面排除を求める意図があったとしても、現にしていることは侵害でも脅威でもありませんし、そのような意図が正しいか誤りかは従後の実際の行動の適法性やそれについての人々の支持により判断されるべきことです。無論、選挙の支持は他の事柄等との兼ね合いもあり、落選したらそれが誤りと判断されたということには必ずしもなりません。
 また、性的内容に関しては内容の変更を求める代わりに表現の機会を保障することは条例等の立法理由の存在からしても認められることです。端的に見て或る種の成人雑誌は基本的人権である人格権若しくは生存権の侵害を奨励するものと解することができ、人格権の保障のための成人雑誌に対する是正の要請若しくは排除の行動は表現の自由や検閲の禁止を定める憲法の他の規定等よりも優先すべき規定です。憲法は国家の最高の法ですが全ての規定が平等なものではなく、基本的人権に近いものから優先されるものです。表現の自由は歴史的に、基本的人権に後から付随して立憲主義に加わった概念であり、生存権、財産権と人格権の保障を求める基本的人権に優先するものではありません。

 そのような原理は政治思想や経済思想を問わず随うべき基本的なものですがその実現のための実際の行動や考え方には歴史的にまたは個人的、社会的に様々な違いがあります。
 その違いをこの『最も正しい リベラルと保守;左翼と右翼の定義』のシリーズの主題に沿って見てゆきます。

 件の千葉市長は熊谷俊人氏、民主党系であり結構な実績を上げている実力派であるといいます。
 民主党系というと左寄り、成人雑誌の販売の廃止の要請もPC, the political correctnessに基づくものと勘違いされるかもしれません。
 しかし田嶋要氏などの当地の民主党は保守系であり、熊谷氏もリベラルな保守系の政治家なようです。
 因みに成人雑誌を巡る問題はPCとは何の関係もなく、自民党にも懸案とする向きはあります。元自民党の石原慎太郎元東京都知事が性的内容の漫画を有害図書とするという政策を打ち出したこともあります。しかし自民党においては性的内容の出版物については歴史的に意見が割れていました。表現の自由などの国民の自由の見地から規制するべきではないとする向きと弊ブログや熊谷市長などの民主党系の一部ように人格権の侵害につながるものとして規制するべしとする向きが自民党にはあります。そしてなかなか決まらない、問題が半永久的に先送りとなるのが自民党の常です。民主党には表現の自由の見地から規制に反対する向きは粗全くなく、規制を支持するかはっきり判断することができないので様子を見るとするかしかありません。しかし、今は自民党にも規制を支持する向きが多数派となってきており、「表現の自由」派はリベラル左派系の無党派や立憲民主党の支持層になっているようです。
 PCが関わるのはテレビや新聞、広告などのマスメディアにおける性的表現の妥当性についてであり、マイナーメディアである成人雑誌などの性的出版物については関心の範囲外です。彼等はそもそもPCに反する人々を蔑視して愉しむことが目的なので、PCに反する発言や行動をしかねない人、喋りを隠す音や局部を隠す画像を要する人を造り出すそのようなものが世になくなってしまうと困るのです。何をしているのか分からないような人達であり、故に日本の「表現の自由」派にも近いといえます。

 故に、成人雑誌を巡る厳しい政策は保守、中道右派の特徴であるといえるかと思われます。

 様子見派はそれぞれ意見を固めていない訳であり、左翼、革新、保守と右翼の何れにもいるでしょう。他の事柄には強いがその事柄についてはまだよく分からないとか自分は他に懸案があるので初めから関わる積りはないとすることからです。

a0313715_02225145.jpg 「表現の自由」派は歴然たる革新、中道左派であり、今は少数派になってきていますが昭和の戦後からの時代には多数派でした。しばしばその思想が「戦後民主主義」といって批判の対象となっています。
 革新は立憲主義における基本的人権の優先性ということとは少し違う立憲主義を持ちます。
 基本的人権を蔑ろにするべしと思うのではありませんが、彼等の基本原理は「新しい概念は旧い概念に優先する」です。よって基本的人権より新しい表現の自由はその故に優先されるべしと考えます。
 旧い概念は新しい概念と入れ替わりに直ちに無意味となるのではないが、新しい概念との綜合的再検討により再定義されないと無意味になるとするのです。再検討と再定義、それが「革新」と呼ばれる所以です。そして再定義されると新しい概念と旧い概念は平等になるので憲法における規定の優先性の概念は初めからないか或いはあっても政治目的のためには無視します。
 再検討や再定義が試みられ或いはなされるのはそれだけ学問や批評、ジャーナリズムなどにおける論議が活発なことでもあります。昭和の時代にはそれが国民世論の主流をなしていましたが'80年代から'00年代に掛けては少数派となり、'10年代に少し再び活況を呈しています、誰のお蔭とは言いませんが。
 しかし「革新」の裾野をもう少し広く見ると革新、中道左派は依然として日本の多数派であるといえます。
 日本の世論は多数が外交と安全保障の面では保守に近づいているのが現況ですが経済、社会保障、福祉、そして風俗の面では「依然として」というよりは突然のように、革新の志向が再び強まっています。古谷経衡氏が今の日本、殊に若者は右傾化してはいない、左傾化しているというのもそのことでしょう。その様は宛ら、'60年代や'70年代の日本をテレビや街頭ではなくネットで観ているかのようです。当時は逆にネット右翼のような右翼の人々も生ではかなりいたそうです。ネット右翼の台頭は今時に始まったことではないといえます。あくまでもその媒体がよりパーソナルなネットに替わったことが目新しさと衝撃を感じさせるのです。

 革新、中道左派においては性的内容の出版物は歴史的に特別な意味があるものです。
 近代出版の始まりはマルティン ルターによる宗教革命の時代です。グーテンベルクの活版印刷が開発され、印刷と出版が近代を開いたとされます。
a0313715_02252353.jpg 活版印刷は文字だけですがそれが後には写真を含むものとなり、近代は更に現代へと発展しました。
 先日の朝日新聞に今年が宗教改革――宗教革命を日本の歴史教科書等はそう呼ぶ。――から500年となることについての意味不明な社説がありました。何を言いたいのか皆目分からない論説ですが、出版と宗教革命が世界の革新、中道左派の心の拠りどころの一つであることに鑑みると話題として取り敢えず押さえておきたい気持ちは分からなくもありません。
 当地やその他の多くの国々においては宗教革命と呼ばれるものを宗教改革と呼ぶことから見ても、革新、中道左派が多数を占めている日本の特別の思い入れが見て取れます。日本においては革命はおしなべて否定的に見られますが改革はしばしば肯定的に見られます。日本の主流派の歴史家は「宗教革命」では何か悪いことをしたかのように聞こえるというので「宗教改革」に言い換えた訳です。
 一つルターのおかしい点を突くと、彼は「聖書のみにより義とされる」というけれど、キリストと呼ばれるイエスは「聖書のみにより義とされる」とは一度も云っていない。イエス自身を信じるべし、信じてほしいとは聖書の中で云うが「私が聖書である。」とは言っていない。
 その手の論理の飛躍のようなものは革新勢力の政治運動や議論、宣伝にはかなり多い。「( )…。」と書くなどして人が言っていないことを云ったかのように云うことは朝日新聞を含む日本の新聞等の常套です。人が言ったことやしたことの事実よりも「真実/truth」と呼ばれる架空の話が意味をなして現実を動かすという思想です。朝日新聞がしばしば唯一の悪玉のようにいわれていますが読売新聞などの他の新聞等もその点は同じです。
a0313715_02272407.jpg ルターの立てたルーテル教会を国教とする国々や宗教革命の影響を強く受けて出来たアメリカは性の先進国といわれます。それでも性的出版物の過激さに関しては日本よりはかなり「遅れている」のですが、性を表現と見做してその自由を追求することは日本の革新にも支持されています。
 そのミソは「性は表現である」という思想です。しばしば「二人の愛の表現」や「愛情表現」などという言い回しを聞きますが、それはそのような思想から来るものなのです。
 「性の自由」ではありません、「性の表現の自由」です。
 私、弊ブログが是とするのは「性の自由」であり「性の表現の自由」ではありません。
 ぶっちゃけ、彼等にとっては性そのものは自由ではなくてもよい、あくまでも表現を自由にしたいというのが信条です。逆に、性そのものに関してはその自由を積極的に制限したりなくしたりするのが革新、中道左派です。同性婚の支持などの同性愛の積極的容認と見える風潮も、彼等の全てがではないでしょうが、性の自由を狭め或いはなくす試みからのものであると考えられます。彼等にとって大切なのはあくまでも性の表現であり、同性愛を描くエンタメを愉しむことまたは同性愛者の権利を求める政治運動をエンタメとして消費することだけなので、同性愛者が現実に何を求めているかなどには実は何の関心もありません。
 そこで需要と供給を増すのが成人雑誌を含むオナニーの道具です。オナニーもまた彼等の重要な表現活動であり、その自由を守りそして拡げようとします。果てにはオナニーをしない人を奇特と見做したり小馬鹿にしたりします。その機会を失わせかねないイオンや千葉市長などの政策は故に「表現の自由」を楯にして批判されます。

 因みにジェンダー/gendersというのも違和感のある概念です。
 勝手に'-s'を外して「性差」という能く分からない意訳を宛てることを含めて違和感があります。
 個人とその自由が大切なら、そもそもジェンダーという概念は生まれては来ない筈です。表現の自由を至上命題として個人とその自由を本当には尊重しないからそのような衒学的概念を生み出す訳です。そして「ジェンダーフリー」や「性差の自由」という自家撞着の概念を派生させます。
 そもそもそのような概念がなければ、それをフリーにするとか自由にするという発想も出ては来ません。要は性表現の自由を種にしてエンタメと思想の市場を興したいということだけなのです。

 保守と革新の性に関する思想の大略を見て来ました。
 では、左翼と右翼のそれはどうなのでしょうか?

 『その4』までの記事に、保守の政策は左翼に近づくことが多くて革新の政策は右翼に近づくことが多いと説明しました。
 性やその他の風俗に関してもそれは当て嵌まります。

a0313715_02315713.jpg 性の自由を大切にするがその表現に関しては厳しく排除することがある保守と同じく、左翼も大筋ではそうです。但し左翼は性の自由に関しては保守よりも積極的であり、科学的でありさえすれば性の表現の排除に関しては保守の程には厳しくはありません。
 左翼は個人やその集まりとしての民族の自治を重んじ、国家社会による規制を全く認めないのではありませんが余り必要と見做しはしません。個人が確りとしておれば延いては民族が確りとその風土を維持しておれば性的出版物の規制の必要もない。そのようなものを欲する民族は好きなようにすればよいが内は内であると考えます。左翼のそのような発想はアメリカの州制の形成や国際連盟の民族自決の原則にも影響しています。アメリカにおける左翼思想は殊にリバータリアニズムとして発展しており、保守の思想にも影響を与えています。
 保守も自治の必要を認めてそれを尊重しますが国家による規制や政権による倫理的指導の必要をも認めます。それらを両立するために必要なものが立憲主義です。世の中には左翼の方々の程には確りとしていない、自律の意志の強くない人もいます。或いは強い人にも弱さはあります。彼等が成人雑誌などに惑わされることや心外な心持になることがないようにするためには国家による規制も幾らかは必要であると考えます。
 但し性の自由を尊重するが性の表現の自由を尊重しないことは「云ってることとやってることが違う。」とか「偽善者だ。」と批判される余地が大きいことでもあります。しかし保守は凡そそのような女子供的批判に耳を貸すことはありません。

 性の自由ではなく性の表現の自由を尊ぶ、その革新の思想は右翼の思想とするものではありませんが実際には右翼にとってはそれが都合の好い建前になることがしばしばあります。そのような主張をする積りはないけれどその思想を利用する。
a0313715_02353131.png 性の表現の自由は豊富にあるけれど性の自由は余りない、そのような状況は自らの子の「貞操」を守らせるためには都合が好い。その点は革新は都合だけではなく思想と信念から子の「貞操」とやらを守らせます。子供の性的交際だけではなく大人の浮気を認めずそれを「不倫」と呼び非難の対象とすることも革新と右翼は同じです。
 尤も、右翼は現状の追認を是とする傾向が強い、他律主義――左翼の自律主義とはそこが大きな違い――なので若し保守が国の主流となってその思想や政策が普通になれば右翼もそれに同調して性の自由を是とするようになるかもしれません。事実に、保守が強い時代であった'60年代や'80年代は右翼の方々の女遊びも俄かに華やかになっていたらしいし、ディスコのブームなどを通して男遊びもそうなっていました。右翼女というと想像がつきにくいかもしれませんが、右翼団体とのつき合いがあるとかいうことではなく――一部にはいるでしょうが、――現状の維持を志向して物事を経験主義で考える女性がそれです。そのような型の人の程に景気が上向くと日頃の疲れを散らすために男漁りを含む遊びに興ずるのです、翼を手にしているのは右ではなく左の手かもしれませんが。
 右翼女は狙っている男が他の女と懇ろになったと見ると粗絶対にその男を狙い続けず、さばさばと他の男を狙い直します。それが右翼が浮気を好まないことの肝です。「略奪愛」や「二番目でも愛されたい」などというような状況を作らない。或る意味では中道である保守よりも穏健といえます。下手に自律主義が強いと狙う男を落とすことを自らの至上命題、アイデンティティーとしてしまうために自律とは似つかわしくなさそうな「略奪愛」や「待つわ愛」をしがちになりますが、右翼は他律主義なので狙う男の決めた不本意な状況を受け入れるのです。それが寧ろ自分を失わない、確りとしていることの現われと自他が思う訳です。
 下手に自律主義の強い人が多いのは革新です。相通ずるものの多い右翼と革新ですが、その点はかなり大きく違います。
 革新にそのような型の人が多いのは彼等よりももっと左な左翼が自律主義を旨とすることからやや左寄りで中道左派をなす革新も同じく「左」として自律主義を重要な価値観とすることが一因です。しかし左翼のように徹底しない、シビアではないために、その自律主義はどうしても他者の自律主義に飲み込まれ易いものになります。所謂戦後的平和主義と呼ばれるものもその生温さを助長しているきらいがあります。その特殊な平和主義が国の平和だけではなく私的平和にも敷衍されて「貫徹」されるからです。逆に、自らをそのようなことがないために守ろうとすると自らを飲み込む側の原理や論理を密かに用いるなどして強く出ようとします。時が時ならば政敵である右翼よりも右翼的になります。俗に「揚げ足取り」や「貴方が見ている私は貴方の鏡なんです。」などと呼ばれるのがそれです。
a0313715_02374621.jpg 偶に「あんなに真面目で気立ても良く、元気ないい子があんなことになるなんて…」というニュース解説があったりします。聞く度にうざいと思いますが確かに真面目で気立ても元気も良いのは事実であるらしく、全くの嘘を言っているのでもなさそうです。そのような子の多くは革新系の家柄か自らが任意に革新贔屓になっていたりする子であり、殺す場合も殺される場合も生温い自律主義が引き起こしていますし、極左派に身を投ずる人は根からの左翼よりも革新、中道左派が多い。オウム真理教の所謂エリート崩れの幹部達もそうでしょう。

 自律主義も他律主義も重要な思想であるには違いありません。
 演劇や文学、音楽などのエンタメも自律主義や他律主義を描くことにその大半の熱意が注ぎ込まれているといえます。
 しかし私、弊ブログはリベラルな保守としての立場から、それらの何れの主義にも立ちません。
 自律と他律は何れも人や人間の本性として凡そ完全に具わっているものです。故に本性を大切にするなら、敢えてどちらかの主義を取る必要はありません。人は自律をしたり他律になったりを繰り返しながら生きてゆくものです。エンタメにもそのようないわば保守の生き方や世界を描くものもあります。
a0313715_02400003.jpg 保守の文学として殊に有名なのは夏目漱石です。朝日新聞にもかつては彼のような保守の者もいました。
 彼に描かれる人物等はなかなか保守たる生き方とはいえませんが、彼等を通して望ましい保守の生き方が本と読み手との間に浮かび上がって来ます。
 色々と読み方はあるかと思いますが、夏目の小説等の登場人物に理想や真実を見るようでは邪道な読み方です。彼等を見つめる夏目との対話、それが肝です。
a0313715_02412369.jpg 時代のエンタメの傾向を見ると、保守の強い'60年代と'80年代は自律主義にも他律主義にも立たないリベラルで保守的な作品が多いと見えます。私は殊に'80年代のエンタメを好みます。先日はアルフィーのA面集のCDを買って聴きましたが、そこに重ね重ね思うのは後の時代の音楽との厚みと奥ゆきの違いです。昔はそれを車のボディーソニックシステムの座席で聴けた、今はなかなかないことです。その厚みと奥ゆきは決して今とは違って景気が良くて金があったからではないでしょう。今は金がないからできないという決めつけで作品が作られているからそれらがないのです。
 '50年代と'70年代は革新の強い時代、生温いか熱いかは人それぞれですが、自律主義が主に描かれていた時代です。強い意志を持って生きて行こう、或いは、強い意志を持てるとよいけれどなかなか持てないという、自我の表現。
 ――十年毎に、every 10 yearsで入れ替わるのかというと、そうでもない。
 '80年代の次の十年である'90年代はいわばエンタメ界の戦国時代の様相を呈しています。左翼、革新、保守と右翼が乱立してそれぞれが自らを主張し或いは他を蹴落とそうとする時代です。多様なのは良い時代でしたが排除の論理なのは悪い時代です。
 殊に劣勢になって来ていた革新派のエンタメは生き残りを図るべくその'90年代に猛攻勢を図っています。その生き残り組の代表選手がドリカムことDreams Come Trueです。
 '00年代は左翼、革新、保守と右翼の色分かれが崩れて絵の具の灰色になった時代。曖昧模糊として個性がないけれど一応の品質はあるらa0313715_02440248.jpgしいエンタメが増えていました。国民の思想よりもグローバル世界の潮流が重要とされ、日本がそこで戦えるのは一応の品質であるという考えからのものでしょう。というか、エンタメに関しては戦う積りはなくてもはや日本だけで通用すればよいという詮めからのものであると思われます。但しその中で飛び抜けて高品質なEXILEが天覧公演をするなどして人気となりました。個性のなさも極めると最高の個性になる。
 '10年代はAKB48とその関連の楽団による列島改造を経てエンタメが粗不毛となっている時代です。分野を問わず低水準で量も乏しい。AKBsが素晴らし過ぎて他のものが生み出せないのでしょう。殊に'90年代から少数派となっている左翼と'10年代に少数派となって来ている保守が殆ど見受けられず、革新と右翼がエンタメの市場を低水準に分け合っているのが現状です。右翼は元々自己表現が苦手なのでエンタメに関してもどうしてもありきたりのものをこなすだけになるし、革新は久々の再躍進からか、昔の焼き直しでその再来を訴えています。「どこかで見たことがあるような」の処ではなくそのまんま左です。違うものがあるとすれば、大会堂の衣装ではなくホテルのディナーショーの衣装になっていることだけ。

 平成、終わるらしいですね。

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by keitan020211 | 2017-11-29 02:44 | 政治、社会 | Comments(0)
最も正しい リベラルと保守;左翼と右翼の定義 その4 社会保障・福祉編
賊軍を官軍の勝ち組クラブに入れる
賊軍戦没者の靖国神社の合祀に 絶対反対

都合の悪い歴史を覆い隠す
A級戦犯の分祀に 絶対反対

皆様の力で阻止しましょう!

 直前の『その3 経済編』の記事に続き、この記事には社会保障と福祉の見地から見る『リベラルと保守;左翼と右翼の定義』です。

 すると、経済の次に社会保障と福祉、至って順当な順番と思う方が少なくないかもしれません。
 経済と社会保障、福祉は一環の環のように関連するものという見方であり、それを説明する学問はマクロ経済学です。まぐろ経済学も皆、そのマクロ経済の環に沿って捉えられます。
 因みに、栃木県の那須高原にあるホテルニュー塩原のまぐろの解体ショーを観ることのできる食べ放題の夕食のつく1泊2食の宿泊は一万円を切るそうです。

 しかし、経済と社会保障や福祉は本来は関連するものではありません。
 それが関連するものと考えられているのは社会保障や福祉が税金により賄われることを前提とするからですがそうではないならば関連しないのです。
 元々は社会保障や福祉は王や皇帝などの君主の恩賜としてなされるものでした。イギリスは実際にはそうではなくなっている今も建前としては社会保障や福祉は王の恩賜と位置づけられています。しかし他の立憲君主制の国々も皆同じようにそのような建前を残してはおらず、社会保障や福祉は君主とは完全に独立の政府が政策として国民に給付することになっています。そのための原資は国民の納める税金ですが、昔はそうではなく、君主の私財で行われていました。
 では君主はその私財を如何に作るかというと、国民の税金ではなく諸地方の封建領主の上納金や自らの関係者が行う私企業の収益を蓄えて財産とする。上納をする封建領主等もそれぞれ私企業を行って収益を得て財産とする。その私企業の一つは関税の徴収です。
 ――と云うと、関税は国の政府が取るものではないかと思うでしょうが、今はそうでも昔は関税は政府の取るものではありませんでした。関税の徴収は全くの民間の事業であり、今でいえば三菱東京UFJ銀行や三井住友銀行などが各地で食品や電気製品などの流通の関税を取るようなものです。封建領主などの有力者がそのような関税の徴収の会社を持って経営をする。封建制が廃されて立てられた近代国家はそのようなものを廃して関税の権限を政府の独占としました。関税の独占により確立したのが資本主義とマクロ経済的財政であり、社会保障と福祉もその大制度の一部をなす制度となった訳です。
 君主の私財にせよ政府の財政政策にせよ、国の経済力が国民の生命に関わる社会保障と福祉を左右することには違いはありません。但し君主制におけるものの方が規則や慣行に縛られずに色々と捻り出す余地が大きい。規則や慣行は近代国家の命のようなものなのでそれらにはないことをすることはなかなかできにくい。
 '00年代からコンプライアンスというものが繁く言われるようになって来ていますが、社会保障と福祉の量質の確保の観点から見ると丸で逆行するような思潮傾向です。勿論、法令や規則、慣行を守ることは大切であり、殆ど全てに優先するといえます。しかしそれが実際の遵守の習慣よりも一種の流行思潮として言霊を帯びる言葉となる時には他の様々の事柄にとっては害なものとなります。コンプライアンスという言葉を遣う人が法令や規則、慣行の遵守を如何程にしているのか、そもそもその意味を分かっているのかは大いに疑問です。芸人がコントで「いや、コンプライアンスがありますんで…」などと言う時に、コンプライアンスという概念がこの国に導入されたことの意味のなさを改めて確認するのです。否、この国だけの問題でもないのかもしれません。

 丁度30年前に、社会党が参議院選挙で久々の躍進をしたことがありました。土井たか子委員長が消費税の導入の反対を訴えてのことです。結局はそれが最後の一花となって社会党はその後十年で事実上の解散となっています。
 社会党はそこで消費税の反対と共に社会保障や福祉の充実を訴えていましたが、程なくそれが政治評論の世界で大きな問題となりました。それは社会保障や福祉の水準を高めるならば増税を要する筈であり、なのに消費税に反対するのはおかしいというものです。多くを得たければ多くを負担すべし、高福祉高負担を主張するのでなければ筋が通らないと。
 近代国家の財政のみを基準として見れば、高福祉高負担か低福祉低負担かの択一の論理は自ずと出る帰結です。しかし実際には必ずしもそうではなく、近代国家も結構色々な面で前近代の君主制の時代から受け継がれるものがあったりします。当時の社会党が志向していたのはそれであり、高福祉高負担か低福祉低負担かの択一を迫る近代国家の財政の制度を変えることです。自民党が既に近代財政を完全に掌中に収めていたので社会党は政策をその枠組の中で発想する余地を失っていました。その枠組では何を言っても自民党と同じになるのでそれを出て考えようと呼び掛けたのです。その流れは後の民主党が受け継ぐものとなり、社会保障や福祉の充実のためには増税及び高負担の継続を必ずしも要しないという理念があります。但し三十年前の社会党と比べると既成の財政を尊重する慎重な構えであり、その現れが野田政権による消費増税です。

 社会党は自民党の保守に対し、しばしば中道左派といわれています。
 この記事の『その1』の説明によると、中道左派は革新ともいいます。昔は永らく、社会党は共産党と共に革新勢力と呼ばれていました。
 社会党が出来た頃は紛れもなく中道左派でありまたは左翼をも含む一大勢力でした。
 しかし、三十年前の最後の躍進の頃はどうもそうではありません。中道左派は近代国家の財政を本位として凡そ高福祉高負担を志向する政策観を常とします。高福祉低負担もあり得るとする当時の社会党はその意味では中道左派、革新の党ではありません。
 小難しい言葉でいうとポストモダンとかとなるでしょうが、いわば脱近代の急進保守といえます。保守は中道右派ともいい、やや右寄りで急進改革を目指す党ということになります。社会党が急進保守と位置づけられるのは当時の与党自民党が中道左派・右派を全て含む形で現状の保守の党と呼ばれていたからです。自民党は高福祉高負担をいう人達もおれば低福祉低負担をいう人達もいる。
 低福祉低負担は左派でも右派でもなく、そのそれらの両極の左翼と右翼の常とする主張です。左翼と右翼は他の事柄においては色々と大きく異なりますが社会保障と福祉に関しては一部に似通う処もあり、それが低福祉低負担です。
 一概に「左」なら中道左派も左翼も高福祉高負担かと思う人が少なくないかもしれませんがそうではありません。左翼の考え方は高福祉高負担ではなく低福祉低負担です。
 その理由は、左翼にとっては全てに優先して保障されるべきものは労働雇用であり、若し雇用が全ての国民に保障されるならば、即ち完全雇用が実現すれば社会保障も福祉も必要はない筈であるからです。
 尤も、完全雇用は実現しませんし、政府が税金を取らずに如何にして存続を図るかも大きな問題になります。実際には共産主義国家も税金を取って自由主義国家と同じような社会保障と福祉の制度を導入しています。結局はしていることの形は同じでその中身が乏しければ潰れざるを得ません。
 共産主義国家が若しそのような道を辿らなければ、政府のない完全雇用で無福祉無負担の国が出来るというのが左翼の基本の発想です。全ての国民は社会保障や福祉を要せずに自らの稼ぐ賃金だけで健康に生計を立てることができると信じられていた時代がかつては本当にありました。今では想像がつきにくいですが、当時は近代医療も近代教育もないのでそのようなものへの負担が要るようになるとは逆に想像がつかなかったのです。また、近代産業を興すためには莫大の資金と資材を要しますがそれもまだないので想像できません。近代産業のためにはどうしても大きな政府とその産業の振興の政策が必要になります。それを実現するために莫大な労力を費やして自由主義国家と比べて不利になった訳です。自由主義国家も近代産業の振興のためには同じく大きな政府を要しますが共産主義国家のような税金を巡る問題が生じなかったことや国際金融の制度などにより有利となれたのです。

 そこで気づく人もいるかもしれませんが、高所得者に大きな税負担を課する累進課税の制度は自由主義国家の中道左派の主張とその実現であり、共産主義と共産主義国家には累進課税はありません。そもそも税そのものに否定的ですが、税金を仕方なく取ることになっても一律課税が原則です。つまり、イギリスのサッチャー政権の主張した人頭税は共産主義的政策であるといえます。
 日本共産党の不破哲三前委員長は大きな大きな豪邸に住まい、そのことを共産主義の指導者なのにけしからぬという人が偶にいますがそれは間違いです。共産主義はそもそも実力による経済格差を是認する思想です。不破氏は共産党の実力者なのでその豪邸は共産主義の理念の通りのものです。但し格差が下へ開いてはならないことが鉄則であり、上へ開くことは幾らでも全く問題ないとされます。
 共産主義より中庸な中道左派、革新が経済格差を否定して下へも上へも著しく開いてはならないとするので、不破氏の豪邸を非難する人はそれらを混同しているのです。しかし中庸なら何でもよいわけではないでしょう。
 また、同じ組織集団においては格差をつけてはならないとする考え方も共産主義の一部にはあり、それが共産党の職員の賃金制度に反映されています。同一労働同一賃金ではなく、同一集団同一賃金です。歴史的に生まれたそれらのような幾つかの考え方の傾向が混在して今の共産党が形成されており、左翼だけではなく中道左派や右派までをも含むのが現状です。不破前委員長は左翼の本流ですが、今の志位和夫委員長は中道派です。しかしかつては猛威を振るっていた極左の思想は暴力革命の必要についてを除いては左翼よりも中道左派に近く、その意味では極左は本当の共産主義ではありません。左翼と極左の違いは堅気とやくざの違いにも擬えられます。

 低福祉低負担の点で左翼と似ているのは右翼です。
 しかし右翼のそれは完全雇用ならば要らない筈であるからではなく、社会保障や福祉の必要を初めから認めながらその実際の需要をなるべく最小限にしてゆくべきであるという思想です。偶に誤解があるらしいですが、右翼が社会保障や福祉を要らないと主張することはありません。
 同じ右寄りでも中道右派、保守は主には先の土井社会党のような高福祉低負担の思想です。『より良いものをより安く』の発想からすれば自ずとそうなります。勿論、実際にはなかなか難しい場合もありますが、保守はなるべく高水準の社会保障と福祉をなるべく少ない負担で実現することを考えています。累進課税についてはその体系そのものを必ずしも否定しませんが高い累進度の税制を否定します。保守の政策は左翼に近くなる傾向がありますが、累進課税には否定的な点にも当て嵌まります。また、保守は社会保障や福祉の実際の需要を人の手で増したり減らしたりすることはできないと思うので右翼のようになるべく最小限にするべきという考えもありません。人為的加減の不可能性の思想は保守の反経験主義とも関係します――右翼は経験主義が多い。――。反経験主義とは現実に生じたことの対策としての政策や立法には余り意味がないとし、いついかなる場合にも適用するような政策や立法をするべしする思想です。対策はそれぞれに適当にすればよく、政府のするべきことではないからです。
 保守が不可能とする人為的加減というものには、社会保障のマクロ経済スライドの手法が当て嵌まるかどうかはかなり難しい命題です。経済状況が変動しているにもかかわらずマクロ経済スライドをするべきではないとすることそのものがそもそも人為的発想ではないのかという疑念がどうしても生じるからです。

 右翼の社会保障と福祉に関する考え方についてともう一つ誤解があるのは北欧の福祉主義国家についてです。
 しばしば北欧の福祉主義国家――以下:北欧諸国――は中道左派が主流の体制であるといわれ、日本などの他国の中道左派を支持する人々が目標とするべきものといいます。
 それは現実を半分は捉えていますが他の半分は捉えていません。
 北欧諸国は中道左派の勢力が比較的に強いことは確かですがそれと双璧をなすように右翼の勢力も強い。
 北欧諸国の福祉主義の体制は主に右翼と中道左派の合意により成立したものです。
 そこでは、右翼の思想と中道左派の思想がぎりぎりの折衷により成り立っており、左翼や保守の思想は余り反映されてはいません。
 知る人ぞ知る、北欧諸国は高福祉高負担を是とする反面で、極めて市場競争の苛烈な経済を持ちます。労働市場と雇用が不安定であるからこそそれだけの高福祉の絶対的維持を要するのです。主にその経済の面を代表するのが当地の右翼勢力です。若し高福祉がなければ右翼経済人はものの喩えではなく人殺しといわれることになるので必然に高福祉を是認する訳です。人殺し家具というのもいわれています。
 但し中でもデンマーク、ノルウェーとフィンランドは比較的に労働市場と雇用が安定し、市場競争も然程に苛烈ではありません。取り分けそうなのはスウェーデンとオランダです。何れも、極右を含む右翼勢力の強い風土があり、日本人などがリベラルな国と思って行くと物凄い右寄りな考え方が当地には意外と多いことにがっかりすることもあるでしょう。
 そもそも、それらの国はフィンランドを除き皆王制であり、左派だけの国であったならそんな筈はない訳です。
 近年の日本の左派に天皇制を積極的に肯定する人が増えているのはそんな「リベラルな北欧諸国」の観念との辻褄を合わせるためなのかもしれません。しかし向こうの王制は国民の凡そ半数を占める右翼が支持するからです。
 しかし向こうの右翼は日本の右翼とはかなり違う面もあります。
 日本の右翼は左側の思想や勢力をとにかく叩く人が少なくありませんが北欧の右翼は左側、殊に中道左派と和して同せずで互いの役割分担をしています。
 日本においてはリベラルな思想はどちらかといえば中道左派が支持するものといわれていますが北欧においてはリベラルな思想はどちらかといえば右翼が支持するものです。ノーベル賞の授賞元がどんな団体であるかを見れば一目瞭然です。知識階級の多さも日本は中道左派に多くて北欧は右翼に多い。向こうの中道左派はおしなべて平凡でこれという学もない市民であり、右翼は下品で無学で強権的な日本の右翼という感じとはかなり違います。尤も、日本の右翼を支持する勢力には昔の世代は平凡で無学な左派の市民であった人々が多いのでそうなるのであり、昔の日本の田舎は北欧と然程に違わなかったともいえます。
 どの国の右翼も既成事実を追認する傾向が強いので、日本の田舎の美しさが失われることも仕方がないと思っているのでしょう。そうなると「美しい国」はどうしてもサブカルチャーの中に求めることになってしまいます。

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by keitan020211 | 2017-11-26 02:49 | 政治、社会 | Comments(0)
最も正しい リベラルと保守;左翼と右翼の定義 その3 経済編
賊軍を官軍の勝ち組クラブに入れる
賊軍戦没者の靖国神社の合祀に 絶対反対

都合の悪い歴史を覆い隠す
A級戦犯の分祀に 絶対反対

皆様の力で阻止しましょう!

 直前の記事に、左翼、革新、保守と右翼の中で最も経済政策を重視するのは中道左派ともいう革新であると語りました。

 先の衆議院総選挙の頃から、安倍政権のアベノミクスという経済政策は世界の通念から見れば革新的――:マスコミ用語では「リベラル」――なものなので安倍政権と自民党は経済に関しては革新であるといえるとの批評が増えています。弊ブログもその見方には粗全く同意します。弊ブログはその記事に、自民党は経済に関しては革新の党であり治安統制に関しては保守の党であると語っています。
 経済を背景としてなされる社会政策に関しても凡そ革新であり、治安統制の国際版である防衛安全保障に関してはやや保守。後者を最優先の課題としていた安倍政権の前期はそれ故に保守政権と見做されることが多くありましたが経済政策と社会政策を最優先の課題としている後期は革新政権と見做されることが多くなって来ています。恐らく安倍総理の本意はそれらを何れも満遍なく担いたい、全てに網羅する綜合(グローバル)政権としたいというものでしょう。

 さて、その革新的経済政策であるアベノミクスを、安倍政権の主な支持層の一つである右翼も肯定的に見て期待するといっていますが彼等はその何を見てどう期待しているのでしょうか?

 先ずはそれぞれの勢力の経済に関する基本の観念を見ておきます。

 左翼: 基本としては古典的第一次~第三次産業の自由な発展を図り、政府はその限界を埋めるべく生産や流通の調整管理を図るべし。特に過酷な事業については政府は重点的に調整管理をして集団化による生産と流通の集約を図るべし――:共産主義――。
 革新(中道左派): 基本としては近代的第一次~第三次産業の自由な発展を図り、政府はその限界を予め勘案して市場における経済活動の調整管理を図るべし。特に過酷な事業については政府は不断に労力の緩和を図り、生産性の向上と総生産額の維持発展を図るべし――:資本主義――。
 保守(中道右派): 基本としては古典的または近代的第一次~第三次産業の自由な発展を図り、政府はその限界を不断に勘案して市場における経済活動の規正を図るべし。生産性の向上と過酷な労力の緩和は事業者の義務であり、それを怠る者には特に厳しく規正を求め若しくはその認識のない者を排除するべし。
 右翼: 経済は悉く既成事実として存在して発展継承されるものであり、政府はそれをなるべく妨げず、違法を取り締まることに専念するべし。

 共産主義や資本主義など、「-主義」とつく経済は全て左寄りであることを先ずは押さえておく必要があります。保守に相応しい経済の主義や右翼に相応しいそれというものはありません。保守は是々非々主義で「-主義」などの他の勢力の経済思想を取り入れることがありますし、右翼は既成事実を重視して従来の経済のあり方を是とするからです。故に右翼が資本主義を支持することはあり得ても、保守なら資本主義を支持するものであるという見方は誤りです。

a0313715_02594967.jpg 希望の党の小池百合子前代表が「排除されないということはありません、排除致します。」と会見で述べたことが話題となりましたが、保守には殊に経済に関しては排除を必要とする思想があります。社会に関しては寛容を是としますが産業経済は人の命と財産に影響するものなので寛容とばかりいってもおられません。
 小池氏に排除される側である革新はどうしてもそこが理解できないらしい。産業経済も社会も一緒の事柄であり、人の命や財産を守るためには排除ではなく国のたゆまざる指導が必要であるといいます。しかし実際には国が事業者をたゆまず指導した試しはありません。思いついた時に思いつくだけ云って終り、それが常とも思えるような革新主義や進歩主義を基調とする我が国の実績です。少なくともそうであれば、実効があるのは怠慢な事業者の排除しかあり得ません。尤も、保守は国によるたゆまざる指導が不可能というのではなく偏に前例がないと思うだけです。
a0313715_03020579.jpg よって規制の面で見ると、規制は革新の政権の程に緩くて保守の政権の程に厳しくなるのが凡その常です。’90年代以来の規制緩和の波は革新が本位の政策という側面と保守の例外的政策という側面が相半ばしてあります。当時は旧保守が積み上げて来た諸々の規制が倒れて舞い散りかねないほどになっていたので保守も規制緩和を当面の是とせざるを得なかったのです。
 怠慢な事業者の排除のために最も手取り早いのは規制の強化です。または他にも産業経済人や市民が民間として自主的に排除をすることもあるでしょう。そこには保守だけではなく、国民の生命や財産を守ることは左翼や革新、右翼も大切なことと思うので加わることがよくあります。しばしばデモなどに見られるような市民運動は左翼といわれており、中にはプロ市民と呼ばれるようなものもありますが元々は保守の市民が始めて他にも広がったものです。しかし保守は是々非々主義で同じことにいつまでもこだわり続けることが余りないので保守の市民運動は余り有名ではなくなっている訳です。

a0313715_03052051.jpg 右翼がアベノミクスに期待する理由は産業経済の既成事実の観点から解することができます。
 何にせよ、今は革新勢力が主導する資本主義の時代です。それは百年以上も変わっていません。
 右翼はその既成事実の上でしか取るべき道を考えません。安倍政権の掲げる「景気回復、この道しかない。」の真意もそれにあります。なので既成事実の上で最もましと考えられる経済政策を支持することの彼等なりの帰結がアベノミクスなのです。故に金融緩和が、公共事業が或いは成長戦略が経済的に必ずしも正しいと思って期待して支持しているのではないでしょう。

 保守は是々非々主義なのでそれらの一つ一つに可否をつけます。アベノミクスの一部には支持できるものもあるけれど全体としては必ずしも支持できないと見る訳です。

a0313715_03070371.jpg 革新にはアベノミクスを支持する人々と一般論としてはそのような経済政策を必ずしも悪いとは思わないが時宜的に間違いなので支持しないとする人々がいます。弊ブログは保守でありながらどちらかといえば後者に近い見方をします。前者は政策を状況や既成事実に即して評価するのではなくいわば市場を更地として見、政策はそこで実行されるものと考えます。市場が更地のようなものであるならばアベノミクスは間違いなく発展的に成功するでしょう。そのような発想の背景には日本経済が'00年代のいわゆる市場原理主義による地鎮祭を経ていることと今の日本経済と日本市場には一定の傾向や方向性若しくはなす術が現にない故に何をしても政策の通りに動くであろうという期待があります。市場が既に一定の意思を持っているとなかなか政策の通りに動こうとはしません。現実には市場は何程かの一定の意思をその前からかなり強く持っているためにアベノミクスは成功しなかったのです。
 かのようなアベノミクス支持の一部の革新の思想はキリスト教神学の見地から見ると中世のヨーロッパに勃興したヤンセニスムという異端思想に当て嵌まります。異端は処刑などによる排除の対象です。かつてアメリカのレーガノミクスがブードゥー経済――:オカルティズムの一種――と呼ばれたよりも更に過激なものです。 

 左翼はアベノミクスを賛成も反対もしないという心境ではないでしょうか?
 自分達とはそもそも相容れない安倍政権の政策であり、それがどんなものであろうと知ったことではない、それが左翼の本音であるかもしれません。アベノミクスがあろうとなかろうと、自力で儲かる人は儲かるし儲からない人は儲からない。重要な事柄はもっと他にあると今時の話題を全く見限って自分の道を歩む。左翼以外はなかなかそのようには構えられません。但し少しでもそれに近い感覚があるのは政策観が左翼に近くなることの多い保守です。希望の党の小池前代表が総選挙の公約にアベノミクスの成果が若しあれば生かせるだけ生かさせていただくというようなことを掲げていますがそれは保守の是々非々の構えと左翼の無関心の構えをないまぜにしたような感じのものであり、私、弊ブログの感覚とも好く合います。

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by keitan020211 | 2017-11-22 03:07 | 政治、社会 | Comments(0)
最も正しい リベラルと保守;左翼と右翼の定義 その2
賊軍を官軍の勝ち組クラブに入れる
賊軍戦没者の靖国神社の合祀に 絶対反対

都合の悪い歴史を覆い隠す
A級戦犯の分祀に 絶対反対

皆様の力で阻止しましょう!

 今月の上旬の記事に、『最も正しい リベラルと保守の定義』と『最も正しい 左翼と右翼の定義』を記しました。



 そのリベラルと保守の定義と左翼と右翼の定義を大掴みに言うと:
 左翼:何でも自力でしようとし、それではどうにもならない場合のみを国が助けるべしとする人々
 革新(中道左派):自力を基調としつつ、自力の限界を認めて国による分配を是とする人々
 保守(中道右派):世の中には様々な人がおり、自力か他力かは一概にはいえないので是々非々主義の人々
 右翼:人に頼ることを善しとし、国は頼る宛てのない人々のみを助けるべしとする人々
 という四つの類型になります。
 そこには保守はあるけれどリベラルはない。
 リベラルとは思想の類型ではなくいわば生き方であり、主にその四つの中庸を占める革新と保守の総称、場合によってはそれらの四つの全てに当て嵌まり得るものです。
 リベラル、liberalとは「自由な」ということ、人や人間が自由であると感じられることがあれば或いは感じておれば、それはリベラルであるといえます。
 しばしば日本のリベラルと呼ばれる勢力が嫌悪されるのは自由の存在というものが彼等の内には感じられない、或いは、自分の自由だけを尊び他者の自由を損なって平気でいることが原因でしょう。近年はそれが日本だけではなく世界に広く見受けられてもいます。
a0313715_23125026.jpg 革新と保守の総称がリベラルであるのは近代国家が経済を背景として国民の自由を志向するようになり、その実現を担って来たのが政治における革新勢力と保守勢力なことからです。近代国家の奔りであるイギリスやフランスは革新と保守の二大政党を構えてそれらの政権交代により政治を担っていますが近年は無所属のエマニュエル マクロン大統領が就任して自らの新党を立てて多くの議席を有するなどしてフランスの二大政党制は揺らいでもいます。日本も戦前は立憲民政党という革新政党と立憲政友会という保守政党の、戦後以後は日本社会党という革新政党と自由民主党という保守政党の二大政党制による政治でありました。しかし日本においても世界においても革新と保守の対立の構図は1990年代から崩れ始め、1996年に結成された民主党とそれ以後の自由民主党は二大政党制ではありますが革新と保守のそれではありません。「革新と保守」という概念そのものが揺らいで意味をなさなくなって来ているからです。
 とはいえ、政党が革新の党と保守の党にきれいに分かれることはもはやあり得なくても或いはあり得てもその望みが薄いにせよ、政治の現場を離れて見る革新と保守の概念そのものは重要であり、個別の政策を評価するためには必要なものです。
 ――革新的政策により自由を感ずるか 保守的政策により自由を感ずるか

 更にそれらの外延には左翼と右翼という人々がいます。
 革新と保守は中庸であるというと左翼と右翼は極端であるという感じがするかもしれませんが極端というべきなのはそれらの中でも極左や極右と呼ばれる勢力だけであり、左翼と右翼は然程に極端なものではありません。但し近代国家の体制の主流を占める人々ではないことから、どうしても中庸という印象で見られることがなく、自らも中庸を殊に志向してはいない。中庸よりも「正しいと思う」こと、それを志向する人々が左翼と右翼であると取り敢えずはいえます。
 中庸とは正しいと思うだけではなく客観的に見て正しく適切なことということであり、そこがそれぞれの志向性の違いです。

 客観的に見て正しく適切なことを志向するならばその発想はどうしても合理主義になります。
a0313715_23145180.jpg 昨今の批評界ではしばしば、保守は合理主義を嫌うものであるとの言説が多く見受けられます。私、弊ブログの原点の一つである西部邁も保守とは近代合理主義に抗うものであると語っており、その通りでもあります。しかし西部がそこに云いたいのは抗うべきものは近代合理主義であり合理主義の全てや合理そのものではないことです。あらゆる合理や合理主義を否定するならばそれは保守ではありません。近代合理主義を至上命題、至上価値、延いては人間を仕分ける基準とする革新に対する批判が西部と弊ブログの本意です。
 西部の言う近代合理主義とは如何なるものなのかについては彼の著書をお読み下さい。BOOKOFFの108円の棚によくあります。

 革新も保守も、近代国家の主流を占める中庸派は全て合理主義です。または、左翼と右翼も大なり小なりそうです。
 しかし左翼と右翼は合理主義よりも経験主義に立つことが多い。
 しばしばある研究や批評に保守は経験主義であるとのものがありますがそれは誤りです。
 西部邁は保守は「歴史の経験則」を重んずるものであると説き、それが経験主義と混同され易いですがそれは人の経験を本位とする経験主義とは違います。西部の本意は人の経験よりも歴史に蓄積された経験、即ち伝統を重んぜよということであり、伝統を見出そうとする態度から真の合理が見出せると説きます。
 経験主義は保守の本位とするものではなく左翼と右翼にしばしば顕著に見られる特徴です。
 左翼はその自らの経験から自力で生きるべしといい、右翼はその自らの経験から身近な人と互いに助け合うべしという。
 しかし自力ではどうにもならない場合もあるので左翼はそれを助けるための政府の政策を要するといい、人には身寄りがない場合もあるので右翼はそれを助けるための慈善を要するという。
a0313715_23185102.jpg しばしばある批評に、右翼は社会保障や福祉をお情けとしか考えていないというのがありますがそれは誤りであり、右翼の慈善は決してお情けというような感動ポルノの種のようなものではありません。慈善をする右翼は皆本気で人を救って幸せにしたいと考えて行動しています。しかし右翼慈善活動家そのものが数として少なく、彼等の営みだけではあらゆる困っている人々を救える程にはなりません。かのような批評をする人はその全体の供給可能性を指してそんなことではお情けのようなものである、そんなものではなく政府の政策が必要であるというのです。右翼を否定するのは主に革新の人々ですが、革新は多くの場合は物事を全体の需要と供給で見、全体を満たすためには政府の政策による分配と再分配が必要であるといいます。そのような発想から、革新の政策はどうしても経済を最も重視するものとなります。その点は結成以来の自民党も相当に革新の色の強い党であり、民主党との二大政党になってから今は特に経済政策に弱い民主党との違いを際立たせるためにより革新的になっています。
 中道左派ともいう革新と左翼の違いは自力ではどうにもならない場合を左翼は結果から判断し、革新はそのような場合を予め可能性として織り込むことです。予め織り込むためには合理主義に基づくケーススタディーや試算を要します。しかしそれらが人と人間の現実に本当に適うのかどうかは分かりませんし適わない場合もあります。そのような営みからしばしば人間の本性を見誤ったり人の心を勝手に決めつけることが社会問題についてもそれぞれの生活に関してもあります。殊に革新派が多くを占めるマスコミ――特定の媒体だけではなく全て。――はそのような見誤りや決めつけを数多く生産しています。

 左翼は自力ではどうにもならない場合を結果から判断するため、結果を政策に結びつけるためには密な政治参加や情報環境の整備を要します。その観点から見ると、アメリカにおけるインターネットの磐石の普及は左翼が推し進めたものであるかもしれません。かつての日本の公衆電話もそうでしょう。
a0313715_23224817.jpeg つまり、左翼は人の危機を救うためならば公益的通報ということで、個人や社会、共同体の自由が制約される若干の可能性はやむを得ないと考えます。警察国家のようなものを左翼は当たり前のものとするのです。現に日本などの自由を是とする国を含む多くの国はそのような自由の制約を或る程度は容認して成り立っており、その点では数少なくなって来ている左翼は依然として健在であるともいえます。
 では左翼はファシズムであるかというと少なくとも単独ではそうではありません。ファシズムは冒頭の前の記事にも語ったように主に革新と右翼の結合により生じますが、革新と右翼の結合からは経済的分配を巡るファシズムであり、警察国家のような治安と統制支配を巡るファシズムは革新と左翼の結合により生じます。つまり、何にせよファシズムの主犯は中道左派ともいう革新です、結局は保守もそれらに結合することがあるので余り人のことをばかり言えませんが。
a0313715_23245603.jpg 保守は元々その政策観が左翼に近くなる傾向がある――偶にいわれる、小沢一郎左翼説や小池百合子左翼説はその故でしょう。――ので個人や社会、共同体の自由が制約される若干の可能性を含む統制支配のあり方を支持することがあります。しかしそのような場合は保守と左翼の常態から出るものであり、ファシズムに結びつくものではありません。3年前に可決されて制定された特定秘密保護法についての各党の賛否はそれを物語ります。しかし革新がそれに後で手を加え始めると本当にファシズム法になる可能性はあるでしょう。より自由にした積りが、自由をより損なうものとなる。思想や政治駆引しか見えなくなって人間の本性や人の心が見えなくなるからです。
 経済的分配の観点から見ると自民党は革新の党といえ、治安統制の観点から見ると自民党は保守の党といえます。その他にも各党は個別の政策観から見ると左翼、革新、保守と右翼の様々な勢力の連合体であるといえます。様々の思想勢力が一つの党にまとまるのは偏に国と党の歴史的経緯や人間関係からです。そのようなものはしばしば「柵(しがらみ)」と呼ばれ、希望の党の初代代表となった小池百合子東京都知事はそれをもう少しきれいに分け直したa0313715_23270764.jpgいと思っているのかもしれません。私、弊ブログは小池氏や希望の党を支持しますがその点は殆どどうでもよいと思います。希望の党の支持が伸びない理由も、しがらみの脱却という考えが逆に旧い、時代遅れと思う、希望の党を支持する私に近い考え方をする国民が多くなって来ているからではないでしょうか。その点が引掛かって希望の党への投票に二の足を踏むけれど、他にも良いと思う党がない。弊ブログがこの処によく希望の党は小池氏にこだわるべきではない、小池氏は総選挙に出馬してほしいとか出馬するだろうとか、小池氏にこだわり恃むのはださいというのもそのことです――弊ブログとそのツイッターは先の総選挙の前から小池氏は絶対に出ないと断言しています。出ないと顔に書いてありました。――。
 しがらみを脱却することが必要な場合も少なからずあるでしょうが、脱した先にはまた新しいしがらみがあることもあります。そうなると脱しても意味がありません。

 「しがらみを脱却することが必要な場合も少なからずあるでしょうが、脱した先にはまた新しいしがらみがあることもあります。そうなると脱しても意味がありません。」、これは歴史の経験からしても或る人の個人の経験からしてもなるほどと思えるものでしょう。歴史の経験を重んずる保守である筈な小池前代表にはそのことだけが分からなかったのです。尤も、『しがらみの脱却』や『都民ファースト』のようなメッセージが今尚支持され易い東京の知事となった者にして仕方のないことではあるかもしれません。ミイラ取りがミイラになったと言えば有権者都民を馬鹿にしているといわれましょうか?
 
 脱したいと思うようなしがらみやその先にある新しいしがらみ――人の努力によってはどうにもならないことを運または運命といい、ドイツ文学者の西尾幹二がその批評において重視するものです。
 西尾は元々は保守思想家といわれていましたが東日本大震災から脱原発を支持するようになり、リベラルの色が強まってもいます。
 しかし西尾は保守かリベラルかよりは、はっきり右翼思想家というべき者かと思います。
 勿論それは根強い右翼への偏見としてではなく、右翼を肯定してのものです。
 彼自ら、自分は保守派ではなく保守的態度を好む者であると語っています。保守的たらむとすることに関しては政治思想による違いはありません。また、リベラルな右翼も多くいます。
 右翼を理解する鍵は私的助け合いとその組織的形態としての慈善の他に「運」があります。
 人は運に左右される。成功するにせよ失敗するにせよ何もないにせよ、努力の故もあるが運の故がより大きい。故に人は自らを誇るべきではない。それが右翼の思想の核心と思われます。
a0313715_23322191.jpg 確かに、安倍政権の周りで色々とよく分からないことや結構分かることを言っている右翼系の人士等は何にせよ、自らの地位や功績を誇るような処がありません。全ては自らに運をもたらす国の誇りであり、自分はそのお蔭で生きていると言わむばかりです。何歩訳の分からない者もそこだけは同じなのです。
 しばしばある批評に、右翼は自分が努力なしに高い地位や財力を得ていることについての疾しさがある故に慈善をしてその罪滅ぼしをするのであるとのものがありますがそれは誤りです。彼等の慈善は元々持っている自らの生き方の理想の実現であり、疾しさから来る罪滅ぼしではありません。尤も、右翼以外や贋右翼にはそのような慈善をする者もいるかもしれませんし、多分間違いなくいます。
 しかしそのような右翼についての誤った批評をする人は右翼の肝は努力ではなく運であることに気づいている点では物事をよく見ているといえます。
 贋右翼といえそうなのは先の天皇賞を制したキタサンブラックの馬主の歌手北島三郎です。
 「右翼なんていわれたら追放ものになっちょうよ。でも贋だっていうなら本望だね。」とでも言うかもしれません、彼は。
a0313715_23342781.jpg 彼は天皇賞の優勝馬キタサンブラックを所有することを、「神様からの贈り物と思う。」と自評しました。
 それはかなり見過ごせない問題のある文言です。
 彼は佛所護念会教団という宗教の信者ですが、そもそも仏教系の宗教は神というものを信仰するものではありません。先ずはそこからして彼の発言はおかしい。
 また、その背景として彼が運と神様を一緒くたにしていることが窺えます。言うまでもなく、神を信仰する宗教は運や運命というものを脱却することがその要諦にあり、運に恵まれることは神の恵みとは違います。神も仏もなくても自ずとなること、人が認識することのできない大きな状況となりゆきが運です。右翼が人生は運であるという際には、認識の不可能なことが人を動かすものであるという認識があります。そのようなことは神や仏を信仰していてもしばしばあり得ます。
 北島三郎はそのように神も仏もないような処で起こる運に過ぎないものを「神様からの贈り物」といっているのではないかとの疑いが極めて強い。無神論を神聖ぽく偽って表現することであり、右翼や良心的庶民を装う無神論的極左であるといえます。イスラム教徒ならそのようなことを偶像崇拝の罪というでしょう。
 また、過労死や殉死を奨めるなど、年来の彼の歌の数々からもかような無神論的極左の気が見て取れます。それ系の歌手にはもう一人、美輪明宏もおり、彼もまた贋右翼であり且つ贋リベラルの極左です。

a0313715_23364420.jpg 右翼は運を重視するので、政治により国を変えることにはどうしても後ろ向きになりますが政治に背を向けるのではなく、偏に政治の出来ることは少なかろうと見做すからです。彼等が殊に関心を持つのはそのような訳でどうしても外交や安全保障に偏ります。外交は大きな成果が得られなくても自由や法の支配などの基本的価値観を同じくする国の指導者同士が常々会うだけで国際関係の良好な維持に役立ちます。そうであれば右翼や保守の特に重視する、または革新も相当に重視する自由貿易が維持されて国の豊かさが保たれ或いは増す。そうであれば安全保障も相応の充実を見ます。

 今や革新や左翼、即ち左側の勢力に求められるのはそれらのような右翼の特色を知り、年来の右翼に対する偏見をなくしながら和して同せず、若しくは下手に和しもせず、一線を画しつつ自らの思想や政策観をゼロベースで見直すことです。
 近頃に、左側から「穏健な本当の保守」というような言葉がしばしば聞こえて来ることにはその点から大きな懸念を禁じ得ません。その念頭においているものは自民党の宏池会であるらしいですが、宏池会を保守本流と見てそのような政治を求めることは時代遅れも甚だしいし、何よりも安倍政権の支持層に多いとされる右翼を政治の場から外したいという願望がその多くを占めていることが窺えます。望ましい在り方を語る肯定的な話と見せて実は否定的な排除の論理でしかない。しかし右翼にも穏健な右翼がいたり過激な右翼がいたり、色々といます。
 革新が右翼と結びついてはファシズムになってしまいますが、一線を画する自覚があるならば右翼を排除することはない筈です。どこかで一線を画さずに結びついている疾しさがあるから右翼の排除を「穏健な本当の保守」や「中庸の政治」、「寛容の精神」という。
 尤も、革新と右翼の結合は歴史的傾向として永らくあるものであり、一朝一夕にはなかなか解消され得ません。カレル ヴァン ヲルフレンのいう「管理者/the administrators」や「日本の権力の中枢」、「日本というシステム」とは外でもなくそのことですし、殊にこの国だけの問題でもありません。しかしどこも同じであるから良いのではなく、この国と世界の共通の問題として革新と右翼の結合による近代国家の体制、またはワシントン政治を解消してゆかなくてはなりません。

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――地震が発生したら先ずは火の点いている所を確認して直ぐに消せる火を消し、物の落下を避ける。


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by keitan020211 | 2017-11-21 23:39 | 政治、社会 | Comments(0)



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