カテゴリ:文明論( 38 )
インスタ映えは意識高い系ではない――21世紀に生まれ出た新しい階層
 先ずはこの記事の主題とは関わりのない話から始めます。
 私がこの春から使っている新品同様のWindows Vistaのパソコン 富士通FMV-BIBLO NF/C50のメッキ塗装に私の手首の汗の塩がこびりついて取り除けなくなってしまいました。
 同機はキーボードの縁の部分とタッチパッドにメッキ塗装があり、全体は黒のパールですがそこだけが銀色です。その銀色が汗の塩で白くなっています。
 拭いても落ちないので、マニキュアの除光液(シンナーに近いもの)でそのメッキ塗装を全て剥がしました。
a0313715_13232688.jpg デザインとしては寧ろメッキ塗装がなく黒いのが良い。メッキ剥がしは一応は成功しました。左の写真はその現品です。
 但しその除光液がタッチパッドの隙間を漏れて本体の内部に入ってしまう危険がありながらの作業で、クリックのための2つの釦だけはメッキを残すようにするために非常に細心の注意を要します。本来はその釦の周りの隙間を塞ぐためにセロテープなどでマスキングをするべきですがそれをしなかったので釦の縁のメッキが僅かに剥がれています。それでも全体としてはきれいに仕上がりましたが、新品同様らしさは損なわれてしまっています。
 その他の黒い大部分は汗が着いても拭くだけで取り除け、汚れがこびりついたり塗装が剥げたりすることはありません。
 ――であれば、何でメッキ塗装をするのでしょう?
 初めから全てが黒ければ何の問題も起こりません。
 黒い部分は――白いパソコンなら白い部分――樹脂の素材そのものが黒く染められている――樹脂に黒の染料を混ぜて成形する。――のでシンナーで拭いても色が落ちることはありません。なのでそれだけで造ればよいのです。

 汗が着くことによる劣化なんて普通の消費者は予想することはできません。或いは予想することができてもそのようなことが不意に起こるものでしょう。なのでこれが単なる不平不満ではないことは明らかです。
 そう言うと、消費者だけではなく生産者も予想することはできないという人もいるかもしれませんが、本当にそうでしょうか?
 そのことを予想できなくても、そもそもメッキ塗装の必要はないことは分かるでしょう。パソコンにメッキ塗装があっても何の意味もなく役には立ちません。
 ――かように日本企業には意味のないことを思いついて精を出し、それをサービスやらおもてなしやらと思っている企業が少なくない。付加価値というものを勘違いしています。
 尤も、それは付加価値というものを考えてみもしないような、グローバリズムに与せよということではありません。グローバリズムの流れの中で業績を上げている企業には確かにそのような無駄はありませんし良いものも多くありますが日本企業がその真似をしてみても恐らくはそれらに及ばない品質をしか確保できないでしょう。
 日本企業は今時のグローバリズムの時代に或る時から対応することができなくなったのではなく、初めから基本の部分をヨーロッパやアメリカの先進企業の編み出した術理(technology)と経済支援(世界銀行など)に頼って成り立っているのです。それを日本の独自の品質やサービスと勘違いして驕っている内に諸外国に追い抜かれることになった。
 日本には初めから技術力(abilities on technics)はない。トヨタ以外の多くの日本企業は西洋生まれの先進的術理を流用して意味のない勝手放題を日本のサービスやおもてなしと称してそれに付け加えて来た。
 故にメッキが剥がれたり天井が崩れ落ちたりするのです。汗をかく消費者が悪いのではない。
 故に、昭和の安定して強い日本に戻れという声にも意味はない。昭和から出鱈目で平成の終わりまで来ている。
 バブル時代から西洋の高級ブランドや高級店が人気を博するようになったのは多くの消費者がそんな日本の技術やもてなしというものの出鱈目さを見透かしているからであり、単なる贅沢とは思えません、バブル世代を擁護したいのではありませんがその点は、即ち行動はなくても眼だけは確かなことは少しは擁護しうるのかもしれません。

 ということで、メッキの殆んどを剥がして真黒の素の姿になった私の富士通FMV-BIBLOに見慣れないといけません。見慣れないとどうしても製品の本来の状態ではなくなったことによる喪失感があります。どう見ても初めからそのようなデザインであったなら良い。尤も、見慣れれば良いと思えるのは私の技術力が相当に高いからでもあり、私を含む消費者一般に関していえばそのようなことは決して良いことではありません。

 偶々ですが、以上の話がこの記事の主題であるインスタ映えと意識高い系の違いのことに結びついてきます。私のパソコンの事故があってその主題を思いついたのではありません。その主題について書こうと思っている処にその事故が起きた。

 SNSの時代といわれる今にあり、中でも今を時めく媒体であるインスタグラムを用いて映えの良い写真を載せる記事を出す人々が「インスタ映え」と呼ばれて昨年の流行語にもなっています。インスタグラムの前はツイッターやフェースブックが人気の絶頂にあり、今もそれなりの人気を保っています。私がしているのは更にその前に生まれたブログとツイッター――:右欄外に表示――です。

a0313715_13270241.jpg その「インスタ映え」が何かと複雑な評価を受けているようです。
 昨年に私の支持する批評家古谷経衡氏が『意識高い系の研究』と題する書を出してインスタ映えを意識高い系と見做す批判をしています。
 しかし私は古谷氏の批評等の多くを支持しながらも、それを含む幾つかの点だけは評価を保留したり不支持としています。「インスタ映え=意識高い系」については今までに保留としていましたが色々と考えをめぐらしている内に明確に不支持とするに至りました。
 勿論、それにより私の古谷氏についての評価が大きく下がることはありません。これからも頑張ってほしいです。
 その古谷氏の批評を受けるかのように、テレビや新聞などの既成のメディア等がそれと同じような見方をしているようです。「インスタ映えは意識高い系だ。」――そこには何かインスタ映えと呼ばれるものをどちらかといえば否定的に見て小馬鹿にするかのような感じさえ窺えます。
 約めて言えば、既成のメディア等は古谷氏のその批評を自分達にとても都合の好いものとして利用するようになった。その都合とはインスタグラムを含むネット及びSNSをテレビや新聞、雑誌などと比べ低いものと見做して自らの優位性を主張したい。でもそのようにはっきりと主張することはしにくいので「インスタ映え女子、いますねー。」みたいに暗に小馬鹿にして言及する。インスタ映え女子はいつから温泉芸者になったのかという感じです。

 古谷氏の批評には幾つかの死角があります。彼が自分だけの眼ではどうしても見えない部分です。
 その一つが「インスタ映え=意識高い系」という見解です。
 意識高い系はネットと分かち難く結びついている、彼はノマドなどに言及しながらそのように述べますがそれが先ず間違いです。
 意識高い系は逆に、ネットを小馬鹿にしています。つまり、古谷氏の批評を受けるかのように「インスタ映え女子、いますねー。」と云う既成マスコミ人やその支持層が意識高い系そのものです。
 尤も、意識高い系にはネット及びSNSの利用の経験がそれなりにありまたは現によく利用している人も少なくありません。しかし本音ではネット及びSNSの存在価値を受け入れてはいません。自分にはそんなものよりももっと価値のあるものがある、ネットに充足しはしない。――そのような屈折の感覚を持っています。故に彼等は情報価値を依然として今や信用され難くなってきているテレビや新聞におき、新聞を読む子は伸びるなどと根拠のないことを云っています。テレビも新聞もそれそのものは悪いものではありませんが、新聞を読めば伸びるから読むのではない、何等かの価値の或る情報を期待して読むわけですがその期待に応えてはいません。テレビについても同じです。ネットもそれに充分に応えているとはいえませんが自分が受け手たるだけではなく送り手になれるのがネットの優位性です。見たいコンテンツは自分が作ればよい、期待するだけではなく自らが期待されるようになる、そのような動機がネットには存在し得ます。

 インスタ映えをしている人々は年中スイーツ(甘味処)を食べに行ってその品を片端からインスタグラムに向けて写しているのではないでしょう。
 偶にスイーツを食べに行ったら写真を撮りたくなる程に感動したのでそれをインスタグラムに載せているだけです。
 つまり、初めから自分の趣向を誇示してそれを高く評価されたく――いわゆる承認欲求――てしているのではなく、単にそれらを自分だけの懐に収めて満足しているだけでは勿体ないからSNSに公開しているのです。そのようなことが簡単にできる時代なのでそれを使う。ネットの時代に始まることでも高度経済成長に始まることでも文明開化に始まることでもなく、いつの時代も普通の人々はそうなのです:使えるものは使う。
 尤も、美味しいスイーツなどの良いものに触れる自分は良く思えるし、それを出来れば認められたいという普通の意味での承認欲求はインスタ映えをする人々にもそれ以外の人々にもあります。そのように普通ではない変な承認欲求もネットの世界にはあるので古谷氏の批評は必ずしも無意味ではありませんがそれをインスタ映えな人々に見て取るのは誤りです。

 「普通の人々」とはいえども、それは庶民のことではありません。
 庶民ではなければいわゆる中間層とかセレブとか何かかといえばそうでもありません。
 庶民でも中間層でもセレブでもない新しい階層がネットの普及し始めた21世紀の初めの頃から顕著になっています。
 厳密にいえば彼等はいつの時代にもおり、突然変異のように出て来たのではありませんが、ネット及びSNSの普及が彼等にとても合っている故に顕著になっている新しい階層と見做せる訳です。
 その肝は「使えるものは使う」です。
 庶民には或る種の恥らいのようなものがあり、使えるものならば使うのではありません。使ってみれば使えるようなものも何等かの口実を見つけては遠ざけたり小馬鹿にしたりします。故に庶民たることは決して良いことや普通のこととはいえません。その庶民こそが今にいう意識高い系を形成しています。口実と共に遠ざけ或いは小馬鹿にする、それが「意識の高さ」です。自分はインスタ映え女子やネットに嵌る人とは違う、それが意識高い系にとっての誇りや結束の源泉なのです。

 その新しい階層は21世紀の始まった頃からインターネットの普及と共に顕著な存在となりました。その理由はインターネットは大きな金もコネもなくても自分を発信することのできる凡そ史上初めてのメディアであり、それが庶民こと意識高い系やセレブに増してそのような意味での普通の人々の心を攫んだことです。
 但しインターネットの始まって以来の用具であるパソコンは元々はおたくのものであったことや大型で空間を取ることもあり、後に携帯電話、殊にスマートフォンの普及と共に彼等がネットに使う主な用具はスマートフォンに代わっています。なお、意識高い系がネットを離れているのも同じ理由が一つにありますが、意識高い系はネットそのものを懐疑して或る種の必要悪のように見ています。一応はできなければ恥ずかしいけれど然程に関心を持つようなものでもないという感覚です。

a0313715_13294663.jpg 意識高い系は戦後の日本の経済成長を牽引する力の一つであったので、今のネットの時代に彼等がネットを離れると日本経済の成長は鈍化しています。先ずはその主な用具であるパソコンの売れ行きが低迷し、ネットを用いて行われる様々のビジネスの発展や深化も今一つ勧んではいません。日本の経済社会が意識高い系に依存しない在り方を確立しておれば彼等がネットをしなくてもそのようにはならない訳ですが、依然として依存しているためにそのようになっています。
a0313715_13313873.jpg 意識高い系はインスタグラムなどのSNSよりも臨場感の味わえる場を好みます。近年に出来た新しい形の大型の商業施設や遊興施設はその代表例。広大な敷地とふんだんな店やアトラクションの数々を一日掛けて巡る――東京ディズニーランド・シーなどのような廻り切れない程に広い所は意識高い系の他にも広く好まれる。――。それらは写真を全く撮れないものではありませんがスイーツのお店などと比べると動的な故に落ち着いて写真を撮ることが難しい。撮れてもSNSで公開する程のものではなかったりします。仮にSNSに上げても映えず、インスタ映えと呼ばれて話題になるようなものにはなりません。
 意識高い系はインスタ映えな人々のように自分の満足を人に語ることを自己満足のように思い忌み嫌います。自分の満足ではなく家族や友人、取引先などの他者を喜ばせることを語るのです。
a0313715_13340700.jpg しかしそうして語るのは他者を喜ばせている自分についてなので、結局は自分の満足を語るよりも手の込む自己満足に過ぎなかったりします。故に意識高い系の撮る写真は肝心の場所やそこにあるものがはっきりとは映らずにどこまでも人の姿が中心になるものが多い――私は人の姿を映す写真も人よりもその周りをよく映す方がそこにいる人の姿が引き立つことも多いと思います。なのでデジタルカメラなら顔検出モードはなるべく使わないのがお奨めです。――。

 それが古谷氏には見えないのは彼が未婚若しくは不婚である故に家族というものを批判するようなことは言いにくいという自己規制が彼自らの言論に半ば無意識に掛かっているからであると思われます。
 彼はリア充への抜き難い劣等感についても語っており、家族だけではなく友人や取引先などの「人付き合いの充実していること」を批判の対象にしてはいけないというのもあるでしょう。
 その自己規制、ともすれば忖度が彼の言論における死角を形成しており、然程に顔が広くもなく金を持っているのでもないインスタ映えな人々を意識高い系と誤認して批判することになるのです。
 一頃はあのホリエモンも同じような理由で意識高い系と誤認されていました。多分それが今に至る勘違い世論の始まりでしょう。
a0313715_13361464.jpg 自己規制や忖度はマスメディアの得意技でもあり、それを無意識にしている古谷氏を「かわいいねえ。」と思う訳です。目下の最高の賢人の一人である古谷氏さえ勘違い世論の縛りを受けています。

 話は逸れますが、かような意識高い系の象徴としての権力が安倍政権です。但し政権を支持する側だけではなくそれに抗う側もその象徴されるものに含まれます。
 その典型はこれは古谷氏も指摘している、安倍晋三総理の妻安倍昭恵氏やその召使の官僚谷査恵子氏です。
 安倍昭恵氏が仮にインスタグラムをしても、そこには「そんなに興味があるのではないけれどね…」系の口実がついてまわりながらのことでしょう。或いは「立場上やってみないといけないのよ。」とか。

 自分の喜びや満足を他者に解るように語れること――それが必要な表現力です。

 他者の喜びや満足はその人に聞いてみないと分かりません。聞いてみても分からないこともあります。
 
 意識高い系の「インスタ映えなんかとは違う自己満足ではない自己表現」は得てして自分についての表現ではなく他者の喜怒哀楽を先回りして表現する、いわゆる代弁です。そして自分の周りにどんな人がいるかについてを語るのが彼等にとっての自分を語ることなのです。SNSの写真とその解説文にしても、そのようなものであればそれは意識高い系のものでしょう。
 逆に、「いちごまんじゅうなう。」みたいな表現力にやや乏しいものもそれが理解可能なものであればまともな満足の公開であり情報価値もあるものといえます。

 折角公開するもの、なるべく映えるようにするのは公開者の義務ともいえることです。
 しかしあまり気合を入れてやるとおたくや地方都市の子みたいで垢抜けないねなどと言いながら半端なものや不快感を催すものをSNSにも生のプレゼンにも上げている意識高い系の公開者も一頃の程には多くありませんが、見受けられます。テレビや新聞がそのようなものになってきている――情報番組系やニュース解説の番組がやたらと多い。――のも気になります。

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■NEWS of the WORLD


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    ●AFP(フランス パリ)
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    ●ル フィガロ(フランス パリ)
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    ●フランクフルター アルゲマイネ(ドイツ フランクフルト アム マイン)
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    ●共同通信(日本 東京)
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    ●朝日新聞(日本 大阪)
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    ●日本経済新聞(日本 東京)
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    ●ボストングローブ(アメリカ マサチューセッツ州ボストン)
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    ●タンパベイ タイムズ(アメリカ フロリダ州タンパ)
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    ●グローブ アンド メール(カナダ オンタリオ州トロント)
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    ●ロイター(イギリス 英国 ロンドン)  
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    ●ザ テレグラフ(イギリス 英国 ロンドン ウェストミンスター)
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    ●ジ インディペンデント(イギリス 英国 ロンドン)
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by keitan020211 | 2018-08-07 13:36 | 文明論 | Comments(0)
日本の夏には半袖は合わない――現代日本人を支配する「夏アイデンティティー」と日本の伝統
 東洋経済オンラインが最新7月17日に『世界が失笑する日本人政治家の服装の勘違い 稲田朋美氏と小池百合子氏の大違いとは?』記事を出している。

 東洋経済オンラインは何頁もの改頁を要する記事が多く、ネット的に暑苦しくて題名を見て面白そうでもあまり読まない。石橋湛山総理が高度経済成長期を前にして創った東洋経済は元々紙の雑誌が充実しており、ネットの記事の作り方にはやや弱いと見える。どことなくごちゃごちゃとしていて読みにくい。暑苦しい服装を見るかのようである。
 ネットには、改頁を要せずに一つの記事を上下のスクロールだけで読ませる配置が基本。中には横スクロールのあるサイトがあったりして改頁よりも暑苦しい。ブロードバンドで改頁の面倒が少なくなっているとはいえ、改頁は一文を先へ進んだり前へ戻ったりするのに手間が掛かり、考えながら読むことを妨げる。

 その記事に言及されている小池百合子東京都知事、元防衛大臣は環境大臣の時にクールビズと呼ばれる夏の軽装を奨める政策を発案したことでも有名。その小池氏の装いの感覚の良さと稲田朋美元防衛大臣のその悪さを比べ、安積陽子氏の著書『NYとワシントンのアメリカ人がクスリと笑う日本人の洋服と仕草』の一節を引用する。
 確かにその通りであり、私の支持不支持とも偶々か必然にか一致するが、小池氏は良い感じで稲田氏は感じが悪い。実際に稲田氏は外国で失笑を買ったこともあるという。

 但し公正中立のために、小池氏によるクールビズの問題を指摘してもおく。

a0313715_04571593.jpg クールビズは全然クールではない。
 安倍総理や菅官房長官も只今しているネクタイをしないいわゆるノーネクタイは良いとしても、半袖は日本の夏には合わないものである。
 クールビズはその実践例としてネクタイをしないことやスーツを着ないことを主に示しており、半袖を着るべしと云ってはいないがそれを聞いて実践しようとする側はどうしてもシャツは半袖をと思ってしまう。24年前に羽田孜総理が提唱した省エネルックはスーツも半袖、羽田氏と同じ政権で政治家になった小池氏の政策がそう思われても尚更に仕方がない。

 半袖とはそもそも何なのか?

 それは夏も温度や湿度があまり上がらずに少し暑くなるだけのヨーロッパ、西洋の気候に合うように出来たものである。
 西洋は紫外線の照射量も夏の温度や湿度の高い日本の程には多くはならず、故に夏も半袖や袖なしを着て過ごすことになった。
a0313715_05000721.jpg しかし日本や東南アジアなどの暑い地域は、夏に半袖や袖なしを着て過ごすと直射日光による紫外線を多く直に肌に浴びることになり、熱中症や皮膚癌などの可能性が高まる。にもかかわらず半袖の洋服が日本に紹介されるだけではなく広く普及したのは日本の気候を考えない、現地現物を無視すること、即ち西洋化のための西洋化である。
 明治初期までは一般のものであった和服には半袖や袖なしはない。あるのは長袖と七分袖だけであり、只今花火大会などに着られている浴衣も七分袖である。七分袖は長袖より袖口からの風通しを良くして腕の肌の大部分を覆う造りである。長袖も留める釦を外側にしたり吊紐で七分の位置まで上げたりすれば夏にも風通しを良くすることはできる。私が今着ているのも無印良品の袖の吊紐のある長袖シャツ、色は青の縦縞で下はエドウィンのブルージーンズ。それで全然暑くはない。
 そのような日本の夏の特徴を知る西洋が日本人を騙して暑さに弱くするために半袖を日本に売り込んだのではあるまい、日本自らが日本の現地現物を考えずに西洋の目新しいものに飛びついてその侭普及して当たり前のようになってしまったのである。

 熱中症や皮膚癌の可能性だけではなく、半袖は汗が見える、触れれば汗が着くことも難点である。満員電車では甚だ迷惑でもある。
a0313715_05013420.jpg 自分は涼しい格好と思っているのに思いの外に暑いことから、その風采や振る舞いが何気に暑苦しくなり、満員電車ではなく空いている所で見るだけでも結構な不快感。殊に近年は下着を着ずに乳首が見える男が多くなっており、不快感は更に強まる。下着を着ないと汗が表のシャツに滲みるので更に迷惑の種になる。しかし彼等は暑いのでそれしかないと信じて疑わない。現代日本人の手本を形成した近代西洋化の根は深い。
 しかし、昨年に私がブログの『乳首と監視社会』と題する記事で警告を発したのが誰かによって拡散されたからか、今年は乳首男や下着なし男は少なくとも私の目の届く範囲――:南多摩地方――にはかなり減っている。

 明治女が「夏は半袖を着るものよ。」と云ったら最後、それが絶対の行動様式になってしまい、半袖を着ていないと「暑くないの?」と真顔で問う、フランスのお笑いではあるまいし。暑苦しいのはそう問うている人であったりする。
 しかし現実には、明治の時代にも大正や昭和の時代にも、「夏は半袖を着るものよ。」と云う人は然程に多くはなかったようであり、寧ろ日焼けが恐いからとか虫に噛まれるからとかということで夏にも長袖を奨める人が平成初期までは男女共に多くいた。それと半袖ではお得意先に失礼になるから。その得意先への配慮を撤廃するには政治の力を要して省エネルックやクールビズにつながった訳である。当事者は「どうしましょうか?いいですか?」とは言えないからであり、仮に自分達がそこでそのように合意に達しても他にはなかなか拡がるものではない。それが若し非自民による政治改革、即ち細川政権から出たものであったならば、半袖の奨励策はその唯一つの誤りといえよう。

 日本の和服だけではなく、アラブの白や黒のターバン付の服なんかも皆長袖。暑い地域には半袖は合わない。
 日本人の夏の半袖は西洋的というよりはいわゆる植民地的。

 尤も、然程に暑い季節ではなければ半袖が合うこともあり、涼しい春や秋はその季節といえる。そもそも日本は『春秋論争』などが示すように、古来より春と秋にアイデンティティーを見出していた民族である。その春や秋が西洋の夏に相当する。故に日本においては西洋のブランド服の春物や秋物が着れる期間は当地と比べとても短い。そろそろ着れる頃と楽しみにしているとあっという間に暑くなったり寒くなったりして着れなくなる。結局は季節不問の普通なシャツを夏にも着るべくなり、逆に向こうの夏物を春や秋に着るのが潰しの利く買い方である。四季の緩やかな西洋においては地域によっては春物や秋物の設定はないかもしれない。

 その半袖が現代日本人のアイデンティティーにも根を下ろして「夏アイデンティティー」と呼ぶべきものを形成している。
 世界に現代の日本の程に夏を偏重して好む民族はない。
 古くは日本人は「春アイデンティティー」や「秋アイデンティティー」、比較少数として「冬アイデンティティー」、その三つが多くを占め、「夏アイデンティティー」は稀少数であった。近年は夏は熱中症の危険などにより忍び凌ぐだけの季節と再び認識されるようになってきているが、昔はそれが当たり前であり、何らかの積極的価値や美意識を見出すべき季節と見られてはいなかった。いわば夏は日本人にとっては「捨て牌」である。
 忍び凌ぐことが生きる必要としてではなく積極的価値や美意識となれば、それはやくざの価値観である。
 現代の日本人は知ってか知らずか、やくざ紛いになっている。
 とんでもない、自分は紛れもなく堅気であって暴力団は断固排除すべしと思っている人の程にその本質は夏アイデンティティーに基づくやくざ紛いの価値観であったりする。
 西洋人にとっての夏の想念(イメージ)の典型はアルベール カミュの小説『異邦人』やプロスペール メリメの小説『カルメン』の描く不条理の世界。何れもフランス人の作家による作品ではあるが『異邦人』がアルジェリアを舞台として『カルメン』がスペインを舞台とすることに象徴されるように、夏とは怪しげな異国のものであり自国の価値観ではないもの、危険地帯の表象と認識されるようなものである。
 実は古来の日本人にとってもそれらと細部を除いては殆ど違わない。今風に言えば、古来の日本人にとっての夏とは怪しげなシナ朝鮮の世界、特亜のものである。
 しかし現代の日本においては夏は積極的価値や美意識と認識されている。
 夏を称揚する芸術、殊に音楽が実に多い。サザンオールスターズやTUBEはその代表格であるが、旧くは石原慎太郎の原作で石原裕次郎の出演による映画『太陽の季節』。
a0313715_05033976.jpg サザンは寧ろその巧妙な作りにより夏アイデンティティーを薄めたり反転させたりするようなものがある故に広く安心して親しまれているが、『太陽の季節』は日本人のやくざ的夏アイデンティティー化の奔り(はしり)となったもの。その原作者の本意も寧ろ夏アイデンティティー化を批判して食い止めようとするものであったのかもしれないが、その出演者はそれを煽って勧める役目になった。石原裕次郎は允に身勝手でならず者としかいいようのない人物なのが実像である。
 そして日本人の悪弊といわれる様々なもの、日本人の不可解さといわれるものは夏アイデンティティー化により生み出されてきたものなのである。
 最近にも少なくはない人を熱中症に遭わせているといわれる根性主義はその発祥は別物ではあるが或る時代から夏アイデンティティーのやくざ性と結びついて今に至るものである。戦前の精神主義がその侭では継承されずに戦後の世俗主義である夏アイデンティティーと結びついて大衆化した。その理由は戦後の「解放」の機運にあっては戦前の精神主義は如何にも分が悪く、民衆が親しむ世俗主義を取り込まないと生き延びられなかろうという余計な考えが持たれたからである。
 
 そのように自らのアイデンティティーを夏に見出す者にとり、西洋においては普及している慣習である長期休暇、バカンスは如何にも相容れないものである。
 夏こそが生涯の舞台、即ち働くべき季節なのに、そこを休みにされてはアイデンティティーが喪失されるという。
 といって、彼等は夏には元気で強いのではない。著しく弱くはなくて一応は乗り切るだけの体力があるが、正に夏を「忍び凌ぐ」ことに自己満足と積極的価値、美意識を覚えるのである。よってバカンスの条件といわれる生産性の向上とは無縁であり、本当の充実感は存在しない。
 しかし大人の夏休みには反対であるが子供の夏休みには大賛成である。それは子供を酷暑に晒してはならないという配慮ではなく、子供は遊ぶことが仕事であると思うからである。といって遊びが得意で真剣に遊ぶのではなく、単に勉強が嫌いなだけ。遊びという仕事をしている子供の姿を見ることに無上の生き甲斐を感ずる。ホモ雑誌『薔薇族』の基調もそのような夏アイデンティティーにあり、どちらかといえばいわゆるノンケ――:ホモではない人を指す業界語――の興味本位に応えるエンターテインメントの性格が強く、同性愛とは関係のないものと思える。

a0313715_05062838.jpg かように現地現物や現実と掛け離れるので、夏アイデンティティーとは無謀の称揚であるともいえる。
 無謀といえば大東亜・太平洋戦争がしばしばその典型といわれるが、その終戦が盛夏の8月15日になったのは偶然ではなく、連合国の側が用意周到に予め考えて決まったものなのではないかと思う。
 戦前にも胎胞していた日本人の夏アイデンティティーを見抜き、終戦の記念をその季節に行わせることにしたのである。典型は旧東京招魂社、靖国神社における英霊の「招魂」である。
 元々その時期には盆があり、死者の魂を招くことが慣習ではあるが、東京招魂社はそれを戦争と結びつけた。
 戦争が無謀ではなかったその時代には意義があったであろうが、大東亜・太平洋戦争を通して東京招魂社の意義は歪められることになった。そして靖国神社と名を変えた戦後は夏アイデンティティーの拠所、即ちならず者の拠所としての新しい役目を帯びることになった。
 因みに私は靖国神社を歴史を留めるものとしてそれなりに尊重する。

 靖国神社を拠所とするような極右だけではなくパヨクと呼ばれる左派においても無謀を称揚する夏アイデンティティーが特徴である。但しパヨクはそれを表立っては現さず、逆に自らを合理主義で科学的であると思い込む。
a0313715_05073780.jpg 熱中症による被害が立て続く今年の夏の酷暑を受けて冷房を全ての学校に導入すべしという主張が最近にネットを主として湧き上がっているが、そもそも冷房を導入してまで夏に学校に通いたがることが無謀である。学校の校舎には冷房があっても外にはあり得ないし、通学は変わらず酷暑で熱中症の危険がある。子供の身を守る具体的手立てと責任を掻き消すかのように、彼等は唯ひたすら「学校に冷房を!」と連呼する。それが実現しさえすれば後は悉く子供と親の自己責任であって何も云わせないと言わむばかりになろう――勿論、自己責任もあるが普通に負うべき自己責任とは意味が異なる。――。
 教育基本法の精神を叩き込まれてそれを永久に保存しようとする彼等にとっては学校にしかアイデンティティーの拠所がない。学校で専ら悪い思いをしていたなら「いつか見返す。」という意味での拠所である。故に冷房を口実にしてその維持を図るのである。
 また、その他の代替策を考えないのは合理主義や科学的態度とは到底にいえない。「論語読みの論語知らず」が教育基本法にも憲法にも当て嵌まる。それに懐疑や反対を示す人を人殺し呼ばわり、信用や支持もされるはずがない。そのように信用や支持をなくすことにより野党や権力の批判の存在をなくすために態としているのではないかとも思える。

 日本が良い国になってゆくことを望むなら、酷暑の夏にも確りと下着を着て長袖を着て権力の批判をするべきである。

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by keitan020211 | 2018-07-22 05:08 | 文明論 | Comments(0)
京王と小田急 吊り手につかまらない人は京王に多い
 通勤などに普段は小田急電車を使うことが多い私ですが近頃は訳あって京王電車を使っています。不倫のためとかではありません。
 今年の2月に京王の、3月に小田急のダイヤ改正があり、そこで京王と小田急の仕事競争の様相が一段と強まりました。
 マスコミにも話題になっている多摩新田(ニュータウン)と東京との輸送における小田急の本格参入と京王のその対抗策もありますが、他にも小田急の準急列車が新たに狛江、祖師ヶ谷大蔵と千歳船橋に停まるようになったのも狛江市、調布市と東京都世田谷区における京王と小田急の沿線地域の近さからのものでしょう。例えば世田谷区船橋の希望ヶ丘団地は従来は小田急が粗独占していましたが’00年代に京王の快速列車が八幡山に停まるようになると京王バスが新しく路線を作ったことにもより京王の利用者が増えています。小田急の新しい準急はそれを再び奪う可能性があります。

 それらのような鉄道業者の仕事の在り方にだけではなく、それらの鉄道を利用する沿線民の在り方にも京王と小田急の違いは端々に見受けられます。

 先日に新たに気づいたのは:吊り手に掴る(つかまる)人は小田急に多く、掴らない人は京王に多い。

a0313715_17465859.jpg それがよく見ると、その違いが明確であります。
 小田急の乗客は殆どが吊り手に掴るが京王の乗客は殆どが吊り手に掴らない。
 多摩新田のような併走の区間もあって最大でも4km程しか離れていない京王沿線と小田急沿線(但:東京新宿~調布経由京王堀之内・新百合ヶ丘経由唐木田:因みに安倍晋三総理の自宅もその囲みの中にある。私の自宅は学生の頃はその囲みの中にあったが今は外。)、処がそんな明確な違いがあります。
 因みに私は軽く手を掛けるだけで列車が揺れた時だけその握る力を瞬発で強くします。常に確り掴るのが小田急流で掴らないのが京王流であるとすればそれらの中間です。

a0313715_17453199.jpg 『面接の達人』で有名な元博報堂のCMプランナー中谷彰宏氏の『一流の人は○○しない うまくいく人がしない70の習慣』に拠ると、一流の人は電車の吊り手(吊革)には掴らない、二流の人は吊り手に掴るといいます。中間の私は差詰め1.5流でしょうか。
 その理由は一流の人は常に自分の足で確りと立つが二流の人は常に何かに身を任せるということ。その「自分の足で確りと立つ/立たない」とは経済力などの比喩的意味ではなく物理的に自分の足で立つということ、二流の人はそれさえもできないことが多いという。

 実際に私も京王電車に乗った時に周りの人々に倣い、吊り手を持たずに乗り続けてみました。すると何の差障りもありません。列車が曲線に差し掛かろうと加速や減速があろうと体はびくとも揺らがない。周りの人々もフリーハンドでスマートフォンを見たり本や新聞を読んだりしています。勿論何もしていない人もいます。皆涼しい顔をしている。

 それには一流な人であることの他にももう一つの理由があるかと思われます。
 それは列車の運転のし方における京王と小田急の違い。
 京王は曲線で減速及び再加速をせずに速度を変えずに通過しますが小田急は減速と再加速をして通過します。路線における曲線の部分の多さはどちらも凡そ同じであり、寧ろ急曲線京王が多い。しかし京王は凡そ常に等速で運転され、小田急は運転速度の差が大きくて詰まらない程の緩い曲線でも速度を落とします。
a0313715_17515421.jpg 曲線運動においては遠心力が生じますがそれと同時に求心力も生ずるので等速運動では遠心力と求心力が打ち消し合い、その上に載る物体は直線運動と違わない動きになります。∴京王電車の運転は揺れを生ぜず、乗客が吊り手に掴る必要がないのです。しかし小田急は先ず減速で慣性の作用による前へ押し出されるような揺れが生じ、重力加速度の減衰により遠心力を打ち消す求心力が生ぜずにその上に載る物体が外への動きを生じ、及び再加速により後へ引張られるような揺れが生じます。三方向への揺れが続けて起こる。なれば、吊り手に掴らざるを得ないのも小田急沿線民が二流であるからとは必ずしもいえません。他の電車に乗る際にも念のために掴っておこうとなるでしょう。
 事実、京王沿線にも二流な人はそう多くはないようですが、います。
a0313715_17531758.jpg 例えば京王沿線の二流な人は例えば川崎市麻生区黒川地域へ行く際に若葉台駅で降りずに永山へ行き、そこで小田急に乗り換えて黒川駅へ行きます。3駅余分に時間を掛けて130円或いはもう数十a0313715_17551546.jpg円余分に掛ける。京王の若葉台駅と小田急の黒川駅は至近距離にあり、急な坂もなく歩いて直ぐに行けます。一流な京王沿線人はその場合は若葉台駅で降りて歩いて行きます。

a0313715_17583019.jpg 小田急の複々線が出来てからは運転のし方が少しでも京王のそれに近づいてもおり、今の小田急電車は昔の程には著しい揺れはなく、吊り手に掴る必要は薄れています。なのでそれでも吊り手に欠かさず確りと掴り続ける人は小田急沿線の民度を反映して二流であるといえそうです。

 吊り手の他にもう一つ、列車の掴れるものには握り棒があります。
 昔からあるのは扉の脇、座席の端にあるものであり、近年は座席の真中の辺りにある車輛が増えています。
a0313715_18004973.jpg 但し関西の私鉄の車輛には昔から扉の脇、座席の端にも握り棒はありません。しかし阪急の最新の1000系車輛は阪急では初めてとなるその位置の握り棒があります。しかしそれも座席の真中の握り棒はありません。
 そのことが物語るのは、関西には列車に乗る際に掴る必要とその観念があまりないことです。京王と同じく、曲線で揺れることもなく――阪急宝塚線などのように曲線の多い路線では逆に直線でも速度を上げずに終始ゆっくりと走る。――、若い人がフリーハンドで漫才をしていたりします。
 運転のし方にも一流と二流はあり、総じて関西は一流で関東は二流であるといえます。

 乗る人の立ち方や乗せる人の運転のし方の故に掴る必要がないことの他に、もう一つ指摘されている吊り手に掴らない理由には不衛生で汚いからというのがあります。
 今は抗菌加工があり、列車の吊り手や握り棒なども恐らくそれが施されているかと思います。なので少なくとも今時の吊り手や握り棒は不衛生とはいえません。しかし昔はゲロを触った手で列車に乗って吊り手にぶら下がるような人が多くいたのでそう思うのも強ち分からないではありません。そのような世相の変化の影響か、潔癖な人は昭和生まれの旧人類に多く、平成生まれの新人類は衛生について過度に気にする人は少なくなってきているようです。分からないでもないと思う私はそれについても中間の新旧人類なのでしょう。確かに私も吊り手が生温かくなっていると丸いものの場合はそれを回して冷たい部分を持つようにしています。私は雑菌のような物理的汚さよりも人の温度や形跡のような存在感的汚さをより嫌います。但し三角形の吊り手は回せないので仕方なく角を持ちます。

 潔癖度における京王沿線と小田急沿線の違いは分かりませんが、多分然程に大きな違いはないと思われます。そのような分野に関しては沿線よりも行政区域の違いが大きいと考えられ、同じ自治体の行政区域が多くある京王沿線と小田急沿線の衛生観念は凡そ同じでしょう。但し抗菌仕様の商品を好むなどの、いわば新しいもの好きは京王沿線により多い感じがします。潔癖ではない京王沿線人も抗菌仕様の物があると取り敢えず買っておいたりするのです。新しいものは必然に厳しい評価に晒されて批判を受ける可能性がある訳で、小田急沿線人は批判の対象となることを避けるために新しいものにはあまり手を出さない気質が強い。事実、抗菌仕様の商品は抗菌グッズとも呼ばれ、その売れ行きが国民性が潔癖になっていることの現れではないかと批判されたことがあります――私はそれについても分からなくはないが抗菌の技術は重要でそれが必要な物はあると思うのでそのような批判に全面賛成はしません。――。よって揺れるからとにかく掴る人も汚いからとにかく掴らない人も小田急沿線には多い。

a0313715_18044456.jpg 握り棒について、座席の端のそれは乗り降りに使う扉に近い故もあり掴る人がいるのにそう違和感はありませんが近年に増えている座席の真中の辺りの握り棒に掴る人がいるとかなり目障りで違和感があります。それも立っていて掴るのは仕方がないとも思いますが偶に座って掴る人がおり、隣に座っているととても気持ちが悪いですし立っていてその人を見るのも不気味で気持ち悪い。座っていてまで何かに身を任せるとは一流か二流かの評価の対象にすらならない。更にはそのもう片手で本を読んでいたりする意味不明な人もいます。本を片手で持てるなら掴ることはない筈です。
 真中の辺りの握り棒は端の席に座りたがる人を劇的に少なくした功があり、それがなくなればまた端こ族が幅を利かすようになるので一概に否定することはできませんがそのような問題もあります。

 発達心理学が詳しい現象なのでしょうか、吊り手や握り棒に常に掴らないと気が済まないなどの何かに身を任せたがる人は、京王電車の運転のし方のような、してあげる側の功徳(merits)に与ったことのない人であるとも考えられます。鉄道だけではなく自動車なども、良い運転者の車に乗せられておれば自らの運転も良くなる。悪い運転者の車に乗せられておれば自らの運転も悪くなる――例えばいわゆるサンキューハザードやパッシングをするなど。自らのしているそれらのことは他者にとって良いに決まっていると信じ込み、それらに当惑する人を逆に非常識などという。――。乗り物だけではなく色々な面で良く扱われている人は自らも他を良く扱うようになる。そのためには自分の足で確りと立つことが必要なので何かに身を委ねようとする心と習慣にはなりにくい――サンキューハザードやパッシングなども、それらをする人同士のもたれ合いや相互承認に過ぎない。――。
 そのような観点に見ると、何かに身を委ねたがる人は必ずしもその人自らだけの責任でそうなっているのではないともいえます。彼に何かをええ加減にしてあげた或いは何かをしてあげなかった人の責任だけではなく、何かに身を委ねることをそれが普通だよねなどと是認する世論による影響もあります。そのような世論の影響を逃れることはなかなか難しかったりするのでそれもまた自責だけを問うことはできない訳です。
a0313715_18174186.jpg その観点から見れば、小田急は元々良い功徳を受けて良く育った人をも徐に頽廃させてゆく装置でしたともいえます、これからは分かりませんが。

 つまり、経済格差や社会格差と同じような格差といえるものが京王沿線の一流さと小田急沿線の二流さなどに見えるような「何かに身を任せたがらない心性/任せたがる心性」にも存在します。掴らざるを得ない場合ではなく、掴らなくてもよいのに掴らなければならないと思う。
 経済格差や社会格差を訴えることはそれなりに重要なことですが、それと同時に吊り手に掴らないで電車に乗れるようにすることも大切でしょう。先日になくなった民進党やそれに先立って出来た立憲民主党の得票数、当選者数や支持率が小田急沿線で他と比べ著しく高いのを見るとそのようなことが気に懸ります。せっかくの有力なリベラル党がそのような人達のためのものにしかなっていない訳です。

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――地震が発生したら先ずは火の点いている所を確認して直ぐに消せる火を消し、物の落下を避ける。


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メ~テレ Jチャンネル―UP! 前記の時間の後 18.15~19.00/月~金

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by keitan020211 | 2018-05-15 18:18 | 文明論 | Comments(0)
高齢運転者の事故の多発 運転免許の返納は無意味
賊軍を官軍の勝ち組クラブに入れる
賊軍戦没者の靖国神社の合祀に 絶対反対

都合の悪い歴史を覆い隠す
A級戦犯の分祀に 絶対反対

皆様の力で阻止しましょう!


 テレビ朝日のJチャンネルがまた相次ぐ高齢運転者の事故を特集しています。
 ここ数年に亘り、高齢運転者による自動車の事故が増えて今も多く発生しています。それについての報道の特集はテレビ朝日だけがしているのではありません。

 そこに、しばしば提起されているのは高齢運転者の運転免許の返納を促すべしとの意見です。高齢者は認識能力などの自動車の運転に要する能力が自ずと低くなるので高齢者が運転を自粛するだけではなく運転免許を返上することは当たり屋池上のクラッカーであるというのです。――「当たり屋池上のクラッカー」とは昭和の時代にはやったギャグ「当たり前田のクラッカー」を今風に捩ったものです。
 そのような意見はネット世論には頓に多く、近年はネットに飛び交う情報の後追いに甘んずることの多いテレビ報道もまたそれを後追いして後押ししている形にあります。動かない自動車の後押しではありません。

 高齢者の運転免許の返納を促す意見には以下の誤りがあります。

①運転の能力に関し、認知能力を偏重する。
②事故が多発している高齢者とはいつの時代の高齢者であるかを明らかにせず、高齢者の全般を運転の能力に劣るものと見做す。

①運転の能力に関し、認知能力を偏重する。

 痴呆症、呆けが認知症と言い換えられている時代にあります。
 痴呆症や呆けと言って何の問題もない筈ですが怪しげなイデオロギーを信じている人達はそれを許さず、認知症と呼ぶことを求めています。
 そのイデオロギーは人間の能力というものに関し認知能力を偏重することが特色の一つです。

 話が逸れますが、痴呆症が彼等により差別語と見做されるのは「痴」の字が「乱痴気騒ぎ」の語にも用いられることから生じた勘違いと考えられます。乱痴気騒ぎは紛れもなく悪いことですが、「痴」の字の意味は漢字辞典を引くと「愚か」や「戯け(たわけ)」ということです。「愚」や「戯」の字にはそもそもは然程に悪い意味はなく、単に通常とは違う、異常な状況ということに過ぎません。そうではなければ、誰が「愚」という字を遣う名を子に付けて彼が一国の君主になるでしょうか?彼の名である「泰愚」は通常とは違う状況に泰く構える、即ち非常時に強いということです。また、衆愚政治としばしば訳されている'ochlocracy'には「愚か」という意味すらありません。ochlocracyとは群衆による政治ということであり、選ばれた者のみによるものではない通常とは違う状況における政治ということに過ぎません。選ばれた者による悪政は'cachistcracy'と言い、その原義は遠慮なく大笑い、哄笑をするということです。日本における'standing ovation'もそれに当たるでしょうか。笑いではなく拍手ですが、本質は同じです。議場が皆電波少年となっている訳です。
 「痴」、「愚」や「戯」:それらは乱痴気騒ぎなどのような紛れもなく悪いことに偶々用いられているのであり、その悪い意味合いから字そのものをも悪い意味と見做す勘違いが痴呆症を廃語としようとしている風潮なのです。呆け老人はどう見ても「痴呆」であり、認知症などという分かったようなことを言うべきものではありません。
 因みに'cachistcracy'にはあらゆる物事を自らの専門の知見だけに基づいて見るような最劣等人間による支配という意味もあります。「こだわり」や「独断と偏見」、「一刀両断」、「ズバッと斬る」などもその類です。彼等はしばしば選ばれた者を意味もなくなけなしの古語を拾って「選ばれし者」と言うのも特徴です。

 運転免許は紛れもなく、選ばれた者に与えられる資格です。

 認知能力は紛れもなく必要なものではありますが認知能力とは単に認知する能力ということに過ぎず、認知するだけでは何にもなりません。人間は認知を基に行動して何歩のものです。
 よって運転の能力を測るには認知能力だけではなく行動する意思とそれを可能にする体力が測られるべきものです。
 行動する意思とは「走る;曲がる;停まる」を基本として運転を安全に遂行しようとすることであり、時には救護や救援をすることです。そのためには骨、血や肉などの健康な体力が必要となります。
 それらを総合的に勘案すると、運転に相応しい高齢者は少なくはなく、免許の返納を視野に入れている高齢者の率96%<:テレビ朝日 Jチャンネルに拠る>の大半は自動車の運転に充分な能力を具えているでしょう。しかし認知、行動と身体の内の認知の部分だけが偏重されることにより、非高齢者と比べ相対として劣るだけの理由により、高齢者の全般が運転をするべきではない欠格者とされているのです。俗に認知症と呼ばれる痴呆症が増加の傾向にある、ならば高齢者の全般の認知能力は劣っている筈であるというのです。
 尤も、認知能力だけではなく行動能力と体力もまた相対として劣るものではありますが、では、非高齢者のそれらが果たして何歩のものであるかは推して知るべきものです。高齢者の事故率と非高齢者の事故率または全体の事故率を比較する基本の数字さえ明らかになってはいません。只高齢者の自動車の運転における交通事故の件数が増加の傾向にあることのみを以て彼等の運転免許の返納を促す世論が現出しているのです。

 寧ろ、認知能力を偏重するからこそ、高齢者による自動車の運転における事故が増えているのです。

 事故を起こす高齢者は自らの認知能力を過信しているだけではなく、そもそも認知能力の偏重の風潮を作り出した人々です。
 つまり、云う側も云われる側も同じイデオロギーを信じている。そのような場合は、意見や批判は公論ではなく私的指摘に過ぎません。同じ共同体の内にしか通用しないのが私的指摘です。公論とは異なるイデオロギーや思想の者の間においても通じ得る意見や批判のことであり、それが成り立ち得るのが自由で民主的な国家です。

 それが②、「事故が多発している高齢者とはいつの時代の高齢者であるかを明らかにせず、高齢者の全般を運転の能力に劣るものと見做す。」につながります。 
 
 事故多発高齢世代、それが認知能力の偏重の風潮を作り出した張本人達であり、その支配の下に育って現役世代となっている非高齢者もまた同じイデオロギーを信じて風潮を再生産しています。

 事故多発高齢世代が運転免許の取得の条件たる年齢に達した時代は自動車化、the motorisationの始まった時代です。高度経済成長の始まりでもあります その頃にトヨタ自動車工業、現トヨタ自動車がトヨペットクラウンを発表。トヨタは後発の自動車メーカーですがその頃から日本の産業界における頭角を現し、先発の日産自動車やプリンス自動車がトヨタを追う情勢になりました。プリンス自動車とは後にその一部が日産に併合された現在のスバルこと富士重工業の前身です。
 自動車メーカーは何れも自動車そのものを作ること及び自動車を生かせる社会を提案することが仕事であり、認知能力の偏重の風潮とは何の関係もありません。私も元トヨタマンとしてそのようなイデオロギーを教え込まれたことはありません。トヨタが自動車の運転に関し教えているのは:車間距離を充分に取ること;「かもしれない運転」を実践すること;飲酒運転を絶対にしないこと:などです。但しトヨタグループの中でもそれらの実践に関し温度差があるようですがトヨタ自動車株式会社は特に厳格にその実践を求めています。

 「かもしれない運転」とはトヨタが発明したものではなく警察の運転教本にも載っているものですが、警察用語ではそうは呼ばず危険の予知といいます。予知とはまだ分からないことを考えることなので、認知能力が幾ら高くても追いつけないものであり、どちらかといえば安全に運転しようとする意思をいいます。考えられる状況についての知識を得ると共に、その意思を片時も絶やさずに運転をすること、または、或る場合には運転を控えることが「かもしれない運転」です。
 トヨペットクラウンやそれに無謀にも挑むような車が出た時代には、まだ認知能力の偏重のイデオロギーが現れてはいなかったと思われます。とにかく車は恐いので気をつけろ、そのような原初的慎重さが強く生きていた時代であったでしょう。
 それが立ち現れたのは高度経済成長の成功が確認されて自動車の普及が愈々(いよいよ)増して来た昭和40年代であったと思われます。ベトナム反戦運動などが興った'70年代と五年ずれて重なる時期です。
 高度経済成長の昭和30年代は豊かになるための意思と体力の時代、やがて経済力が高まり、初志と原初性を離れてより知的なものを求めることから、昭和40年代は認知能力が重視されるようになったのです。
 しかし知性の結晶のような営みたる諜報、the intelligenceを引き合いに出すまでもなく、真の知性は意思と体力に支えられなくてはならず、認知能力だけでは何もなるものではありません。それは昭和天皇が「なせば成る なさねば成らぬ 何事も」と歌っている通りです。

 2年しかない平成30年代には、自動運転の実用化が現実味を帯びています。
 自動運転は運転に要する認知能力をより少なくしようとすることであり、それが半世紀も続いた認知能力の偏重の風潮を変えるきっかけの一つになるかもしれません。しかし一般には誰もまだ自動運転を経験していないので多くの人が高齢者の運転に関する問題を手動運転の永続を前提にして考えています。手動運転の継続については半分はその通り正しいといえますが認知能力を偏重していては手動運転も成り立ちません。意思と体力については下手をすれば、或いは、上手くしても、高齢者におけるよりも、現役世代の弱みであり続けています。まだ現役世代となってはいない子供にあっても、体力の水準の低下が今は著しくなっています。私は意思と体力によって一命を取り留めたことが幾たびかあります。その時に瞬発で適切なハンドルを切らなければ大きな事故になっていたけれど私にも車にもかすり傷一つをも負わなかった事例が愛知県、静岡県と神奈川県のそれぞれ三つにおいてあります。他の二つは自責で高速道路におけるものですが、その内の神奈川県におけるものは同県に広く営業網を持つ某バス会社の側方不注意による発進に巻き込まれそうになった他責によるものです。そのバス会社はおしなべて運転のマナーが悪く、踏切で一旦停止をしただけで後ろから警音器を鳴らして来たりします。多分、籠池のおやじではありませんが、被差別部落民を追い出してその土地を安く買い叩いていたりするのでしょう。いや、籠池ではなく安倍昭恵が悪いのか。

 今の高齢者より旧い世代の人々は高齢になっても然程に事故を起こすなどの危険を生じてはいませんでした。その事実をなかったことのようにして高齢者は自動車の運転には相応しくないと断ずるのは如何なものでしょうか?
 また、老害といわれる人は若い時から害であったのであり、故に老害などと呼ぶべきものではなく、若い人が先ず自らを省みるべきです。 

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■NEWS of the WORLD


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    ●AFP(フランス パリ)
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    ●ル フィガロ(フランス パリ)
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    ●フランクフルター アルゲマイネ(ドイツ フランクフルト アム マイン)
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    ●共同通信(日本 東京)
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    ●朝日新聞(日本 大阪)
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    ●日本経済新聞(日本 東京)
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    ●ボストングローブ(アメリカ マサチューセッツ州ボストン)
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    ●タンパベイ タイムズ(アメリカ フロリダ州タンパ)
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    ●グローブ アンド メール(カナダ オンタリオ州トロント)
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    ●ロイター(イギリス 英国 ロンドン)  
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    ●ザ テレグラフ(イギリス 英国 ロンドン ウェストミンスター)
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    ●ジ インディペンデント(イギリス 英国 ロンドン)
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by keitan020211 | 2018-05-01 13:33 | 文明論 | Comments(0)
健康診断の結果から見る 生活習慣 それと 新しいWindows Vista
 私が社会人になってから受けた健康診断の結果を先日にExcelの一覧に書き留めておきました。
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 但しその記録が残っているのは1998年~2000年と2016年~2017年だけです。
 今年2018年はまだ受けていません。

 Excelに落とし込むのに要する術は簡単なもので、BMI値と肥満度の計算式の入力と条件付書式の設定だけ。条件付書式の設定の仕方は最大値を上回る数値の表示色――:ここでは赤色――と下回る数値の表示色――:ここでは緑色――を決めることです。後はひたすら記載事項等を写す。
 それに、画面を横にスクロールする際に検査の項目の欄が動かないようにするためにウインドウ枠の固定を使うのがミソです。
 しかし私はそれらの術を度忘れしており、思い出して使うまでにそれぞれ30秒程の時間がかかりました。
 Excel2010を買ったのはその発売の年である2010年の末で、その頃に覚えまくりましたがそれから7年余りを経てそんな感じになっています。先日に買って使い始めているこのWindows Vistaに入れているそれは1本のソフトウェアで2発まで入れられる内の2発目で、1発目は6年前2012年に壊れてしまった私の2代目のPCであるWindows XP on 富士通FMVデスクトップに入れたもの。まだ静態保存がしてあるけれど、あれからもう6年になるのか。
 このWindows Vista on 富士通FMV-BIBLOはこの前まで借りて使っていたWindows7 on e-machinesデスクトップが壊れてしまった故にその代替として導入したもの。そのWindows 7は貸主がその老朽化の故に事実上は永久に借りることになっていたものなので弁償は要しませんでした。因みにそのWindows 7の入っているPCは元々はWindows Vista向けのものなのでそこからやや無理があったのかもしれません。このWindows Vista on 富士通FMV-BIBLOは初めからVista向けのもので、Vistaの出た2007年製の新品同様品です。因みにその頃も安倍政権。

 その頃の健康診断については記録が残ってございませんでしたり受けていなかったりで、その頃の健康の状態については私自らにとりましても不明な点が多々あります。

 しかしまあ、新社会人の頃は酒の量が週に1度か2度にビール1本!、殆ど呑まない頃もあったとは、隔世の感があります。何を呑んでいたかははっきりと憶えており、大抵はその頃に発売された発泡酒、麒麟淡麗生の500ml缶です。麒麟淡麗は今もしばしば呑みますが、今は清酒、ビール、ワインにウィスキa0313715_15412358.jpgー、時にジンや焼酎、清酒は一日に小瓶を2本、ビールは一日に350ml缶を1本以上、ワインは中瓶を2日で1本…と結構な酒豪になっています。このブログの過去の記事にも語っていますが、コスパが最も良いのはウィスキーで、新社会人の頃にも時折に呑んでいました。お好みはニッカオールモルトですが、近頃はなかなか見掛けない一品です。それとサントリーオールドや山崎ですが、高いので今はなかなか買えません。
 ビールの好みはその麒麟淡麗の他に、濃味を好む向きの多い日本のビール通にすれば信じ難いかもしれませんが、アサヒスーパードライ、ハイネケンラガー、ミラースペシャルやバドワイザーなど、薄味のものが昔も今も好みです。
 信じ難いかもしれないことといえば、今時にWindows Vistaを買う、しかも、Vistaが良いと思うというのも。私は歴代のWindowsの中では何といってもVistaを最高のものとして推します。Windows7もなかなか好きではありますが、Vistaと比べるとやや冷たい感じがします。Windows Vistaは優しくて温かいのであります。よくあるVistaについての評に動作が重いというのがありますが、重いのではなく使い手の息に合う絶妙な間合いです。家電や車の押すと開く開口部の開き方なんかとも似ますが、Vistaはしなやかな発条で高級感に溢れる開き方をする。それがXPは如何にも軟らか過ぎる発条ですし、7はその材料の強度が上がって切れにくくなってはいるけれど開き方はXPと同じ感じ。Windowsファンの主流派はそのような高級感、プレミアム品質というものを今一つ理解していない故にVistaをdisるのかと思われます。
 disられたらdisり返すということではありませんが、Windows XPが出た2001年の頃は「切れ易い子供」がマスコミの話題になっていました。当時の子供は何かと切れ易くなっていると。そこには丁度、XPのような軟らかい発条のような発想と行動というものが世の支配的価値観になっていてそれが子供の育ち方にも反映していた故なのかもしれません。新しい内は目覚ましいポテンシャリティーで大いに受けるけれども、古くなって来たり何らかの状況の変わり目によっては直ぐに切れて駄目になってしまう。――そして今は「切れる老人」がマスコミの話題になっています。多分、17年前のそのような価値観を作り出して主導して来た大人達――当時は五十歳程。――なのでしょう。XPの異例の延長サポートを見ても、そんな切れ易い子供や切れる老人にはそれ程の手を焼くことを要したということなのかもしれません。ではVistaは然程のサポートがなくても、サポートの既にないこれからも持つのかというとまあ分かりませんが、既に忘れ去られむばかりの今はサイバー攻撃などの対象としては狙われにくいかもしれず、サポートがあれば万全という訳ではないですし、寧ろVistaがより強くて輝く時代になるかもしれません。

 健康に関しても、狙われても強い体質も大切ですが狙われにくい体質になることも大切です。
 狙われても強いとは主に免疫力の強さですが、最新の医学の見解によると免疫力が強過ぎると却って癌などの病に侵され易いといいます。免疫とは平たく言うと病原を薄めたものであり、病原と同質なので強過ぎる免疫はその本来の働きを失うと――例えば過度の健康法の実践などにより病のリスクを斥ける必要がなくなり過ぎると――病そのものになる訳です。片や狙われにくい体質とは病原が自分とは明らかに異質である、狙うリスクが高いと見て近づかないことです。若しWindows Vistaがそのように狙われにくい体質であるならば、人もまたVistaのような体質になることが望ましいといえるでしょう。勿論それは免疫力の強さというものを排するものではありません。
 21世紀になってから今までの世の思潮を見ても、どちらかといえば免疫力の強化ということに重きがおかれ過ぎていたかと思います。他国の軍事力の増長に対しては自国の軍事力の強化を以てするべしなどとというように毒を制するには毒を以てするべしということで、そのような安倍政治に対する抵抗もまた尋常ならざる毒の気になっている訳です。私などからすると反安倍を以て任ずる人達の多くは何をしているのか分からないような感じです。
 日本の癌による死亡率が高まっているのも、医療の発達の齎した免疫力の過剰な強化が一因なのかもしれません。

 そこでpositive thinkingを敢えてしてみると、私の直近の2017年の健康診断にある「感染症の疑い」というのは免疫力の強化をを至上命題とする価値観を解放されたことの現れと見ることができるかもしれません。その「感染症の疑い」とは前年は6700μ/lであったのが9100μlになった、白血球数の著しい増加です。
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昨年の春ですが、丁度私をとりまく環境に私に対する悪意や敵対の要素が著しく少なくなってきた頃です。それでもそれらが全くなくなっているとはいえませんが今は昨年の春の頃までと比べると社会的にしのぎ易くなっていると感じています。それまでは多かれ少なかれ、毒を以て毒を制する、免疫力に依存する発想と行動の傾向が今と比べると強くあったといえます。
 実際には、感染症に罹ったことはなく、それから一年程を粗健康に過ごしています。但し近頃はやや治まっていますが頻尿の傾向があり、腎臓についての検査項目にそれと思しい結果が出ています。
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その故か、この一年は買ったばかりのものを含むタイツやストッキングが何枚も破けてしまっています。殊に今年の元日に高幡不動尊に初詣に行く折に多摩モノレールの駅のお手洗で新年早々にタイツが破けたのは気が滅入りました。

 BMI値は常に基準値を下回っており、診断としては痩せ過ぎに当たるものですが、この20年に亘り漸増の傾向にあります。
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 すると絶対値としては低い水準を保ってはいても傾向としては徐に肥満になっているのかと見えるかもしれませんが、比べ、中性脂肪はこの20年で著しく減っており、より健康且つよりセクシーになっているといえます。肌も二十年前よりもきめ細やか且つ艶やかになっています。a0313715_15251489.jpg
 1998年には156mg/dlであった中性脂肪が2000年には96mg/dlに、2016年には44mg/dlに減っている。尤も2016年の値は最低基準値の50mg/dlを下回りますが翌2017年には74mg/dlになっています。
 しかし一つ、聊か不可解な所があります。
 1998年に156で2000年に96、しかし、その間の1999年には最高基準値の149mg/dlを大きく上回る209mg/dlに激しく増えています。
 順当に見ればその1999年は156と96の間になる筈です。1年で53mg/dlも増えてそれからの1年で113mg/dlも減るとは、どう考えてもあり得ません。当時の私の生活習慣を振り返っても、よりよく運動をしていたのは1998年から1999年に掛けてであり、1999年から2000年に掛けては然程ではありません。1998年に既に最高基準値を上回っていてそこで危機を感じたのでよく運動をして食事もより健康的にしたにもかかわらず。
 殊に私の出身家が戦後的豊かさの指標を志向するような一汁三菜の食事を常としていたのを、私が独居をしてからは今はテレビ朝日の『おかずのクッキング』の土井善晴名人も奨める一汁一菜にし、出身家が軽視していた緑黄色野菜を主とするものにしていました――今もそうです。――。主食の米はコシヒカリを偏愛する白米絶対主義の出身家の在り方を廃してあきたこまちと玄米を織り交ぜるものとしています――今もそうです。――。また、減塩醤油でごまかしながら味の素を使うようなことを決してせず、塩や醤油をなるべく使わずに味の素などの化学調味料を一切も使わない料理を1998年から常としています。
 東京に暮らしていた学生の頃は六本木の札幌ドラム缶スープ天鳳や秋葉原の九州じゃんがらラーメンなどなど、拉麺に目がありませんでしたが関西には美味しい拉麺屋が少ないので拉麺も殆ど食べていません。尤も、拉麺はそれそのものは体に良い料理であり、元々興味がないならともかく、拉麺を控えることを奨めはしません。しばしば麺つゆは塩分が多くて体に悪いといって残す人がいますがそれは誤りであり、麺もののつゆは塩分の悪影響のないものなので全て飲むべきです。大切なのは通常の塩分の摂取の絶対量が少なめなことであり、時折に拉麺などを食べる時にはそこで足りていないかもしれない塩分をつゆを空けるなどして補うべきです。最近は塩分の不足を警告する見解も有力週刊誌などを通して出ています。

 ――何故、1999年の中性脂肪値が然程にも高く出ているのでしょうか?

 今、それから十年を経て権力を恣にした橋本徹氏がテレビに出て森友問題について語っていますが――因みに当時のその座は横山ノック氏。――、どうもそこには改竄があったのではないかと疑われます。
 当時はメタボリックシンドローム、略してメタボというのが初めて世の話題になった頃でした。肥満そのものはその前から警告の対象になっていたものですが、それがメタボリックと呼ばれて改めて池上彰も見逃さないような通俗的問題になっていました。
 それをマスコミベースだけではなく個々の健康診断などを通してよりベタに危機意識を持たせるためなどといって健康診断の結果の改竄がなされていたのではないかと考えられるのです。
 私が肥満の傾向を健康診断の結果に見て取り生活習慣の改善をし始めたのはその1年前の1998年です。なので翌1999年のかように極端な数値を見るまでもなく懸念をしていましたし、どんな理由や目的があろうとも改竄は許されるものではありません。
 その診断の主は兵庫県予防医学協会ですが、或いは、同協会がそれを思い立ったのではなくそれと関係のある者が改竄を思い立って指示したのかもしれません。
 無論、そのようなことについて公に告発をしても記録が残っていないので分からないといわれるしかありません。記録を巡る事実等だけではなく記録そのものが私の保存している紙の他にはないかもしれませんし、改竄の主は「その何が困るというのか、今は中性脂肪が減って健康でいるならよいではないか。」などと居直るかもしれません。しかし或る時の事実は現在の状況よりも重要なものです。現在の状況が良いことは何よりですがそれを過信すればいつでも失われかねないので、或る時の事実よりも重要なものではないのです。

 ――そのような居直りはいわゆる結果all rightというものですが、その結果all rightさえをも安倍政権は実現していません笑。
 仮に私の健康診断の結果が一切も改竄されてはいない正しいものであっても、この二十年がそのように記録の改竄や結果all rightを許容するような世の思潮と現実であったのは確かであり、政治行政のような抽象的事柄だけをではなく健康と生涯のような具体的事柄をも損なうものです。  

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by keitan020211 | 2018-03-27 15:30 | 文明論 | Comments(0)
乳首と監視社会
 近頃都にはやるもの――

 男子が乳首を見せること。

 街を往くと、この国の高齢者率に追いつかむとする勢いで、男子の乳首見せを目にする。
a0313715_18565388.jpg 昨日のテレビ朝日の『橋下×羽鳥の番組』はコメンテーター選手権の第2弾、選手となったコメンテーターは番組の主橋下徹元大阪府知事または元大阪市長と作家の室井佑月氏、ジャーナリストの堀潤氏、国際政治学者の三浦瑠麗氏、社会学者の古市憲寿氏と、乳首の美しそうな人が揃ってのもの。そこでの1分間解説のお題にもこの国の高齢化の問題を含む『平均寿命の増加は良いか悪いか?』があった。そこで「悪い」として解説をしたのは橋下氏唯一人である。
 時間の超過やそもそも結論を言わないなど、散々な評価であった室井氏は『乳首選手権』ならば優勝していたに違いない。
 男子の乳首についていえば、橋下は平均的に引き締まっている乳首、堀はかなり美しい黒めの乳首で古市はきれいなピンク色の乳首か?

a0313715_19023562.jpg しかし幾ら橋下や堀、古市のように美しくても、男が乳首を見せるのは不快でしかない。
 もう少し厳密にいうと、自らの体を粗末なギャグにしているようにしか見えない。
 それはちんぽに盆で最近に売れている芸人アキラ100%にも通じる。ユーモアではなく粗末なギャグである。
 そもそもヘレニズムの昔から、男性の体を晒して称揚することは文明の頽廃である。真白な男性の裸体像を芸術という人々がいるが、とんでもないことである。ヘレニズム思想は人間の精神を肉体とは別のものとして尊び、肉体を卑しいものとすることがその根源にある。裸体像による男性の肉体の称揚は『肉体を捨て去った末に、卑しめた末に宿る美しさ』という逆説紛いの屁理屈がそのモチーフであり、本質的には肉体を否定するものである。その辺りは日本に根深い婚外交際、所謂不倫の禁止にも歴史的につながる邪悪な思想である。
 近頃の日本の都を往く乳首見せ男もまた、乳首を通して人の肉体を卑しめるための歩くプロパガンダである。

 その直接の起因はシャツの下には何を着るか着ないかの考察であるらしい。
a0313715_19060859.jpg 昔はシャツの下にはタンクトップ型で生地が綿の白い下着、所謂ランニングシャツを着るものとされていた。
 しかし趣向が多様化してランニングシャツが聊か旧いものとされるようになり、1980年代からはTシャツをシャツの下に着る人が多くなった。
 しかしTシャツは半袖である故にその袖が長袖のシャツの袖に映るとぼてっとした感じになる。また、白いTシャツなら問題はないが、色物や柄物はシャツの銅に丸映りするのでビジネスやフォーマルには相応しくないとの批判が多い。
 すると2000年代から、シャツの下には何も着ないのが良いとする男子が増え出した。それが2010年代の今は多数派を窺う勢いで増えている。
 そもそも、ランニングシャツを旧いと言い出したのが問題の始まりである。同じく1980年代から多数派となったトランクスとの色柄の兼ね合いが悪いなど、その需要の地盤沈下は著しい。見た目も使い心地もタンクトップと同じで何も悪いものではなかろうと思うが、男子の同調志向、そうしないともてないんじゃないか症候群、立身出世が叶わないのではないか妄想は凄まじいようである。
 そのような志向、症候群と妄想の末に、自らの肉体を粗末なギャグに仕立て上げるべく乳首見せに至る。

a0313715_19091067.jpg そのような積りはない人も、肥満傾向――然程に著しいデブではなくても――の故に、シャツの下にはTシャツを着てもTシャツやポロシャツだけになるとどうしても乳首が浮き出る人が多い。殊に昨今は小さ目の服がはやっているのでそれらも体の線が出てしまう訳である。2065年には平均寿命が男子も85歳に達するであろうといわれるが、今の現役世代のそのような姿を見るや平均寿命は今が「頂点」笑、或いは、女子との寿命の格差が拡がるばかりなのではないかと思えて来る。夫なんか早く死んでほしいと思う妻は少なくないというので彼女等はそうなって全然OKと思うかもしれないが、少なくとも自分の夫や子は別と思うべきである。

 前にテレビ番組にマッチョ男がキャミソールを着たらどうかというのがあり、なかなか似合うと思う。
a0313715_19131314.jpg 今「男 キャミソール」でネットの検索をしたら、変なフリル付のいかにも婦人向けというかロリコン趣味という感じのしか画像がない。そのようなのではなく、GUのキャミソールのようなプレーンな趣のものならば特に紳士用の製品を作る必要もなく、ランニングシャツの代用ともなるのではないか。
 夏はどんなに脱いでも暑さは違わず、下着を着ることは寧ろ自他共に涼やかな心持になるために必須の嗜みである。やはりタックなしののスリムパンツやシャツの第一釦を嵌めて着ることなんかもそうであるが、今時の男子のはやりは全く間違っている。

 偶に耳にする話は男にも乳首があるのは何故かということ――

a0313715_19151509.jpg 科学においても謎とされ、諸説がある。その最も支持されている説は「形だけが残った」というもの。元は無性生物であった人が雄と雌に分化した際に、男の乳首は授乳などの用をなさないが女と同じ人としてそこに何もないと変なので形だけがあるのではないかという。いわばダミーである。
 弊ブログはその説を採らない。人の体には意味なく具わるものはないからである。
 もう少し説得力がある説は人の体はまず外見から形作られるために乳首も雄雌の違いなくできるというもの。そこに機能が付加されることにより一部の形にも違いが出て来る訳である。
 その説は何事もまずは体裁が大切であるという弊ブログの思想とも合うが、それもまた男の乳首は機能のないダミーであるという点は前の説と違わない。但し物事の順序の違いは大きい。

 そこで弊ブログによる新説。これはかなり信憑性が高い。

 乳首及び乳房の機能はそもそも雄雌を問わず、「心の眼」であること。
 眼なので眼と同じように左右一対が備わる。他には耳や鼻の孔、頬、手足や腎臓、睾丸がある。或る意味では耳も眼、鼻も眼、頬も眼、手足、腎臓や睾丸も眼である。腎臓が二つあるのは恐らく液体は流れて移動し易く、その際に少しでも重心を逸れると体の平衡を失う虞があり、尿の移動をなるべく防ぎ平衡を保ち易いように左右一対になっていると思う。それが一つであると先ずは腎臓の位置そのものが重心をずれると平衡しない。平衡を保つことは天秤が妥当性の象徴であることなんかにも分かるように、心の眼の働きである。

a0313715_19165941.jpg 乳首は目線を下ろすとそこに直ぐに見える位置にある。眼を眼で見ることはできず、耳や鼻の孔は陰になって見えない。
 前の記事に女の乳房が大きくなるのは思春期に入ると自らの先行きに不安を覚えるようになり、その不安感を目に見える形で埋めるために丸くて重みのある乳房が体の前方にできると語った。男は若し先行きの不安を覚えてもおしなべて不安を吹き飛ばせと教えられるので不安を埋めるべくするようなことは体の変化にも余り生じないのである。また女でも、美食などの贅沢は不安をかりそめにも吹き飛ばすので美食家や浪費家の女子は胸が大きくなりにくい。胸が大きくなるためには粗食が肝要である――一々説明するのも面倒くさいが、粗食とは必ずしも少食のことではなく、況してや貧食のことではない。――。
 不安とは「見えないこと」であり、不安を解くためにはよりよく見えるようになる必要がある。そのための心の眼が乳房であり乳首であるので、大きさの違いはあれども男にも同じく具わる必要がある訳である。

 もう一つの乳首の重要な働きは触媒作用である。
a0313715_19194116.jpg 触媒とはそれそのものが直接の作用を生ずるのではなく他の要素の作用を媒介して助けるもの。
 乳首が触媒するのはそれとシームレスにつながる皮膚である。
 皮膚は主に皮脂腺と汗腺による分泌をする。それが女は乳腺による分泌をする乳首とつながる。
 乳腺による分泌のあるなしを問わず、乳首は皮膚の分泌や温度の維持を助ける。
 乳首は人自らの気づかない程に微細繊細に外気の変化をアンテナとして計測している。その点は髭と似る。殊に私などのような猫の髭はとても外気や周囲の状況を鋭く計測または察知する。アンテナなので出張っている。
 そこで乳首が得た情報が皮膚に伝わり、皮膚の分泌を促したり抑えたりする。
 アンテナとしてだけではなく、そもそも物は単体では作用せず、他の物との反応や複合によってしか作用しない。革だけがあっても手触りと匂いしかなく、そこに金具を着けたりする必要があるのと同じく皮膚もまた皮膚だけではその働きをなさず、それが作用するためには乳首や臍、爪などの他の物の触媒が必要となる。

 男などの他者が乳首を触るとアンテナのチューニングが変わったり触った人の手及び体を自分の体の一部と無意識に誤認する危険があるので他者が乳首を不当に触ることは悪いことであり、アダルトビデオなどにしばしば見受けられる乳首を引っ張ったりの所謂乳首攻めや洗濯挟で挟むなどは論外の暴挙である。

 アンテナといって連想するのは監視社会――

a0313715_19222782.jpg 先の共謀罪法の立法においては権力が市民のSNSを監視したりする虞があるなどの批判が相次いでいる。ネットは光ファイバーケーブルを使うものでありアンテナを使うものではないが、ラジオやテレビの次に来るメディアとして同じく情報のアンテナという喩が似つかわしい。インターネットの前にも盗聴器などによる通信の傍受がアンテナとしてある。やる側もやられる側もアンテナである。更には商業においては今時はアンテナショップという業態もある。
 橋下徹氏も監視社会には絶対になる。そうなると云わない与党はおかしいと語るが、そんな監視社会にあってより重要になるのは肉体のアンテナ――肉体のアンテナが情報と精神のアンテナをもハイパフォーマンスにする。
 皮膚のアンテナである乳首は排気ガスの低減を実現しつつある自動車の排気触媒の次に来る触媒として俄然に重要なものとなろう。
 男の乳首が双眼のように次々と見えるにつけ、この国の人々は監視社会を欲しがっているかのように思えてならない。

 男子の乳首見せが問題となり始めたのは今の東京都知事である小池百合子氏が小泉政権においてクールビズを提唱して普及したことからであるという。先述のシャツの下には何も着ない人が増え出したのもその頃である。
 それから十余年、猶も問題であり続け、それでも世の懸念を嘲うかのように激増している乳首を見せる男子――
 その激増の一因はスマートフォンの普及によりパソコンによるインターネットの利用者が減少していることと考えられる。ネットの諸々のニュースサイトがそれを重ね重ね問題にして戒めても、自分で情報を制限して使うスマホをしか見ないおっさんやゆとり青年はそれらを目にすることがない。自主制限を設けずに自由に使う人は代金が気になって見れない。いつでもどこでも見られるスマートフォンには『男性の透け乳首についてどう思う?』というようなばつの悪い情報は馴染まないのである。故に与党ではないが、自分のしていることについての批判なんてあり得ないと思っている。日本は自由と民主主義という普遍的価値を重んずる国だ!――

 重ね重ね云うが、男が体を晒して見せるのは体の美しさを愉しむためではなく体を卑しいものとして捨て去るという意味合いを帯びることが現実には殆どである。幾ら男の体の美しさを語ってみても、その真意は「捨て去ることは美しい」ということである。同じく今はやりの『断捨離』なんかも同じことであり、女子にも同じような思想を持つ人は少なくない。そんなヘレニズム思想やその他の霊肉二元論の思想の世界への影響はとてつもなく大きくて根強い。乳首透けや半裸で街を往く――街ではなくてもそのような意味合いを以てする男は少なくない。――などは一言で言えば自殺の奨めである。歩きスマホより余程にたちの悪いことである。捨てたければさっさと捨ててほしい。
 例えば「一肌脱ぐ」はそのような思想からのものであり、極めて卑しい卑語であるといえる。
 故に共謀罪だけではなく国民の安心安全のために一肌脱がせましょうという安保法案も通る訳である。

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■NEWS of the WORLD


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    ●AFP(フランス パリ)
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    ●ル フィガロ(フランス パリ)
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    ●フランクフルター アルゲマイネ(ドイツ フランクフルト アム マイン)
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    ●共同通信(日本 東京)
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    ●朝日新聞(日本 大阪)
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    ●日本経済新聞(日本 東京)
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    ●ボストングローブ(アメリカ マサチューセッツ州ボストン)
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    ●タンパベイ タイムズ(アメリカ フロリダ州タンパ)
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    ●グローブ アンド メール(カナダ オンタリオ州トロント)
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    ●ロイター(イギリス 英国 ロンドン)  
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    ●ザ テレグラフ(イギリス 英国 ロンドン ウェストミンスター)
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    ●ジ インディペンデント(イギリス 英国 ロンドン)
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by keitan020211 | 2017-08-01 19:23 | 文明論 | Comments(0)
教育勅語を読む
敎育に關する勅語

朕惟ふに我が皇祖皇宗國を肇むること宏遠に徳を樹つること深厚なり 我が臣民克く忠に克く孝に億兆心を一にして世々厥の美を濟せるは此れ我が國體の精華にして敎育の淵源亦實に此に存す 爾臣民父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し朋友相信じ恭儉己れを持し博愛衆に及ぼし學を修め業を習ひ以て智能を啓發し徳器を成就し進て公益を廣め世務を開き常に國憲を重じ國法に遵ひ一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし 是の如きは獨り朕が忠良の臣民たるのみならず又以て爾祖先の遺風を顯彰するに足らむ
斯の道は實に我が皇祖皇宗の遺訓にして子孫臣民の倶ニ遵守すべき所之を古今に通じて謬らず 之を中外に施して悖らず 朕爾臣民と倶に拳々服膺して咸其徳を一にせむことを庶幾ふ

明治二十三年十月三十日
御名御璽

 何が悪いというのか、さっぱり分かりません。
 暗唱の価値はあると思います、私はすらすらと読むことができるだけですが。但し「厥」、「咸其」と「庶」は読めません。「よよけつのびをさゐせるは…」;「いそのとくをゐつにせむことをつれづれねがふ」?
 正解は:「よよそのびをさゐせるは」;「みなそのとくをゐつにせむことをこひねがふ」
 弥栄です。

 それを悪いと思う人は何ゆえにそのように惟うのでしょうか?

 それは教育論と政治論や社会論を結びつけて考える習慣がついてしまっているからです。
 専門の領域に留まらないということでは様々の分野を跨ぐ考え方は寧ろ求められるものでもありますが、教育勅語を悪いと思う人々は様々の分野を「科学的に」繋ぎ合わせれば一つの統合的、universalな『真実』に達することができると前提します。
 その前提に随うと、明治天皇が教育に関して勅令をしたその言は帝が君主である以上は教育のみに留まらず多くの分野領域の基本的思想を前提づけるものであろうと見定めることになります。教育勅語が政治の原理にもなりまたは社会問題の解決の原理にもなるというのです。
 尤も、その精神が政治や社会、経済に及ぶことが全くない訳ではありません。教育は生涯の早い日々における人格の陶冶になるものであり、その後の生涯に多少の影響を与えるものです。しかし前提としては教育勅語は教育における基本的価値、それを与える者と受ける者の思惟や実践の目安として在るものであり、それを基準として政治や社会、経済を動かそうとするものではないのです。
 政治や社会、経済は特定の代表者と不特定の多数の市民により組織的に営まれるものですが、教育はその前に、組織に加わる可能性のある個人に与えられるものです。教育勅語は諸々の個人が一つの目安とすべきものとしての人間性の根本を説くものであり、故に賛否にかかわらず尊重すべきものです。
 政治をどうする?、社会をどうする?、経済をどうする?――その前に、一人の個人として含みおくべきことを説くのが教育勅語です。それを一人の個人として実践するかどうかはともかく、そこに説かれることに関する視座がなければ政治、社会や経済の不調や破綻は寸分たりとも改善されません。実は現野党の政治家等も、それを分かってはいるのです。にもかかわらず彼等が教育勅語への理解を寸分たりとも示さないのは選挙の票をあてにするためのポジショントークです。そしてその票となる有権者国民は先の『科学的統合的思惟』から、現野党の政治家等のポジショントークに躍らされていることに気づきません。彼等政治家が教育勅語とは異次元の世界にいてその異次元の価値をあらゆる分野に亘り統合的に実現することを志す人達である筈と思い込むのです。
 凡そ職権を有する政治家の殆どは教育勅語の精神を弁えずに務まるようにはできていません。今は意ならずもそうではないのではなく、そのような政治の制度は永久に出来得ません。そのようなものが極めて例外的にあり得るとしても、ルイ16世のような趨勢を辿るでしょう。
 蓮舫も山尾も玉木も、志位も小沢も皆、教育勅語を尊重する人達です。

 重ねて云いますが、教育は教育です。
 教育における価値は他の領域における価値を直ちに決定づけるものではありません。
 而して教育の領域のみを見る際には、教育勅語がその標準の価値となることは明白に妥当であるといえます。
 天皇は政治的中立の立場なのでそれを令することのできる者は天皇の他にはあり得ません。
 一々云うのも面倒臭いですが、教育勅語は政治的意図の全くないものです。
 そのまんま再採択してもよい程です。

 故に、今はやりの森友学園が教育勅語をその児童に暗唱させることを非難している人々は政治的中立性を否定し且つ教育そのものを、延いては人が人として生きることを否定するならず者の外の何者でもありません。

045.gif『科学的に統合的に考える』のを今直ぐにやめよう。/Let you stop 'conceiving scientifically and universally' right now.

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by keitan020211 | 2017-02-26 18:01 | 文明論 | Comments(0)
ブログ The Logry Freesia 2017 入学試験問題 国語
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国語

1. 次の文を読み、問いに答えよ。

 ①指弾とは誰かを非難することである。この人の場合は、指先を動かしてつくった短文が弾になって飛んでくるようだ。米大統領への就任式を控えるトランプ氏が②ツイッター攻撃を続けている▼選挙で対立候補を支えた人たちをこきおろし、メキシコに工場をつくる自動車会社を非難する。早朝の書き込みが多いと聞くと、寝ても覚めてもスマホから離れない姿を想像してしまう▼Aスマホは操作しなくても、そばにあるだけで注意が散漫になる。そんな実験結果を北海道大学の河原純一郎特任准教授らが発表した。大学生40人を2組に分けてパソコンで作業をさせた際、片方は電源を切ったスマホを目の前に置き、片方は代わりにメモ帳を置いた。Bスマホ組のほうが1.2倍作業に時間がかかった▼「画面に触れなくても、視界に入るだけで意識がスマホに向かってしまうのでは」と河原氏は話す。たしかにポケットにあるだけで気になる存在である。人により影響の程度は違うだろうが、引き込む力は侮れない▼先頃亡くなった社会学者ジグムント バウマン氏は携帯電子機器を持つことで人は「孤独という機会」を捨てると書いた。孤独こそは考えを整理したり煮詰めたり反省したり想像したりする③よすがなのだと訴えた(『リキッド・モダニティを読みとく』)▼Cスマホから何日も離れ思索する。筆者もそんな時間に憧れるが、結局小さな機器に頼る日々である。振り回されぬよう、上手な距離の取り方を思索してみたい。
<朝日新聞『天声人語』2017年1月18日>

1 下線部①はこの一文においては如何なる意味合いを以て記されているか?以下の適当な見解を選べ。
①誰かを非難する「指弾」というものを一文で主題の一つとして語るために投げ掛けるものとして
②一文の主題となるもののイメージ、想像を喚起するものとして
③一文において言及される人物等の生き様の比較を徴すものの一つとして
④筆者に極めて独特の表現の様式であり、これという意味合いを見て取るべきものではない。

2 下線部②は助詞や動詞を省略することにより一つの語をなすものである。それと同じ意味用法の省略の含まれる語を以下より選べ。
①実効支配 ②共同声明 ③原告請求 ④武力紛争 ⑤任意引退

3 下線部③を指すものとして考えられる一文の中の他の語句を全て挙げよ。

4 下線部A、BとCの文法的或いは語法的に不適切な箇所をAとBは各々1か所、Cは2か所見つけて改めて記せ。尚、改めた箇所を記号などで示すことは要しない。

2. 次の文を読み、問いに答えよ。

 米国の場合が典型的だが、企業の真の主体はA投資家であり、①顔も感情も持たない無人格の主体だからである。ほとんどの投資家は企業の具体的なB振る舞いを見ることもなく株価だけに関心を抱いている。経営者も無人格な主体に奉仕し、出処進退も業績の数字でC機械的に左右される存在だから、公徳心など持っても無力なのである
 一方、国民国家は本質的に人間臭い集団であって、個別の顔は見えなくても言語を含む風俗習慣という仲間意識で結ばれている。習慣はその中から法と制度という紐帯を生み、それがさらに習慣を強化するという循環が起こって、国家の絆は自然環境にも似た安定を保ってきた。ちなみに道徳、公徳心という言葉はギリシャ語やラテン語では習慣と同義語だったのだが、その含蓄は世界中に残っている。公徳心は今も国家の習慣として生き続けているのである
 それを根拠に現代国家は国民に法と公序良俗の遵守を求め、代わりに安全や平等、最低生活の保障などの責任を負っている。何よりも国家は家族や村落の延長として、個人に帰属意識を与えてきた。②人間は生まれつき共同体の動物だから、この何かに属しているという感覚は重要だった
 国家がそれだけの機能を持つには長い時間がかかり、任意に国家を造るのが容易ではないのは明白だろう。遠藤乾氏の近著『欧州複合危機』を読むと、EUが通貨統合と国境撤廃まで果たしながら、欧州議会を強化してEUを真の一国にしようとすると、その度に失敗してきたことがわかる。国家が習慣の蓄積の産物である以上それが当然であり、欧州にはもっと辛抱が必要だということだろう。
 また現代には民主主義国家というものが生まれ、そこでは、原理的に国民が国家のD主人であって、国籍さえあればだれでも自分の国家のE運営に意思表示ができる。この民主国家を造るのに人類は長い時間をかけたのだが、それができたのも国家が習慣の蓄積であることの格好の証拠だろう。習慣とは一定の同一性を保ちながら、時間をかければ生き物のように柔軟に変わるものなのである。
 その意味で、現代国家は人類にとっていわば天与の宝なのであるが、昨今、その力が企業によって脅かされているのがF問題なのである。実は古くは企業も人間の共同体であり、人に帰属感を与え教育や福祉を助ける組織だった。職人気質で結ばれた人間臭い集団だったのだが、地球規模化とG技術革新によって激しく変質した。労働者自体もH顔の見えない生産手段と化し、それが彼らを怒らせている。
<産経新聞『正論』:山崎正和『市場の巨大化が蝕む国家の紐帯 不可欠なのは国際協調と連携だ』より抜粋 2017年1月17日>

1 下線部①を意味して或いは念頭に措いて語られる一文の中のものを全て挙げよ。

2 下線部②に意味合いを同じくするものとして、いわば意味における韻を踏むものとして対応する文中の構文を1つ挙げよ。

3 文中には部分的に起承転結をなす段落等がある。それらの4つの段落の初めの2語をそれぞれ記せ。

4 一文に用いられる「習慣」の語と、用いられない「慣習」の語の意味の一般的違いを説明せよ。

5 番号や符号のない下線部の語句を同じような意味の語句に言い換えよ。

6 下線部A~Hを適当な外来語に言い換えよ。

3. 次の俗語を一般に用いられる適当な言葉に言い換えよ。

①頭が真白になる。 ②あり得ない程に凄い。 ③これは最高においしいですね。 ④イケメンにガッカリするポイント ⑤胸の谷間を自然に強調できる服装 ⑥マンネリからラブラブになる方法 ⑦ぶっちゃけダサくね? ⑧最悪振替輸送で行ける。 ⑨私達は3.11から何を教訓とすべきなのでしょうか? ⑩良質な睡眠


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by keitan020211 | 2017-01-18 20:14 | 文明論 | Comments(0)
ブログ The Logry Freesia 2017 入学試験問題 社会
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 弊ブログ『The Logry Freesia 2017』に入学するための試験問題です。
 入学しなくても聴講生として弊ブログをお読みいただきまたはコメントなどを下さることはできます。
 合格して入学するとブログランキングやいいね!などの評価のボタンを優先的に押します。

 一つ目は 社会 の試験問題です。


社会

1. 次の各々の設問の4つの記述の内の正しいものを選べ。

1
① 衆議院の解散は衆議院議長の権限により行うことができる。
② 衆議院の解散は衆議院議員の総数の三分の二の賛成による決議により行うことができる。
③ 衆議院の解散は内閣の判断により決定して天皇がそれを宣する。
④ 衆議院は4年の議員の任期を定めており、解散はできない。

2
① 国政選挙は選出すべき議院の主催により行われる。
② 国政選挙は総務省の主催により行われる。
③ 国政選挙は地方公共団体の選挙管理委員会の主催により行われる。
④ 国政選挙は国民の合意により行われるものであり、特定の主催者はない。

3
① 中央銀行たる日本銀行は紙幣通貨の発行を担うために日本銀行法に拠り設置され及び財務省により統制される。
② 中央銀行たる日本銀行は紙幣通貨の発行を担うための機関であり、財務省の認可を要するが民間の法人である。
③ 中央銀行たる日本銀行は紙幣通貨の発行を担うために設けられた機関であるがその設置の数には法的制限がなく、財務省による認可があれば複数の中央銀行を任意に設置することができる。
④ 中央銀行たる日本銀行は財務省の認可により設置された機関であるがその成立そのものには法的根拠はなく、財務省による認可があればいつでもそれに代わる事業者が紙幣通貨の発行を新たに担うことができる。

4
① 公務員とは中央の省庁や地方公共団体の業務に現に従事する者をいう。
② 公務員とは中央の省庁や地方公共団体の業務に従事するための資格を有する者をいい、国の定める選考試験により選挙される。
③ 公務員とは国が法律により定める特定の公共の任務に従事する者をいう。
④ 公務員とは国の慣習及び慣行により定められる職務であり、法律はその身分、権利や心得などを定める。

5
① 国庫金とは財務省が管掌する政府及び公共団体等の財産をいい、その実際の管理は同省の専門の部門が執り行う。
② 国庫金とは財務省が管掌する政府及び公共団体等の財産をいい、その実際の管理は日本銀行の国庫局が執り行う。
③ 国庫金とは財務大臣が管掌する政府及び公共団体等の財産をいい、その実際の管理は財務省の専門の部門が執り行う。
④ 国庫金とは漠然と「国の財産」を意味する概念であり、その法的根拠はなく実際に指すものも曖昧であるが国民はその概念を尊重することが望まれる。


2. 次の各々の設問に挙げる地名を経度の低い順に並べ替えよ。市町村名などの広域を示す地名は、その一般の地図の上の中心部の経度を基準とする。
1
①兵庫県高砂市 ②兵庫県姫路市大塩町 ③兵庫県姫路市飾磨区 ④兵庫県加古川市 ⑤兵庫県西脇市
2
①高知県南国市 ②高知市春野町 ③高知市桂浜 ④高知県四万十市 ⑤高知県宿毛市
3
①京都市 仙洞御所 ②京都市 本能寺跡(公称) ③京都市 二条城 ④京都市 糺の森 ⑤京都市 五山送り火 鳥居型
4
①大阪市 大阪ビジネスパーク、OBP ②大阪市 咲洲 ③大阪市 あべのハルカス ④大阪市 四天王寺 ⑤大阪市 茶臼山古墳
5
①富山県魚津市 ②富山県高岡市 ③富山市 ④富山県滑川市 ⑤富山県黒部市
6
①静岡県 御前崎 ②静岡県 日本平 ③静岡県裾野市 ④静岡県 浜名湖 ⑤新潟県 糸魚川市
7
①神奈川県二宮町 ②神奈川県大磯町 ③神奈川県茅ヶ崎市 ④神奈川県藤沢市 ⑤神奈川県平塚市
8
①横浜市 狩場インターチェンジ ②横浜市 八景島 ③横浜市 東海道神奈川宿跡 ④横浜市 本牧埠頭 ⑤横浜市 新横浜駅
9
①皇居 桜田門 ②皇居 和田倉門 ③皇居 半蔵門 ④皇居 馬場先門 ⑤皇居 平川門
10
①東京 有明 ②東京 辰巳 ③東京 汐留 ④東京 台場 ⑤東京 新木場

3. 次の文を読み、以下の問いに答えよ。

 1944年から1945年に亘り、日本政府は第二次世界大戦を巡る中国やソビエト連邦との和平交渉を模索、陸軍大臣や外務大臣などの高官をそれらに派遣した。
 しかし、1945年2月にソビエト連邦のクリミア半島のヤルタにて行われたアメリカ、イギリスとソビエト連邦による首脳会談においてソビエト連邦は日本に対する宣戦に合意したために日本による和平の交渉を受ける積りはなく、①7月にドイツのポツダムにて行われたポツダム会談においては昭和天皇の特別使節となった近衛文麿元内閣総理大臣がそこに携えていたソビエト連邦への和平の斡旋の依頼を放置して日本の無条件降伏を勧奨するポツダム宣言に同意した。
 8月に連合国軍による占領が始まり、9月には降伏を認める文書の調印が②横須賀沖のアメリカ軍の艦上にて執り行われた。
 ポツダム宣言の同意から降伏までの間に、ソビエト連邦軍は南樺太、択捉島、国後島と色丹島に侵攻してそれらを占領した。また、当国の赤軍が歯舞群島に侵攻して占領した。
 1946年から1948年に亘り敗戦の日本の戦争犯罪などを裁く極東軍事裁判が東京にて開かれた。

1  「昭和天皇は戦争の継続を望んではおられなかった。」としばしばいわれる。若しそれが本当であるとすればその意味することとは何かを上の一文を手掛かりになるべく簡明に論ぜよ。下線部①につき、それがポツダムにて行われた理由として考えられることを一つ述べよ。
2 下線部②の軍艦の名と同じ名のアメリカの州を流れる大河の名;1904年に万国博覧会が開かれた同州の最大の都市の名;同州の出身で19世紀の後半に名を成した作家の名とその代表作の一つの名を答えよ。
3 上の一文からはソビエト連邦軍及び赤軍によるそれらの地域の侵攻と占領は合法であった可能性もあると解することが可能である。しかし1953年に連合国との間に締結された日本国との平和条約においてはそれらを合法と断定せず、それらの地域をソビエト連邦の領土とは認めずに無主の地とする見解が有力となっている。そのようないわば曖昧な解決が図られた理由として考えられることは何かをなるべく簡明に論ぜよ。
4 問4のそれらの地域につき、最近に外交交渉の題材とした日本の内閣総理大臣とソビエト連邦の後継国ロシアの大統領の名、及び彼等の会談が行われた都市の名を答えよ。
5 極東軍事裁判が正当なものであるとすればその理由は何か? 若しくは正当ではないとすればその理由は何か? 何れかの論旨を選びなるべく簡明に論ぜよ。

4. 次の各々の文により説明されるものの名を答えよ。

1 鉄鉱石などの鉱物資源の最大の輸入先国であり、新しい自由貿易協定、FTAである環太平洋提携協定、TPPの加盟候補の国の一つである。
2 アメリカのドナルド トランプ大統領がその就任の前の記者会見において質疑を許さずに警告をした記者の属するテレビ局であり、ケーブルテレビで全国を網羅する。
3 ビートルズの4人の出身地を擁するイギリスの州であり、その活躍した1960年代のロック音楽の様式の一つの名はそこを流れる川の流域を意味するその州の名に因む。
4 フランスのロマン主義の先駆けとなった作家フランソワ ルネ ド シャトーブリアンの出身地方であり、その名はイギリスの英語名Britainと同じ意味である。
5 ミッテラン社会党政権に続くフランスの保守政権の大統領であり、1995年に南太平洋のムルロア環礁における核実験を行った。
6 自由経済と民選政治の香港と一部統制経済と共産党による独裁の中国が一つの中華人民共和国をなすことを表す言葉、1997年の香港の中国への返還と共に用いられた。
7 独立国たることを主張する台湾とその独立を認めずに台湾を自国の一部とする中国の実際の外交関係を指して用いられる言葉、両国を隔てる台湾海峡に因む。
8 日本の外に、その一部の地域において日本語が公用語とされる太平洋の島国
9 北朝鮮の平壌市内の或る丘の名であり、当地の楽団の名や朝鮮人の創業による日本の食品メーカーの商号及び商標名となるなど、朝鮮においては広く親しまれる。漢字では牡丹の峰と記す。

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by keitan020211 | 2017-01-18 20:04 | 文明論 | Comments(0)
金を追い求めるアメリカと地位を追い求める日本
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 弊ブログのお気に入りブログ『Roaming people』の第二ブログである『脱ガラパゴス~海外ニュースななめ読み』という池上彰氏の朝日新聞の連載『池上彰の新聞ななめ読み』のあてつけと思しく故に弊ブログが支持するブログにこんな指摘がある。
 曰く:アメリカ人は仮令ジョセフ ナイなどのような日本操縦団のような下司な奴等も能く分からない肩書をつけて仕事をしたことはない、即ち何のためなのか分からないような働きをすることがない。しかし、日本人は政治家にその類を見るように地位に恋々とする。

 ――それは金を追い求めるアメリカと地位を追い求める日本の違いである。改正するべしと思いはしないが、日本の憲法の前文にも「名誉ある地位を占めたいと思ふ。」とある。日本人は地位が大好きなのであり、金は二の次、愛となると更に五の次なので、金を追い求めて悪いことになる人についての批判と非難は必ず凄まじくも起こるが地位を追い求めて悪いことになる人についてのそれらは至って低調なのが常であってしばしば擁護の論さえ強まる。また、金を追い求めることを隠さないアメリカ人とアメリカ社会を軽蔑するような論がしばしば見受けられる。
 それには幾らかの合理的理由もありはする。日本社会における金、即ち生活の原資は地位と別ち難く結びつくものであり、地位がなければ金はないのが凡その常である。高い地位についてはその原理が分かり易いが低い地位についても同じであり、労働者における被雇用者の地位を失えば金がない訳であり話にならない。逆に地位があればそれなりの金は自ずとついて来る。
 アメリカにも被雇用者というものはおり、基本構造が日本とは全く異なるのではないが、被雇用者においてもその第一義の関心は賃金、即ち金である。先ずはそれがあって初めて被雇用者の地位が与えられる。日本は多くの場合はその話の順序が逆である。アメリカ的在り方に理解のある者も、金が先で地位が後ではなく金と地位を同時に求めて確かめるのが多い。私も同時派である。

 『一に地位、二三がなくて四に金、愛は五の次』の日本的在り方は偶に「名誉を貴ぶ武家社会の美徳の伝統」などと美化して正当化する向きがあるがその合理性を幾らかは認めるとしても、武家社会の美徳の伝統であるというのは嘘である。武家が名誉を重んずるのは本当であったとしても大方の日本人は武家社会との関わりはなく、その伝統を受け継いでいる筈はないからである。『日本人は武士の心』というのは正に熊沢天皇と同じ論理であるし、そうであったなら地位に恋々として悪いことになる政治家などが跡を絶たない筈もない。
 例えば農民が先祖であるならば、『一に土地、二に土地、三四に種で五に雨』となる筈である。事実、バブル時代にはそれを地でゆく人々が多く活躍しており、その正直さから私はバブルを一概に否定しはしない。しかし彼等においても金の優先度が低いことは聊か理解し難いものがある。彼等が当時に求めていたものは金ではなく土地を転がす先の読めない賭けの愉しみなのである。農家が天候を読むことも難しい。
 それを念頭におくと、トランプ新大統領についての日本人の評価が彼の当選の直前の頃から急に高まっているのも能く分かることである。トランプ政権により予想される『先の読めない時代』を、農民の出の多い日本人は魅力に感じて期待せずにはおられないのである、本当に先が読めなくなるかはともかく。何しろ、トランプ氏自らが土地を扱う業者であった。日本人の彼への潜在的期待感や最低限以上の信用は広くある訳である。

 逆にトランプ新大統領とその政権を歓迎しない向きは、金が第一のトランプ氏と金が第一のアメリカの中間層の金の規模の差についての嫉妬でしかない。嫉妬には様々な正当化の大義がつけられる。
 また、トランプ氏は大統領になるに際しては金が第一の思想とは違うものを求めようとしておりさえする。それもまた日本人の受けが宜しい理由の一つであり、反トランプのアメリカ人にとっては肩透かしを受けるような気になるものである。

 金が第一のアメリカ、基本的にはその思想と在り方は正しい。地位が幾らあちらこちらに用意されていてもそれが生きるための金が充分になければ有名無実であり武士の高楊枝の世界となる。
 その金が第一の思想の源流はそれがなかなか地位が第一の日本人が認めたくないことであるかもしれないが、英国やヨーロッパの上流階級にある。トランプ氏の白人優先のマニフェストは白人以外を差別するためのものではなくその源流を再確認する意義があると考えられる。
 「それはノブレス オブリージュである。」などという方々は歴史と伝統を何も分かってはいない。所謂ノブレス オブリージュとは近代に権力を握りつつあった中産階級が上流階級を制するために考え出して強要した論理に過ぎず、上流社会にはそのようなものはない。
 上流階級とは何か、それが肝である。
 上流階級とは地位が保証されることはなくて凡そ生活の全てを自力で賄うべき立場の人々をいうものである。その分かり易い例は武力闘争であるが、上流階級の全てが武家ではなく、大地主などの文民的上流階級もいる。現在のイギリスにある一代貴族の制度はその象徴的意味のあるものであり、時代が少しかわっているので貴方一代の地位は幾らか保証されるかのような名誉を与えるが二代目以降の地位は全く保証されないと暗にいうのが一代貴族に叙することである。それが貴族というものの本質な訳である。
 更に言えば、貴族と常々呼ばれる人々とその社会も前近代には存在せず、存在したのは侯爵とかジェントリーとかという固有の身分とその名だけである。それらが総称で貴族と称されることはなかった。その意味では、貴族制度を否定する近現代の日本なども貴族社会の伝統といわれる前近代のヨーロッパも現実は同じである。

 彼等上流階級がその生活の全てを自力で賄うために必要なのは金である。なので上流階級は保守党系であれ自由党系であれ金が自らに流れて来て得られるような仕組みを作ることに常々心を砕く訳である。その一つが保守党系においては土地であり、自由党系においては領邦の税金のようなものである。但し近代的自治体とは違いいつ潰されるか分からない――その点は近代的自治体は地位の保証される中流階級と同質である。――ので集める税の正当性や使い途にはとても厳しくあった。それは日本の武家社会も凡そ同じであり、稀に悪代官といわれる者もいた。その伝統から、近代国家の最重要の行政府は財務部門の府、日本は大蔵省及び財務省であるという通念も生まれた。
 日本においてはそのような上流社会的伝統を持っているのは政治の世界においては田中角栄総理や竹下登総理、金丸信氏、小沢一郎氏、鳩山由紀夫総理などを輩出した自民党の経世会だけであり、幾つかのその後継派閥は皆そのような上流の伝統を失っている。

 アメリカはそのような上流社会の伝統を幾らかは俗流化された形においてであれ、大部分において受け継いでいる。故にアメリカ人は金が第一なのである。
 上流階級に対しては批判をしてはならないなどというのは卑俗であるが、逆に批判し過ぎるのも同じく卑俗であり、アメリカの拝金主義を批判する日本人はその点からしても卑俗である。
 現代の日本は憲法が貴族制度を認めないと定めることを拡大解釈して上流社会的伝統を悉く否定してしまっている。単なる上辺に過ぎない上流的趣味を愛好したり称賛したりすることはあっても上流社会とその思想の本質に敬意を持つことがない。故に日本の論者等のアメリカに対する見方や批判が近年の「金融資本主義の専横」や「1%の富裕層が富を占める格差社会」、そして定番の「アメリカ映画の偽善」や「未だに銃を持ちたがる暴力的社会」みたいな、逆に卑俗で愚にもつかないものとしかならないのである。そもそもアメリカ人の祖先の英国人やヨーロッパ人がそのような卑俗な反米思想ではない。上流社会の本質とは自力本位であり、自力のない処には他力もない。所謂公助や共助というものは自力ではどうにもならないことを見究めることから成り立つものであり、そのためには自力がなければ何も見えては来ない。
 尤も、自力が如何程のものであるかを一々試す必要などはなく、どうにもならない場合とは何かを経験のない処で見出すことは良識により可能である。その点は、1990年代から2000年代、及び現在に掛けての所謂新自由主義とグローバリズムには『人々の自力が如何程かを試す』かのような人体実験的意図があって自力本位とはいえども必ずしも認められるものではないが、上流社会の思想が従来は中流社会の論理しかなかったような中流社会にも導入され始めて中流的価値観が相対化された意義はある。『地位こそはすべて/All you need is a position』の一億総中流の時代には絶対に戻らないであろう。

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by keitan020211 | 2016-11-23 02:20 | 文明論 | Comments(0)



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