カテゴリ:文明論( 94 )
2020年代は「住」の時代――1年早く考え始めてみる 私と皆の住まいのこと
 昨年の10月から11月に掛け、2020~2030年代が「住」の時代になるということを語っています。 1860~'70年代:「衣」の時代
  西洋装の導入
  スーツ(セビロ);西洋式軍衣;散髪脱刀令 ※主に男子
 1880~'90年代:「食」の時代
  西洋料理の導入
  西洋料理店の増加;カレー;とんかつ(豚カツレツ)
 1900~'20年代:「住」の時代
  近代建築による住宅の導入
  文化住宅;和洋折衷様式
 1920~'30年代:「衣」の時代
  世界的'belle époque'と呼ばれる民主主義の揺籃期
  女子の西洋装の普及;百貨店におけるファッションショー
 1940~'50年代:「食」の時代
  大戦による食糧の欠乏とその解決
  じゃが芋鍋;水団;蝗(いなご)や鼠などの調理;脱脂粉乳
 1960~'70年代:「住」の時代
  高層建築による住宅の普及
  高層アパート;団地;マンション;住宅ローン
 1980~'90年代:「衣」の時代
  世界的好況の下での民主主義の成熟
  デザイナーズブランド;アイビールック;渋カジ;ユニクロ
 2000~'10年代:「食」の時代
  後進国の経済発展と先進国の飽食及び健康
  名店の味を模する即席麺;デパ地下;食レポ;糖質制限

 江戸幕末と明治維新の1860年からの日本はきれいに20年毎に「衣」、「食」と「住」の時代を繰り返しています。
 当時の時代が大きく動いてもまだ国民の住む家を直ぐに換える訳にもゆかないので、その時代の動きと共に先ずは変わったのは「衣」でした。衣料は食料のように腐らないし住居のように造るための大きな手間が掛からないので比較的に手っ取り早く変えることができます。
 「衣」はしばしば自己存在とその同一性の拠り処となりますが、それは「食」も「住」も同じであり、殊にカール マルクスは史的唯物論において「住」により既定される自己存在と同一性を問います。住居などという物質が人のあり様を形成するというものです。
 明治以後の日本において初めて「住」が国民的関心となったのは明治の末期から大正、昭和初期に掛けて。明治時代に目まぐるしい変化を遂げた「衣」や「食」に続き、その時代には竟に「住」が西洋発の術理を用いる近代建築の産業化により変わり始めました。

 語弊はあるかと思いますが、1980~1990年代の「衣」の時代から2000~2010年代の「食」の時代、そしてこれから迎える二十年の「住」の時代は明治維新に代わる昭和維新の時代であるといえます。
a0313715_20333860.jpg その間に31年間の平成の時代がありますが、歴史の大きな流れで見ると'80年代以来まだ昭和の延長です。平成初期にソビエト連邦などの共産圏の崩壊がありましたがそれは'80年代からの既定の流れであり、その崩壊の実現と共に何かが始まったのではありません。平成はいわば少し長い大正のようなもので、事実に、平成の後期は大正時代の流行の再来のようなタックのない紳士のスラックスがはやりました。資本主義が強化されて持株会社制などの業務のあり方が出来たことにおいても大正時代と平成時代は相通じます。
 今の日本はまだ昭和の世であります。昭和生まれのDNAの保存の願望ではなく、現実がそうです。平成時代は日本と世界の基本のあり方を何も変えてはいません。
 1970年代までの日本は明治維新の後始末の時代、その後始末に一区切りがついた'80年代からそれまでのあり方を変えようとする昭和維新が始まり、それがまだ終わってはいません。
 因みに「昭和維新」は大日本愛国党の創立者赤尾敏氏が昭和末期に提唱したものでもあります。

 前回の「住」の時代、'60~'70年代は主に高層建築の発達による賃貸住宅の普及と住宅の自己所有のための住宅ローンの普及の時代。
 次の「住」の時代となる'20~'30年代はその見直しを要する時代です。

 高層住宅も住宅ローンもなくなることはありませんが、不動産価格や賃貸/賃借料の相場がこの国の賃金や社会保障の水準に見合うのか、或いは、住宅ローンの審査のあり方は人生百年時代といわれ労働市場の流動性の増すこれからの時代に見合うのか、そのようなことが先ずは問われるべくあります。
 そして住宅の品質の問題。この国の住宅は本当に居住者の安全や利便を保証するものなのか、若し保証することが叶わないなら居住者は何を心得て自己防衛に努めればよいのか、そのようなことが問われるべくあります。
 それらを改善しまたは解決するには政治経済のあり方も見直されなくてはなりません。市場の構造を改善するには民間の企業努力は勿論不可欠ですがそれだけで全てが成る訳ではなく、政治や経済界の働き掛けが必要です。「企業は人なり」といわれますが、民間の企業努力や政治経済界の公的働きを実現するためにはそれに意欲と責任を持つ人間の育成、即ち教育が必要です。
 ギリシアやローマなど、古代の遺跡の多くは建物です。ギリシア人やローマ人がどんな服を着てどんなものを食べていたかはあまり知られてはいません。建物、「住」は人間の文明の根幹をなすものであることがその事実から分かります。

 また、どんな住居に住むか、住めるようになるかだけではなくどんな所に住むかも重要な事柄です。
a0313715_20352028.jpg 毎年に住みたい町の番付が発表されますが、'00年代から'10年代に亘り高い人気を保っていた武蔵野市の吉祥寺(東京と15km)の順位が少し下がり、代わって横浜市西区(東京と25km)が首位となるなど、関東地方においては人気の地域が東京と更に遠い所になる傾向があります。近畿地方においては昔から京都や神戸などの大阪と遠い所の人気が高く、関東もまた近畿と同じく巨大都市を避ける傾向になってきています。'00年代は六本木ヒルズなどの東京市街の住宅のブームがありましたが'10年代の後半からはそれが変わって来ています。そして既にそれらの中間の世田谷区や練馬区、江戸川区などの東京市街と10km程の地域の人気と影響力は衰退しており、2020年以後は粗何の付加価値もない地域になってゆくでしょう。しかしそうなる故にそれら10km圏の安全や衛生、治安が劣悪になってゆくことがあってはなりません。
 首都圏とそう遠くはない静岡や高崎などの比較的に大きな都市がこれからより重要な役を持つことも望まれます。私は日本の首都を静岡とするべしと思います。行政機構の全てを移転することは難しいですが国会と総理官邸だけでも静岡に移るとマスコミのあり方も変わって来るでしょう。
 全国の津々浦々を満遍なく活性化させて発展させることは無理です。それをしてみても格差はどうしても出ます。故に重要となるのは良い土地の選択であり、それを通して醸し出されるブランド価値、即ち安全、利便と充実です。良い土地の良い場所がそれぞれに価値を発信して伝え続けることがいわゆる東京的価値ではないこの国の価値の真の多様化をもたらします。

 着る物や食べる物についての話は愉しいですが、住む所についての話は何かと堅くて面倒なことが多いものです。
 しかしそのような堅くて面倒な主題をこれからの二十年に考えてゆかなければ着る物や食べる物の確保も覚束なくなります。
 今年2019年はその新しい二十年に先立つ、時代の転換の準備の年となることが望まれます。

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by keitan020211 | 2019-01-03 20:35 | 文明論 | Comments(0)
【2019年/平成31年 年頭の論説】日本なりの主体思想を それぞれに
 世界の政治経済界の指導者達の集うダボス会議の主催による世界経済フォーラムが去る12月18日に発表した性格差の報告書に拠ると、日本は149か国の内の110位となり、G7では最下位となる。当報告書は経済、教育、健康と政治の分野における格差の指数を順位づけるもの。
 世界番付が出る度に、実にその通りであり日本は反省しなくてはならないとの声と番付には意味がなく日本は惑わされてはならないとの声が同じ位の塊の大きさで出る。その性格差の番付についてもまた早速や両方の声が出て来ている。
 その度に思うのは何れの声も多くは日本をどうしたいのかの考えと想いが見えないことである。前者なら性格差のない日本とは如何なるものをいうのか、また、後者なら世界を畏るに足らない日本の良さとは何なのか。何も分からないのである。そして何れにしても日本人が如何なる生き方をするべきなのか、目的に適う心得があるのかどうかも分からない。

 自分の国のことは自分と自分達が作らなくてはならない。勿論世界のあり方や動きを参考にしたり或る場合にはそれらと同じようにしなくてはならないこともあるが、それを含めても自らの場と道を選び取ることは自らしかない。
 「その通り、要反省」の方々は、詰まる処は誰かが現状を変えてくれて自らはその利得に与るだけでよいという本音が見え隠れするし、「無意味、惑うなかれ」の方々は、何を変えることもなく他者が何かを変えようとすれば自分がそれにより何の損をすることがなくても妨げて阻むようである。

 そのようになってしまう原因の内の二つにここでは注目する。
 一つは日本の政策のインセンティブ的性質であり、二つは物事を外国や他者との対比においてしか考えられない思惟の体系、俗に言う「頭」である。

 インセンティブ、incentiveとは誘因、動因、即ち物事を行う動機づけのための刺激ということである。今時にしばしば遣われるのは企業の業務におけるインセンティブであり、報奨金や従業員持株などがそれにあたる。消費に関しては、ポイントカードの還元など。馬の鼻面に人参を提げて走らせるといえば皮肉に過ぎようか、それらのインセンティブが成員の意欲を刺激して全体の成果を高めるというものである。SNSにおける「いいね♡」もまた金品の利益はないが継続を促し得るインセンティブといえる。
a0313715_22485950.jpg 私は日本の従来の政治をポイントカード民主主義と呼ぶ。選挙で投票するとポイントが貯まり、時々政策と引き換えてくれるというものである。そのポイントが多くて引き換えられる政策が多いと偶に選挙に来ない人がそれを貰えることもある。大抵はそう沢山のポイントが貯まる訳ではないのでそうなる時とはとても金持ちな人のポイントカードの賜である。
 そう見ると、再分配の政策としてしばしばいわれる高所得者への重課税は逆に金持ちが引換品を全て自分の懐に収めてしまうことになり、またそれでいて選挙の投票率は増さないことになると分かる。それを主張する方々は高所得者への重課税を求めながら一方では選挙に行かないことはあらゆる権利の放棄になると云い、大きな矛盾である。
 また、政策がインセンティブであるとは、政策の行い手である与党を密に支持する人が少ないということでもある。必ずしも党員や準党員にならなくてもよいが、自分の支持する党が政権を取ることのないまたは稀な自民党以外の支持者は言わずもがな、与党になることの多い自民党の支持層さえ自民党を自分や自分達の権利や利益を代表してくれる存在であると強く思う人はあまりいない。そうなると、与党による政策の多くは多くの日本人にとり生活の必需品ではなくインセンティブとして貰うものに過ぎなくなる。自分や自分達の生活の必要に根本的に適うと思われる政策は少なく、時々やる気スイッチを押してくれるだけのものなのである。
 その原因は日本の政治に政権交代がないことに尽きる。では何故それがないのかといえば、それぞれが政党政治に求めることが党派の左右を問わず、必需品の確実な調達ではなく御褒美をくれることであるから。
 産業経済が未発展で国民が生きる糧を得るにも政治の力が不可欠であった時代の日本には政権交代があり―:戦前―またはその可能性がまだあった―:戦後―。高度成長を経て日本が経済大国になると政治の力を必ずしも要しなくなって投票率が低まりそして自民党の一党支配が出来た。日本の程には露骨ではないが、諸外国も経済が好調な時代には政権交代が起こらず、例えばイギリスは'80年代以来の好景気でサッチャー政権の次は同じ保守党のメージャー政権に禅譲されたし、今'10年代は保守党のキャメロン政権がメイ政権に禅譲された。それは保守政党の場合だけではなく、イギリスの労働党の長期政権もまた経済が好調とはいえないが国民、取り分け労働党の支持層が生活するに困らないようになっていた時代の反映である。
 インセンティブ民主主義もまた日本にしかないものではないが日本には並外れて強い傾向である。
 自分の支持しない党の政権による政策はどうしても自らにとってはインセンティブ的に留まるものであり―アベノミクスは正に多くの国民がインセンティブとしてしか期待しなかった政策であり、それを与える側もまた政策とはそのようなものであるべきと思ってしている節があり、真剣に支持する人は少数。―、政権交代があればそれは自分の支持する党が野党の時にも幸福に暮らせるということになる。

 物事を外国や他者との対比においてしか考えられない思惟の体系、俗に言う「頭」。
 そのようなアベノミクスの性質もグローバリズムと呼ばれる昨今の諸外国の経済社会の潮流の直輸入を以てなされているもの。
 しかも、グローバリズムは後進国の経済発展を促して世界の格差をなくすという大義によるものである故に、先進国の中では後進国である日本の国民的感覚にも馴染み易い特徴がある。但し他の後進国等にとってそれは経済力という限られた目的に沿うものである―その良し悪しはさておき―が、日本にとってはそれがあらゆる分野における価値観となって外国や他者との対比を煽っているようである。弊ブログは前者をグローバル化と、後者をグローバリズムと呼び分け、前者を凡そ肯定して後者を凡そ否定する。

 外国や他者との対比でしか考えないのは自分や自分達が何を求めるかを考えない或いは考えがあっても隠すことによるものであろう。
 そもそもの日本的なるもの、日本らしさというものが他所との対比による嫉妬を埋めるものとして出来ているものであり、日本人の必要や欲求に即するものではない。嫉妬の穴埋めとは或る場合には他所と同じようなものを持つことにより肩が並ぶことであり、或る場合には他所とは異質で理解し難いものを持つことにより注目を誘うことである。昨今のグローバリズムの担い手はカジノの構想などに見るように前者が顕著でありいわゆるネット右翼には政治家などの性差別的言動の絶対的擁護などに見るように後者が顕著である。それらが若干の例外はあれ何れも与党自民党を支持している。現野党に対する心ない非難の数々をも通し、もはやインセンティブ民主主義としての消極的支持が生涯を懸ける程の本気の積極的支持と錯覚されるまでになっている。

 自分には、自分達には、何が必要なのか?
 新しい御世が始まってからではなく、平成の世の終わらない内にそれを考えてみるべしである。

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by keitan020211 | 2019-01-01 00:00 | 文明論 | Comments(0)
クリスマスに考える 男女交際
a0313715_20282461.jpg 今年の私のクリスマスは勤務を定時に終了の後にカトリック教会の降誕祭のミサ聖祭に参り、新百合ヶ丘で母へのクリスマスの贈り物を選びました。その品はLAURA ASHLEYの純白のハンカチ。
 白のハンカチというと葬儀の引出物みたいで、今話題の女優ローラの署名運動に因む訳でもなく、私が今よりも貧乏であった頃になけなしで買ったLAURA ASHLEYの中古で難ありのシャツを自分で縫って直して着始めたことを思い出すつもりでのもの。
 しかし、クリスマスに葬式みたいなものをというのはキリスト教におけるクリスマスには意味のあることであるといいます。
 聖書の福音書に記されるイエスの誕生の話にはそれを祝うために東の国を来た三人の博士の一人が没薬をイエスに贈ったとあります。没薬とは金正日将軍の御体にも遣われている、遺体の保存料。イエスは生まれた時から死ぬことが視野に入れられていたのです。普通なら縁起が悪いとされてしまいます。
 日本の葬儀の慣習は逆に死の時にも生を思わせるということなのかもしれません。

 生といえば性。

 私はクリスマスが今は死語となっていますが、「性夜」と呼ばれたりして恋の日とされることをなかなか良いことと思います。
a0313715_20362513.jpg 山下達郎の『クリスマス イブ』は特に好きという程ではありませんがそれなりに良い歌と思いますし、私が好きな恋系のクリスマスの歌はマライア キャリーの'All I want for Christmas is you'です。渡辺美里の『クリスマスまで待てない』も好き。
 但し'White Christmas'などの、色々な歌手が歌い回す定番の歌の数々は何故か下手な歌手が多く、街や店に流れていると違和感があります。殊に男性の歌手のものは良いのがない。
 それが何でかを考えるに、男性は小さな声で話したり歌ったりすることが不得意な人が多いからであろうと思われます。故に静謐を醸し出すクリスマスの歌には合わないのです。
 男子は何かと堂々と大きな声で話せと云われて育ちます。それは決して良いことではないと思うのですが、平和的な人なら堂々と自説を述べて聴く人を説得するため、闘争的な人なら相手を圧倒し若しくは威嚇して屈服するため。何れにせよ、声が大きくないと男らしくないとされるので小さくてよく通る声で話したり歌ったりという教育をされてはいません。
 男性が小さな声で喋る時とは多くは秘密のことをひそひそと話す時と自信のないことをぼそぼそと話す時です。ひそひそ話、即ち囁き声は今は女性にも時に見受けられますが、元々は男性の習慣であり、外に洩れてはいけないことを仲間に告げる際の話し方です。女性のそれはそのような男性の習慣を身に着けることにより男性や男性社会に取り入って寵愛を得るためのこと。囁きは女性や非男性社会――:「女性社会」とは限らない。――の蔑視が根底にあり、品のあるできる女は決してすることがありません。そもそも耳元で声を出されたら気持ちが悪いではありませんか。
 小さくてよく通る声、即ち声を絞って話すこと、それが歌の上手さにもつながります。多くの学校の音楽の授業は逆に大きな声で元気に歌いましょうと教えるので音痴を量産してしまいます。音痴なだけではなく歌うことをさえ嫌わせてしまうことにもなっています。歌うとは勿論、鼻歌や街中で歌うこと――:軽犯罪法違反です。――ではなく、キリスト教会を含む式典、カラオケなどの歌うことを求められる場で歌うことです。
a0313715_20313376.jpg 音楽用語でいえばpianissimo、それが喋るにも歌うにも基本です。それが身に着いていない男性にそれを求めると失語症になるではないかといわれるかもしれませんが、pianissimoは寧ろ失語症の予防にもなります。失語症とは要は息切れの際にパニック状態が起きて言葉が出なくなることです。それを防ぐには息切れを起こさないような、声が小さくて息と音を長く保てる喋り方をする必要があります。もう直ぐ皇后になる皇太子妃殿下はその点があまり教育されておらず、とにかく働く女は格好いいという感覚でおられたのでしょう。なのでビオラの音ももう少し絞るとよいかと思います。

 街や店がそんなクリスマスの歌ばかりなら、クリスマスはつまらない、要らないと思ってしまうのも仕方がないでしょう。殊に田舎は場所を選ぶ余地が少なく、同じ歌をいつも聴かされて同じ電飾をいつも見せられることになり、クリスマス嫌いが多くなり易いといえます。
 しかしクリスマスを嫌う人が増えて来ている今時は決して良いことではありません。
 クリスマスをハロウィンやバレンタインデーと並び「もてない人にとっての苦痛の日」と主張する人達が近年に目立ちます。また、クリスマスはキリスト教の行事であり仏教国の日本には馴染まないという真面目振った主張もあります。
 クリスマスは昨年以前の弊ブログの記事にもあるように、元来はキリスト教の行事ではありません。西ローマ帝国などの冬至の祭に由来し、それをキリスト教会も暦に取り入れて冬至の一時を楽しむものです。なので日本の冬至の柚子湯もクリスマスですし、仏院の僧侶がクリスマスを祝っても何もおかしいことではありません。夏はビアガーデン、冬はビアホール、厳しい季節を乗り切るための景気づけです。それをおかしいというなら、冬を乗り切れずに凍え死んでもよいということになります。というか、そういうタイプの人が多いようです。

 クリスマスの排斥にも見られるように、今時の日本は男女交際を忌避する傾向が強いようです。
 クリスマスを排斥する方々は昔から思い続けていることを今や何らかの機会を得てその声を大きくしているのかもしれません。
a0313715_20382844.jpg 男女交際の忌避の傾向についての考察は弊ブログが前の幾つかの記事にしています――改装で非公開にした記事もあるので全てがお読みいただけるようになってはいないかもしれませんが、――。その要点はバブル時代の負け組、即ち当時にもてなかった人々が社会の指導層になって来るにつれ国民に彼らと同じ思いをさせようとして反恋愛教を陰に陽に宣べ伝えているということです。バブル時代の勝ち組、即ち当時にもてたりお金で何とかなった人々は後にあまり出世していない。いわば下剋上が起こっているのです。プロ野球のクライマックスシリーズもその傾向を支えています。その下剋上が彼らより下の世代のもてないことを自負する人々にとり「もてない人を虐げるな。」とかいう主張の機会になっている。
 フランス大革命にも見るように、下剋上のもたらすものは多くの場合は恐怖政治であり、全く以て良いことではありません。
 
 二十年前のフジテレビのドラマ『Love Generation』は『Lost Generation』に改題されています。今の四十代を主とするいわゆるロストジェネレーションを作り出したのもバブル時代のもてない負け組です。彼らはバブル時代には負け組になりましたが後のグローバリズムの時代には「ほぼ勝ち組」になりました。そして自分達の直ぐ下の世代が幸せになっては気に入らない、困る、立場を脅かされかねないというので今の四十代を経済的社会的になるべく排除しているのです。世代は様々ですが、安倍政権を中核として支える人達なんかも塩崎恭久を除いてはもてなさそうな人ばかりです。

 今時の若者の安倍政権の支持率が高いというのは もてる/もてない の判定が下されることを懼れてのことと考えられます。もてない人達が指導する政権と社会ならその判定のために当落線上の自分が不利になることはなさそうと思う訳です。私は今時の若者が好きですが、当落線上男/当落線上女が著しく多くなっていると見えます。私の若者の頃など、昔はもっともてる人ともてない人の格差が大きく、自責であれ他責であれその不利を埋めることはかなり難しいと思われたものでした。しかしそうしなければどうにもならないという認識があり、もてない人も多くは良くも悪くももてる人になろうとしています。
 クリスマスの排斥などに見られる「もてない人を虐げるな!」の運動の主はそんな私の同世代、いわゆるロスジェネと今時の若者の中間の世代と見られます。ロスジェネとは四十代で今時の若者とは二十代、つまり三十代が中核。因みにその今の三十代は格差というものに非常にこだわり、殊に先天的格差を重視してそれを解消すべしといいます。つまり、自責主義も困りますが、彼らは他責主義です。自らの負う不利を自分の力で適切な他者の助けを請いながら埋めるという発想がありません。ロスジェネといわれる人々はそんな他責主義の方々の不適切な助けを借りてもより悪くなるだけと思うのがロスジェネ対策の動きが政治的社会的に出て来ない一因でもあり、その理由は決して覆らないでしょう。助けられた末に非モテ同盟などに入れられては困る訳です。そんなものに入ったら人間として終わりです。

 彼らの云うとおりにクリスマスがなくなったら、今度は花祭がもてる人々の日になったり――釈迦ももてたといわれます。――正月が新年早々もてる人しか出歩かない日になるでしょう。確かにそこまで男女連れしかいない街並になったら私も違和感がありますが、今時は男女連れが殆ど見受けられません――東急池上線とその沿線だけは比較的に多く見受けられますが、――。

 因みに、よくある勘違いは大学のテニスサークルは恋人づくりが目的というもの。
 下衆の勘繰りとしかいいようがありませんが、恋人を作ることが目的なら会員の人数には限りがあるので入っても相手が見つからずに程なく辞める筈です。
 テニスサークルに入って四年続く人達はその中で結果として恋人ができる場合があっても、それを目的として入る訳ではなく、男女が隔たらずに愉しく過ごせることを求めるのです。
 尤も、そのような感覚はより恋愛に辿り着きやすいものですが、それが目的であろうというのは僻み根性です。
 クリスマスも別にそれが唯一の目的として成り立っているものではなく、そうなる場合もあるだけのことです。どんなにもてる人もクリスマスV9などはあり得ません。そしてそれが素晴らしく良い一時であれば歌になったりインスタになったりします。しかしそれを排除して「クリスマスは家族でほっこりするもの。」や「クリスマスを廃止せよ。」などという政治宣伝をするのは如何なものでしょう?逆に日本への世界の不可解視延いては蔑視を増すことになるでしょう。

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by keitan020211 | 2018-12-25 20:39 | 文明論 | Comments(0)
林修先生の「質より量」は「量より質」との目くそ鼻くそに過ぎない
 TBSテレビの12月2日の『林修先生が驚く初耳学!』に、林修先生が「質より量」ということを説いておられました。

a0313715_01313485.png 林先生は日本長期信用銀行、長銀の行員であった若者の頃にそのことを学んだと云います。番組では会社名を伏せていますが20世紀の終わりと共にその経営が破綻して今は新生銀行という社民党のような規模の銀行になっています。
 破綻した銀行にいて学んだことだから価値がないというのではありませんが――寧ろ勤めている会社の倒産や人員整理による解雇退職はその他の理由による解雇や転職の動機による退職より再就職に有利です。少なくとも建前としては本人の責任によることではないし、求人側にも救済の意思のバイアスが生じます、だからといって「私ってかわいそうでしょ、入れて下さいよ。」ではお話になりませんが。――、どうもその「質より量」には破綻した長銀ならではみたいな匂いがします。即ち、そんな考えだから会社が持たないのです。
 不良債権を抱える中で良さげな融資先がなかなか見つからず、「質より量」で当てずっぽうに営業を重ね重ねしてやっと取れたと思うとまた一癖も二癖もありそうな顧客…。そんな状況ならあまり無理に何かを学び取ろうとするべきではないのではないかと思います。世の中には生涯にはそんなこともある/あった、その感慨だけで充分に重みがあるでしょう。

 尤も、量に関しては営業員や生産部門などの下々に任せて上層部が質に関して独占して管理する会社の枠組みならば下々が考えることは量のみになりますがその場合は「質より量」ではなく「量」という認識になり、質との比較の対象にはなりません。
a0313715_01334722.jpg 「質より量」という認識は初めは「量も質も」或いは「質」という認識であったけれどもいつしか質を捨てて量を重視するようになったという含みがあります。そのような認識は公私に亘り自分のすることが何であるかを考えない、考えてもしばしば実体の定かならない「生活のため」という人に多いものです。
 実体の定かならない「生活」のために働く人が長銀の危機と破綻の時代から頓に増えて来ており、「仕事よりも私生活を大切にする」という考え方もその一種として増えて来たものです。実体が定かならずあやふやなので或る時には「生活のことで大変」といったり或る時にはa0313715_01355506.png「仕事が忙しい」といったりします。「仕事よりも私生活を大切にする」という切り札と「仕事は質より量」という切り札、二つの切り札を何枚も持って公私をあやふやと往復するのです。それが「ワークライフバランス」と呼ばれる一種の意識高い系の運動であり、そんなことでは林先生が自伝に語るような自我の危機を招くのも必然です。そして「成熟社会」という妄語もまたそのような二つの切り札と共にある認識の延長線上にあるものであり、相応の経済的ゆとりが出来ると「成熟社会」という課題の意識を持つようになります。成熟社会などというものは世のどこにも存在しませんし存在し始めることもありません。workとlifeは中長期的にpayして何となく充実すればよいものであり、現在の働きと暮らしを均衡するというのは無意味な試みです。

 量と質は対立概念や矛盾ではありません。
 「量より質」と「質より量」の何れもそれらを対立概念と見做して矛盾するものと思うことから様々の誤りが生じます。
 結局は同じ人/人々が「量より質」と「質より量」を行ったり来たりぐるぐると堂々巡りをしているのです。
 どんなことも、取り分け業務は、「量も質も」が当然です。
 なるべく多くの量の相応の質の財や仕事を生み出す、それが業務です。量と質のどちらが欠けてもいけません。
 長銀の最後であった'90年代から林先生の時めく今'10年代の三十年程に亘り、「量より質」がはやっています。林先生はその反対として今「質より量」を訴えたいのかと思われます。しかしそれでは先述の如く同じ穴の堂々巡りでしかありません。

 尤も、林先生は自我の危機の頃を過ぎて後に東進ハイスクールの講師になるなどしてまた違う価値観を見出してもいるでしょう。林先生が魅力ある人であるのは疑いありません。若い頃に学んだという「質より量」が林先生における思想的瓶の首です。

a0313715_01390745.jpg 「量か質か」という問いでは、或る種の『朝まで生テレビ』のような不毛な極論の応酬を生むだけです。実体の定かならないこだわりから尤もらしい信念を持ち若しくは広めるようになる。
 実体、即ち現地現物を見ればあらゆる物事が量も質も求められることが明らかです。

 実体の定かならないこだわりから出る尤もらしい信念を象徴するような出来事は昨日からのネットのニュース記事に出ている西野カナの作詞の手法についての批判です。
 作詞家としてまたはあらゆるものの作り手として当然のことである「共感の生成」をその批判者等は「あざとい」や「自分の足を引張っている」などという訳の分からない妄言により否定しています。
a0313715_01404360.jpg 因みに私は西野カナの『Have a nice day』という歌が好きで、『Dear Bride』という歌が嫌いです。拍子にしても旋律にしても、そして歌詞にしても、『Have a nice day』は私の好みとしても大向うの唸り具合にしても極めて優れますが『Dear Bride』は拍子と旋律についてはぶっちゃけ音感のない人向けという感じがしますし、歌詞については国語力がないけど日本語が最高という人向けという感じがします。後者も或る種の共感を生成しておりその対象が前者とは異なるだけなので、それも西野的方法に照らせば良作なのかもしれません。様々な対象に向けて歌おうとする西野の姿勢は素晴らしいです。

 音楽において「量も質も」を最も高い水準で実現している人はヨハン セバスティアン バッハであり、バッハがどんな人であるかを知れば西野の批判者らのような音楽観はならず者の小唄でしかないと分かります。

 逆にこの三十年を覆った「量より質」の起源は日本、本居宣長(1730~1801)などによる国学の辺りでしょう。
 「質より量」の起源はイギリスの産業革命。
 戦中の日本帝国主義は国学と産業革命の「融合」を図りましたが、それは「量も質も」ということではなく一方では「量より質」といいながら他方では「質より量」といって両派を上手いこと遣い分けようとする試みといえるかと思います。当然にして失敗しましたが、今これからの時代にもそのような日本帝国主義的融合の思想と政策、社会価値が再現しないとも限らず、「量も質も」とは違うものであることを認識しなくてはなりません。

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――地震が発生したら先ずは火の点いている所を確認して直ぐに消せる火を消し、物の落下を避ける。


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ANN 報道ステーション 9.54~/月~金
ANN サタデーステーション 20.54~/土
ANN サンデーステーション 16.30~/日
by keitan020211 | 2018-12-06 01:51 | 文明論 | Comments(0)
一流の人は決して遣わない 品性の疑われる言葉
 『一流の人は決して遣わない 品性の疑われる言葉』――

 一流の人は遣わないということなら二流の人は遣ってもよいということではありません。

 ここにいう「一流」とは品性や能力が人並み外れて優れているということではありません。
 また、そのような一流を「分かる」ということでもありません。

 「一流」とは人間性の自然に随って生きようとする人のことです。
 そうであるならば、能力は必ずしも一流ではなくてもよいのです。但し能力は必要がないということではなく、人間性の自然に随って生きようとするならば能力は早かれ遅かれ着いてくるものです。

 但し人間性の自然というと、殊に私達の国日本においてはしばしば誤解が生じます。

 昨日のニュースに秋篠宮殿下の誕生日に際し殿下の会見における発言等が報じられました。
a0313715_00300656.jpg その発言等は主に来年の皇太子殿下の即位に際し行われる大嘗祭についてのことでしたが、子息の眞子内親王の婚約の可否を巡ることについてのものもありました。
 彼女が結婚をしたいと表明している小室圭氏はその会見で'Let it be'の心境ですと語りました。
 'Let it be'、これは英語に弱いとされる日本人がしばしば誤解しているビートルズの曲名にもある文言です。
 'Let it be'とは「なるようにせよ」ということです。
 それは昭和天皇の御歌「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」とつながるものがあり、小室氏もそれを念頭において語ったのかもしれません。
 その真意を悟るからこそ、秋篠宮殿下は「君のその信念を守って下さい。私も同じ思いです。」、即ち然るべき対応を望むと仰せになったのかもしれません。
 しかし日本においては'Let it be'は「なるようにせよ」ではなく「なすがままに」と誤訳されています。
 「なすがままに」の英語は'Leave it as it being'です。'Let it be'とはえらい違いです。
 少なくはない日本人が'Leave it as it being'、「なすがままに」を人間性の自然であるかのように思っています。意訳すると、「旅の恥はかき捨て」です。そうではないと思うかもしれませんがそうです。
 しかもビートルズの'Let it be'には'mother Mary comes to me'と、キリスト教の重要人物である聖マリアも出て来、尚更にその種の日本人の誤解が深まります。マリアが受胎告知――今月末の、降誕祭(クリスマス)の季節に記念される。――の時に「御心のようになりますように。」と言ったことを「なすがままに」ということと思うのです。勿論そうではありません。

a0313715_00321673.jpg 「なるようにする」ことは物や状況などの現実を慎重に見て取らないとできません。そしてそれが人間の自然の営みです。それは本来の意味における科学的態度にも通じます。本来ではない「科学的」とは科学が全てを解決するという考え方のことであり、それも日本には著しいものです。

 「なるようにする」、'Let it be'――そのような人間性の自然の感覚が日本人にないことの現れとして記憶に新しいのは酒の徳利の使い方について最近にネットを騒がせた言説です。徳利の注ぎ口を使わずに注ぐことは徳利の造りの通りには使わないということであり、「なるようにする」こととは悪意的に反することです。
 注ぎ口を使わなくても注げるではないか、なるようにしているではないかというのは反論になりません。人間の自然な感覚は注ぎ口があればそれを使う、注ぎ口が使いにくければそれを改善することであり、注ぎ口があるのに使わないことではありません。
 件の「徳利マナー」は故に人間性の自然に対する悪意的挑戦の外の何ものでもなく、厳に斥けるべきものであり、多様性や例外の一つとして許容されるべきものでもありません。

 この記事に挙げる「一流の人は決して遣わない言葉」は正に「なすがままに」や注ぎ口を使わないのがマナーであるというようなことと同質の言葉達。
 重ねて云いますが、「一流」とは並外れて優れる人のことではありません。

 ・そんなに立派にならなくてもいい。

 一つ目はそれ。
 品性の少しでもある人はその言い換えを含め、決して遣ってはならない言葉です。
 言い換えの例としては:

 ・私はそんなに立派ではありませんから。

 それは昨今の流行語である「頑張らなくていい」にもつながるものと思われます。
 尤も「頑張らなくていい」には努力のし方を間違えれば努力の意味がないということに言われることもあり、その意味では必ずしも全くの誤りともいえません。「頑張らなくていい」がどんな文脈で言われているのかをよく見極めて「いいね♡」を押すか押さないかを決める必要があります。
 「頑張る」、'holding on'は新しい語であり元々は「努める」、'making one's effort'と言うものであったことも勘案すべきでしょう。確かに「努める」と比べれば「頑張る」は内容がないかもしれない軽い言葉に聞こえます。とはいえ、「頑張る」は一流の人が遣ってはならない言葉ではありません。

 「・そんなに立派にならなくてもいい。」には以下のような応用例があります。
  ・そんなにお金は要らない、お金持ちにならなくても幸せに暮らしたい。
  ・そんなに本気にならなくても楽しくやればいい。
  ・そんなに丁寧にやらなくても程々にできればいい。
 「・私はそんなに立派ではありませんから。」には以下のような応用例があります。
  ・私/私達は庶民ですから、そんな難しいことは分からない。
  ・私はそんなに真面目ではないから、そこまではできないな。
  ・私はそんなに美人ではないから、つき合う人も程々でよいと思う。

 「そんなにお金は要らない、」は先日のカルロス ゴーン氏の逮捕を受けて彼の高額の報酬への批判としてテレビやネットに多く見られたもの。また、上野千鶴子氏が「皆が平等に貧しくなる社会を」と説いたりしており近年に頓に増えています。
a0313715_00344259.png 「そんなに本気にならなくても」は特にスポーツの世界には近年に著しくなっている傾向です。練習をなるべくしないことなどが説かれています。
 「そんなに丁寧にやらなくても」は韓国などの後進国が近年に比較的低品質の商品等を売り上げて市場における強みを持っていることから日本もそれに倣うべしとの説が見受けられます。それに併せ、「過剰品質ではいけない、求められる品質が大切」などという屁理屈が説かれたりしています。

 「庶民」、「真面目(ではない)」や「程々」は何がどれ位にそうなのかという観念が全くないものです。そもそもそれらをいう人/人々は水準の違いを問うのではなく相手方との敵対関係を示すための旗印、即ち「貴方とは違う」と云うためのものとして「庶民」、「真面目ではない」や「程々」を言います。

 ・人のことを言えるのか?
 ・そう言う貴方はどうなのか?
 ・貴方に言われたくない。(ネット卑語:おまいう;ブーメラン)

a0313715_00401892.jpg どれらも品性があれば決して言うことのない言葉です。
 そもそも、相手が「人のことを言えるものではない」と分かるとしたら、それは彼が相手のことを相当に知っていることが前提です。つまりそこには「私は貴方のことをよく知っている。」という領空侵犯的脅迫の意が含まれます。
 勿論何を言ってもよいものではありませんが、仮に何かを言う人が言われる人と同じ弊があたり他の何等かの不徳があっても彼がそれを言ってはならないことはありません。泥棒が泥棒を糾弾してもよいし、トランプ大統領のように移民が移民の受入に反対してもよいのです。寧ろそうではなければ誰も泥棒沙汰を告げないことにもなりかねません。

 ・ちゃんと勉強して/本を読んで下さい。
 ・辞書/新聞に書いてある。
 ・知らないんですか?

 近年は朝日新聞などの有力な報道メディアが信用ならないものとして批判されることが多くなっていることもあり――それが本当であるとは必ずしも限りませんが、――、或ることを新聞に書いてあるから本当であると云う人は少なくなっています。
 しかしそれでも専門書や高名な人物の記した本、辞書などについてはそれらに書いてあれば本当であると思う人がまだ少なくないようです。
a0313715_00490494.jpg そのような人は情報や学問というものがそもそも人間の自由においてなされる不安定なものであることを弁えていません。また、幾ら間違えてもよいということはありませんが、情報や学問には間違える虞がしばしばあることから民主主義があります。
 つまり、彼らには先ず以て自由や民主主義がないといえます。
 するとしばしば出てくる文句は「それは衆愚政治だ。自由や民主主義とはいえども間接民主主義であり、職業政治家や専門家の権威が必要だ。」などというものです。しかしその「職業」や「間接」とは何かということを全く分かっていません。分かっていたら間接民主主義であるまたはあるべきとはいえません。正しくは部分民主主義であるというべきでしょう。
a0313715_00450976.jpg 自由である以上は情報や学問などの知識の非対称性が当然に存在し、知識に関わるとは先ずその非対称性を認識することから始まるものです。「ちゃんと」は知識の対称性を前提とする観念であり、相応の契約関係においてしか成り立たないものです。「知らないんですか?」と言う人と言われる人がいつ互いに契約を結んだのか?、そんなことはないですね。
 尤も、知識の非対称性がなくなることはあり得ませんがなるべく対称に近い形になってゆくことは国家の安定のために必要なことです。では現に存在する非対称性は何か?、それを解き明かしてゆくことが知識に関わる人々に求められることです。

 「自分は一流の学者でなくてもよい。」、「自分は一流の人でなくてもよい」といえるでしょうか?

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    ●AFP(フランス パリ)
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    ●共同通信(日本 東京)
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by keitan020211 | 2018-12-02 00:50 | 文明論 | Comments(0)
日産が撞く晩鐘――コンビニ形に取って代わられた雑貨屋形の経営
 日産がカルロスゴーン氏を最高経営者に迎えて鳴り物入りで二十年に亘り演じられた「コストカット」。
 直前の記事に、私は彼が日本と日産に来た1999年のその時からゴーン流を値踏みしていた、日産がそれまでよりはましになると確信してはいたが、と語りました。

 当時の「デフレ時代に勝ち残る」という時代の気運の中、ゴーン流はそれまでにはない新しいあり方と広く受け止められていました。
 そして二十年の月日が流れ去り、今般のゴーン氏の不祥事を見て当時は新しいことであったがもう旧いというのではありません。当時に既にゴーン流は旧い業務形態(ビジネスモデル)であったということです。

 ゴーン氏の逮捕により、晩の鐘がゴーンと鳴って響き渡っていますが、その音は剛田金物店の大きな鍋の音。

 近年に人口の減少にも因る地方の衰退により商店街の存続が危うくなる例が増えているといいます。
 商店街の様々の商店等はコンビニエンスストアとショッピングモールに取って代わられています。コンビニの最大手はセブンイレブンでありモールの最大手はイオン、弊ブログもイオンを支持しています。
 日産の業務形態はゴーン流の登場と展開、成功を経ても一貫して商店街的なものでした。商店街の再活性化を託されて出来る限りのことをやったのがゴーン氏です。
 しかし、これからの日産が生き残りのやり直しを図るにはその商店街的業務形態を捨てなくてはならないと思われます。

 先日に東京の経堂――:小田急小田原線経堂駅――に行ったことについての記事を出しています。そこで人口減による若者の減少を見据えると経堂の生き残りはかなり厳しいという見方を示しています。
a0313715_13480790.jpg 経堂には農大通という駅の南側にある商店街とすずらん通という駅の北側にある商店街があります。農大通はそれなりの集客を保っているとはいえ'80~'90年代の繁盛の頃と比べると細々としていて個性的な店が少なくなり、どこにでもありそうなチェーン店が多い。すずらん通は店や街の照明が消えればシャッター商店街と見紛うような閑散。勿論宵の最も集客の多い時間帯において。
 日産もまた、経堂の商店街のようなあり方であり続け、それがバブルの時代には盛り上がり、その崩壊と共に危機に陥り、ゴーン流によりV字回復を見てそれなりの売れ行きを保っている状態です。かつての日産の品揃えは経堂の個性的な店々のような高感度を自負する人々に訴えるようなものでした。それがゴーン流の時代にはティーダやラフェスタ――:何れもトヨタ派の私の好きな日産車――などに見るようなよりトヨタ車に近いそつがなくてプレミアム感とコスパの高い品揃えに変わり、そして今はつかみどころのない車が多くを占めています。商店街の中興とその再失敗のようです。
 しかしそんな状態でトヨタを抜き世界2位の販売台数に増しているのは何故か?それは一つはルノーや三菱との合算であり、もう一つは旧い商店街形を支持してトヨタやスズキに代表されるコンビニ形やモール形を懐疑する人々が根強いからです。
 地盤沈下の著しい日本が世界に対抗するためにはガラパゴスな商店街形の強みを生かすしかない、そんな悲壮な生産者と消費者の願望が辛うじて日産を支えて世界2位という最後の花を咲かせているのです。

 一方のコンビニやモールもそれそのものはかなり歴史を経ており、もはや斬新な業務形態とはいえないものになっています。しかし当面の粗唯一の答はコンビ二形やモール形であり、それ以外の小さな商店や会社もそれを標準としなければならない。そのように見定めることのできない業者と評論家が有象無象の新しい経営論を捻り出しては絵に描いた榊になっています。
a0313715_13533709.png その有象無象の新しい経営論の最大手は「選択と集中」です。これは今を時めき私も期待する落合陽一氏も奨める考え方です。
 しかし「選択と集中」がそもそも旧い商店街形を前提とするものです。
 商店街の店は初めから選択と集中を調えてする店とそれが出来ずに迷走して或る時にそれを考えることを要する店があります。金物店は金物なら何でも揃えようとして始まる場合が多く、或る時に選択と集中を考えざるを得なくなりがちな業種です。
 しかしそのように選択と集中を実践したら成功するとは限りません。処が選択と集中を奨める人達はそれが芳しくならないとそれは実践のし方が間違っているからであるといいます。処がそのように云って何が正しい選択と集中なのかを示すことは殆どありません。結局は「自分の頭で考えろ。」でドロンすることができます。ゴーンがいつの間にかドロンになっていたりします。

 コンビニ形やモール形は選択と集中を必要とはしません。
 常に何でも取り揃えることが不動の前提であり、具体的商品の選択は政策的選択ではなく個々の業者との・商品への信用または信頼により定まります、信用と信頼の基準はそれぞれに違いますが。
 売り筋だけではなく、費用、原価に関してもコンビニ形やモール形には選択と集中はあり得ません。
a0313715_13550273.png それらは一定の時間には必ず一定の固定費が掛かるようになっており、変動費もまた凡そ一定となるものが多い。コストカットが原理的に不可能である以上は利益を増す凡そ唯一の手は売上を増すことです。売上を増すためには営業や宣伝が、製造業や専門仕事業なら品質の改善を要します。
 売上が上がらないから業務を早く終えて経費を削減するということはできません。営業時間の短縮はあり得ますがそうすると売れないことを公に示すことになるので負の連鎖を招く虞があり、なるべくするべきではないことです。
 今は凡そどんな業種であれ、コンビニ形やモール形しか生き残れない時代であり、「選択と集中」は敗退が決定的となっている業者等の延命の手立てに過ぎません。尤も、その延命のさ中にそれをやめてコンビニ形やモール形に換われば敗退の見通しがなくなって勝つことが可能になります。
 業務は一にも二にも売上高です。売上を増さずに利益を増そうというのは空理空論です。

 「選択と集中」は個々の強みを伸ばそうという教育の考え方と軌を一にするものかと思われます。
 しかし強み、良い点を伸ばすとはそれ以外の点は伸ばすことができないという否定的考え、即ち潜在的減点主義でもあり、思わしく伸びないならば切り捨てるというものです。
 彼らの嫌う弱い点の補強という考え方はそもそもはそれが強みと同等までには伸びなくても伸びた分だけ評価するという加点主義です。それにより総合点が多少なりとも高くなることが大切なのです。
 何でも取り揃える総合主義、generalismこそが昔も今もこれからも生き残れるあり方です。選択と集中に手を染め易い或いは手を染めざるを得ない商店街の中にもそのような総合主義の店が幾つかあることにより生き残れて来たのです。

 トヨタは元々その基本の考え方であるトヨタ生産方式をスーパーマーケット(合成市場)をみそにして考案しました。スーパーはコンビニとモールの原初形態であり、スーパーが小さくなってコンビニに、大きくなってモールになっています。
 個人の知的関心や生き方に関しても、苦手なことを捨てて得意なことばかりをするとかしていると今の貧しげな時代は変わりませんし生涯の時間の無駄になります。得意なことに関してはMORE THAN BESTを、不得意なことに関しても80点以上を目指すことが大切です。間違ってはならないのは80点主義とは「80点でいい」ということではなく、最低限80点なければ駄目ということです。
 日産にも総合主義やMORE THAN BEST、80点主義は決してなくはありません。

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    ●ル モンド(フランス パリ)
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    ●リベラシオン(フランス パリ)
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    ●時事通信(日本 東京)
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    ●読売新聞(日本 東京)
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    ●毎日新聞(日本 東京)
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    ●ザ シアトルタイムズ(アメリカ ワシントン州シアトル)
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    ●ザ トロントスター(カナダ オンタリオ州トロント)
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    ●ザ ガーディアン(イギリス 英国 ロンドン)
by keitan020211 | 2018-11-25 18:24 | 文明論 | Comments(0)
【書を読む】中谷彰宏『一流の常識を破る⑧「超一流」の会話術 壁を破る57の具体例』 その29:話は一対一でしか伝わらない。
 昔は舞台であがらないようにするためには客をじゃが芋と想えという訓がありました。
 中谷氏がここに云うことはそれとは全く違います。
 大勢の人達に向かって話す時も一人の人に話すようにするべしという。
 マスが重視される昔の時代とパーソナルが重視される今の時代との違いということでは片づけられません。
 昔の考え方は明確に誤りであったと取り敢えずは考えることができます。

 私は小さい頃にピアノの発表会に出たことがあります。
 小さい内にやめたのでそれからピアノが弾けたことはありませんでしたがーー逆に小さい頃は何で弾けたのか不思議に思う程に全く駄目でした。ーー後に大人になってオルガンを適当に弾いてみたら手だけではなく足も難なく弾けました。二つ前の記事の進行の資料を準備することにも似ますが、楽譜を予めよく読み込みどう弾いたらよいかを綿密に考えておくと経験が浅くてもきちんと弾けるのです。昔の感覚を思い出したのではありません、確りと考え直すことが大切なのです。
 そのピアノの発表会で一発目の音を間違えて失笑が出ました。二度三度と、どこを押しても正しい音が出ません。
 当時は鍵盤の構造を学ぶのではなくYAMAHAのYの字の位置がCという覚え方をしていたので家のピアノとはロゴの刻印の位置の違うピアノのCの位置が分からなかったのです。
 すると先生が袖を飛び出してきて一発目の鍵盤の位置を教えてくれたのでその後を上手く弾けた。
 その時の私は誰のために弾いていたかといえば、客ではなく先生のためであったといえます。
 元々私はあがらない性格なので客をじゃが芋などと思う必要はなく、大勢の客は見ての通り大勢の客。で、聴かせる対象は先生のみ。

 どうもそれで良いのであろうと思います。「お客様は神様」や「お客様はじゃが芋」という考え方からは良い仕事は生まれない。
 具体的対象がいないならばあまり都合の好過ぎる人物像ではない限りで架空の人物を「その人のためにする」ものとして考えるのもよいかと思います。今時は二次元の時代ともいわれますが、いわゆる二次元というものもそのような意味では侮れないでしょう。

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a0313715_1412168.jpg●東海地方の緊急地震速報は ダイヤル1332 東海ラジオ
静岡県:FM 78.4 K-MIX


――地震が発生したら先ずは火の点いている所を確認して直ぐに消せる火を消し、物の落下を避ける。


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テレビ朝日 Jチャンネル 16.50~19.00/月~木 15.50~19.00/金
メ~テレ Jチャンネル―UP! 前記の時間の後 18.15~19.00/月~金

a0313715_00332621.pngFNN PRIME news evening 16.50~19.00/月~金
by keitan020211 | 2018-11-18 15:08 | 文明論 | Comments(0)
【書を読む】中谷彰宏『一流の常識を破る⑧「超一流」の会話術 壁を破る57の具体例』 その28:自分の話したい流れで話すと説教になる。
 権力のない人には説教をしたい願望があります。
 権力のある人は権力を握りたての頃は年来のその願望を満たすべく説教をしますがいつかはそれに疲れて来て説教をしなくなります。
 権力のない人は説教をする機会を窺います。何か隙を見つけては説教をしたいと思うのです。
 私も権力がないので説教をしたい願望があります。但しそれが適切であるかどうかを常に考えます。
 今はネットの普及により隙を見つけなくても説教をできるようになっています。自分のしたい時にしたいだけ説教をすることができます。それは説教をしたい願望を不適切に満たそうとすることがなくなるためにとても良いことです。
 処がせっかくのそのようなネットというものにも説教は良くない、上から目線のネットユーザーは駄目であるみたいなことを云う人がいます。そのような人はネットでは説教をしないかもしれませんが生の人づき合いでは説教をして嫌われています。そもそもネットでの説教は駄目ということそのものが下らない説教です。

 そもそも、人に相談をしたいと思う際にはその人は相手が説教をする人かしない人かを見極めてからします。なので説教をする人を相談の相手に選ぶことは余程にマゾヒストな人の外には大抵はないので説教をしないようにすることや自分のペースで話さないことは相談されることがあるならば殆ど考える必要のないことです。相談されることのない人がそれは何故かを考えるために必要なことです。
 マゾヒストは説教されたいので相談される人が説教をすることは相手のペースに忠実でもあります、勿論客観的には悪いことですが。

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    ●AFP(フランス パリ)
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    ●ル フィガロ(フランス パリ)
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    ●フランクフルター アルゲマイネ(ドイツ フランクフルト アム マイン)
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    ●共同通信(日本 東京)
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    ●朝日新聞(日本 大阪)
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    ●グローブ アンド メール(カナダ オンタリオ州トロント)
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    ●ロイター(イギリス 英国 ロンドン)  
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    ●ザ テレグラフ(イギリス 英国 ロンドン ウェストミンスター)
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    ●ジ インディペンデント(イギリス 英国 ロンドン)
by keitan020211 | 2018-11-18 14:34 | 文明論 | Comments(0)
【書を読む】中谷彰宏『一流の常識を破る⑧「超一流」の会話術 壁を破る57の具体例』 その27:司会者に協力して話そう。
 段取りの悪さは司会者の責任ではありません。資料を司会者に渡していない主催者の責任です。ーー

 何で渡さないのでしょうか?
 色々と考えられるかと思いますが、物事は司会者がいなければ何も始まらないということを分かっていないのであると思われます。
 会議や催しだけではありません。家族や友達など、空気のように何となく集まって話すことにも司会者は必要です。
 司会がなくても会はうまくゆくであろうというのもあるでしょうし、会を動かすのは司会ではなく主催の自分達であるという過信のようなのもあるでしょう。進行の資料がなくても何か問題があれば舞台裏から合図して解決することができるなどと思い、あとは何も準備をしなくても盛り上がるであろうと思うのです。準備はないがそのための監視だけはある。
 昨今はマニュアル人間は要らないという考えからか、会の進行を予め資料にするようなことをもマニュアル人間のすることと思ってしない責任者が増えているのではないでしょうか。
 予め定めた進行の通りには進まないことが愉しいと思えるのは予定とは違うという脱線の感じが明確にあるからであり、予定のない処にはその愉しさは生まれません。そして脱線したまま終わるのではなく終いには元の予定に戻らなくては脱線の愉しさは残りません。落語なんかもそうでしょう。

 元の予定に戻すためには司会者の手だけには負えない場合もあります。客のリクエストに応えている間に盛り上がり過ぎて脱線を延ばさざるを得なくなるような場合です。そのような場合に脱線を打ち切れないことは司会者の無能ではありません。その際にそれを助ける人が良い脇役です。落語なら客が脱線話にそろそろ飽きてきたという感じがそれに当たります。何気に「うんうんおもろい、もうええよ。」と顔に書いてある客がいるのです。
 愉しさが明確にすり減ってくる訳なので、それを感ずることが空気を読むことであり、簡単なことなのです。

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by keitan020211 | 2018-11-18 14:09 | 文明論 | Comments(0)
「「褒める教育」は伸びない」のジレンマ 「褒める」か「褒めない」かではなく是々非々主義で大人の教育を
 先日のフジテレビの『ホンマでっか!?TV』に、脳科学者の中野信子氏が「褒める教育」では子供は伸びないということを語っていました。
a0313715_09123665.jpg 中野氏はかつては極右的と思っていて嫌いな識者でしたが今はその偏見が解けて好きな識者になっています。安倍晋三をサイコパスという分かり易い論を出したこともその偏見が解けた理由であるかもしれません。しかし安倍がサイコパスというのも少々偏見であり、私は安倍の人間性が悪いとは思いません。どんな良い人も政治における何らかの考え方などのその人の極一部の要素を介して悪い力を帯びるようになります。
 処が私が中野氏を好きになると程なくみるみるとその容姿が衰えています汗。そして髪が金色になっています汗汗。
 中野氏と心理学者の植木理恵氏は私と同い年なのでその衰えが尚更に気になってしまいます。しかし二方とも同い年なだけあって私の感覚と近いなと思います。私も昔は極右と間違われるような言説を持論としていたことがあります。

 というか、今もあります。それは容姿を重視するべきであるということです。
 直前の記事『ZARDのアルバムを再購入――何がZARDの魅力か』にも語ったように、容姿の美しさを公然と売りにした最初の音楽人はZARDの坂井泉水です。
a0313715_09141425.jpg それまでにも容姿の良さを売りにする歌手は多くいましたが殆ど全てアイドルという属性で市場が明確に別物とされていました。「アイドルとアーティスト」という無意味な区分を価格破壊の時代の中で破壊して美人が歌う音楽という新しい価値を開いたのがZARDです。
 その全盛期の程にはZARDを聴かなくなっている私ですがその考え方は今も変わりません。
 容姿を重視するというとしばしば極右的と思われます。
 人を能力や人間性などの自己の努力によって変えられるものではなく変えられない容姿によって測ることは優生思想につながるみたいな主張からです。
 しかし優生思想は逆に能力や人間性を極めて狭い見方により重視するものであり、容姿を重視することは優生思想とは無関係です。そしてその狭い見方に基づく能力や人間性を実現することのできない身体障碍者が社会的排除の対象になります。
a0313715_09151063.jpg 容姿を重視することはそれを具えない人を社会的に排除するということではありません。容姿の優れる人はそもそも少なく、容姿の良い人だけを集めて組織しようとすれば組織が到底に成り立ちません。容姿を重視するとはあくまでも容姿の良い人をなるべく多く確保したいということです。そして容姿の良くない人も容姿の良い人が集まらなければ何も始まらないという訳にはゆかない以上は必ず機会があり、それぞれが自らの持ち場を持つことにより世の中の皆が豊かになります。
 人を容姿で見るべきではないという思想が支配すると逆に世の中が貧しくなります。容姿ではないなら何で見ればよいかとなると、色々とよく分からない評価の基準が有象無象に生まれ、それらの要求値が高くなってゆきます。すると選ばれない人が多くなり、よく分からない理由で選ばれる人だけが有利になります。
a0313715_09163880.jpg 何の問題もないのではないでしょうが、桜田義孝国務大臣が今内外の批判を受けているのもその文脈から解することができるかと思います。パソコンを使ったことがない人がサイバー安全保障の任務に就いてはならないというのはその手のよく分からない基準です。大臣は官僚や識者、国民の意見を理解することができることが求められることであり、パソコンの知識は必ずしも要するものではありません。企業の求人にしばしばある「ワード・エクセル」並みのええ加減な要件を政治家にも求めている訳です。如何に今の日本と世界の民度が低いかが彼への批判に見て取れます。

 人を容姿で見てはならないと思う人々は容姿の良い人はいつも褒められていると思っています。
a0313715_09180905.jpg 褒められているから能力や人間性も伸びるという肯定的見方によるそれと褒められているから傲慢になるという否定的見方によるそれがあります。何れにせよ容姿の良さと褒められることには関係があると思うことは同じです。
 しかしそれらには何の関係もなく、如何に容姿が羨望(:肯定的)や嫉妬(:否定的)の種になっているかが分かります。羨望や嫉妬が無関係なものを結びつけるのです。容姿が良くて人間性の劣る人は容姿の良さを褒められたから人間性が悪くなったのではなく、逆も然りです。
 無関係なので、望ましいのは容姿が良く且つ能力や人間性も高い人です。そしてそれを或る程度までは妥協しながら必要な人手を確保するものです。

 中野氏は能力や人間性が伸びる力を容姿と結びつけてはいませんが、褒めることは良くないという説を語っています。
 褒めると褒められることだけを目的として努力するようになり、自己の意思が育たないと云います。

 或る面では確かにそうでしょう。
 しかし褒めることが従来の日本社会を発展させてきたともいえます。
a0313715_09194588.jpg 「褒める教育」という概念がなかった昔から人々は目下の人を褒めていました。私的にも公的にも日本には褒める/褒められることが所々に用意されていました。賃金の増額などの事務的なこともその一つです。
 世の中が発展して豊かになってゆく時代には褒める/褒められる機会が多くなります。すると仮に褒められることだけを目的としていても何の弊害も生じません。褒められるようにすることが社会的自己実現につながるからです。
 しかし、今のように発展の少ない時代になるとそうもゆかなくなります。発展の少なさだけではなく価値観の多様化と呼ばれることも影響し、褒める/褒められる機会が少なくなります。そんな中で褒められることを目的として努力することは雲を攫むようにあてどもないものとなりかねません。価値観の多様化は褒めることの権威と褒められることの利益が弱まり或いはなくなるということでもあり、尚更に褒められることを求めて何になるのかという懐疑が強まります。そんな時代の傾向においては確かに褒めることを良いこととするには無理があります。
 褒める人が自分の価値観に基づいて人を褒めても褒められた人は訳が分からないということもあります。そんなものを求めていたのかと逆に不信感をも持たれかねません。

 しかし人はそうであるからということで、褒めないことを実践し続けることができるでしょうか?三日坊主になるでしょう。
 重要なのは「褒める」か「褒めない」かではなく、是々非々主義で物事を見て人を評価することです。
 「良い」か「悪い」かではなく、具体的であれば云われる側は云う側が何を求めているのか、どうするべきなのかを真剣に考えます。具体的評価が人間の互いの理解と結びつきを確かなものとします。
a0313715_09213178.jpg 世論も「褒める」か「褒めない」か、「良い」か「悪い」かでしか成り立っていないような処があります。或る出来事について「褒められたものではない」という批評がしばしば見受けられるのもその証であり、世の中が良くなるとは自分が褒めたくなるようになること或いは自分が褒められるようになることということでしかないようです。そこには昔のような褒める/褒められることに伴う権威や利益は粗絶無であり、良いことを見て気持ちいいということしかありません。そのような無権威無利益が日本人の美しい心であるなどと称賛する人も今時は少なくありません。

 人は現実には褒められることをしかしない訳にはゆかず、どこかで必ず褒められることを目的とはしないことをもするものです。一昔前までのような褒めないと伸びないというのも最近に有力視されている褒めると伸びないというのもあまり意味のない極論です。
 重要なのは具体的是々非々主義であり、容姿についても漫然と「綺麗」や「かわいい」とだけではなく、その容姿が何を想わせてくれるのか、何で良いと思うのかなどの具体的評価が必要です。それが仮に真相とは外れていても評価された側にとっては新しい目標になるかもしれません。

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a0313715_13574441.jpg●近畿地方の緊急地震速報は ダイヤル1008 ABCラジオ

――地震が発生したら先ずは火の点いている所を確認して直ぐに消せる火を消し、物の落下を避ける。

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ABCテレビ おはようコールABC 5.00~6.45/月~金
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ABCテレビ おはよう朝日土曜日です 6.25~8.00/土

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フジテレビ めざましテレビ 5.00~8.00/月~金
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by keitan020211 | 2018-11-18 09:22 | 文明論 | Comments(0)



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